三 高松出身の作家


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年9月2日
      


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三 高松出身の作家たち(三 高松出身の作家たちは太字)

  1 寛少年の高松へ(1 寛少年の高松へは太字)
    郷里の風景      四西 菊池 寛
  紫雲山頭老松青々として天に聳え玉藻湾頭細波静に寄する高松の風光實に美なるかな。
  西人且て評すらく。瀬戸内海の風光天下に無しと。ああ我が高松は此の絶景を前に控
  へ然かも幽雅掬すべき玉藻城址あるあり。清麗賞すべき栗林公園あるあり。天下又斯
  の如き好風景の都市あらんや。
  一たび杖を曳いて旧城址を訪へ。老松森然として茂り濠水濁りて甍草生ひ茂り、そぞ
  ろに榮枯盛衰の理を教えん。
  又去って杖を公園に曳け。水清く幽趣あり雅致あり。鯉魚水中に躍れば美鳥花間に囀
  る。草木皆奇態を呈し、岳陵相連なり。一歩にして風光相轉じ。園内到る據として各
  々一風景を成さゞる所なく眞ら人をして徘徊去る能はざらしむ公園、美城址の幽は己
  に之を云へり。況んや東方一里にして屋嶋あり、朝暉夕陽に相轉じ、女木男木前方に
  横わりて、緑海波に映ずるをや。ああ天下又斯の如き好風景の都市あらんや。
  漢文訓読体を駆使して、文字通りの美文である。高松中学校(現、県立高松高等学校)
 四年西組の寛少年の作文である。寛少年が力瘤を入れてここに紹介している、玉藻城址
 ・・・・・築城したのは豊臣秀吉の家臣生駒親正だが、

     (♯写真が入る)菊池寛生家の跡

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 一六四二年(寛永一九年)に初代藩主松平頼重が移封し、以後版籍奉還まで二二八年間
 松平氏の居城であった。菊池家は代々藩儒として松平家に仕えていたし、また包子夫人
 の後年の回想記による、「私はよくからかわれました。それというのが″高松藩で自分
 の家は名簿にのっているが、お前の家は藩士は藩士でも名簿にのっていない″というの
 です。」という会話からも推して、寛にとってこの玉藻(高松城とも呼んでいる。)城
 址は感慨のある場所であったろう。作品『父帰る』の中でも主人公賢一郎の母が、家出
 して二〇年になる父(夫)の思い出として懐かしそうに「そうや、お父様は評判のええ
 男であったんや。お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌
 を添えて、送って来たと云う話があるんや。」という台辞があり、在りし日の玉藻城内
 の一場面が浮かんでくる。
  栗林公園・・・・・江戸初期の頃、この地の豪族佐藤道益の別邸であったが、その後
 生駒氏の別荘や庭園が作られ、松平頼重により、さらに壮大なものとなった。さらに五
 代目頼恭の時代に南庭が江戸城吹上御苑にならい、小掘遠州の手で造庭された。大正九
 年(一九二〇年)文部省発行の『高等小学読本』に「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞
 ユルハ水戸ノ偕楽園ト供ニ、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ之ヲ日本ノ三公園ト称
 ス、然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ッテ此ノ三公園に優レリ。」とあり、先の
 作文にも出てくる紫雲山を借景として、香東川の川敷を利用し、六つの池と十三の丘を
 調和させ、いたる所に奇石、名木を配し、回遊すると一景ごとに異なった趣を呈す妙は、
 寛少年の「草木皆奇態を呈し、岳陵相連り、一歩にして風光相轉じ」「天下屈指の公園」
 という紹介に違わぬ名園である。もっとも寛少年自身が「杖を公園に曳」き、「徘徊去
 る能は」なかったかどうかは、わからない。彼の中学時代を記す旧友の文章には、釣り
 を好み、百舌取りの名人で、勝負事を愛し、麻雀連盟の会長を勤め、将棋が強く、ピン
 ポンに熱中し、また教育会図書館(現、県立図書館)の閲覧券発行簿中第一号券所持者
 として蔵書二万余冊のうち「少しでも興味のあるものはみんな借りた」と後年寛自身が
 回想する程の図書館通いの姿は繰り返し描かれているが、栗林公園に足繁く通ったとい
 う記録にはお目にかからない。
  こういった有数の名所に限らず、寛の作品、とりわけ戯曲には香川県の地名がよく利
 用されている。例えば『屋上の狂人』では、「所 瀬戸内海の讃岐に属する島」

