六 琴平を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
              JISコード第1・第2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は
              旧字)と表記した。
  登録日 2005年9月27日
      


-154-

 六 琴平を行く(「六 琴平を行く」は太字)

  1 金毘羅信仰と文学作品(「1 金毘羅信仰と文学作品」は太字)

  「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂之
  郡 象頭山 金毘羅大権現 一度回れば・・・・・」という軽快なこの民謡は、江戸
 後期より大繁盛をみせた金毘羅船による参詣のにぎわいぶ

     (♯写真が入る)『金毘羅船利生の纜』の表紙

-155-

 りをよく示している。そのブームに乗ってか、十返舎一九は自らの若年の頃の金毘羅参
 詣の体験をもとにして、文化年間に『金毘羅参詣膝栗毛』と『方言修業(ルビ むだし
 ゅぎょう) 金草鞋(ルビ かねのわらじ)』を著した。
  前者は、好評を博した『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八(この本では北八)
 のコンビによる金毘羅詣の話で、相変わらずすべてのことを笑いとばすこの二人の滑稽
 譚がエネルギッシュに語られている。
  丸亀に着いて大物屋(ルビ だいもつや)という宿に一泊した弥次郎と北八は、翌朝、
 船頭を案内に金毘羅参りに出かける。そして榎内村の「さとうもち」という看板の店に
 入り、酒を断っている弥次郎は餅を十個も注文し、酒の好きな北八がうんざりするとこ
 ろへ、大坂ものの男が入って来て景気よく酒を飲み、二人にも振る舞おうとする。この
 場面、主人公二人の江戸弁に大坂男の上方弁、茶屋の主人の讃岐弁とそれぞれみごとに
 書き分けて、一九の筆致にはよどみがない。
  さて、弥次北は、このあと鞘橋に至り、「上を覆ふ屋形のさやにおさまれる御代の刀
 のやうな反橋(ルビ そりはし)」とその珍しい形を詠んだ後、いよいよお山に登る。
 原文は次の通りである。
  是より権現の宮山(ルビ みややま)に登る。梺(ルビ ふもと)より二三町ばかり
  のほどは商家たちつゞきて、地黄煎薬飴(ルビ ぢわうせんくすりあめ)を売る店多
  し。弥次郎その商人の白髪なるを見て、
    うる人の頭の白髪大根は
    ちとさし合(ルビ あい)か地黄煎(ルビ ぢわうせん)みせ
  頓(ルビ やが)て仁王門に入り十五六町の坂をのぼりて御本社にいたるに、その荘
  厳いと尊く、拝殿は檜皮葺(ルビ ひはだぶき)にしていかめしく花麗(ルビ くわ
  れい)殊にいはんかたなし。先廣(ルビ まずひろ)前に額突(ルビ ぬかづき)奉
  りて、
    十露盤に達せし人も神徳の
    おもさはしれぬ象頭山かな
  此御山より海上の島<浦<郷<(♯「<」は繰り返し)一望の中に見わたされて、風
  景いふも更なり。
  このあと二人は、神馬堂のあたりから石段を下りる若い女とその父の二人に近づき、
 よからぬ魂胆を秘めて道連れとなり、善通寺、弥谷と参り、とんだ騒動の末、若い女が
 実は男とわかって逃げるようにして別れ、屏風が浦から多度津へ出、歯痛の薬を買いに
 寄ってひどい目にあい、やっとのことで丸亀の大物屋に帰ったというところで終わって
 いる。
  一方、『方言修行 金草鞋』という作品は、狂歌師鼻毛の延高、千久良(ルビ ちく
 ら)坊の二人が主人公で、日本全国を巡り

-156-

 歩く形となっており、その中に「讃州金毘羅」が描かれている。これは、挿し絵が中心
 なのでやや単調な道中記となっており、行程は、やはり丸亀のこちらは大黒屋で泊った
 後、榎内村に入って青銅の鳥居を過ぎ、鞘橋のそばのをじま屋で昼食をとり、そこに荷
 物を預けてお山に登る。「此の御山より海辺の眺望まことに云はんかたなし」と感動し
 た彼らは、先の『膝栗毛』の中にもあった狂歌を詠む。
  両作品とも、あくまで滑稽、駄洒落に徹したもので、一九のというより江戸末期の庶
 民のバイタリティが如実に伝わってくるようである。
  これに対し、一九とはぼ同時期の戯作者滝沢馬琴(曲亭馬琴)は、金毘羅信仰そのも
 のにひかれ、『椿説弓張月』の「拾遺篇附言」の中で諸説を並べたあと、異域の善神(
 仏法守護の大善神、釈尊分身の自在明王)と説き、崇徳院との深い関わりについても述
 べている。この論を因果応報の世俗の話として著したのが『金毘羅利生記』で、歌舞伎
 や浄瑠璃でも有名な田宮坊太郎の仇討ちの話である。馬琴の場合、舞台を足利幕府の頃
 に置き換えていて、幼い坊太郎が剣術を磨きに瀬戸の海を渡るのを助けるのが、象頭山
 の天狗たちという筋立てである。
  さて馬琴の金毘羅への執着はこれにとどまらない。馬琴は『西遊記』を翻案した壮大
 なスケールの『金毘羅船利生の纜(ルビ ともづな)』を一八二四年(文政七年)より
 書きおこし、七年かけて八編まで出した後、なぜか残念ながら中断した。着想は奇想天
 外で現代のSF物やオカルト物どころか。火の神軻偶突智(ルビ かぐつち)が生まれ
 た時、その火で母を死なせたと父の伊弉冊(ルビ いざなぎ)に斬られ、その血が固ま
 って二つの石となったのを父が遠くへ投げ打ったところ、一つが讃岐の国象頭山となり、
 もう一つが辺无量国(ルビ へんむりょうこく)の方便山に落ちた。その方便山の石が、
 数万年後おのずから裂けて石折神(ルビ いわさきしん)となった。これが天狗どもを
 従えて乱暴狼籍の限りを尽くすので釈迦如来が大磐石を載せて懲らしめる。という具合
 で、明らかに石折は孫悟空であり、三蔵法師、八戒にあたる者も次々と登場する。古今
 東西を豪快に行き来する物語である上に、挿し絵が実にきめ細かく美しい。「霊験多し。
 祟る所も亦甚厳なり」という金毘羅のすさぶる神とこれに従う天狗たちに心をひかれた
 滝沢馬琴。
  金刀比羅宮の奥社の左手前には無数の小さな岩石群があり、それらのかなり上の方に
 は岩に刻まれた天狗の面がある。馬琴を偲びながらこの岩を見上げれば、こちらの想念
 も古今東西を漂い始めそうだ。

