三 丸亀を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   坂東直子
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
              JISコード第1・第2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は
              旧字)と表記した。
  登録日 2005年9月8日
      


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 三 丸亀を行く(#「三 丸亀を行く」は太字)
  
  1 丸亀城とその周辺(#「1 丸亀城とその周辺」は太字)
 
 JR丸亀駅の南、城山の上に丸亀城が聳えている。丸亀城は、一五九七年(慶長二年)、
生駒親正が築城。標高六六メートルの小高い亀山を利用したことから亀山城とも呼ばれて
いる。
 大手門をくぐり、見返り坂を登りきって右に折れ、石段にかかるところの右側に、高浜
虚子の句碑がある。
 稲むしろあり飯の山あり昔今
 幅一メートル、高さ二メートル余りの大きな自然石の碑である。周囲には木が茂り影を
作っている。一九四九年(昭和二四年)五月、市政五〇周年の記念行事の一つとして、お
城祭りに虚子を招いた。しかし、虚子は来られず代理の長男年尾を迎えて句会や記念講演
を行った。
「稲むしろ」の句は同年一〇月、虚子が丸亀を訪れたときに詠んだものである。また、同
じときに詠んだものに
 治績とはうちわをつくることその他
がある。
 坂を登り、三の丸の西北端まで来ると、吉井勇の歌碑が見える。
 人磨の歌かしこしとおもひつつ海のかなたの沙弥島を見る。
 虚子の句碑と同じく、市政五〇周年を記念して建立されたものである。「人磨の歌」と
いうのは『万葉集』巻二に収められた「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か……」のことであ
る。昭和一一年、招かれて高知からやって来た勇は、人磨の歌を思い起こし、この歌を詠
んだのである。このとき、勇は丸亀で一泊し、本島に渡り次の歌を残している。
 旅ここちにはかに胸にせまり来ぬ丸亀みなとの桟橋の雪
 わが友はいしくも書きぬ吾もこのむ瀬戸内海のとこしへの美を
 海なかに塩飽本島よこたはり来よとぞ人を誘ふならずや
 坂を下りて右に折れ公園に向かう。公園の東北の一画は、こどもの国遊園地である。遊
園地の西側の山裾の少し高くなった所に斎田喬の碑がある。黒い半月形の石には「斎田喬
先生文学碑」とあり、白い円形には肖像が刻まれ、

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 幼らと たずさや遊ぶ春の日や うたうは蝶々 とまれ菜の花  喬
と記されている。
 斎田喬は、一八九五年(明治二八年)丸亀市中府に生まれた。香川県師範学校卒業後、
城乾小学校に勤め、後に、東京成城学園に迎えられ上京し、児童演劇を創始。

(#写真が入る)斎田喬文学碑

学校演劇運動に参加し、学校劇脚本を書き、文部大臣賞、紫綬褒章などの賞を受けた。一
九七六年(昭和五一年)没す。
 城内にある丸亀資料館横には「烈女尼崎里也宅跡」の石柱が立つ。もとは風袋町の現在
料亭の建っている所にあったものである。
 尼崎里也の話は『西讃府志』や『常山紀談』にある。『常山紀談』は岡山藩士湯浅常山
によって書かれた見聞記であり、「高次大津の城を出られし事」など丸亀藩に関連した話
がいくつかある。同書によると、里也の話は次のようなものである。
 里也の父は京極藩主高豊の弓足軽であった。ある夜、帰ると同じ弓足軽の岩淵伝内とい
う男が妻に言い寄ろうとしていた。怒った幸右衛門は伝内に切りかかり、逆に切り殺され
てしまう。一六歳になった里也は仇討ちを決意し、江戸に赴き、剣術を習う。そして、つ
いには女でありながら立派に父の仇討ちを果たすのである。
 里也の話は、全国に広まり大変評判になった。後に里也は、京極藩に召し抱えられ、京
極藩の種姫付きの侍女として仕えた。一七五五年(宝暦五年)七九歳で没す。
 お城の西側の堀端、城西小学校の校庭には「井上通女