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 を舞台に設定し、狂人である主人公の義太郎を狐憑きとして青松葉で燻べるため、巫女
 が「我は当国象頭山に鎮座する金比羅大権現なるぞ。」と金比羅(琴平、金刀比羅、金
 毘羅とも表記。地元では親しみをこめ、こんぴらさんと呼ぶ。)神宮が利用されている。
 また『時勢は移る』では、やはり「所 四国の某藩、徳川家の親藩」という設定で、幕
 末から維新への時代の転回を描く。『義民甚兵衛』では、「所 讃岐国香川郡弦打村」
 を中心に百姓一揆の顛末を描き、端岡、香東川、御坊川、下笠居、芝山など耳慣れた地
 名がちりばめられている。
  これらの戯曲はそのほとんどが同人雑誌『新思潮』時代、つまり京都帝国大学英文科
 在籍中(大正五年)、または卒業後上京し、友人成瀬正一家に寄食中の頃(大正六年)
 に書かれたものである。(『父帰る』は「大正五年十月頃」と自身で回想)異郷で文学
 によって生きようと志す苦学生が懐郷の念とともに慣れ親しんだ地名を作品にちりばめ
 ることは十分に考えられる事である。寛の生活圏は高松中学卒業後、進学のため東京へ、
 その後京都に、さらに再び上京と移っている。寛の追憶の中の郷土、その中心は高松中
 学卒業まで、つまり一九〇八年(明治四一年)二〇歳までの高松といっていいだろう。
 そういえば、番東川、端岡、柴山、弦打(現在は「鶴市」の表記も併用)といった地名
 は、
   釣りが好きで学校から帰って来ると、靴のまま部屋にあがって釣り具を持ち出して
  いたから畳の上は砂でざらざらしていた。
   釣り場は香東川の河口近くだったが、校服を砂浜にぬぎすてて、へそが水に浸かる
  まで浅瀬を沖に出て釣るのだから、べろこ、きすご、こちなど沖釣りで釣れるような
  ものを釣っていたが、潮の干満など心得たものだった。
                         (太田 顕『菊池 寛の半生』)
 と紹介されているように中学時代熱中していた釣り場付近のものである。また『時勢は
 移る』の中の、内町、三番丁、七本松(現在は「八本松」だが幕末頃までは「七本松」
 と『高松城下図』にある。)などは寛の生家付近の城下町の一部の地名である。このよ
 うな一連の戯曲作品の中にちりばめられた郷土地名のほとんどは少年寛の生活の中で親
 しんだ地である。『父帰る』でもやはり少年時代の寛の生活圏が舞台として設定されて
 いる。
   私の家は、藩の文学の家である。が、私の叔父は若い時から家の学問はしないで、
  のらくらしていたらしい。しまいには、理髪を覚えて、私の家の一部を床屋

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  にして、営業をしていた。まもなく、兄である私の父と喧嘩をして家を出たのである。
  私が、一八九の時には、叔父が家出をしてから二十年経っていた。が、時々父と母と
  は、叔父のことを話していた。「もう年が年じゃけに、生きて居ったら、ハガキの一
  本位はよこす筈じゃ。」わたしの母は、そんなことをよく云っていた、(中略)
  少年時代の私の家は衣食にこそ困らなかったが、窮乏の度は可なり甚だしかった。私
  は写本をもっていたことが一度ある。私は写本を作るために、友人の本を借りていた
  処、その借りた本を紛失して蒼くなったことがある。私は、修学旅行に行けなくなっ
  て、父や母に当りちらしたことがある。父は、蒲団を被って寝たふりをしていたが、
  私があまりにしつこく不平を云ったので、「少しは公債があったのを、お前の兄が使
  うたので、余分のお金は一文もないんじゃ、恨むなら兄を恨め」と云ったことがある。
  (中略)
   御殿女中から箸箱に恋歌を添えて送られたと云うのは、それは私の叔母の夫のこと
  である。築港から身を投げたと云うことは、私の町に昔起こった悲惨事である。
   『父帰る』は、私の作品の中で、私の過去の生活が一番にじみ出ている作品である。
           (「『父帰る』」の事)大正一二年)
  同様のことを『半自叙伝』(昭和三年)でも回想しているが、「私の過去の生活」と
 は少年寛の高松での生活と限定してよいだろう。そしてそれは『父帰る』の舞台である。
  一八八八年(明治二一年)一二月二六日、香川県香川郡七番丁六番戸(現在は高松市
 天神前四番地33、第一法規出版社四国支社のビルとなっている。同社玄関前に「菊池
 寛生家の跡 不實心不成事不虚心不知事」と刻まれた石碑がある。(写真)また、この
 生家の面した通りを菊池寛通りと呼んでいる。)に父武脩、母カツの四男として生まれ
 た。先の引用にみられる様に、その窮乏した経済状態は、単に菊池家だけの苦境ではな
 く、当時の没落士族の状況であった。明治政府は幕藩体制下の武士階層を解消し、明治
 八年太政官布告、翌年の金禄公債証書発行条例等で秩禄処分を実施し(香川県では一一
 年後半に交付)、しかしそれらは短期間のうちに、士族の商法の失敗、当座の生活資金
 難などの事情から高利貸や銀

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 行へ流失していく。修学旅行の費用が払えない父の、寛少年へのお互いに辛い弁解「少
 しは公債があったのを」はリアルな時代の証言となり得る。
  作中の父の「公債や地所で、二、三万はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出
 したら、笹につけて振る如しじゃ。」という道楽ぶりや、「支那へ千金丹を売り出すと
 か云うて」という風は士族らしい豪放さがあり、また「俺の父親は八歳になるまで家を
 外に飲み歩いていたのだ。その揚句に不義理な借金をこさえて情婦を連れて出奔」とい
 う精神の荒廃は、士族というアイデンティティの喪失でもある。父とは没落士族の果て
 の姿である。
  「あなたは二〇年前に父としての権利を捨てている。今の私は自分で築きあげた私じ
 ゃ」とその父を否定する。賢一郎の主張は、個人主義的、合理主義的な正当性を持って
 いるが、弟の新二郎は、「肉親の子として、親がどうあろうとも養うていく・・・。」
 と父を迎え入れようとする。苦労は勿論しているが、父代わりの賢明な長兄、賢一郎の
 「一〇の時から県庁の給仕をし」「弟や妹にその苦しみをさせまいと思うて夜も寝ない
 で艱難した」程ではないので恨みも少ないのか、人情味のある発言をし得る立場である。
 あるいは、明治一二年の教育令や教学大旨、一九年の教育制度改正、二三年の教育勅語、
 三一年の民法制度などの一連の政策により推進された国家道徳、家父長思想という背景
 を示しているのかもしれない。妹おたねは、終始口数少なく、特に父を迎え入れるかど
 うか、という問題について積極的な表現はせず、「お兄さん!」と母親の後について訴
 えるのみである。明治の時代精神が、女性に求める道徳の具体的な姿であろう。
  このようなそれぞれの人物が簡潔巧妙に描き分けられ、緊張がしばらく続いた後に、
 賢一郎の「行ってお父様を呼び返してこい。」というドラマティックな転回、解決があ
 る。賢一郎の持つ個人主義的な主張とは矛盾しているが、人間の一般に持つ肉親に対す
 る捨て難い愛情が抑えきれず噴出し、感動が訪れる。ただ、同じ戯曲作品『時勢は移る』
 (父子は佐幕と討幕の異なる立場で、抜刀して争うほどの対立を見せ、「親子は親子、
 大義は大義と主義を貫こうとするのだが、父が襲われたという危機に「(憤然として立
 ち上がり)」「(一散に駆け出す)」そして現場に急行すると既に父は切り殺されてい
 た。)でも言い得るが、父子の論理的な対立を設定しておきながら、その論理を突き詰
 めず、人情、感情の次元で解決を

