一 坂出を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   森川嘉晃
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
     ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
      と表記した。
  登録日 2005年11月11日
      


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  中讃を歩く(「中讃を歩く」は太字)

  一 坂出を行く(「一 坂出を行く」は太字)

   1 崇徳上皇をしのぶ諸作品(「1 崇徳上皇をしのぶ諸作品」は太字)

  一一五六年(保元元年)七月二日、鳥羽上皇が崩御。そして七月一〇日、後白河天皇
 方と崇徳上皇方とが激突したのが保元の乱である。敗れた崇徳上皇は剃髪し、弟の仁和
 寺門跡覚性法親王のもとに身を寄せていると、内裏方から讃岐へ配流の伝達がくる。七
 月二三日、上皇は草津から讃岐国司藤原季行の用意した舟で淀川を下り、瀬戸内海へ出
 て、直島にも立ち寄り、八月三日、讃岐国阿野郡松山津(現、坂出市)に着いた。そし
 てこの地方の豪族だった(国司の留守居役でもあった)綾高遠が建てた松山館に住んだ。
  坂出警察署前から県道のパイパスを北へ行き、新雲井橋を渡ると左側の田圃の中に上
 皇の住居があった雲井御所跡がある。上皇は約三年間、そこで過ごされたのだが、近く
 にあった長命寺へ遷されたとの説もある。
  ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて
 という歌を詠まれたので、この地を雲井御所と呼ぶようになったらしい。ところが、一
 一五九年(平治元年)ころ国府庁のすぐ南の鼓が岡へ配所が移された。そこは現在、鼓
 岡神社となっており、府中町の香川県埋蔵文化財センターから三百メートルほど西の所
 である。上皇は厳しい監視のもとにおかれ、毎日写経に励まれていた。ここでの生活は
 六年近く、写経を鳥羽法皇の永眠している京都の安楽寿院へ奉納しようとしたが、それ
 すら許されなかった。崇徳上皇は、一一六四年(長寛二年)八月二六日、四六歳で崩御
 された。そこで九月一八日まで朝廷の指示を待ち、八十場の泉で冷やした後、白峰の一
 角で荼毘(ルビ だび)に付され、そこを白峰御陵と定められたとか。

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  白峰寺正門を左へ、うっそうと繁った杉木立の中を下りきって、右に折れ、急勾配の
 長く続く石段を白峰御陵へ向かって登ると、静寂を通りこして研ぎ澄まされた上皇の怨
 念が今でも漂っているかのような感じがする。
  上田秋成の『雨月物語』巻之一白峰には
  時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵(ルビ たお)すかのごとく、

      (#写真が入る)崇徳上皇白峯陵

   沙石を空に巻あぐる。見る見る一段の陰火君か膝の下より燃上りて、山も谷も昼の
   ごとくあきらかなり。光の中につらつら御気色を見たてまつるに、朱をそそぎたる
   龍顔に、荊の髪膝にかかるまで乱れ、白眼を思(ルビ つり)あげ、熱き嘘(ルビ
    いき)をくるしげにつかせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は
   戦のごとく生のびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。
  また、『保元物語』には、
  斯て新院御写経事畢(ルビ おはり)しかば、御前に積置(ルビ おか)せて、御祈
 誓有(ルビ あり)けるは「吾深罪に行れ、愁欝浅からず。速此功力を以、彼科を救は
 んと思ふ莫太の行業を、併三悪行に拠籠、其力を以、日本国の大魔縁となり、皇を取て
 民となし、民を皇となさん。」とて、御舌のさきをくい切て、流る血を以、大乗経の奥
 に、御誓状を書付らる。
  さらに、曲亭馬琴の『椿説弓張月』前篇巻之六にも
  潮水激して立のぼり、鯨鯢(ルビ くじら)の吹くに髣髴(ルビ さもに)たり。時
 に一道の黒気、玉体を掩ひ隠す程こそあれ、電光(ルビ いなびかり)きわたり、雲間
 にあやしの御姿、隠々として見えさせたまえば、今ははや天狗道にや入り給ひけん、と。
  いずれも怨敵討伐の執念に燃える姿を描いているが案外上皇は毎日写経三昧だったか
 もしれない。(松川進)
                    