-157-

  また、一八四七年(弘化四年)暁鐘成(ルビ あかつきのかねなり)は『金毘羅参詣
 名所図絵』を著した。これは地誌としての色合いの濃いもので、地名、名所旧跡の説明
 も細かく、絵も精緻で美しい。特に「清少納言之塚」についての記述は詳しく、この当
 時すでに四国におちぶれさまよい来たったと喧伝されていたことが、よくわかる。この
 清塚は今も金刀比羅宮大門の左手前、鼓楼の傍らにあり、落魄の才女をしのぶよすがと
 なっている。
  ところで、これらに先立つものとして尾張の商人菱屋平七は一八〇二年(享和二年)
 三月の末、金毘羅へわたって長崎に至ったと『筑紫紀行』に書いている。この行程は、
 丸亀で大黒星に泊まり、船頭を案内に丸亀街道を進み、鞘橋を渡って小島屋で休憩し荷
 物を預けて登ったとあるから、十返舎一九の『方言修行 金草鞋』とほとんど同じであ
 る。
  いずれにしても、江戸時代中期以降、庶民の旅行の大義名分となったといわれる金毘
 羅参りの流行がもたらした作品群といえよう。

  2 幕末の志士日柳燕石(ルビ くさなぎえんせき)とその文学
    (「2 幕末の志士日柳燕石とその文学」は太字)

  琴平駅の東、榎内小学校の西北隅に、木立に囲まれた二階建ての木造家屋がある。こ
 れが幕末の志士日柳燕石が住んでいた呑象楼(ルビ どんぞうろう)で、もとは榎内村
 六条の興泉寺南にあったのが、ここに移築された。幕末の志士の家にふさわしく、二階
 に上がると上がり口をふさぐしかけや、回転して密室をつくる壁があり、警戒怠らぬ日
 々を過ごしていたことがうかがえる。
  日柳燕石は一八一七年(文化一四年)榎内の豪農加島屋惣兵衛の末子として生まれた。
 母の兄の儒学者石崎青崗に八歳から学ぶなど、漢詩文創作の力は幼少時から培われた。
 若い頃は家の豊かな資産を遊興費に費やし、家産を傾けてしまうほどであったが、九州
 旅行のあと発奮、加島屋の家屋敷を売り払って榎内六条に居を移し、勤皇の志士たちと
 の交流を深め、さらに居を移してその居の名も呑象楼とし、多くの勤皇の志士たちに頼
 られる存在となっていった。そして長州の高杉晋作が保護を求めて来た時にはこれをか
 くまい、後にそのかどで高松藩の獄に入れられる。
  ところで日柳燕石は生涯に七千首から一万首ほどの詩(漢詩)を残したといわれ、そ
 のすぐれたものは子息日柳三州が精選した『呑象楼詩抄』や『呑象楼遺稿』に収められ
 ている。燕石は晩年の住居の名を呑象楼とするほ

-158-

 ど、象の頭の名を持つ象頭山を愛し、よく詩に詠んだ。その一つを左に掲げよう。
   夜登象山        夜象山に登る
  石圧人頭勢欲傾    石は人頭を圧し勢傾かんと欲す
  満山露気不堪清    満山露気清堪えず
  夜深天狗来休翼    夜深く天狗来たりて翼を休む
  十丈老杉揺有声    十丈の老杉揺らぎて声有り

