四 多度津を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
              JISコード第1・第2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は
              旧字)と表記した。
  登録日 2005年9月13日
      


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 四 多度津を行く(「四 多度津を行く」は太字)

  1 JR多度津駅から多度津港まで(「1 JR多度津駅から多度津港まで」は太字)

  香川 進(「香川 進」は太字) JR多度津駅前の通りに、多度津警察署と隣り合
 って香川県立多度津工業高校がある。その前庭に、「希望」と題する香川進の歌碑が建
 っている。
   しずかなる日輪われにわかき日の夢をいだきてうち海を越ゆ
  一九八一年(昭和五六年)、同校の創立六〇周年記念事業の一環として建てられたも
 ので、香川進は同校の前身、旧制多度津中学校の卒業生である。一九一〇年(明治四三
 年)多度津町門前町(現在の本通一丁目)に生まれた。神戸高等商業学校(のちの神戸
 大学経済学部)を卒業。短歌を前田夕暮に師事。歌誌「地中海」代表。日本歌人協会所
 属。一九七五年(昭和五〇年)宮中歌会始選者となる。著書に第一歌集『太陽のある風
 景』から第一〇歌集『山麓にて』まで、他に『前田夕暮の秀歌』『体験的昭和短歌史』
 『味覚放浪記』『人間放浪記』など多数。代表作は、『花もてる夏樹の上をああ「時」
 がじいんじいんと過ぎてゆくなり』。

     (♯写真が入る)香川 進の歌碑

  坂西博和坊(「坂西博和坊」は太字) 町役場の横を流れる桜川に架かった豊津橋を
 渡ると両側に寺がある。右が多聞院、左が摩尼院である。摩尼院の老桜が枝を広げてい
 る庭の一隅に一基の句碑がある。
   世は仮りの屋どりや年を松の下   博和坊
  と刻まれている。裏面には「文化八歳辛未秋社中建之」

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 とある。
  坂西博和坊の句碑である。博和坊は丸亀の人。雲行、車竜と号した。一七三八年(元
 文三年)の生まれ。越後の古川や長門の赤間関(下関)に庵を結び、一八〇三年(享和
 三年)六六歳のとき多度津の鍛冶屋町に筆海庵松下堂を営むまで、ほとんど他国で生活
 した。一八一〇年(文化七年)六月難病にかかり八月二〇日、七三歳で没した。阿波の
 武田応呼竜が編集した「塾則請正」には、博和妨は、「五竹房の門人讃岐多度津の人、
 俗称煙草屋伊兵衛、俳名雲行薙髪而白化房と云う、後博化房と改む」とあるという。
  碑の句は、「蕉門歳旦物」の中に「せいぼ」と題して「旅を旅とせざる境界なれば故
 郷に執着せる栖も持たぬとここの松下堂に冬こもりの寄宿して」と前書きがある句であ
 る。一八一一年(文化八年)門人たちが松下堂の老松のもとにこの句碑を建てたのだが、
 後に(大正初年か)摩尼院に移された。
  博和坊の句には次のようなものがある。
   花鳥の写し初や筆の海
   水茎きや木陰に夏の露涼し
   見よややがて我も枯野の昔人
   川音も耳に和らぐはじめ哉
  博和坊雲行の追悼句集に『見おさめ笠』一巻がある。一八一六年(文化一三年)京都
  の蕉門書林から刊行された。長門の歓和坊の撰で、小栗庵基登が序文を寄せ、椿庵が跋
  文を書いている。書名は博和坊の辞世の句「吹かれ行く身や蓮の葉の破れ笠」によって
  いる。
  林良斎(「林良斎」は太字) 摩尼院を出るとすぐ、大きな二基の道標石のたつ四つ
 辻がある。一つには「きしやば」、もう一つには「すぐふなば・右はしくら道・すぐ 
 金刀比ら道」と太い文字が刻まれている。そこを右に折れ極楽橋を渡るとJR多度津工
 場の前にでる。その右側一帯が多度津藩の陣屋があった所である。
  陽明学者・林良斎は一八〇八年(文化五年)六月二三日、多度津藩の家老職の林家に
 生まれ、一八四九年(嘉永二年)五月四日に没した。一八二七年(文政一〇年)二〇歳
 のとき、多度津陣屋の造営の任に当たっている。第四代藩主京極高賢がこの陣屋に入部
 したのが一八二九年(文政一二年)のことである。
  良斎は、大坂の大塩中斎(平八郎)や但馬の池田草庵らと交わり、思索を深め、著述
 に専念し、更には一八四六年(弘化三年)秋堀江に弘浜書院を開き子弟に教授し