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  2 西行と白峰(「2 西行と白峰」は太字)

  西行が讃岐への旅に出たのは、一一六七年(仁安二年)又は翌年の神無月のであった
 とみられ、年齢は五十歳前後であった。『山家集』には次のような歌がある。「讃岐に
 詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりけれ
 ば 松山の波に流れて来し舟のやがて空しくなりにけるかな 松山の波の景色は変らじ
 をかたなく君はなりましにけり」と三、四年前に亡くなった崇徳院のその御所さえも跡
 形なくなってしまっていることを嘆くのだった。
  さらに「白峰と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて よしや君昔の玉のゆか
 とてもかからん後は何にかはせん」と哀傷し鎮魂の歌を残している。
  上田秋成は『雨月物語』の「白峯」で、院の怨霊との対話形式で鬼気迫る描写をして
 いる。「朱をそそぎたる竜顔に、荊(ルビ おどろ)の髪膝にかかるまで乱れ、白眼を
 吊あげ、熱き嘘(ルビ いき)をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすすびた
 るに、手足の爪は獣のごとく生(ルビ おひ)のびて、さながら魔王の形、あさましく
 おそろし」と述べている。西行はその「魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに堪ず」
 再び一首の歌を、仏縁を勧める心で贈る。それが「よしや君・・」の歌であるという構
 成になっている。西行は崇徳院と直接の知見があり、その悲運に同情的で、菩提を弔う
 のがこの旅の大きな目的であった。
  なお、西行が白峰陵に詣でた記事は、別記のように、『保元物語』、『撰集抄』、謡
 曲「松山天狗」など多く、「白峯」の後にも『椿説弓張月』『二日物語』など、同題材
 である。                             (野口雅澄)

      (#写真が入る)白峰寺境内の西行歌碑

   3 幸田露伴の『二日物語』(「3 幸田露伴の『二日物語』」は太字)

 『二日物語』は、「此一日(ルビ このひとひ)」と「彼一日(ルビ かのひとひ)」
 とのわずか二日だけのできごとを、空想力をフルにはたらかせ、西行法師を主人公とし、
 みごとなフィクションの世界を構築させている。幸田露伴は美文調の作家の代表ともい
 えるかもしれないが、とにかく豊富な語彙力を駆使して、感傷的な一面はあるものの自
 然描写が特にすぐれている。
   音にききたる児(ルビ ちご)が岳とは今白雲に蝕まれ居る峨々と聳えし彼峰なら
  め、さては此あたりにこそ御墓はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る見る
  千仭の谷底より霧漠々と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るる雲と相応じて、忽
  ち大地に白布を引きはへたる如く立籠(ルビ たちこ)むれば、呼吸するさへに心ぐ
  るしく、四方を視るに霧の隔てて天地はただ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。
  と西行法師は、白峰の崇徳上皇の御陵を尋ね、その霊を弔おうとするさまが克明に描
 かれている。
   西行かすかに眼を転じて、声する方の闇を覗(ルビ うかが)へば、ぬば玉の黒き
  が中を朽木のやうなる光の有(ルビ も)てる霧とも 雲とも分かざるものの仄白く
  立ちまよへる上に、其様異なる人の丈いと高く痩せ衰へて凄まじく骨立ちたるが、此
  方に向ひて粛然と佇(ルビ たたず)めり。(中略)
   想ひ見よ、そのかみ朕此讃岐の涯に来て、沈み果てぬる破舟の我にもあらず歳月を、
  空しく杉の板葺の霰に悲しき夜を泣きて、風につれなき日を送り、心くだくる荒磯の
  浪の響に霜の朝、独り寝覚めし凄じさ、思ひも積る片里の雪に燈火の瞬く宵、ただ我
  が影の情無く古びし障子に浸み入るを見つめし折の味気無き、如何ばかりなりしと汝
  思ふや、歌の林に人の心の花香をも尋ね、詞の泉に物のあはれの深き浅きをも汲みて
  分くる、敷嶋の道の契りも薄からず結びし汝なれば、厳しく吹きし初秋の嵐の風に世
  に落ちて、(中略)
   西行はつと我に復(ルビ かえ)りて、思へば夢か、夢にはあらず。おのれは猶か
  つ提婆品(ルビ だいばぼん)を繰りかへし繰りかへし読み居たるか、其読続き我が
  口頭に今も途絶えず上り来れり。
  と崇徳上皇の現世を呪うすさまじさにぞっとさせられる迫真の描写力である。また、
 上皇よりわずか一歳年長であった西行のようすも生き生きと描かれている、しかし、な
 ぜ西行は生前の上皇を慰めに訪れなかったのか、さらに崇徳上皇の心情を怨念のみの面
 からしか描けなかった謎が解明されないまま残った。

