六 高松周辺の文学


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   合葉やよひ
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年9月27日
      


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 六 高松周辺の文学(「六 高松周辺の文学」は太字)

  1 冠纓(ルビ かんえい)神社と和歌―友安三冬(ルビ ともやすみふゆ)―
    (「1 冠纓神社と和歌 友安三冬」は太字)
  冠纓神社は地元香南町由佐ではカムロサンと呼ばれている。ことに秋祭には二頭の大
 獅子がねり人気を集めている。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱である。こ
 の社の由来は社伝によると次のように伝えられている。つまり貞観三年に智證大師が讃
 岐の国を巡回された時に香東郡井ノ原荘の月見原の松林にやってきた時、毎夜不思議な
 燈火を認めた。大師はその火を尋ねるとそこに白髪の老人がいて「私は八幡大菩薩であ
 る。この土地に鎮まって井ノ原の氏子を護りたい。師よ我に力を貸してはくれまいか」
 と望んだ。このことによって大師は民に募ってこの地に祠を建てた。すると不思議にも
 東方より一條の白気が飛んできてその祠の中に入った。弟子の真蓮はその堂祠の傍に一
 宇の堂を建ててそれを祀った。これがこの社のはじまりであると伝えている。
  この年より後五〇〇年を経て細川頼之はこの神を信仰すること篤く自らの冠を献じた
 ところから冠纓神社の名前がつけられたという。その後、応安年中に由佐又六が

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 四月三日に農道具市を始めたという(現在四月二九日、春市)。現在の社殿は明治三七
 年の改築であるという。また細川頼之が石清水八幡の冠纓を乞うて勧請したとも伝えて
 おり、さらに四月三日は頼之の誕生日であるので春の市日に定めたとも伝えている。
  もと宝蔵寺が別当であったが、明治になって友安氏が神職となった。友安氏は初め佐
 料氏で香西氏の臣で佐料の城主の家であった。その祖先は佐料三郎盛邦といって高松の
 石清尾神社の祠官(ルビ しかん)であった。その子孫盛員は国学の素養がそなわって
 「讃岐大日記」という書を著わしている。また盛員は和歌もよくした。その子盛岡も国
 学に秀で和歌にも長じていた。
   春雨に桜の花の散ればこそ
         この下水に雪はながるれ
  は、その一つである。盛岡の子の盛方は友安三冬の父であって神職のかたわら医を業
 としていた。享保一七年に生まれ寛政一一年四月に没した。この人も和学を修め和歌に
 も長じていた。
   諸人の道のしるべとてふみひらく
        おきなの心ぞ神のみあらか
  三冬は天明八年一一月に生まれた。盛彬または彬といい、通称良介という。号は楢屋
 または竹渓といった。母は浅野村の社家二宮茂島の女で賢夫人であった。三冬は菊地高
 州に漢学を学び一三歳にして
   萬松山裏萬松下  十歳卜居臥白雲
   一瑟一琴吾意足  笑看人事日紛々
  と詠じた。後に国学を備中の藤井高尚に学んだ。文化

     (♯写真が入る)冠纓神社(香南町由佐)

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 一三年歌会の時、岡山から讃州に下って来た。三冬は高松藩主松平頼恕に召されて侍講
 となった。
  三冬の幼少の頃からの徳をたたえるとなると親孝行で倹約であったことが先ずあげら
 れる。草履は自分で作り、鼻緒が切れても決して捨てることはしなかった。また自分の
 学問修養にいたっては、隣に弓を習う者と夜おそくまで起きることにおいて競ったとい
 う。毎夜巻藁を射て練習する憐の友が夜おそくに及ぶと、三冬も一人燈火のもとで矢を
 射る音を聞きながら読書に励んだという。友もまた三冬の燈火の消えるまではと練習を
 やめようとしなかった。こうしてある時は夜を明かすことさえあったと伝えている。
  三冬は藩主に講義する時、汗が出ては失礼になるといって家に居る時は綿入れの着物
 を着て自ら訓練していた。またかつて藩主に随伴して江戸にのぼり、月を隅田川に観賞
 して夜にふけるのを忘れた。帰館すると、もはや門限を過ぎていた。藩主はそのわけを
 問うた。「月を観て何の得るところがあるか」。三冬良介はこの時自分の作った十首の
 歌を見せた。すべて秀作ばかりであった。藩主はこれを見て彼の罪をとがめることをし
 なかったという。また講義中に若殿が三冬の髷を引いたので扇で若殿を打ったこともあ
 った。また尊王の志深く東に足を向けて寝ることはしなかったという。
  門人に猪熊夏樹、松岡調、吉成好信らがおり、これらの門人は幕末から明治にかけて
 国学者としてこの讃岐で活躍した人物である。
  三冬の著書には歌集「楢屋集」があり、自編自筆で写本一冊、一面八行の罫紙六七丁。
 現存する三冬の遺詠は次のとおりである。

