底本の書名 香川の文学散歩
底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
底本の発行日 平成四年二月一日
入力者名 渡辺浩三
校正者名 合葉やよひ
入力に関する注記
文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
文字番号を付した。
登録日 2005年9月27日
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五 屋島山上の文学碑(「五 屋島山上の文学碑」は太字)
1 石森延男・教育文学碑(「1 石森延男・教育文学碑」は太字)
きみたちも 虫も歌って 月はるか 石森延男
碑は屋島山上の談古嶺にあるホテル甚五郎の玄関横に建っている。碑には俳句と文章
が刻まれている。
「ある明月の夜、教え子たちとこの山にのぼる」
「あれから四十年、思い出をこめて、ゆかりの人たち、この碑を建てる」一九六六
年(昭和四一年)、秋の建立である。
明月の夜、石森先生に屋島へ連れられていった生徒の一人、元高松市立築地小学校長
の小竹一郎氏は、その思
(♯写真が入る)石森延男・教育文学碑
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い出の記に、「級友たちは、一四、五歳の少年だったので、まだ観月の妙味がわかるほ
どの風流人はいなかったかも知れない。学校から屋島のふもとまで電車、それから山上
の会場までは、七曲がりくねった登山道を歩いた。折から東方、壇の浦の入江をへだて
た五剣山のすみきった空に満月が浮かんだ。美しく、清らかな月であった。その美しさ
は、今もなお、深く心に焼きついて忘れられない、と述べている。観月会では、自己紹
介をしたりして楽しく語りあった。その様子を石森先生は床の間にすわり、眼を細めて
眺めていた。」
教育文学碑は、玄関横に移されたが、もとはホテル中庭にあった。そこは先生が座っ
ていた位置だった。
石森延男は、東京高等師範学校卒業後、教育の道に進む一方、児童文学にも興味をも
ち、第一回未明文学賞など多くの賞を受賞した。 (藤本淳二)
2 エドモンド・ブランデン屋島の詩碑(「2 エドモンド・ブランデン屋島の詩碑」
は太字)
Like a long roof, men say, and well they say, this hill of warrior ghosts
surmounts the plain.God built it stands in writer's windy day. (以下略)
「まことに長い屋根のように強者らが霊鎮まる
この丘は平地の上にかむさる。
神の築くところ冬の勁風の中にがっしりと立つ。
緑の白銀の鎧に身を固めて遅い我々の足どりもより高い斜面を幾つか踏みためて 巨
松の下闇に白い梅が松明のかざす寺院の前にたどり着く(中略)やがて高い青空にか
かる幻の月に見守られつつ展望台に立てば 突然眼前に聞く新しい驚き髪髴の青海原
に無言の波が小皺を寄せ 飛ぶ雲が濃紫の斑点を落としている(後略)」 森崎 隆
訳
この詩碑は、ブランデンの教え子、元高松第一高等学校長、故岡崎隆氏の訳とともに
源平の古戦場を見下ろす屋島山上の談古嶺に建っている。
エドモンド・ブランデンは、こよなく日本を愛し、日本のために尽力してくれた外国
人作家として、第二の小泉八雲といわれた。
この詩は、一九四九年(昭和二四年)二月、高松を訪れた折、屋島に登った時のペン
書き、一八行の即興詩であるが、ブランデンは詩ではなく、屋島山頂からのスケッチだ、
と言ったという。
この詩碑は、五年後の一九五四年(昭和二九年)一一
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月、香川県英語教育研究会の手で建立された。現存するのは一九六九年(昭和四四年)
に当時の英語教育研究会長、川口勇氏によって再建され、原詩と並んで訳詩も銅板に彫
って入れられている。 (藤本淳二)
(♯写真が入る)E.ブランデンの詩碑