     (♯写真が入る)日柳燕石像

  また、他の詩の中には「新月牙を磨きて出で 一燈眼の如く懸かる」とあるが、なる
 ほど榎内方面から眺めた象頭山に細く尖った月がかかったり、御神燈が一つともってい
 たりすると、まさに象の牙に見え、象の眼に見える。燕石はこのような身近なものや遊
 興の思いも詩に詠んだばかりか、高杉晋作をかくまったかどで獄にあった三年間はもち
 ろん、死の直前に至るまで、古今東西多岐にわたるものを詩対象として詠み続けた。
  しかも「子分千人を抱えた博徒の頭」ともいわれた燕石は、多くの女性たちと戯れた
 〔キョウ〕客(♯「キョウ」は文字番号00706)でもあった。そういった彼の面目が最も
 発揮されているのは、『金郷春夕栄(ルビ こがねのさとはるのゆうばえ)』という洒
 落本である。
  島原芳原(ルビ やなぎさくら)もない象山(ルビ やまさと)に人を動(ルビ ま
  よは)す花もさくとは予が友狂迂痴叟(ルビ ともきょううちそう)がよしこのにて
  花も物語四季(ルビ ものいゆしき)の春むれ来る客を松尾街(ルビ まつおまち)
  五百の長市(ルビ ちょうし)と名付けしはずんどむかし<(♯「<」は繰り返し)
  の事にて・・・・・。
 という書き出しで始まるこの物語は、象頭山の麓の遊廓の売れっ子遊女小富士と、それ
 にいれあげる若旦那玉藻屋象之助(ルビ まさのすけ)の話で、追いつめられた二人が
 駆け落ち寸前捕らえられてみれば、実はそれが小富士の真意を試す狂言だったというハ
 ッピーエンドの小篇である。膨大な漢詩

-159-

 を詠み続けた燕石の、同一人のものとは信じかねるほどの軽妙洒脱な語り口の遊里譚で
 ある。彼には江戸言葉による江戸風の洒落本をという心意気があったようだ。
  しかし燕石は、あくまで勤皇の志士としてその生涯を閉じた。北越掃討の官軍に加わ
 っていて、明治元年、新潟県柏崎市で病死。享年五二歳であった。持ち帰られた遺爪と
 遺髪は町内榎内下所の日柳家墓所に葬られた。
  讃岐という器に入りきらない彼の生涯を決定づけたものは、幼少時から与えられた漢
 学の素養であり、朱印領や天領であった琴平の自由な文化交流のにぎわいぶりであった。
 そして、この燕石に漢詩文を教えた三井雪航や和歌を教えた奈良松荘、同志であった阿
 波出身の美馬君田、燕石から多くを学んだ長谷川佐太郎や黒木茂矩などの俊才たちがい
 たことも、燕石をいっそう輝かす力となったといえよう。

  3 近代文学と名旅館(「3 近代文学と名旅館」は太字)

  信仰の町琴平は、同時に多くの文人たちが参詣に立ち寄り、彼らの作品にいくつかの
 跡をとどめた。
  その中でも圧巻は森〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番号47268)の『金毘羅』であろ
 う。これは一九〇九年(明治四二年)に発表されたもので、その前年の一月に琴平で一
 泊した体験を土台としている。
   冬の休暇に、四国へ心理学の講演に頼まれて出掛けた文学博士小野翼(ルビ たす
  く)のように君は、高松市で講演を済まして、一月十日に琴平まで来て、象頭山の入
  り口にあることひら華檀に這入った。
 という書き出しで始まるこの小説は、主人公の小野博士が帰京してまもなく赤ん坊を病
 気で失い、上の娘をも失いかけたというでき事を、夫と妻との金毘羅信仰の差異などを
 からめて描いたもので、子供二人の病状が悪化した時、博士は次のように回顧する。
   一月十日には自分が高知から琴平へ着いて、象頭山の麓にある宿屋へ這入って、小
  川が一晩泊って参詣しろと云ふのを、無理に参詣せずに立ったのである。丁度その日
  湯に入った赤ん坊が咳をし出す。それは湯で風を引いたのであらうが、その時百日咳
  らしい子供に湯屋で逢って、跡で赤ん坊が百日咳になる。お負にその時に百合さんが
  同じ病気になるのを予言したやうな夢を細君が見る。それが溺れるという水難らしい
  夢にまでなっている。(略)幸に細君は、(略)その琴平に金毘羅の本家があるやら
  知らないから好いやうなものだが、若し自分の金毘羅を冷遇したことが分かったら、

-160-
  どんなにか気にするだらう。兎に角、琴平での話はしない事だと思ったのである。
  結局、奥さんが東京の虎ノ門の金毘羅さんで祈〔トウ〕(♯「トウ」は文字番号24852)
 してもらった赤いフランネルの布切れが効いたのか、上の娘の百合だけは何とか助かる。
 というわけで、「どんな名医にも見損うことはある」のに、奥さんの素朴な信仰が効い
 たのだと、奥さんの金毘羅信仰にますます熱が加わり、「哲学者たる小野博士までが金
 毘羅様の信者にならねば好いが。」で終わっている。
  ところで、実際は〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番号47268)は一九〇八年(明治四
 一年)一月五日に琴平華壇に泊まったと日記に記している。そして一月八日に発病した
 次男不律が二月五日に死に、三月一〇日に茉莉が初めて病床から起き上がれたと。作品
 発表がこの翌年一〇月一日発行の『昂』であるから、〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番
 号47268)自身が琴平滞在との因果関係をかなり意識したために成った作品といえよう。
 有能な軍医であった〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番号47268)が、素朴な金毘羅信仰
 に脱帽しそうな衝撃を味わったのではないか。なお、この虎ノ門の金毘羅さんは明治の
 初め以降、本社との縁は切れていたのだが、さすがの〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番
 号47268)もそこまでは知らなかったようである。もう一つ、小野博士は高松から来た
 のか、高知からなのか。〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番号47268)はこのずれにも気
 づかずじまいだったようだ。
  さて、〔オウ〕外(♯「オウ」は文字番号47268)の泊まった琴平華壇(現、花壇)
 は、現在も鞘橋の南、神事場と金倉川を隔てた山側にある。宿側の話によると当時の建
 物のほとんどは残っていないが、作品の雰囲気を最もよく残しているのは延寿閣とのこ
 とで、これは渋い離れ座敷のたたずまいである。
  この花壇には、一九三五年(昭和一〇年)六月五日に北原白秋も訪れ、一泊している。
 彼の随筆『薄明消息』によると、この夜琴平花壇の歓迎会に出たあと、多摩支部の夜宴
 に出、金毘羅拳なるものを初めて見たとある。六日朝、新聞記者にせがまれて詠んだの
 が、
  六月六日蛙啼きつつ曇りなりこの我がゐるは松多き山
  このあと裏参道から駕籠で参拝、書院で茶菓のもてなしを受け、駅では土地の少女に
 サインを求められ、逃げた、とある。この時の白秋は、歌詩『多摩』創刊直後で、新し
 い短歌活動に大いに燃えていたし、九州の佐世保支部に続いて彼を迎えた琴平の多磨支
 部の人たちも、全国に先がけて支部結成した意気に燃えて彼を歓待したのだった。本宮
 の少し上には白秋の詩碑が建てられており、この時中心となって歓待した歌人の故久保
 井信夫氏宅には白秋の色紙や短冊が数点残されている。