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 志向しているのは否めないであろう。
  高松市中央公園(城下町中央部を占めていたかつての巨刹、旧浄願寺の広大な跡地に
 つくられた。)にある石碑に刻まれている「おたあさん、今日浄願寺の椋の木で百舌が
 啼いとりましたよ。もう秋じゃ。」は『父帰る』の一節である。先に記した寛の生家は
 この浄願寺西の馬場の南にあたる。寛少年がもち竿を携えて今は無い境内で百舌狩りに
 夢中になっていたかもしれない。この中央公園には寛のブロンズ像も立っていて、毎年、
 彼の命日(三月六日)前後には彼の学んだ四番丁小学校の児童達がその像を磨きつつ偲
 ぶ。                               (沢田文男)

  2 村山籌子(ルビ かずこ)・村山知義(ルビ ともよし)(2 村山籌子・村山
     知義は太字)
  村山籌子(旧姓岡内)は、一九〇三年(明治三六年)父徳次郎、母寛(ルビ ゆたか)
 の長女(一〇人兄弟の二番目)として高松市南亀井町に生まれた。生家は岡内千金丹本
 舗で、籌子の祖父喜三(旧高松藩士)が創業し、千名余りの売り子によって全国的に知
 られた千金丹の製造販売を行っていた。家風は、後に籌子の夫となった知義が、
  彼女の家は、全然、宗教ッ気のない、サバサバとした家風であり、また暮しが豊かな
  こともあって、明けっぴろげで、朗らかである。『演劇的自叙伝』2(♯「2」はロ
  ーマ数字)
 と述べているようであり、さらに母寛は喜三の一人娘で、知義の同書には、
  豊麗な美人で、アメリカのワナメーカーに注文して洋服その他を取り寄せたり、町中
  を馬で乗り回したり、非常に進取な人だった。
 と回想されるような人である。当時としては極めて自由でのびのびした雰囲気の中で育
 った籌子は、直接は乳母の手によって養育される悲哀を味わうが、高松尋常高等小学校
 を経て、香川県立高松高等女学校(現、県立高松高等学校)に入学する。
  村山籌子研究の第一人者として知られる香川大学経済学部教授山崎怜(ルビ さとし)
 氏によると、この頃の籌子は水泳選手として、毎年女木島までの遠泳に参加して大活躍
 し、水任流(高松藩の流儀)の師範格として、子供達の指導に当っていたそうである。
  また一方で、婦人之友出版の「新少女」を愛読し、投稿する少女でもあり、女学校二
 年の時には、
  むらさきの山の姿も内海も
     霧にかくれて見えずなりけり
 の和歌が「新少女」に入賞し、後に読者投票によって少

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 女三六歌仙に選ばれるという一面も持っていた。
  一九二〇年(大正九年)に女学校を卒業。翌年春上京し、羽仁もと子が女子高等教育
 のために設立した自由学園高等科に第一期生として入学し、二年間ここで学ぶ。
 そして籌子は、前掲の知義の書に、
  彼女は非常にシッカリした自分を持った娘であった。それは時として強過ぎると思わ
  れるほどのものであった。(中略)のんびりと物に動じない所にも惹かれ、
 と言う女性に成長したのである。自由学園在学中より文才を認められていた彼女は、卒
 業と同時に「婦人の友」の記者となり、高村光太郎、佐藤春夫など著名文学者の訪問記
 を手がけ、高い評価を受ける。そしてこの頃「子供之友」「まなびの友」に多数の童画
 を描くために「婦人之友」に出入りしていた村山知義と運命的に出逢う。
  村山知義(一九〇一年《明治三四年》~一九七七年《昭和五二年》)は、東京出身で、
 開成中学、一高から東京帝国大学哲学科に入学するが、すぐ中退し、ドイツへ留学して
 絵画と舞踊に打ち込み、帰国後は前衛芸術団体「マヴォ」を組織し、その旗手と目され
 ていた人物である。後には左翼演劇活動にも関わり「前衛座」(一九二六年)「左翼劇
 場」(一九二八年)「プロレタリア劇場同盟」(一九二九年)結成に尽力し、数度の検
 挙、拘留をされている。また戦後は「東京芸術座」の結成(一九五九年)(昭和三四年)
 時から代表者として活躍、三〇〇余りの演劇の演出、一〇〇以上の舞台装置の設計と大
 きな成果を上げている。洋画家、小説家、劇作家としても知られている。
  籌子と知義は、一九二四年(大正一三年)羽仁夫婦の媒酌で結婚し、翌年四月には長
 男亜土(ルビ あど)が生まれている。結婚の少し前から童謡・童話の執筆に取り組み
 始めた籌子は「子供之友」に「三匹ノコグマ」シリーズなどを毎月連載するようになる。
 その挿絵は、知義が担当し、二人の共同作品は
  日本の幼年童話史上ひとつの特異に創造的で奇跡的ともいうべき清列なページを飾っ
  た(山崎氏)。
 との評価を受けるに至る。数多くの彼女の童話の特徴として、一つには、日頃子供がよ
 く接しているもの(例えば、じやがいも、にんじんなどの野菜やあひるや猫などの小動
 物、台所用品、自然現象など)を擬人化して、登場させることで幼児に親近感を抱かせ
 る工夫が見られること。二つには、決して教訓的ではないが、ユーモアをもち、飛躍し
 がちな子供の思考形式に充分対応しながら