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 た。編著には『類聚要語』『学徴』『学徴雕題』その他があり、没後に『自明軒遺稿』
 が池田草庵によって刊行されている。その墓は本通一丁目の勝林寺にあり、多度津町奥
 白方の林邸は財団法人多度津文化財保存会によって整備修復されて、遺品と共に公開さ
 れている。また弘浜書院も同会によって林邸内に復元、新築された。
  森長見(「森長見」は太字) 多度津陣屋から丸亀に向かって進むと四国霊場七七番
 札所道隆寺がある。その伽藍に「森長見碑誌」と刻まれた石碑がある。国学者・森長見
 の碑で、一七九四年(寛政六年)に長男森長宥によって建てられたものである。
  長見は多度津町堀江の人。通称は助左衛門、広浜堂と号した。一七四二年(寛保二年)
 の生まれで。多度津藩の小物成奉行を務めた。一七八七年(天明七年)秋九月『国学忘
 貝』三巻を著述刊行した。一七九四年(寛政六年)一一月二六日没す。享年五四歳。森
 一族の墓は堀江の條六墓地にあるが何れも摩滅して、どれが長見の墓であるか判らなく
 なっている。
   志賀直哉の『暗夜行路』(「志賀直哉の『暗夜行路』」は太字) もと来た道を引き
  返し、JR多度津工場を過ぎると多度津町民会館の大きな建物がある。そこに旧多度津
  駅があった。桜川の河口である。橋を渡って交差点を右へ行くと多度津港に出る。
  志賀直哉の『暗夜行路』前編の第二の四に大正二年の初め頃の多度津の港や旧多度津
 駅の様子が描かれている。
   <多度津の波止場には波が打ちつけて居た。波止場のなかには達磨船、千石船とい
  ふやうな荷物船が沢山入つて居た。
   謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に
  歩いて行つた。丁度汐が引いてゐて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂にな
  つてゐた。それを登つて行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を
  手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の
  客から一人離れて謙作を追つて急いで来た。謙作は露骨に追ひつかれないやうにぐん
  <(♯「<」は繰り返し)歩いた。何処が停車場か分らなかつたが、訊いてゐると其
  男に追ひつかれさうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
   もう其男もついて来なかつた。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇さうな顔をし
  て窓から首を出してゐた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行つた。

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   停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えてゐた。其処に二十分程待つと、普通
  より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗つて金刀比羅へ向つた。>
  志賀直哉が尾道から船に乗り、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行したのは、
  一九一三年(大正二年)二月のことである。多度津の港も、東浜の通りの家々も、停
  車場も、その頃とはすっかり様子が変わってしまっている。

  2 桃陵公園文学散歩(「2 桃陵公園文学散歩」は太字)

  武田喜美子(「武田喜美子」は太字) 港からの道と、JR多度津駅からの道が交わ
  る地点、昔参宮電鉄の駅があったあたり、そこから桃陵公園の登り口が見える。武田喜
  美子の小説『いつもスペシャルな感じに』(第三回香川菊池寛賞受賞)の冒頭にその辺
  りの描写がある。
   <角に時計屋があり、その時計屋は、東側の方に、煙草店の小さなウィンドウがあ
  る。(中略)時計屋と反対側の西角に、少し控え目な感じの茶房が、食堂と並んでい
  る。
   白い線で描かれた横断歩道の端に立つと、そこからは斜めに見上げた所に、緑のこ
  んもりとした丘が見える。丘の中腹を断ち切って、トンネルの入口が、ぽっかり空洞
  を開いたように見える。トンネルの中はいつもひんやりとしていて、丘の上の樹木の
  しづくだろうか? 雨だれだろうか? 快晴の日でも、天井から水滴がこぼれ落ち、
  トンネルの内側の煉瓦の割れ目から、常習澄んだ水が流れている。>