-161-

  さらにまた、歌人吉井勇も昭和一一年にここ琴平花壇を訪れ、地元の歌人たちの歓待
 を受けている。勇の歌碑も社務所の裏にある。
  ところで、志賀直哉の『暗夜行路』の主人公時任謙作は、「一人では泊めまい」と言
 われていた虎屋に泊まり、翌朝参詣する。そこの宝物のある物が彼を楽しませ、伊勢物
 語、保元平治物語などの装幀を美しく思い、狩野探幽の屏風をいいと思い、本宮への参
 道に人工の美を見出すものの、奥社への道では木の肌を気味悪く思い始めて弱っていた
 神経が甚だしく動かされた、とあり、この後屋島に向かっている。ところが『志賀直哉
 全集』第六巻所収の「暗夜行路草稿」では、琴平での描写は実に詳しい。彼は草稿の冗
 漫な文を捨てて、簡潔な抑え気味の文体の数行のみを生かした。こうして見ると、作家
 の手の内が少しはうかがえるようだ。実際のところ、志賀直哉は一九一三年(大正二年)
 三月二一、二日頃、尾道から多度津を経て琴平で一泊し、高松の屋島に入ったようだ。
 この時泊まったらしい虎屋は格式高い旅館として有名だったが、現在は建物・看板は往
 時の繁栄を十分うかがわせるものの、うどん屋にと様変わりしている。道をはさんだ別
 館では豪華な雰囲気を味わいながらコーヒーなどを飲むこともできるらしい。
  さて、このうどん屋となった虎屋の右隣が「桜屋旅館」で、建物は昔のままながら、
 ここもうどん屋となっている。ここの主であった合田丁字路氏に迎えられて、高浜虚子
 がここに泊まったのは一九四六年(昭和二一年)一一月九日のことで、この間の消息は
 虚子の随筆『父を恋ふ』所収の「駕」に詳しい。虚子は翌日午前、弟子たちのかつぐ駕
 籠に乗って参拝する。駕籠は今でも名物として参道などで見かけるが、師虚子を乗せた
 駕籠は桜島の蔵にしまわれていたものであり、かつぎ手は弟子たちであった。
  その日の午後、ホトトギス六百号記念句会が琴平公会堂で行われ、その夜、虎屋で晩
 餐会が開かれた。ここでも駕籠が余興の種となる。虚子の心をより多く得たいがための
 門人たちの心の砕き方がよく表されている。なお、こういった縁で桜屋旅館の前庭に据
 えられていた虚子の「たまたまの紅葉祭に逢ひにけるも」の句碑は、当主の移転の際に
 高松市に移された。
  さて、旧桜屋、虎屋を過ぎてまだまだ表参道の石段を登って行くと、左手側に虎丸旅
 館がある。ここには宮本百合子が一九四六年(昭和二一年)九月に泊まっている。