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生申之碑」と、通女のブロンズ像が立つ。
 天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟
  よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
 通女の『東海紀行』の冒頭の一部である。通女は一六六〇年(万治三年)六月一一日、
藩士井上儀左衛門本固の娘として生まれた。和漢の学に秀で、清流薙刀の免許皆伝を受け
るなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女であった。
 二二歳のとき、藩主高豊の母養性院に召されて上京した。その旅行記が『東海紀行』で
ある。在府中、通女は室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、大いに
学識を深めた。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言
い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評価した。養性院が病死した後帰郷したが、その
旅行記を『帰家日記』といい、『東海紀行』や在府中の『江戸日記』とともに通女の「三
日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされている。一七三八年(元文三年)死去。その墓は南
条町の法音寺にある。
 丸亀高等女学校(現丸亀高等学校)では、井上通女を学神として崇め、校内には、「井
上通女頌徳碑」がある。また、同校の記念館には、通女の石膏像が保存されている。
 丸亀高校の正門をくぐると、右側に石庭が広がる。その石庭と校舎との間に香川不抱の
碑が立っている。
 吾ここにありと叫びぬ千萬の中の一つの星と知りつつ
 これは、一九〇八年(明治四一年)「明星」八号に掲載されたものである。
 香川不抱、一八八九年(明治二二年)二月一〇日、綾歌郡川西村大字西二字鍛冶屋(現、
川西町北)に生まれる。本名栄。丸亀中学三年のころから詩や短歌を創作。卒業と同時に
上京し、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となった。しかし、健康を害して帰郷し、四国
新聞の前身である香川新報社の記者となる。肺を患い二九歳で没す。
 改造版社『現代日本文学全集』第三八巻の「現代短歌集、現代俳句集」巻末には、「自
身の窮境を歌ひてユーモラスなる新体を開くことは石川啄木に先行せり。」とあり、当時
不抱が高く評価されていたことがわかる。不抱の生家は現在も鍛冶屋に残っている。
 四辻を出合ひてあれど君が目に我は附かざり空気の如く

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 印象を少しは君も受けたららむ七朝つづけ四辻に遇ふ
と淡い恋心を抱いて通った四辻周辺には新しい家が立ち並んでいた。
 丸亀が軍都であったころ、お城の北側、現在大手町と呼ばれている所には、兵舎や練兵
場があった。大杉栄は一八八五年(明治一八年)旧丸亀歩兵第一二連隊で生まれた。父は
大杉東、職業軍人であった。『自叙伝』には次のように書かれている。
  父は少尉になると間もなく母と結婚して、丸亀の連隊にやられた。そしてそこで僕が
 生まれた。
  町の名も番地も知らない。戸籍には明治十八年五月十七日生とあるが、実際は一月十
 七日ださうだ……
 名古屋幼年学校退学、外国語学校仏語科卒業。幸徳秋水の平民社に加わり、一九一二年
(大正元年)には荒畑寒村と「近代思想」を発刊する。アナーキズムを主張。関東大震災
の折、甘〔カン〕(#「カン」は文字番号26886)憲兵大尉により、妻伊藤野枝と共に虐
殺された。著書に『大杉栄全集』がある。

  2 旧市街(#「2 旧市街」は太字)

 お城の北側を東から西に通じている県道三三号線が南に曲がる所の交差点を塩飽町交差
点という。塩飽町交差点を西に進むとすぐ四差路があり、左手に金毘羅への道標が立つ。
そこを南に進むと間もなく右側に「田宮坊太郎墓所」と右を指差した道標があり、その突
き当たりを左に折れた玄要寺に、笠亭仙果の『金毘羅利生記』で有名な田宮坊太郎のもの
だといわれる墓がある。かなり朽ちた五輪塔がブロック塀で囲まれており、市川鯉三郎ら
歌舞伎役者の献灯が見られる。父の仇を討つために七歳のときに江戸へ出て武芸に励み、
父の一七回忌にみごとに本懐をとげたという話である。坊太郎の仇討ち話は『西讃府志』
にも残されており、仇討ちの場は山北八幡宮ではなかったといわれる。
 玄要寺には、京極伊知子、中村三蕉らの墓もある。
 京極伊知子は若狭小浜城主京極忠高の娘として生まれた。家老多賀常良に嫁し、一子高
房を生むが。その子が従兄弟である丸亀藩主京極高和の養嗣子と決まったために五歳で生
別する。『涙草』は、この母子の別れの様子を綴ったものである。
  それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけ
 だもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし
 生けるもの、形はことなりといへども心