     (♯写真が入る)桃陵公園登り口


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  武田喜美子の家はこの交差点に程近い所にあった。一九三二年(昭和七年)一月二三
 日生まれ。丸亀高等女学校卒業。「日通文学」などに作品を発表、同人誌「ビューティ
 フル」を主宰した。一九八五年(昭和六〇年)に他界、五三歳であった。
  一太郎やあい(「一太郎やあい」は太字) トンネルヘの道と平行して、桃陵公園へ
 の坂道がある。それを登って太鼓橋の下をくぐり、しばらく行くと一太郎やあいの老婆
 の像のある展望台へと出る。この像は日露戦争の時、多度津の港から出征するわが子梶
 太郎を見送る岡田カメ女の姿である。「一太郎やあい、判ったら鉄砲をあげろ」と大声
 で叫んだという。戦地へ向かうわが子への母性愛あふれた姿を後世に残すために、一九
 三一年(昭和六年)に建てられたもの。この軍国美談は戦前の国定教科書にもとりあげ
 られた。加藤増夫に〈片手あげ呼びかけている銅像に冬日はかげり海のさざ波〉の歌が
 ある。因に、桃陵公園が開園したのもこの年である。
  竹田敏彦(「竹田敏彦」は太字) 展望台の正面に島が二つ。右が広島、左が高見島。
 高見島は竹田敏彦の『地に満つる愛』の舞台になった。米の取れない島に陸稲栽培を導
 入しようと奮闘する農業改良普及員の物語である。
  展望台を後にして、瀬戸内海が松や雑木の疎林の間に見える遊歩道を少し行くと、竹
 田敏彦文学碑がある。竹田敏彦は多度津町出身の大衆小説作家であ一る。本名は敏太郎、
 一八九一年(明治二四年)生まれ。丸亀中学校、早稲田大学に学んだ。大阪時事、毎日
 新聞記者を経て作家となった。

     (♯写真が入る)竹田敏彦文学碑

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  代表作に『子は誰のもの』『検事の妹』『涙の責任』『脂粉追放』『母と子の窓』『
  少女の家』などがある。一九六一年(昭和三六年)に東京柿の木坂の自邸で没した。享
  年七〇歳。文学碑は一九六九年(昭和四四年)三月、三原スヱの主唱と信濃町長等の協
  力により建設された。設計は速水史朗。
  石井朝太郎(「石井朝太郎」は太字) 遊歩道をしばらく歩き、松林が途切れた辺り、
 休憩所の傍らに石井朝太郎の歌碑が立っている。
   動くとも見えぬ白帆の連りてあさしづかなりせとのうち海
  一九三三年(昭和八年)の宮中歌会の詠進歌に入選した作品である。同年一二月三日、
 教え子達によって建碑された。
  石井朝太郎は一八六九年(明治二年)五月、三豊郡比地二村(現、高瀬町)の生まれ
 で、郡視学、県視学官を歴任後、三豊実業女学校創設以来、一九三一年(昭和六年)ま
 で初代校長として女子教育に専念した。同校は観音寺一高の前身である。
  井上通女(「井上通女」は太字) 多度津の海を詠んだものに、井上通女の、
   夕浪はたつやあらしに雲はれて多度津によするあまのつり船
 がある。通女は一七一一年(正徳元年)秋、初代多度津藩主京極高通の命によって「多
 度津八景」の漢詩と和歌を作ったが、そのうちの一首である。多度津八景とは、多度津
 晴嵐・堀江夜雨・狭峯暮雪・塩屋夕照・青山秋月・泊島帰帆・中津落雁・加茂晩鐘の八
 景である。
  香川進歌碑(「香川進歌碑」は太字) 遊歩道を瀬戸の海の景色を楽しみながらぐる
 りと回ると、昔、迎日館という建物のあった広場に出る。今は休憩所の建物がある。そ
 の裏の桜林の中に、香川進の歌碑がある。
   桜の花散るとしもなく春深きふるさとの山は静かなるかな
  一九七九年(昭和五四年)四月一五日に除幕されたものである。
  これで桃陵公園の、文学ゆかりの場所を一巡したのであるが、終わりに桃陵公園の桜
 を詠んだ俳句を紹介しておこう。
   桃陵の花に来てゐる遍路かな    月史
   そのかみの那珂の津はここ夕桜  うしを
   桃陵の花まだ早き瀬戸の海     紅耳
   爛漫の花にそむきて船を呼ぶ    可用
   桃陵の落花流るる港かな      松居