-162-
 
 近くの琴平公会堂での講演会に出るためであったが、そのことを書いた小文「琴平」に
 は、いかにも百合子らしい潔癖さが表れている。彼女はこの時より数年前、出征中の義
 弟の武運長久を命がけで願かけしようとする母親のお供で、雨の中、この金毘羅の石段
 を登ったのだ。そして長い石段に怒りを覚える。
   こういうあわれな仕草で、自分の思いを表現するしかない人民の立場、しきたりが
  心に刻まれたのであった
 とある。それでも戦後まもなくの今度の旅では、「琴平も面白い」と思ったが、商人の
 琴平流にはいささか興ざめさせられた、とある。象頭山の名を知らなかったようで、「
 動物的に丸いようなもっくりした山」とか「怪奇なようなぼっこり山の黒いかげ」とか
 形容しているのが面白い。
  なお、戦前のプロレタリア作家である中野重治は、一九二八年(昭和三年)に大山郁
 夫の選挙応援に来ていて大検挙にあい、捕まったことを、『四国文学』第五集に「四国
 のこと」と題して書いている。この時中野重治は県内では朝倉菊雄と行動を共にしてい
 たというが、彼は後の島木健作で、その県内での農民運動の拠点が初めは琴平にあった
 のである。
  さて次のは、帰り道に見るといい。表参道を虎屋も過ぎてぐんぐん下っていくと、左
 手側に「香川県史趾 芳橘楼(ルビ ほうきつろう)敷島館」という大きな石柱が見え
 てくる。この敷島館は、昔「よし吉」という料理屋だったそうで、幕末の頃、頼山陽が
 長い間逗留し、芳橘楼という名を付けてくれたのだという。ここは日柳燕石などの勤皇
 の志士たちの密議の舞台ともなったらしい。
  さて、表参道から左に折れて駅の方に少し進むと「寿し駒」という額のかかっている
 旅館がある。その額は、河東碧梧桐の書いた字を彫った物で、ここの先代の故菱谷竹人
 氏が俳句をたしなんでいた関係で、彼はここにしばらく滞在していたことがあり、この
 額の字も、あるいは何幅かの掛け軸の句なども残したのだという。「温泉めぐりして 
 戻りし部屋へ 桃の活けてある」という大きな掛け軸が、今も本館宴会場に飾られてい
 る。
  なお、次の人たちも金毘羅参りを詠んだ。
  ことひらへ大絵馬あぐる日永かな             正岡子規
  紅葉して象頭山上の日和かな               村上鬼城
  筑紫より海わたりきて琴平の 神のみ山に汗ふきにけり   斎藤茂吉

  4 琴平に育った文化(「4 琴平に育った文化」は太字)

  日柳燕石に代表される幕末の琴平の漢詩文隆盛に大きく貢献した人物は、『西讃府志』
 を著した秋山惟恭である。
  秋山惟恭は町内上櫛梨に生まれ、厳山と号し、同地の大歳神社の神官を務め、その横
 に私塾を開いて『日本外史』の読書会をもったりした。その徳を偲んで一九八一年(昭
 和五六年)に大歳神社境内に建てられたのが「厳山秋山先生追慕の碑」で、彼らの時代
 に迷いこむような静寂の中に、その碑は今も建っている。
  一方、明治以降、金刀比羅宮にかかわる人たちを中心に結成された小松歌会(後に、
 さくら会と改称)に集う人たちも、明道黌(明治一七年に設立され、明治二九年に廃校
 となった)教授として招かれた堀秀成など、優秀な県外歌人の刺激も受けて、盛んな作
 家活動を行った。
  中でも、初代宮司琴陵宥常の妻保子は、すがすがしい気品を漂わせる歌を残した。こ
 うした金刀比羅宮にかかわる人たちのぼう大な量の作品は、歌以外も含めて『金刀比羅
 宮詞藻史』に記され、金刀比羅宮図書館で保存されている。
  さて、このような短歌隆盛の気運の中、一八八八年(明治二一年)に金刀比羅宮の神
 職の子として生まれ、伊勢で学んだあと上京し、明星派歌人と交わって若い血を燃やし、
 後に富岡八幡宮の神官となったのが、間島磐雄である。
  間島磐雄の号は琴山。交友のあった石川啄木は、ある日の日記に、
   間島君は何処までもまだ子供らしい人だ。いつでも黒い毛糸のシャツ(僕の女難よ
  けの黒シャツと命名した)を着ている人だが、今日は脱いで来た。
 と記している。もっとも、この黒シャツは野球のアンダーシャツだったのだから、琴山
 こそハイカラだったのかも。
  月の夜の金倉川のほとりにて
      わかれけるより逢はぬ君かな     琴山
  琴山は上京した人であるが、琴平の文化の土壌は、大正、昭和においても、俳人で郷
 土誌『ことひら』を刊行し続けた大西一外や、県内歌壇の第一人者となった久保井信夫
 を生み、彼らを支え、彼らに学んだ多くの人たちを生んだ。今もなお、郷土の文化のさ
 まざまな分野において名を成す人たちが、この琴平から輩出している。

-164-

   5 参道筋の文学碑めぐり(「5 参道筋の文学碑めぐり」は太字)

  琴平の文学碑は参道筋に多い。まず、虎屋を過ぎて初めの角を左に折れると、まもな
 く琴平公会堂がある。高浜虚子も宮本百合子も講演したというこの公会堂は、平屋の大
 きな木造の建物で、この庭の一隅に琴平にしばらく滞在していた与謝蕪村の句碑がある。
 (なお、碑文の

      (♯地図が入る)参道筋の文学碑

 下の数字は、地図上の位置を示している。)
  「象の眼の笑ひかけたり山桜   蕪村」   (1)(♯「1」は丸数字)
  次に、公会堂前の道をもう少し登ると、旧金毘羅大芝居へ曲がる角が見えて来るが、
 この分岐点の左側道端に大西一外の句碑がある。一外は自ら句作をよくする傍ら、郷土
 誌「ことひら」を多年刊行した人である。
  「屯閑(ルビ のどか)さをうち眺め居りさぬき富士   一外」 (2)(♯「2」
  は丸数字)
  金毘羅大芝居をまだ見ていない人は、ここへも行こう。実際はもう少し町なかにあっ
 たもので(そこには旧金毘羅大芝居跡との石柱が立っている)、一九七六年(昭和五一
 年)にここに移築された。江戸時代後期には、全国からの参拝客を迎えて芝居興行がう
 たれ、また千両くじの発売所ともなって、大いににぎわった。今でも毎年、高名な歌舞
 技俳優を招いて、昔どおりの装置で興行を行っている。
  さて再び参道筋へ戻って、土産物店に挟まれた参道を登って行くと、そびえ立つ大門
 が見えて来る。この少し手前の右側に明治初期の金毘羅隆盛をもたらした琴陵宥常像が
 立っているが、その傍らに彼をたたえる石槫千亦(ルビ いしぐれちまた)の歌碑があ
 る。
  「船をくだき人の命とる海に