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 「物心ともにみっともないことをしてはいけない」ことを自然に子供に伝えようとした
 ことである。
 籌子がその遺言で「宿命の人」と呼んだ知義との生活は決して平穏なものではなく、知
 義は一九三〇年(昭和五年)に治安維持法違反で検挙されたのを始めとして、延べ三回、
 四年五カ月間投獄されている。この間、籌子は結核に冒されながら知義やその仲間のプ
 ロレタリア文学者達(小林多喜二、蔵原惟人、中野重治等)への差し入れ、留守宅への
 激励に文字通り身をけずって没頭した。
  一九四五年(昭和二〇年)東京空襲にて焼け出された籌子は、鶴川へ疎開するが療養
 も充分にはできない状態であった。終戦後、亡命先の朝鮮から帰国した夫、知義ととも
 に鎌倉に転居し、治療に専念したが、翌年八月四日四三歳で死去した。
  籌子の墓は、本人の遺言により高松市の姥力池の墓地に
  われはここにうまれ
  ここにあそび
  ここにおよぎ
  ここにねむるなり
  波しづかなる瀬戸内海のほとりに
と刻まれて建立されている。                    (木村庸子)

  3 大薮春彦(3 大藪晴彦は太字)
 大薮春彦がこの香川県に身を寄せたのは、一九四六年(昭和二一年)、彼が一一歳のと
 きである。一九三五年(昭和一〇年)現在の韓国、京城(ソウル)に生まれた彼は、父
 の転勤のため各地を転々とした後、終戦を現在の北朝鮮の新義州で迎えた。終戦から香
 川県善通寺市の祖母の家にたどり着くまでの苛酷な引き揚げの状況は、エッセイ集『荒
 野からの銃火』に詳しい。
  終戦当時、生き別れになっていた父親は、家族より先に帰国しており、木田高等女学
 校(現、高松東高等学校)で教鞭をとっていた。そして彼も善通寺から木田郡へ転居し、
 一九五一年(昭和二六年)四月、県立木田高等学校(現、高松東高等学校)に入学した。
 ところが、敗戦時の引き揚げの無理がたたって、一度かかっていた脊椎カリエスがこの
 夏、再発し休学する。翌年四月、通学区制の改変のため、彼は高松第一高等学校へ転校
 した。そして一九五六年(昭和三一年)四月、早稲田大学教育学部英文科に入学するま
 での一一年間を彼はこの香川県で過ごしている。

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 大陸から引き揚げてきた彼ら一家(母親、三人の妹、計五人)は、祖母の住む善通寺に
 一時身を寄せた。彼らの粗末な身なりを見て、祖母は「誰かいな?」と尋ね、初めのう
 ちは孫たちであるとは気が付かなかったぐらいである。
  終戦を迎え、闇船を雇って三八度線を越え、釜山の難民キャンプにたどり着き、釜山
 から佐世保の港に到着するまでの一〇歳の少年の体験は、彼に国家権力への不信感や反
 感をうえつけ、その後の彼の作品に大きな影響を与えたようである。
  「自分以外に頼りになるのは、金と武器だけだ。金で買えないものに、ろくな物はな
  い。」(『野獣死すべし』)
  高校時代、彼は新聞部、演劇部に入る。新聞を通して革命を訴える。演劇に対して体
 からぶつかっていく。けんかもする。高校時代の彼は「体制への反抗」をいろんな形で
 実践してきた。そしてこの経験の中からこそ彼独自の世界が創りあげられたのである。
 一九五八年(昭和三三年)、大学在学中『野獣死すべし』でデビューする。彼の小説の
 主人公たちは単なる正義の味方ではない。暴力も殺人も平気で行う主人公たちである。
 彼はこう語っている。「国家の暴力に殺されるよりは、個人の暴力に血を流したはうが
 どれだけ人間らしいだろう。」大薮春彦は自分の自由を守るために戦い続ける。
                                 (阿部 智)

  4 西村寿行(4 西村寿行は太字)
  西村寿行は一九六九年(昭和四四年)、『犬鷲』でデビューした。老猟師に可愛がら
 れた猟犬が、老猟師を死に追いやった犬鷲を追い詰め復讐をとげる、という動物小説で
 ある。彼が本格的な推理作家として出発したのは一九七三年(昭和四八年)の『瀬戸内
 殺人海流』からである。舞台を瀬戸内海にとり、美しく平和に見える瀬戸内海に、人間
 の凶々しい欲望を描いた作品である。この中でも、女木島についての会話がある。
   「男木・女木って変な名の島ね」
   沙絵が海図を覗き込んで言った。
   「それだけじゃアない。今は町村合併で高松市じゃけんど、その前は二つあわせて
  雌雄島村字、何々じゃった。念が入っとって、なんだかエロッぽい島じゃわ」
   漁夫が口を挟んだ。
   「瀬戸が狭いから、大昔はつながっていたのかもしれん。それが割かれたので、原
  住民が悲しんでそんな