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 ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひと
 しかるべし。
一子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められている。
一六六〇年(万治三年)四月、伊知子は他界した。
 中村三蕉、本名桑、字は子楡。一八一七年(文化一四年)丸亀で生まれ、豊後の帆足愚
亭に学ぶ。のち昌平校に入り、安積艮斎の門に学び、藩主の侍講、ついで世子の侍講とな
った。
 塩飽町交差点を西に進んですぐの四差路を北に進むと右側に本照寺がある。菅生堂人惠
忠の『怪異』の舞台となった寺である。
 本照寺の小僧、真可が宇多津に使いに行った帰り、天狗に攫まるという話である。真可
が法華経を唱えると、天狗は真可が上帯にしていた繻巾をほどいて真可を縛り本照寺に捨
てて帰った。
 人々驚き、上人にかくと告げ知らせければ、上人やがて立ち出で、つくづくと見定め、
 静かに真可が声に合せて普門品を読誦ありければ、不思議や此の繻巾忽ちぬけて、真可
 別儀なく本心となりければ、上人その故を尋ね給ふに、真可しかじかの由を語れば、上
 人も訝しくおぼして、かの繻巾を取り上げ見給ふに、さまざまに結ぼれて、紐の端いか
 に求むれども見えず。辺の人人之を見て奇異の思をなしけるが今に此の寺にありて世の
 人これを天狗の縄と称してもてはやしけるとぞ。
 本照寺の前をさらに北に進むと四差路があり、それを越えるとすぐ「井上通女史墓所」
の碑が見える。法音寺には斎田五蕉の墓もある。
 馬にまたがり弓を響きて、もののふのみちをなさんには、力よわく、机により君子ひじ
 りの道を学ばんには才とぼしく、酔へるごとくさむるがごとく、市塾の中に仰伏して、
 すでに三年の秋もくれ、夜は時雨くもゆきかよひて、いとすさまじくおぼゆれど、蓑な
 しのみのひとつだにたもちかね、あはれおほき身なれば、北窓をふさぎ、ひまを塗るの
 業なくては、ふる衣のやぶれつづくるのみ冬がまへとし、月の夕しものあした、酔へば
 歌ひさむればくみ、ひたすらに瓢飲のたのしみを願ふ。
 わびてすまんかみこ一つを冬がまへ
 五蕉の「窮居辞」である。五蕉は名を四角といい、丸亀藩士であった。蕉風の復興に努
め、二世芭蕉堂となった蒼〔キュウ〕(#「キュウ」は文字番号32805)の高弟である。
一八七三年(明治六年)没す。享

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年七六歳。墓碑には「ちる花や舎利も生るる沙の上」の辞世の句が刻まれている。
 津坂木長は丸亀藩士で、通称五郎太夫または勝蔵といった。また、木長、清風舎などの
号で知られる俳人で、五蕉らと共に俳壇で大いに活躍した人である。丸亀の俳人菊壺茂椎
に学んだが、後に京都の梅室に指導を受けた。その著書に『玉藻日記』『袖濡野日記』『
丸亀繁盛記』などがある。『丸亀繁盛記』は天保年間の丸亀の様子が描かれている。
  玉藻する亀府みなとのにぎわいは、昔も今も更らねど、猶神徳の著明き、象の頭の山
 へ、歩みを運ぶ遠近の、道俗群参す。数多の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒に
 ひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口の繁雑、
 出船入船かかり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす。
 当時、丸亀は城下町として栄え、また港は「こんぴらみち」を通って金毘羅に参詣しよ
うとする人たちで賑わっていた。「二軒茶屋」というのは今も丸亀の地名に残っているが、
土器川の川岸にあり、当時たいへん賑わっていた。木長の句を挙げておく。
 朝寒や船からあがる白拍子
 塩飽町交差点を東に向かい、一つ目の信号を北に入った通りが富屋町の商店街である。
そこを北へ少し歩くと左側に寺がある。参道の内側には「天台宗妙法寺別名蕪村寺」と「
元三大師おみくじ所」の石柱が立っている。妙法寺には蕪村の筆跡を刻んだ
 門を出れハ我も行人秋のくれ 蕪村
の句碑がある。丸亀市民俳句会によって、一九七六年(昭和五一年)一〇月七日に建立さ
れたものである。
 蕪村は、一七六六年(明和三年)の秋から何度か讃岐を訪れ、丸亀にも滞在した。妙法
寺には蕪村による
  紙本墨画 蘇鉄図 四曲屏風 一双
  附 淡彩 寒山拾得襖張付  四面
    〃  山水図 四曲屏風 三隻
    〃  山水図  〃   一隻
    〃  寿老人      一幅
	墨画 竹 図		一幅
の六点が残され、重要文化財に指定されている。蕪村は俳人としてばかりでなく、画人と
しても名をなした人であった。蕪村がこれらの絵を描いたのは、妙法寺一〇代真観上人の
ときであるという。真観上人は絵を嗜み、蕪