-165-

   むかひをたけびし君が声の大きさ   千亦」   (3)(♯「3」は丸数字)
  もう少し大門に近づくと、左手の鼓楼のそばに清塚という立て札が見える。これは清
 少納言の夢告げの歌などの伝説を記述した碑で漢文で書かれている。
  ところでこの大門には、昔は仁王像が立っていて、江戸期の作品には仁王門として出
 てくるが、一八六八年(明治元年)金毘羅が神仏習合をやめ、仏教色を一掃した後、い
 つしか仁王門ではなくなり、一九七一年(昭和四六年)には今ある隨身像が据えられた。
  この大門を入ってからは五人百姓の飴売りがいるだけで、あとは石畳と石燈籠がずっ
 と続く。その石燈籠のはずれの右手側に小林一茶の句碑がある。
  「おんひらひら蝶も金毘羅参哉   一茶」   (4)(♯「4」は丸数字)
 ここから少し行って右に折れ、近代的な社務所の下側の道に入るとすぐに久保井信夫の
 歌碑がある。
  「御扉開(ルビ みとあ)けの太鼓の音は朝靄(ルビ もや)の
    なづさふ谿(ルビ たに)にながく谺(ルビ こだま)す   信夫」  (5)
    (♯「5」は丸数字)
  久保井信夫は琴平生まれの歌人で、会社勤めの傍ら、白秋主宰の「多摩」同人となり、
 のち「形成」同人としても活躍し、地元歌人の要の役を長らく務めた。町内の久保井邸
 にも彼の歌碑があり、また、交友のあった白秋や勇、与謝野夫妻などの短冊が大切に残
 されている。
  再び参道に戻り、どんどん進むとつきあたりの右側に表書院がある。昔の金光院が賓
 客を迎えていたところであり、入場料を払って中に入ると、円山応挙の遊虎図などの襖
 絵をゆっくり鑑賞できる。
  この表書院を後ろに参道を登って行くと、休憩所があり、ここを直角に折れて長い急
 な石段を登ると、みごとな造りの旭社(ルビ あさひのやしろ)がある。これが金光院
 の頃の本堂だった建物である。さてここから更に人の流れに沿って登って行くと、本宮
 に出る。絵馬堂の絵馬を見るのもいい。琴平の町や丸亀平野、遠くは瀬戸大橋まで見え
 る眺望もすばらしい。
  これらに満足したら、本宮の右の道を奥社に向かって進もう。二曲がり目に赤い橋が
 かかっており、そのすぐ向こう左手側に二尋ほどの横長い北原白秋の詩碑がある。
  「守れ 権現 夜明けよ 霧よ
     山は いのちの みそぎ 場所」   (6)(♯「6」は丸数字)
  その詩句の示す通りのしっとりした清浄な山肌の中にこの詩碑はある。
  文学碑めぐりとしては、もう後戻りしていいのだが、ここまで来た以上、せめて奥社
 までは足を運びたい。奥

-166-
 社までの道の途中に神社が三社あるが、二番目の白峯神社は、『雨月物語』などでよく
 知られている崇徳上皇を祀ったものである。金毘羅神に並々ならぬ関心を抱いていた滝
 沢馬琴は、『椿説弓張月』の中で為朝を白峯に赴かせ、かつての臣として崇徳院と対面
 させる。この時、院が乗る輿(ルビ こし)をかついでいたのは「すべて象(ルビ き
 さ)の鼻(ルビ はな)、鳶(ルビ とび)の啄(ルビ くちばし)にて、左右(ルビ
 さう)の脇(ルビ わき)に翅生(ルビ つばさお)ひたり」という天狗どもであった。
 このように怨念おさまらぬ崇徳院とすさぶる神金毘羅神との結びつきを書いたものには
 竹田出雲の『金毘羅御本地崇徳院讃岐伝記』もあり、金毘羅は白峯寺とは浅からぬ関係
 にあったが、神仏習合を廃し、仏教色を一掃したため、白峯寺とは縁を切り、この白峯
 神社を改めて境内摂社としてここに遷座したのである。
  さてあとは急ぎ足で奥社へ行くのみ。奥社では、左手前の岩石群と、その上方の岩肌
 に彫られている天狗面に目をとめよう。
  さあ、もうあとは帰り道。どんどん下って社務所の前へと出、この道を少し進んでゆ
 るやかに曲がる所に行くと、帆かけ船の形をした吉井勇の歌碑がある。
   「金刀比羅の宮はかしこし船ひとが
      流し初穂をさゝぐるもうべ   勇」   (7)(♯「7」は丸数字)
  次は、この舗装道路から右へそれて、石段を下って行こう。三曲がりして下ると、泉
 水のある小庭園に出る。そこに松尾芭蕉の句碑がある。
   「花の陰硯にかはる丸瓦   芭蕉」   (8)(♯「8」は丸数字)
  これは全国各地に見られる芭蕉追慕の句碑の類である。
  次は、この句碑から左に出る道をたどって、さっきの舗装道路に出よう。出て右へ曲
 がり少し歩くと、右へ下りる道の端に谷鼎の歌碑がある。
   「象頭山金毘羅大権現と幼きより
      聞き馴れて名のいたく親しく   谷鼎」   (9)(♯「9」は丸数字)
  歌人でもあり、歌学者でもあった谷鼎が、一九三五年(昭和一〇年)、東京府立五中
 教諭時代に生徒を連れて琴平に来た際、詠んだ歌である。
  さて、この碑から再び舗装道路に戻り、少し下ると、左へ別れる道の角の手前に入江
 為守の歌碑がある。
   「あまねくもふりわたるらむ神のます
      ことひら山のゆふだちの雨   入江為守」  (10)(♯「10」は丸数字)
  さて、次は先の谷鼎の歌碑の前を通って金刀比羅宮図書館の前に出よう。この建物の
 隣合わせの建物が学芸参考館でその入り口手前左側に、合田丁字路の句碑がある。
   「金ぴらの祭のあとの紅葉晴   丁字路」   (11)(♯「11」は丸数字)