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  名前をつけたんじゃないかな」
   「原住民だなんて、叱られるわよ」
   沙絵の表情はしだいに明るくなっていた。
   「いや、原住民でけっこうじゃ。あの女木島の山頂にゃ巨大な洞窟があって、昔、
  鬼が住んどった。桃太郎発祥の島じゃ。男木島の山頂にもかなりの洞窟があ

     (♯写真が入る)西村望・寿行の出身地の女木島

  るわ。ここら辺り海賊の根拠地じゃったけん、やつらが掘ったのかも。なんでも讃岐
  本土の女をかっぱらっては連れ込んだそうな・・・・・」
  穏やかで美しく見える瀬戸内海が、人間の欲望に汚染されていく。彼は瀬戸内の海に、
 社会の縮図を描こうとしたのだろうか。              (阿部 智)

  5 西村 望(5 西村望は太字)

  西村望の作品を一言でいうと「犯罪ドキュメントノベル」ということになろう。様々
 な事件をとりあげ、その背景を探って小説化したものである。彼の小説の中に、人間の
 切ないはどの孤独とやるせなさを感じると共に彼の人間を見る目の暖かさも感じること
 ができる。
  一九二六年(大正一五年)生まれの彼は、一九七七年(昭和五二年)『鬼畜』で五〇
 歳を越えてデビューした。弟の寿行との会話の中で、生い立ちを次のように例えている。
   「まさに虫だよな。」
   弟もうなずく。
  たとえは適切かどうか知らないが、瀬戸内海の小さな島の、さして由緒もあるわけで
 はない小さな家にわ

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 れわれは生まれた。それをあえて比喩すれば小さな家の、縁の下で生を受けたしがない
 虫であるともいえる。生まれてはみたがなにをしていいかわからない。しかし、陽に当
 たるほうにだけは出ようと、明るいほうへ明るいほうへと必死になって這い出た。
   だれか助けてくれたというわけではない。
   兄と弟も助け合いはしていない。
   それぞれが、それぞれの運と力だけ頼りにようやく暗い縁の下を這い出たまでだが、
  それまでに弟のほうは四〇年かかり、兄のぼくは弟に遅れることさらに一〇年、五〇
  を過ぎてようやっと日の目を拝むことができた。(『虫の記』)
  彼らは高松港から沖合い四〇〇〇メートルの「鬼ケ島」と呼ばれている「女木島」に
 生まれた。                           (阿部 智)

  6 高城修三(6 高城修三は太字)
  高城修三(ルビ たきしゅうぞう)(本名・若狭雅信)は、一九四七年(昭和二二年)
 、香川郡円座村萩池(現、高松市円座町)に父虎雄、母トヨ子の長男として生まれる。
 円座村は、
  ルクスが生れたのは県庁所在地の都市に境を接している山沿いの村で、兼業農家が多
  かった。(『闇を抱いて戦士たちよ』)
 のような土地柄で、高城の家も二反ばかりの自給田を有しており、土に根ざした生き方
 への憧れは、彼の作品の一つのモチーフになっている。
  家庭の都合により、高松市多賀町に転居。香川大学附属高松中学校、県立高松高校に
 進む。自筆年譜によると、中学時代に授業の課題で短篇SFを書いたのを手始めとして
 高校時代には詩作に励み校内文芸誌に投稿もする。一方で、登山部に入って厳しい訓練
 に取り組み、北海道を一人旅するなど自立心旺盛であった。
  一九六六年(昭和四一年)京都大学文学部に入学。吉田寮に入り、次年には寮の執行
 委員長になり、二年後に始まった京大闘争に参加する。二年間の留年の後、京都大学を
 卒業するが、六年間の寮生活、特に学生運動との関わりとその挫折は、彼の作品のもう
 一つの大きなモチーフとして重要である。また一回生の秋には、同人誌「狼星」(一~
 五号)を創刊し、本格的に創作活動を始めている。
  京都の出版社勤務を経た後、自宅で中学生に数学・英語を教える学習塾音羽塾を開業
 し、執筆活動を続ける。一九七七年(昭和五二年)八月、前年執筆した「榧(ルビ か
 や)の木

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 祭り」が新潮新人賞を受賞。翌年、同作品は、宮本輝の「螢川」とともに、第七八回芥
 川賞(昭和五二年下半期)を受賞する。受賞者のことばで、
  この作品に着手するまで、榧の木なるものを(中略)実見したことはなかった。だか
  ら丹波の山深い里で初めて小暗い榧の杜に佇んだときの感動は大きかった。
 と述べているように、この作品は、山国の奥深い寒村で毎年秋に村中総出で参加して榧
 の杜で行なわれる榧の実の収穫=祭が、実は口減らしを意味していることが、今年初め
 て祭に参加を許された一九歳のガシンと言う少年の目を通して語られる極めて土俗的な
 ものである。受賞に際しては、銓衡委員の中にも賛否があったようであるが、どの委員
 も「新人にはめずらしく筆の乱れがなく」「知的腕力とでもいうものはたくまし」く、
 「幽明さだかならぬ世界を造り上げている」と讃辞を呈している。
  一九七九年(昭和五四年)三月、東山の分水嶺近くにある大津市比叡平の新興住宅地
 に転居、創作活動に専念する傍ら、自給自足を目指し休耕田を借りて野菜作りを始める。
 この顛末については『苦楽利(ルビ くらり)氏どうやら御満悦』(河出書房新社)に
 戯画化して描かれている。それ以後も地道な創作活動を続けられている。 (木村庸子)