     (♯写真が入る)友安三冬

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  1、奈良能舎自筆詠草綴 2、楢の屋集下 3、楢屋翁和歌集 4、楢落葉雑部 5、 楢舎詩集(自筆本と他筆本)(♯「1、2、3、4、5」は丸数字)。詩集以外のもの
 は端本で削除、補入、改稿の跡がそのまま見られるもので現在冠櫻神社にある。
  「楢屋集」の歌
   霞むよの月の影にぞ桜花おぼろけならぬ色は見えけり
   もろこしの人に見せばや山桜この日の本の花の匂ひを
   泊瀬山をのへの花や法師も浮世忘れぬつまと成らん
   水島の枕の氷さけ解ていけのささ浪春やたつらん
   けふといへは松よりもまつ春野に曳るる物は心也けり
   ふりはへていさ見に行ん野へは今は鈴菜摘へく成にけらすや   (谷原博信)

  2 藤沢東〔ガイ〕(♯「ガイ」は文字番号21828)・南岳
      (「2 藤沢東〔ガイ〕・南岳」は太字)
  江戸末期に高松藩で活躍した儒者に藤沢東〔ガイ〕(ルビ とうがい)・南岳(ルビ 
 なんがく)父子がいる。東〔ガイ〕は、一七九四年(寛政六年)香川郡安原村(塩江町
 安原)の中村五名の農家、喜兵衛の子として生まれる。名は甫、字は元発、通称は昌蔵、
 号は東〔ガイ〕。幼少から学を志し、中山城山の門弟となる。一八二〇年(文政三年)
 長崎に遊学し、その後高松福田町で塾を開く。一八二四年(文政七年)大坂に出て泊園
 書院を開く。勤皇の志厚く独特の尊皇論『原聖志』を著している。
   抑ゝ(ルビ そもそも)本邦の風は、則ち神気の結ぶ所、人制を仮るに非ずして、
  皇統一系なり。夫子の志と符する者有れば、則ち奎運(ルビ けいうん)日に昌(ル
  ビ さかん)にして、鴻儒の輩出すること、殆ど唐宋に勝りて之に上たるも、亦た必
  ず遇然に非ざるなり。故に夫子の書を誦する者は、本邦の尊を知らざるべからず。本
  邦の尊を知る者は、豈夫子の道を講ぜざるべけんや。逖(ルビ とお)し西土、夫子
  の志の行はれざるより、一治一乱、興亡相易り、遂に胡腥(ルビ こせい)をして九
  服に遍からしめて、独り曲阜の廟のみ、祭るに巨典を以てし、聖系歴々として、封を
  襲ぎて絶えず、泰梁以来、実に百世なり。其れ愈ゝ(ルビ いよいよ)久しくして愈
  ゝ堅きこと、亦た猶ほ本邦皇統のごときなり。乃ち上帝夫子の周室に願ふ所を以て、
  反りて諸(ルビ これ)を孔子に賜ひて、以て夫子の志を顕はす無からんや。
  学派としては、朱子学が官学として主流を占めている情勢下で、古語の意義を帰納的
 に研究して古典の本質に迫ろうとする古文辞学派に属していた。他の著作としては、『
 思問録』、『泊園家言』等がある。一八五二年(嘉永五年)高松藩から名字帯刀を許さ
 れ中寄合となり、また大坂藩邸で藩士に講義も行っている。一八六四年(元

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 治元年)将軍家茂に京都二条城で引見、幕府儒員を命じられるが辞し、この年死去した。
  南岳は、東〔ガイ〕の長男として生まれ、名は恒太郎、略して恒、字は君成、号は南
 岳。父東〔ガイ〕の学統を受け継ぎ、古文辞学を修める。南岳が脚光を浴びるのは、一
 八六八年(慶応四年)正月である。この年正月三日、高松藩は鳥羽伏見の戦いで薩長に
 抗したとして朝敵と見なされ、八日に会津・桑名等の諸藩とともに追討令が出された。

     (♯写真が入る)藤沢南岳の碑(塩江中学校)

 十日には追討大将軍仁和寺宮が大坂に下り、高松藩蔵屋敷は薩摩兵に踏み込まれた。高
 松への官軍征討も近づく。南岳は、高松藩の危機を救うため官軍本営に薩摩人の参謀大
 山格之助を訪れ、高松藩の指揮者である小夫兵庫、小河又右衛門の二家老を切腹させる
 ことに和平降参を認めてもらう約束を取りつけた。決死の覚悟の南岳は、大坂から帰藩
 した松平左近の尽力により、籠城に固まっていた主戦派を説き伏せ、城下を戦火から守
 ることができた。この危機を救った南岳の功をたたえて、最後の藩主松平頼聡は「南岳」
 の号を与えたのであった。
  南岳は、この後高松藩講道館督学となり、香川発足後は大坂に帰り、父の泊園書院を
 再興し、子弟の教育に力を入れた。南岳は一九二〇年(大正九年)一月、七九歳で死去
 した。
  南岳の著作は多く『文章九格』『修身雑語』『弘道新説』等二〇数冊に及ぶ。また泊
 園書院の蔵書二万数千冊は、第四代藤沢黄坡(ルビ こうは)(章次郎)の死後、黄坡
 の義弟石浜純太郎(関大名誉教授)・長男藤沢桓(ルビ たけ)夫両氏により、一九五
 一年(昭和二六年)関西大学に寄贈された。同大学はこの文庫を基幹図書として同四月
 東洋文学科(のち中国文学科)及び東西学術研究所を開設した。同文庫の蔵書に