-167-

  さあ、もうあとは古帳庵と古帳女の句碑を残すのみである。学芸館の下をめぐる道を
 舗装道路まで出よう。出たら、その舗装道路を横切り、橋を渡ってまっすぐ進む。する
 と茂みの手前にひっそりと彼らの古い句碑がある。初めは古帳庵の句が表であったよう
 だ。
 表「天の川くるりくるりとながれけり
   あたまからかぶる利益や寒の水   古帳女」   (12)(♯「12」は丸数字)
 裏「のしめ着たみやまの色やはつ霞
   折もよしころも更して象頭山   江戸小網町古帳庵」
  これは一八四三年(天保一四年)正月に万灯堂の前に建てたものだと『金毘羅参詣名
 所図絵』に載っているから、時代を経た後、ここに据え直されたのだろう。
  とりあえず参道筋の文学碑めぐりとしては、一応ここを終点としたい。遠くてもいい
 から訪れたいという人は、次の所へもどうぞ。
 ○「木苺やこゝら神馬の墓どころ   一九甫」
      (大西山正明寺の金刀比羅宮神饌田の中)
 ○琴平公園(金山寺山)の山頂やその登山道にある、大久保〔ジン〕之丞(♯「ジン」
  は文字番号35739)関係の歌碑や詞碑
 ○琴平中学校の一階の壁面に刻まれている山上憶良の歌
                              (以上・佐藤八重子)

   6 琴平の俳諧(「6 琴平の俳諧」は太字)

  金刀比羅宮表参道に入り、左右につづく土産物店の中の石段を登る。
  大門をくぐり、五人百姓の傘を見ながら進めば全国各地からの寄進者の名を刻んだ石
 柱が林立する中の道となり、更に行くと、右上の青葉岡に宝物館が見えてくる。
  その入口左手に、
   おんひら<(♯「<」は繰り返し)蝶も金比羅参哉   一茶
 の句碑(昭和二八年建立)が、木洩れ日の中に見える。
  一七九四年(寛政六年)、同じ竹阿門(一茶の師)ということで、観音寺(観音寺市)
 の専念寺住職五梅法師を訪ねて来讃した小林一茶が、金毘羅参詣の出立に際して詠んだ
 ものとして、今も参詣の人々を迎え、長い石段を登る人々を励ますかのように建ってい
 る。
  さて、当地琴平の俳諧は、
 ○ 一六八二年(天和二年)大阪の談林俳人岡西惟中が、
      ふもとの松屋町一柳軒寸木子のもとにやとる。
      老若の好士よりきて一會興行
    たけからん象頭の麓角の鹿
   尾花すほむる谷のさうなき   寸木子

-168-

     ・・・・・あくる日観音堂にて法楽の百韻興行。予に発句をこひ給へばつゝし
     みて申ぬ
        (『白水郎記行(ルビ あまのこすさび)』巻之二)
 ○ 一六八五年(貞享二年) 諸国行脚の俳人大淀三千風が
    金毘羅山に行く 町屋木村氏寸木俳人に笠を脱ぐ
                      (『日本行脚文集』巻之五)

     (♯写真が入る)一茶の句碑

 と、金毘羅参詣、そして一柳軒木村寸木を中心にして盛んとなったようである。寸木と
 は、当地の醸造業羽屋の人で、名を直網・平右衛門と言った。前述のように、琴平を訪
 れる俳人達を次々と迎え、また自らも京阪まで俳諧に出かけるなどの活躍をした人であ
 る。
  即ち、一七〇〇年(元禄一三年)『金毘羅會』続いて一七一二年(正徳二年)『花の
 市』(いずれも『新編香川叢書文芸編』所収)と、前集が秋、後集が春とこの二集で春
 秋の金刀比羅宮二大祭に奉納するという俳諧集を、京の書林(井筒屋庄兵衛、萬屋喜兵
 衛)から出している。
  『金毘羅會』は、当時自宅に招いていた京の儒者三宅石庵(後に「懐徳堂」を創設、
 俳号泉石)、一六九三年(元禄六年)来讃の談林俳人、大阪の椎本才磨と、二人からの
 序を得ている。収める句も、才磨をはじめとして、その女、三千風、支考、其角、去来、
 芭蕉(収句順)と多彩(上巻)、下巻は、自らが上方に出かけ、そこで、才麿、その女、
 諷竹、舎羅、正秀、言水、轍士らと、当代一流の俳人たちと、親しく歌仙を巻いている。
  『花の市』でも、前記泉石の跋文を得、来讃の豊後の朱拙と歌仙を巻く、というふう
 で、文字通り琴平の俳諧を一人で担うという感じの活躍をしている。