  7 山田克郎(7 山田克郎は太字)
  「海の廃園」で第二二回(昭和二四年下半期)直木賞を受賞した山田克郎は、一九一
 〇年(明治四三年)父の勤務地である石川県金沢市で生まれた。本名は克朗。旧制中学
 三年のとき父の故郷、香川郡香西町(現、高松市香西南町)に帰り、高松中学校に転入
 学した。早稲田大学商学部に進み、一九三六年(昭和一一年)卒業。一九三七年(昭和
 一二年)、処女作「灯台視察船」を「オール読物」に発表、文筆の道に入る。一九四二
 年(昭和一七年)、第一創作集『帆装』を泰光堂から出した。海に取材した作品が多く
 海洋作家と称された。
  「海の廃園」も、第二一回直木賞の候補作「海は紅」も海の小説である。海の小説を
 書くようになったことについて、雑誌「ラメール」第9号(昭和五三年三月刊)の「な
 つかしの青春の港」で、中学時代に一度だけヨットを操って女木島へ行った体験を語り、
 「わたしは海が好きになった。後年、海の小説を多く書くようになったのも、この時の
 楽しさが意識の深層に沈澱していたせいかもしれない。ちょっとしたことが、人生の方
 向を定めることもあり得るのだ」と書いている。

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  同じ文章から高松港を回想した部分を引いておこう。
   昔は―小さい港内に二本の桟橋があるばかりであった。そのうちの一本が連絡船専
  用であり、もう一本は貨物用で、小型船が横づけになっていたり、小豆島通いの通船
  が発着したりしていた。春になると、小豆島へ向かう白衣のお遍路で、港は混んだが、
  ふだんはのんびりしたものであった。連絡船は五百トンばかりのもので、乗客も少な
  く、混むということはなかった。桟橋はわずかに水の上に乗っかっているだけという
  感じで、たえず濡れて揺れ動いており、それにピッタリ接舷している船も一緒にゆれ
  ていた。いかにも四国は離れ島であるという感を起こさせ、東京、大阪に比べれば、
  高松は田舎臭い町であった。
  その港での父との思い出も語られている。学生時代夏休みを終えて東京へ帰るとき、
 父はかならず港まで送ってくれ、突堤を回りきって姿が見えなくなるまで桟橋に立って
 いたという。「その父の姿は、いまも目に残っている。まるで自分の予知せぬ世界へ行
 ってしまう息子。それを見送る父。―だからわたしは、遠く過ぎ去った自分の青春を惜
 しむように、いまの港より、昔の港の方が、はるかになつかしいのである」
  山田克郎は直木賞受賞後本格的な創作活動を続け、一九八三年(昭和五八年)四月、
 七二歳で死去した。                       (神原俊雄)

  8 河西新太郎(8 河西新太郎は太字)
  新太郎は、『河西新太郎詩集』のあとがきに「心の底では、絢爛たる詩山の鉄壁を目
 ざしてツアラツーストラ的登頂を願い、山頂の詩火を奪うプロメテウスたらんとする衝
 動に駆られながらも、生来の反骨精神によるものか、高踏派的な道に親しめず、地をは
 う虫のごとく、地味に、民衆の生活の中に詩の花を咲かせようと努めてきた。詩の純粋
 性と、日常生活での次元とは、融合し難いものである。それにも拘わらず、″百万人の
 詩″をめざしてきたため、詩のエスプリさえ失った作品になっていることを、どんなに
 歯痒く思ってきたことか。」と記した。この「地をはう虫のごとく、地味」な詩作生活
 とは昭和二〇年の高松空襲直前に香川に疎開する家族への相談もなく、九州朝日新聞西
 部本社記者を突然退職し生活のめどもなく詩人として郷里高松へ舞い戻ってからの三〇
 年間をさしている。それは、二人の子供を持つ父として、讃岐に根をおろした全国同人
 詩誌『日本詩人』主宰

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 たらんとして、世に怒る独りの詩人として、三足のわらじを履く生活である。
  「年の瀬」に「・・・・・街の流れに立てば/油気もなきすすきの原のわが髪に/荒
 涼たる風は過ぎゆく」と歌われているのは高松市北部、丸亀町、片原町、兵庫町の結ば
 れる地の北に三越がある繁華街。新太郎の自宅から徒歩の距離のこのあたり一帯が詩の
 舞台であろうか。時代は変わってもこの時の新太郎が立ち尽くした街と思うと心が慰め
 られはしないか。
  ここより近く高松駅を左に見て海沿いに東へ歩くと県営桟橋横、玉藻の浦に面する朝
 日の素晴らしく美しい(嘉子夫人)小さな公園にでる。新太郎と夫人の好んだ散歩場所
 である。「小学校の時の俺のあだ名は日光だよ」と夫人に語った新太郎は実によく朝日
 を描いた。「世紀新たな 陽に映えて/朝雲匂う 屋島山(略)平和かがやく 波よせ
 て/鏡と澄める 玉藻浦」(高松高校校歌)「むらさき匂う 朝雲に/平和の光 照り
 映えて(略)玉藻の浦の さざ波に/心の珠を磨きつつ」(紫雲中学校校歌)など校歌
 に多く見られる。この公園付近の朝日であろうか。「とっても朝日と子供が好きな人で
 した」と夫人は微笑む。転じて南に向かえば、紫雲山の遊歩道を好む新太郎。頂上付近
 に古墳群をいただき北東に高松市街を一望するこの山には、公園のフィールドアスレチ
 ックなど、休みになると家族連れがにぎわう。新太郎は瀬戸の讃岐の己が詩魂を雲と昇
 らせ、日本の詩界に雨とそそいだ愛すべき詩人であった。
  また、旧制中学まで同級であった元社会党委員長の故成田知己氏を「孤高のみちを貫
 ぬいた/おおいなる友よ」(昭和五四年、告別式弔辞『孤高の人よ』)とよぶ新太郎は
 野に立つもう独りの孤高の人であった。