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   4 中河幹子の歌碑(「4 中河幹子の歌碑」は太字)

  広い白峰寺の境内を散策しながら歩むと行者道の前に中河幹子、荒木敏恵、師弟の大
 きな自然石に刻まれた歌碑が建っているのに出会い感嘆する。
  とこしへにこの白峯を守らすと流れ来まししや玉のおん身を        幹子
  白峯の御陵にいくど詣で来てしのびまつるに山鳩もなく         とし恵
  左に長い中河与一の撰文があるが、その建立月日は、昭和五五年一〇年一一日となっ
 ており、中河幹子が他界する十五日前であったことがわかる。
  中河幹子は、夫与一より二歳年長、一八九五年(明治二八年)坂出に生まれた。香川
 県立丸亀高等女学校を首席で卒業後、奈良女子高等師範学校国語漢文部へ推薦入学、二
 年修了近くに退学、津田英学塾へ入学。与一と結婚したものの、与一より年長であるこ
 とを大変気にしていたらしい。与一との間に二男三女をもうけたが、作歌活動のかたわ
 ら、昭和二〇年より共立女子専門学校(現、共立女子大学)で教鞭をとりつづけた。
  一九二二年(大正一一年)一〇月、津田英学塾の卒業仲間と歌誌「ごぎょう」を創刊、
 一九四四年(昭和一九年)には「をだまき」と改称、同誌を主宰し多くの後輩を育成し
 た。歌集に『夕波』、『悲母』、『水天無辺』がある。郷土を詠んだ歌には次のような
 ものがある。
 「限りなきわが思慕の町坂出は工業都市となり夜も火焔あぐ」「ふるさとに帰りまづ訪
 ふ沙弥島の人麿碑健在に海に向へり」「ちちははの愛深かりし田舎家を朝より念佛のこ
 ゑに満たして」

      (#写真が入る)中河幹子・荒木敏恵の歌碑(白峰寺)

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   5 網の浦と『万葉集』(「5 網の浦と『万葉集』」は太字)

  古代においては瀬戸内海が交通の中心であっただけに風待ちや潮待ち、暴風や突風、
 あるいは海賊を避けるために船旅の途中、沿岸の港に立ち寄った文人なども多かったに
 ちがいない。古くは「万葉集」巻第一の
   讃岐国安益(ルビ あや)郡に幸(ルビ いでま)しし時、軍王(ルビ いくさの
  おおきみ)の山を見て作る歌 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず
  村肝の 心を痛み 鵺子(ルビ ぬえこ)(#「鵺子」は旧字)島 うらなけ居れば
  玉襷(ルビ たまたすき) 懸けのよろしく 遠つ神 わご大君の 行幸の 山越す
  風の 独り居る わが衣手に 朝夕に 還(ルビ かへ)らひぬれば 大夫(ルビ 
  ますらお)と 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひ遺る たづきを知らに 網
  の浦の 海処女(ルビ あまおとめ)らが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下ごころ
   反歌
  山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹を懸けて偲ひつ
  ここでは反歌の大意のみを日本古典文学大系から引用すると、山越しに吹いて来る風
 が絶えないので(袖がいつもひるがえり)、家に帰ることばかり思われて、家にいる妻
 を毎晩心に浮かべて思い慕っている。
  この歌に詠まれている網の浦とは、いったいどこなのか。一応坂出市の海岸となって
 いる解説者がほとんどだが、宇多津町役場の付近に「網の浦」という地名が残っている。
 また、山越しの風とある山は、その近くの角山(津の山)をさしていると考えられる。
 しかし、高松市香西本町の愛染川畔の三和神社にある左の碑文から考えると、もっと東
 寄り、大槌、小槌の両島を中心とした槌ノ戸の海域に面した海岸という説にも根拠はあ
 る。