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村と交流があった。ある時、上人に歓待された蕪村は、客殿の襖数一〇枚に絵を描いた。
ところが一五代真延上人の時代になると、破損がひどくなったために屏風に改められ、そ
れが現在も伝わっているのである。
 市庁舎の西、ダイエーの所にある交差点から北へ通じる通りが通町の商店街である。そ
の商店街にある梅栄堂という甘酒饅頭屋のある辺りに尾池松湾の屋敷があったという。尾
池松湾は医者であり、また学者、詩人としても有名であった。『桐陽詩鈔』の著者、尾池
桐陽の次男で、著書に『梅隠詩稿』『穀似集』などがある。一八六七年(慶応三年)九月
没す。七八歳であった。
 梅栄堂の前をさらに北に進むと四差路がある それを右に折れる通りが松屋町の通りで
ある。松屋町を東へ進むと葭町の大通りに出る。その手前の右側にある村岡薬舗の斜め前
に、高いトタン塀で囲まれた空き地がある。「売土地」の看板が出ているこの空き地に、
勤王家村岡箏子の屋敷があった。
 村岡箏子は、高松藩内の香川郡円座村の勤王家小橋家に生まれた。一七歳のときに丸亀
藩士村岡藤兵衛のもとに嫁いだ。
 箏子とその子宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王の事業
に尽くした。一八六六年(慶応二年)一一月、宗四郎は幽閉され、翌年正月この世を去っ
た。二二歳の若さであった。
  正徳子(宗四郎の実名)御国の為心尽くせしも遇はずして嫌疑となり丁卯正月二九日
 身まかりければ、あさからず御国をおもふ真心の身のあだとなるぞかなしき
  正徳追福
 御国おもふこゝろつくしはあだしのゝつゆと消ても君を忘るな
と悲しみを詠んだ。しかし、箏子は宗四郎の死後も、勤王の志士の庇護援助に尽力した。
一八七〇年(明治三年)七月二七日没。享年五六歳。一九二八年(昭和三年)昭和天皇即
位の大礼の際には従五位が贈られた。墓は前塩屋町の正宗寺あり「貞靖孺人墓」と刻まれ
ている。
 大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒
同じく女性勤王家の若江薫子の歌である。
 若江薫子は、伏見宮殿上人四位下若江量長の娘として生まれた。学問を好み、高畠式部、
太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人である。

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 三三歳のとき、明治天皇の皇后選びの際、意見を求められ左大臣一条忠香の姫君のうち
妹君を推挙したことで有名である。しかし、一八七〇年(明治三年)には、東京遷都など
新政府の政策を批判していた薫子は危険視され幽囚の身となった。幽囚を解かれた後、丸
亀に渡り、その不遇な晩年を丸亀で終えた。著書に『和解女四書』がある。一八八一年(
明治一四年)一〇月一一日、四七歳の生涯を終えた。墓は玄要寺東墓地の入口にある。
 通町の通りをまっすぐ北に進むと新堀港にでる。新堀港の入口には太助灯籠が立ってい
る。その前方に水川浮沈子の句碑がある。
 広重の絵になる港鯛が釣れ 浮沈子
裏面に回ると「浮沈子水川恒三略歴 丸亀商業会議所副会頭 丸亀市副議長 番傘川柳本
社同人 昭和四十二年五月建立之」と刻まれている。

 3 郊外(#「3 郊外」は太字)

 丸亀城から西へ約二・五キロ、金倉川河口に中津万象園がある。二代藩主京極高豊によ
って築かれた丸亀藩の別館である。『西讃府志』に「別館一、海浜ニアリ貞享五年九月経
営ス、散卒三人ヲ置ケリ」と記されている。
 中津別館は江戸時代の典型的な回遊式大名庭園である。一八九二年(明治二五年)以後
一般に開放され、「中津公園」とか「万象園」とか呼ばれ親しまれてきた。
 受付を通って中に入ると、美術館の入口の手前に柿本人麿の歌碑が立つ。「玉藻よし 
讃岐の国は 国柄か」ではじまる長歌である。その中に出てくる「中の水門」とは、金倉
川河口付近、つまり中津万象園付近を指している。
 第六代藩主京極高朗は琴峰と号した文人で、『琴峰詩鈔』の著がある。「中津途上」「
中津即興」などの漢詩を残している。
  中津荘即事
 満池新水油よりも碧く
 無数の残何浅洲を掩ふ
 舟葉間に入り人見えず
 只聞軋唖櫓声の柔らかなるを
 一八七四年(明治七年)二月一四日、七七歳で死去。丸亀玄要寺に葬られた。
 丸亀市、坂出市、飯山町の二市一町にまたがる飯野山は、その美しい山容から讃岐富士
とも呼ばれ、古くから崇敬されてきた。