     (♯写真が入る)河西新太郎の書斎

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  詩人のご自宅前の細い道を通ってみるのも「香川の文学散歩」かも知れない。氏は平
 成二年九月八日に逝く。明治四五年生まれ。まだ七八歳であった。   (伊達一成)

  9 香西照雄(9 香西照雄は太字)
  香西照雄は、一九一七年(大正六年)木田郡庵治村に生れ、高松中学、姫路高校、東
 京大学国文科に学んだ。東大在学中に中村草田男と出会い、以後草田男を師と仰ぎ俳句
 の道に進む。大学では東大ホトトギス会の幹事も務め、作品も多く残している。卒業後、
 大阪で一時教員をしたが一九四二年(昭和一七年)応召、暗号手としてラバウルヘ行き
 四年間を送る。戦後、復員し、木田農業高校の教員となる。この頃の作品に「あせるま
 じ冬木を切れば芯の紅」という有名な句がある。同校に五年勤務した後、高松一高へ移
 る。昭和二一年に創刊された草田男の俳誌「萬緑」に「其角論」など多くの文章を載せ
 る。昭和三一年、氏三八歳の時、東京の成蹊高校へ転任、一家あげて東京に移り住む。
 「萬緑」同人となり同誌の編集を手伝う。昭和五八年、草田男死去にともない「萬禄」
 の選者となり中心的存在として活躍した。この間現代俳句協会賞受賞、句集には「対話」
 「素心」「壮心」などがあり、研究書には「人と俳品・中村草田男」「芭蕉と其角」な
 どがある。
  氏は、誠実かつ、倫理性豊かな人柄である。今ここにその一端を示すものとして、氏
 と高松一高で同僚であった萱原優先生の追悼文集「たなびし雲」によせた氏の一文を紹
 介する。
  おとなしい献身的な誠実な人の早逝に遇うたびに私はいつも思う。世の中には殺して
  やりたいような厚顔なボスやエゴイストも多いのに・・・・・と。神とは悪にも味方
  して悪を、はびこらすという意味では、不公平である。
  氏の俳句については、多く人が論じているので、その特色は、にわかには断じがたい
 が、草田男の影響もあり、家庭や家族を思うものが多いように思う。
  「吾子尿(ルビ ゆま)る庭の落花の浮むまで」「菜の窪にこおどる露も入学期」「
 冬灯透け子の耳赤し触れてぬくし」「吾子死にし青嶺ゆ光雲ひよこ雲」「野良着脱ぐ妻
 の下衣の春白妙」「かまわれぬ妻の方より使者めく蝶」
  一九八七年(昭和六二年)死去した。墓は、高松市前田東町の新川北岸(高松東高校
 南側)の小高い丘の上にある。                  (井川昌文)

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  10 十返 肇(10 十返肇は太字)
  十返肇の「文芸評論」は讃岐人らしい器用な「体当り的文壇ゴシップ的評論」で、菊
 池寛にも一脈通ずるものがあるのではないかと思う。
  私は学生時代に高松出身の十返肇が酒か煙草かを飲み過ぎて亡くなった―と言うよう
 な記事を新聞で読んだような気がするが、それは昭和三八年の八月二九日のことで、舌
 がんであった。四九歳という若さであったが、早熟であったというこの人士にしては、
 年よりはかなりふけていたような印象がある。
  そして、「十返肇」と入れ替わるように夫人の「十返千鶴子」が評論家として活動し
 始めたのも印象的であった。しかし、その時になってはじめて香川県(それも高松出身)
 にも文芸評論家がいたのか―と思ったものだ。(なにしろ高校を出たばかりで)郷土の
 作家としては「菊池寛」くらいしか知らなかった。
  しかし、風貌は全くちがうが、その行動には当時の「文壇」の中でどこか菊池寛とも
 似通うものがあるように思われてならない。高松の料亭の長男として生まれたというこ
 とであるが、ゴシップ通であり、また寛と同じく高松中学在学中から自らもエピソード
 を振りまいてゆく評論家であったようで、変わり身が速く、黒豹と言われた琴ケ濱の相
 撲や、大衆を楽しませた独特な解説者神風さん、策士・寝わざ師と言われた野球の三原
 や水原、あるいは中西のプレイや解説ぶりにも似通う評論であったように思う。しかも
 彼らは共に大衆性もあり、同時代者としての連携プレイもあったであろう。その連携性
 もまた十返肇のゴシップ的取材につながっていたのではないだろうか。
  高松には「へらこい」「がいな―」―という言葉があるが、この言葉には「現実的で
 はしっこく、機を見るに敏である」「強引である」―というような語感がある。これが
 そのままあてはまるのではないにしても、十返肇をはじめ、これらの人々にはその素質
 があるように、同じくさぬき人である私には思われる。
  通り過ぎて行った文人たちとはまたちがって、私はそれをもっとさかのぼって空海や
 源内などともつながる土着のサヌキ人の血の中から来る習性ではないかと思う。
(そういえば彼らはどこかタヌキにも似ている。先入観のせいだろうか)
                                 (冨川光雄)