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 は四代院主の自筆稿本多数のほかに、著名な学者の未刊稿本の写本に貴重なものが少な
 くない。例えば、三宅尚斎撰『易学啓蒙筆記』三巻三冊、『同続々筆記』一巻一冊、太
 宰春台『周易反正』一二巻二冊、中山城山撰『孟子弁解不分巻』一冊、藤堂高文撰『元
 和先鋒録』三巻『余録』二巻二冊等総じて書目五七〇〇余種、著者三二〇〇人余にのぼ
 る。                               (藤本賢治)

  3 中山城山と『全讃史』(「3 中山城山と『全讃史』」は太字)
  「城山中山先生碑」によると、城山は名は鷹(ルビ よう)、字は伯鷹(ルビ はく
 よう)、通称は塵(ルビ おほか)、城山は号である。従一位中山准大臣孝親の第二子
 佐門教親が天正年間に来讃した。城山の高祖父のとき士服を脱ぎ農に帰し、その子四郎
 兵衛のとき、家産衰え医に転じ、玄庵と称した。その子玄柳も医と儒を修め、横井に来
 住した。玄柳の子が城山である。
  城山は、一七六三年(宝暦一三年)三月二四日、香川郡横井村に生まれた。少年時代
 三谷の藤川東園(荻生徂徠系の古文辞学派)に医と儒を学び、渡辺葆光に国学を学んだ。
  一七九九年(寛政一一年)三六歳のとき国老大久保氏の命を受けて家老夫人に毛詩と
 和歌を教えることになり、居を高松に移し、城山塾を開いた。久米栄左衛門も難解な文
 体の『武備志』を城山に教わるために、坂出から通っている。家老夫人の死に伴い、塾
 を子息鼇山(ルビ ごうざん)に譲り、大阪、京都、長崎に遊んだ。弟子は高松藩を中
 心に二三ケ国に及ぶ(中山寿氏蔵「門人帳」)。
  嗣子「鼇山は、城山よりまさっている」といわれ、十五歳で父の代講をつとめるほど
 の英才であった。二四歳のとき京都に招かれて泉涌寺で論語を講じ、醍醐寺では

     (♯写真が入る)中山城山陶像(香南小学校)

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 荘子を説き、理義かなって一糸乱れず人々の肺腑を衡くほどであったという。
  文化一二年(一八一五年)この鼇山(二七歳)を喪った。青井常太郎氏は『国訳全讃
 史』の「中山城山の傅」に次のように記している。
  時に城山は五十三であったが、甚しく悲観し、郷に帰って人事の事を絶って、専ら全
  讃史を著すことに没頭し、〔カサ〕(♯「カサ」は文字番号26530)を戴き〔ワラクツ〕
  (#文字番号なし)をはいて全讃を巡り、神社、仏閣、名蹟、城墟を訪ひ、是を問ひ、
  是を記し、積んで十二冊の書となった。「吾が国恩に報ずるもの之のみである」と云
  はれた。或る人が是を藩に上った。藩は是を賞し城山に世士斑を与へた。(『国訳全
  讃史』)
   城山の著書は、総数四七部、一二五冊に及ぶが、最も有名であり、唯一刊行された
 ものが『全讃史』である。本文は漢文で一八二八年(文政一一年)に完成、藩に献上さ
 れた。郡郷、駅路、人物志、古城志、名山川陂池、古家、名勝、産物、摘注となってい
 る。百年記念として青井常太郎氏によって、昭和十二年に国訳出版され、また平成三年
 に桑田明氏により「口訳全讃史」として刊行された。
  城山の遺した碑に次のものがある。
 ○相輪樔(ルビ そうりんとう) 志度町真川、「間川三十二勝」の不可識峯城山の友
 人であった竹林上人のために建てたものである。
 ○細川将軍戦跡碑 坂出市林田町三十六にある。細川頼之と戦って敗死した細川清氏の
 碑で、一八二三年(文政六年)に古戦場に建てた。
  一八三七年(天保八年)四月二三日、城山没。七五歳であった。香南町横井の中山家
 墓所に眠っている。
  城山を記念する碑、像は次のものが現存している。
 ○城山中山先生碑 遍照院(坂出市高屋町)境内に石碑がある。弟子藤沢東〔ガイ〕(
 ♯「ガイ」は文字番号21828)が建てたものである。「城山」の号は、坂出の城山から
 得ているという。若き日の城山はこの地を愛したので、その碑面は城山に向かって建っ
 ているのだという。
 ○城山陶像 香南小学校(香川郡香南町)に陶製の立像が建っている。一〇〇年祭の行
 われた昭和一二年に「城山文庫」設立と共に、当時の池西小学校に建立されたものであ
 るが、後に池西・由佐小学校が統合されて香南小学校となったのに伴い「城山文庫」と
 共にここへ移された。
  多くの書が「城山文庫」や子孫の中山家(綾南町畑田)に残っている。
                                  (森 孝宏)