-169-

  以後の琴平の俳諧は、次々と金毘羅参詣に訪れる人、一七〇四年(宝永元年) 惟然
 一七六六・六七年(明和三・四年) 蕪村 一七八五年(天明五年) 青蘿 一七八九
 年(寛政元年) 蝶夢 一七九二・九四年(寛政四・六年) 一茶 一七九六年(寛政
 八年)紫暁 一八四一年(天保一二年) 梅室 などなどを迎え、また、金毘羅に俳諧
 集を奉納するということも盛んに行われた。
  例えば、津田(津田町)の安芸文江は、その父漲谷と共に、凡そ二〇年の歳月をかけ
 て、北は青森、南は長崎と、全国から二一、七六〇句を集め、一、一〇〇句を選んで『
 玉渕集』とし、一七七四年(安永三年)大阪の柏原屋嘉助から出版。更にその中から一
 一〇句を選んで金毘羅宮廟前に奉献し、笠居(高松市鬼無町)の百川は、同じようにし
 て一八〇六年(文化三年)『山荘集』を奉納している、といったぐあいである。
  さて、現代に入って当地出身の二人の人物が注目すべき仕事をしている。その一人は、
 乾木水(本名〔ユウ〕(#文字番号なし)平)という人。筆岡(善通寺市)の出身で、
 大阪の毎日新聞の記者をしていたが、大正一三年『蕪村の俳諧学校』(解説・乾木水、
 校訂・大西一外)、同一四年『蕪村の新研究』、同一五年『蕪村と其周囲』、昭和三年
 『蕪村妖怪絵巻解説』、同七年『未刊蕪村句集』と、蕪村研究の先駆者として、大活躍
 をしている。
  もう一人は、大西一外(本名千一)という人。象郷(琴平町)の出身で、もと官界に
 あったが、俳句を研究。まず大正一二年『新選俳諧年表』を、平林鳳二と共著で出版。
 (「文亀元年から大正一二年に至る四一三年間における著名の俳人七、〇〇〇余名の伝
 記、事蹟、著書その他の事柄を年次的にしるしたもの。多年の苦心に成るもので俳諧年
 表としては最も充実した内容を持ち、研究に寄与するところが多い」と『俳諧大辞典』
 にある。)
  病を得て故郷に帰ってからは、当地の俳誌「紫苑」に、昭和八年からは、自ら雑誌「
 ことひら」を琴平で創刊して″讃岐俳諧史″ ″俳家略伝″等を連載、一〇年にはこれ
 をまとめて『讃岐俳諧年譜』を出す。(昭和二五年の、松尾明徳、福家惣衛共著の『香
 川県俳諧史』は、これを参考資料としているようである。)
  更に、同郷出身で、大阪で医者をしていた某氏(敢て秘す)に勧めて、讃岐を中心に、
 広く俳諧資料を収集し、今やそれは貴重な俳諧文庫となって、全国の研究家に密かにそ
 の名を知られるものとなっている。
  両氏とも早世(木水は昭和一一年、一外は同一八年)

-170-

 したのが惜しまれる。
  そして、実作者の方では、大正から昭和にかけて、まず新傾向俳句運動の代表、河東
 碧梧桐がしばしば琴平を訪れてその足跡を遺している。碧梧桐は、その門人菱谷竹人(
  本名清一)の経営する「寿し駒旅館」を常宿としていて、同旅館の正面玄関の看板「寿
 し駒」はその書であり、同旅館には、大正一四年滞留の時、書かれた「柳暗花明」の扁
 額などが遺されている。
  次に大正一二年、村尾公羽によって、高松で創刊されたホトトギス系の俳誌「紫宛」
 が、当地の俳人、桜屋旅館の合田丁字路(昭和二一年から四一年まで主宰)を中心とし
 て、一つの花を咲かす。
  即ち、昭和二一年「ホトトギス」六〇〇号記念の四国大会が、虚子、年尾、深川正一
 郎らを迎えて、この地で開かれた。以来、丁字路の桜屋は″俳諧の宿″として、全国の
 俳人に知られるようになる。
  桜屋の玄関には、それを記念して、昭和二二年、
   たま<(♯「<」は繰り返し)の紅葉祭に逢ひけるも   虚子
  の句碑が建てられた。(桜屋旅館は、最近廃業し、句碑は綾歌郡国分寺町の合田邸に
 移されている。)
  現在、琴平町の公会堂前には、一七六六年(明和三年)当地の俳人、菅暮牛(醸造業
 金川屋の人)を訪れて詠んだという
   象の眼の笑ひかけたり山桜   蕪村
  の句碑(昭和四四年建立)が、琴平の俳諧の歴史を物語るように建っている。
                                 (白井加寿志)

     (♯写真が入る)蕪村の句碑