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  11 香川 茂(11 香川茂は太字)
  児童文学者・香川茂は一九二〇年(大正九年)四月一四日、高松市中新町に生まれた。
 旧制高松中学校から日本大学芸術科に学んだが中退、香川県師範学校を卒業。終戦まで
 北支と満洲で軍隊生活を送る。戦後高松市の小・中学校で教鞭をとった。一九五一年(
 昭和二六年)上京、川越市立富士見中学校を振り出しに、一九七〇年(昭和四五年)埼
 玉県志木市立志木中学校校長となり、一九八〇年(昭和五五年)新座中学校校長を最後
 に退職。
  教職のかたわら執筆活動を続け、第二回文芸広場創作年度賞(文部省)を受賞。第五
 回読売短編小説賞に「夜の富士」、第八回毎日児童小説(毎日小学生新聞)などにも入
 選。一九六七年(昭和四二年)には『セトロの海』(東都書房)で第五回野間児童文芸
 賞、一九八〇年(昭和五五年)には『高空一万メートルのかなたで』(アリス館)で第
 二九回小学館文学賞を受賞するなど児童文学作家として活躍した。著書はこの他に『か
 えれ海の星』(国土社)、『南の浜にあつまれ』(東都書房)、『しゃちの子たろう』
(小学館)、『おれはシヤチだ』(金の星社)、『おれたちの夢』(ポプラ社)、『人魚
 とぼくの夏の話』(旺文社)など多数。
  海を舞台にした作品には、故郷の高松市周辺の海が描かれている。その一つ『南の浜
 にあつまれ』は、島の少年大吉と黄金の大鯛を軸に話が展開するが、高松市沖の男木島
 ・女木島と思われる梅島・竹島が舞台である。その一節を引いておこう。
   ここ、竹島のすぐ東、八丁ウズをはさんで梅島がある。梅島と竹島はきょうだい島
  で、村役場は梅島にある。梅島の頂上には燈台がある。まっ白な、おとぎの国のチャ
  ペルのような燈台だ。
   梅島のはるか東にカブト島があり、その北にナギナタ島がうかぴ、さらにタンザク
  島がかすみ、もうひとつうすく小豆島のかげ絵がうかぶ。淡路島は遠すぎて見えない。
   西には、水ぎわからてっペんまでみどり色の三角島がふたつ、まるできのこが顔を
  だしたように海からはえている。もちろんそのむこうのタル島をこえれば、海賊島で
  有名なシアク諸島が散在するはずだ。
  香川茂は児童文芸家協会常任理事を務め、日本文芸家協会会員。一九九一年(平成三
 年)五月一三日、埼玉県朝霞市の病院で死去、七一歳であった。    (神原俊雄)

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  12 咲村 観(12 咲村観は太字)
  咲村 観(本名、飯間清範)は一九三〇年(昭和五年)一月、高松市田村町中川原に
 生まれ、旧制高松中、海兵、高松中、六高を経て東京大学法学部を卒業。一九五三年
 (昭和二八年)住友倉庫に入社。一九七六年(昭和五一年)同社東京支店次長の時、肝
 臓を悪くして退社。その一年あまり後に書き下ろした長編企業小説「左遷」(筑摩書房)
 が中間管理職者の哀歓を描いて好評を博した。
  「左遷」は「東洋通運」の開発部次長兼開発課長の杉本啓介が主人公である。彼は、
 地上三〇階、地下四階建ての新本社ビルの担当となり、建設二社を使って予定の経費と
 四年の工期で完成をめざす。ところが突如として発生したオイルショックなどによって
 建設費は高騰し、建設業者からは法外な工事費の値増しを要求され、社内からは完成後
 に入るテナントヘの賃借料の増額によるテナント一〇〇%確保は絶望的と突きあげられ
 て板挟みとなる。自分の責任の遂行と会社の利益の確保が前提であり、いかなる理由で
 も会社に損失を与えた場合は相応の処分があるという宿命で一番弱い立場の中間管理職
 がその犠牲となり、彼は降格、青森支店へ左遷される。
  エピローグは「一八年間の会社生活のなかで築いた自分の夢は一枚の紙切れで吹き飛
 んでしまったのである。再びはいあがる道はどこにもない。あるのは、これからの一〇
 数年のあきらめの生涯だけである」と。二三年間の自己のサラリーマン生活から、その
 経験を生かして描く心理描写には卓越したものがある。また、「メインバンク」のあと
 がきには「・・・・・隠れた側面を明らかにし、経済社会におけるその役割を浮き彫り
 にさせるのも、企業作家の使命である・・・・・」と記されている。
  咲村観には、そうした企業小説(サラリーマンを中心として)が大半であるが、「上
 杉謙信(上・下)」や「小説・小林一三(上・下)」、「執権・北条時宗(上・下)」、
 「源頼朝(上・下)」のような伝記的小説もある。また「真説・雨月物語」は「春の夜
 は更けてゆく。朧なる月いまだ消えず、雨の気配を匂わせる虹の輪中天にかかり、おど
 ろ吹く風に心縮まりて、空しさのみぞ身に迫りくる。筆を手にしたまま、秋成は庭の風
 景に眼を据えた」と書き出し、まず原作者を活写している。「商戦」、「経営者失格」、
 「ライバル」など一一年間の作家生活における著作は約三〇冊。一九八八年(昭和六三
 年)四月、五八歳で急逝した。                    (松川 進)