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   3 旧町内(「3 旧町内」は太字)

  神原彩翅(「神原彩翅」は太字) 多度津一番の商店街が本通一丁目である。古くは
 門前町と呼ばれた通りである。神原彩翅は一八八四年(明治一七年)一一月一〇日この
 町で生まれた。本名甚造。県立丸亀中学、第三高等学校、京都帝大法学部を卒業。京大
 大学院で刑法を研究した。大審院判事部長、初代香川大学学長を務め、法曹界、教育界
 で名を成したが彩翅と号して「明星」中期の異色歌人であった。一九五四年(昭和二九
 年)四月二日病没。享年七〇歳。
   ものはぢてよき子かくれし草の家にさく花なれば桃となづけむ
   下京やをなごあるじのかもじ屋と隣りてあるをわびて思ひぬ
   夕ぐれや洛外ゆけば近松が悲曲のなかの水の音する
  安藤幻怪坊(「安藤幻怪坊」は太字) 川柳家・安藤幻怪坊も多度津町の出身である。
 一八八〇年(明治一三年)七月二八日履物商の次男として生まれた。本名は久太郎。一
 〇歳のとき単身横浜へ出てさまざまな苦労の後、僧侶となり横浜市の弘誓院院主となっ
 た。僧名は玄戒。一九〇三年(明治三六年)阪井久良岐に入門、一九〇八年(明治四一
 年)「新川柳」を創刊した。この誌は一九一五年(大正四年)四月、「短詩」と改題し
 た。幻怪坊は川柳を短詩に革新しようとするとともに、古句研究、雑俳書の紹介につと
 めた。岡田三面子との共著『謡曲と川柳』はよく知られている。他に『川柳歳事記』『
  川柳大山みやげ』など多数。一九二八年(昭和三年)三月二一日没。享年四八歳。
  高橋散二(「高橋散二」は太字) もう一人多度津町出身の川柳家がいる。一九〇九
 年(明治四二年)七月七日生まれの高橋散二である。一九一六年(大正五年)現在の大
 阪府門真市へ移り住んだ。一九二四年(大正一三年)から一九六八年(昭和四三年)ま
 で大阪中央郵便局に勤務して定年退職。翌年二月から郵便番号普及会に勤めたが、二年
 後の一九七一年(昭和四六年)八月一八日交通事故によって他界した。大阪の番傘川柳
 本社同人として活躍、遺句集に『花道』がある。
   神楽坂あの学生が芥川
   和楽路屋の地図拡げると鐘が鳴り
   道行はどれもさくらの咲く時候
   大阪の春を無料の渡し船
   印籠の薬がすぐに効く芝居
  多度津の左衛門(「多度津の左衛門」は太字) 『多度津の左衛門』は世阿弥作の謡

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 曲である。生駒の宝山寺所蔵の世阿弥自筆本の奥書に応永三一年(一四二四年)正月一
 八日の日付がある。次のようなあらすじである。
  遁世した父の多度津の左衛門を尋ねて、姫と乳母が善通寺へ参詣する。そこで高野聖
 から父が高野山蓮華谷にいることを教えられ、二人は高野山へ急ぐ。
  高野山では左衛門が霊夢により不動堂へ日参している。姫と乳母は狂乱の体で道行、
  高野山不動坂に到る。そこで左衛門と姫・乳母は出会うのであるが、左衛門は女人禁制
  のゆえに制止しようとし、二人は男装のゆえをもって押し通ろうとする。寺男は、女の
  行かぬ高野山の舞を所望する。そこで神仏広大の慈悲を語り舞いつつ女人禁制の掟への
  抗議をする。
  姫と乳母は高野へ乱入しようとし、左衛門は姫を杖で打つ。二人は父に会いたいと嘆
 願し、ついに歓喜の対面を果たし大師への讃嘆で一曲が終わる。
  伊藤正義は<本曲は「苅萱」以来の高野遁世譚を踏まえながら、物狂能の展開のなか
 で、女人禁制という宗教的禁忌と、親子恩愛の人間的情愛の相克を描こうとした曲であ
 ると見ることができようか>と謡本の解題で述べている。     (以上・神原俊雄)