      (#写真が入る)瀬居島漁場碑(三和神社)
              
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   6 沙弥島と『万葉集』(「6 沙弥島と『万葉集』」は太字)

  瀬戸大橋の下を横切って沙弥島地区を過ぎて小坂を越えると坂出市立沙弥小・中学校、
 さらに坂出市海の家がある。駐車場の西から海岸沿いに沙弥万葉のみち遊歩道に通じる。
 まず大きな黒みかげ石に真新しい柿本人麿歌碑がある。そこを過ぎると山沿いに坂出市
 児童生徒の手づくり万葉植物見本園(植物園)が続く。その草木約五十種類。ナカンダ
 浜展望台を過ぎると白砂の美しい海岸が続き、北に向かって自然石に刻まれた「柿本人
 麿碑」が建っている。これは一九三六年(昭和一一年)に中河与一が建立したもので碑
 文は川田順の染筆である。
  『万葉集』巻第二の中の
  讃岐の狭岑島(ルビ さみねのしま)に、石の中に死(ルビ みまか)れる人を視て、
  柿本朝臣人麿の作る歌一首并に短歌
  玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月
  とともに 満(ルビ た)りゆかむ 神の御面と 継ぎて来る 中の水門ゆ 船浮け
  て わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(ルビ へ)
  見れば 白波さわく 鯨魚(ルビ いさな)取り 海を恐(ルビ かしこ)み 行く
  船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑の島の 荒磯面に 
  いほりて見れば 波の音(ルビ と)の 繁き浜べを 敷栲(ルビ しきたえ)(#
  「栲」は旧字)の 枕になして 荒床に 自伏(ルビ ころふ)す君が 家知らば 
  行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙(ルビ たまほこ)の 道だに知
  らず おぼぼしく 待ちか恋ふらむ 愛(ルビ は)しき妻らは(返歌略)
  柿本人麿が塩飽の島々を眺めながら「中の水門」すなわち丸亀市中津あたりから船旅
 を続けてくると急に時つ風にみまわれ沙弥島に上陸する。波打ち際の石の間に水死して
 いる男を見て慟哭し、弔意を表した歌である。

      (#写真が入る)①柿本人麿碑 ②「愛恋無限」碑 ③万葉植物園 ④人麿
              歌碑 ⑤海の家⑥市立沙弥小・中学校

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   7 中河与一の『愛恋無限』(「7 中河与一の『愛恋無限』」は太字)
 
  瀬戸大橋博の会場跡から陸続きになった坂出市沙弥町のわずかな人家を通り抜ける。
 潮騒の音が、ひときわ高く松籟の音と唱和するかのような初冬の夕方、中河与一の『愛
 恋無限』の文学碑を尋ねた。松林の中のギリシャ神殿風の碑のあたりだけが、かすかに
 明るい。
   彼等は寒い風の中で何時までも立ってゐた。やがて屋島の長い島影がみえ、船は高
   松に着いた。然し間もなく汽笛を鳴らすと再び動きだした。
   海の上の景色は限りもなく、変化し、それは奇蹟のやうに不思議な動きかたをした。
  無数の帆船が行く手に現れたかと思ふと、それはどういう関係か、何時の間にか消え
  てしまってゐたり、さうかと思ふと、空の一角に現れた虹が遠ざかってゆく船を包ん
  だりした。
   そして今は三角形に見える大槌や小槌のあたりが、輝くやうな夕陽の中で、何とも
  いへぬ美しいシルエットを作り出した。(中略)
   やがて小さい石油発動船は二人を乗せると、夕暮の波にのめりながら走り出した。
  船室にはうすべりが敷いてあった。時々波のしぶきが冷めたく、彼女達の座席にふき
  こんで来た。
   「長くかかるかしら」
   「いや、ぢきぢゃわな」
  船頭がこの辺の方言で答へた。
   「・・・・」
   「島どの辺な」
   「白い家がありますでせう」
   「ああ、あそこの別荘な」
   船頭は時々狭い甲板で、馬車屋のやうなラッパを吹きならした。
   白い光を出す三つ子島と、赤と青の光を交互に出す鍋島の燈台が時をおいて、淋し
  く夕波の上を渡って来た。と、間もなく白いバンガローが暗くなった松林の中に見え
  だした。
   死んだ夫のとても気に入ってゐた島の家。十年ほど前、彼女達をつれて来てくれた
  頃のことがまざまざと思ひだされた。
  中河与一の代表作の一つである長編小説『愛恋無限』の終章近く、没落した繁野智子
 の家に残された沙弥島の白い家に母親の兼子とともに移住する場面である。そして二人
 は毎日、島を散歩し寂しさをまぎらわす。やがて、