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 山頂に登ってみると、暁山雲御製の碑、薬師堂、石仏などがある。そこから二〇メート
ルほど下ったところに「おじょもの足跡」と呼ばれる巨石がある。柳田国男の「ぢんだら
沼記事」に取り上げられた石である。「ぢんだら」というのは、讃岐の方言で「じだんだ」
で、巨人がじだんだ踏んだ跡が沼になったという話をまとめたものである。
 飯野山のふもとで生まれた久米井束は『日本の文学教育』『詩の中の中学生』など多数
の著書がある。香川県師範学校卒業後同校訓導、後上京して小学校長など歴任。日本文学
教育連盟会長、日本児童文学者協会会員。
 飯野山を詠んだ歌は多いが、西行法師の歌を挙げておく。
 讃岐にはこれをや富士といひの山朝げの煙たゝぬ日もなし

  4 塩飽諸島(#「4 塩飽諸島」は太字)

 備讃瀬戸に点在する大小二八の島を指して塩飽諸島という。その中の一つ本島はかつて
塩飽水軍の本拠地であった。丸亀港から高速艇で二〇分、フェリーで三五分。船からの瀬
戸の眺めは非常によい。竹田敏彦の『明けゆく島々』に次のような描写がある。
  左方に突出た城慶坊鼻が、間もなく後方に消え去ると、急に展けた海上には与島、瀬
 居島、沙弥島から、はるか大槌小槌の島々、乃生岬の稜線までが、いっきに視界を賑わ
 せてきた。つづいて、正面間近く円錐形を並べた牛島の美しいシンメトリーが、均整を
 崩して右手に位置を変えてきたと思うと、今までその陰になっていた讃岐富士を取り巻
 く本土の山々の多彩な姿が笑みかけてくる。
 有本芳水は「讃岐より」と題した詩の中で「大島小島はなれ島 磯にまろべるうるはし
き 小さき石のいろどりに 夢もめぐしや春の旅」と歌っている。
 本島泊港より徒歩約四〇分。大倉桃郎の文学碑が、大倉家の菩提寺、持宝寺に立つ。桃
郎が父危篤の報に接し本島に帰省したときのことを書いた『春浅き島』の冒頭の一節が刻
まれている。
 大倉桃郎は一八七九年(明治一二年)、本島に生まれた。一九〇四年(明治三七年)、
大阪毎日新聞の第一回懸賞小説に「琵琶歌」が当選し、一躍有名になった。代表作に『江
戸城』『島の人』などがある。
 碑は一九八八年(昭和六三年)、桃郎の生誕一一〇年

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に当たり建立され、「春浅き島」が現代かなづかいに改められ復刊された。
 本島の西約三キロに浮かぶ広島は、面積一一、八二平方キロの塩飽最大の島である。石
の産地で、特に青木石は有名である。
 竹田文吉らによる浄瑠璃『塩飽七島稚陣取』の舞台となった島である。今から八〇〇年
以上前、平清盛の専制

(#写真が入る)大倉桃郎文学碑


を憤り、老武者摂津源氏頼政は以仁王を奉じて兵を挙げた。けれども戦いに敗れ、以仁王
の若宮を連れて以仁王の寵(#「寵」は旧字)姫讃岐の前、長谷部信連と広島に落ちのび
るという話である。
 讃岐の袖にいくせ島、假に宿りの島の名も、よそに与島の世の中は、うし(牛)島島を
 いたいけな、手島にまねく友千鳥、ぢいよぢいよも濱風に、呼び返されて沙弥島の娑姿
 の名残も遠ざかる、安養国の広島へ移し変へたる宮の浦、満来る潮うち寄する、岩の高
 見のさなき(佐柳)だに、一世と二世をすがたの石塔婆、色即唯心弥陀ここぞ、平等大
 海大恵、功力を源家に冥加あれとざつぷと飛入る白波は、源氏再興源三位の身の成る果
 は天晴なりける文武の栄ぞ曇りなき。
と源氏再興を願うのであった。
 また、愛生園の医師小川正子の『小鳥の春』は、癩病患者の検診のため瀬戸の島村を訪
ねた手記である。
 外は雨ふりしきる夜を島人はこころ驚きつつ癩伝染を聞く
 芽ぶきたる雑木を透きて大浦の瓦家並の陽にひかる見ゆ
書中の歌である。                      (以上・長尾麻衣子)