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 そこに落馬して重傷を負った騎手の志村典雄も訪れて「彼等の心にある切ないいたはり
 (「いたはり」に傍点)と感謝の心はボタンの穴にもつれるボタンのやうに、完全な心
 の一致で二人を一つにしてゐた。」という結末で、二人の愛の無限のあかしを余韻とし
 ている。
  中河与一は、一九三七年(昭和一二年)『愛恋無限』を上梓した翌年、この作品で第
 一回透谷記念文学賞を受賞した。さらに四一歳になった翌一九三八年『天の夕顔』を発
 表、当時は黙殺されたが、徐々にその評価と名声が国内外で高まった。
  一八九七年(明治三〇年)坂出町長ノ堤で坂出病院長の長男として生まれた与一は、
 五歳より母の郷里である岡山県で過ごし、小学校卒業後、丸亀中学校(現丸亀高校)へ
 入学、在学中に「香川新報」(現四国新聞)の懸賞小説に、中河哀秋のペンネームで一
 等に当選している。
  二二歳の一九一九年、早稲田大学予科文学部に入学。翌年、同じ坂出出身で紙問屋の
 娘で津田英学塾の学生であった林幹子と結婚した。一九二九年(昭和四年)、横光利一、
 池谷信三郎らと形式主義文学論を唱え、新感覚派の旗手となる。与一は、「愛の作家」
 といわれる。それは旺文社文庫「天の夕顔・失楽の庭」のあとがきで、与一自身が『こ
 れらの作品は、昨今流行の作品とは多少ちがっているかもしれない。それは「人生とは
 何か」「愛とは何か」「人間とは何か」「死とは何か」と、いうような問題に強い関心
 がもたれているからである』と述べられていることからも容易に首肯できる。
  平成三年、中河与一は九四歳の高齢。

      (#写真が入る)沙弥島全景(朝日新聞社提供)

   8 荒木暢夫を訪ねて(「8 荒木暢夫を訪ねて」は太字)

  毎年、県下のすぐれた歌人に与えられる荒木暢夫賞も平成四年で第二六回を数える。
 その荒木暢夫は、晩年の住まいであった坂出市林田町東梶で他界しているが、出生地に
 近い高松市の石清尾八幡神社に歌碑がある。拝殿の右側後方に、ひっそりと、その歌境
 がしのばれるような静寂さの中に建立されている。
  山の襞かける寒さとなりにけり、ひとごゑほしき夕靄のいろ        暢夫
  三メートルに近い自然石には、一九三九年(昭和一四年)「多麿」に発表されたこの
 作品が、作者の流麗な直筆のまま刻まれている。碑文の背面には次のような一文があり、
 荒木暢夫の歌人としてのおもかげをも髣髴させられるのでここに紹介しておく。
 「歌人荒木暢夫(本名・喬)は明治二十六年三月二十八日高松市に生まれ、昭和四十一
 年二月二十七日坂出にて世を去った。氏は北原白秋門下の長老にして 大正四年巡礼詩
 社に入社、その後短歌雑誌「香蘭」「多磨」などの選者となり 晩年には「形成」同人
 として活躍 又香川県歌人会名誉会長として後進の育成につとめ 珠玉の歌集「白塩集」
 を遺した 社会人としては林田塩産株式会社取締役社長となりて 郷土の塩業界に尽瘁
  秀れた功績を挙げた 茲に友人門人相集いて歌碑を建立し、永くその偉業を顕彰する
 ものである
   昭和四十二年五月                        木俣 修」
  木漏れ日が落ちかかるこの碑文は荒木暢夫を歌人として、また実業家としての業績を
 遺憾なく賞賛しているが、その歌からは寂寥感や孤独感が読みとれて妙である。

      (#写真が入る)荒木暢夫歌碑