二 漢詩文の世界


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡邊 浩三
    校正者名   合葉やよひ
    入力に関する注記
    ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
     文字番号を付した。
    ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて
     (#「□」は旧字)と表記した。
  登録日 2005年8月30日
      


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二 漢詩文の世界

 1 藩儒とその著作

 藩校「講道館」の盛衰
  県庁の南、香川大学教育学部付属高松小学校の校庭に「講道館新建大聖廟記碑」(ル
 ビ こうどうかんしんけんだいせいびょうきひ)が建っている。ここは藩校「講道館」
 の跡である。高松藩は宗藩水戸の学風を受け、代々の藩主は学問を奨励してきた。
  初代藩主頼重(ルビ よりしげ)は一六四二年(寛永一九年)林鵞峯(ルビ がほう)
 の高弟岡部拙斎(ルビ おかべせっさい)を秩禄四〇〇石で召し抱え顧問とし、儒教精
 神をもって藩政を行った。二代頼常(ルビ よりつね)は水戸光圀の長子で親に似て学
 問を愛し、片時も書籍を離さなかったといわれる。彼は林鵞峯の門人、七条宗貞(ルビ
 むねさだ)を師として、経書を学んだ。一六九五年(元禄八年)に菊池半隱(ルビ は
 んいん)を、一七〇二年(同一五年)に岡井氷室(ルビ おかいひょうしつ)をそれぞ
 れ三〇〇石で召し抱え、儒臣とした。そしてこの年、講堂(藩校)を中野天満宮の傍に
 建て、文学菊池半隱に命じて釈奠(ルビ せきてん)を行わせ、十河順安(ルビ そご
 うじゅんあん)・根本弥右衛門(ルビ ねもとやえもん)に経書を講じさせた。
  三代頼豊(ルビ よりとよ)の頃になると儒臣の多くは物故して、教師に乏しくなっ
 た。その上相続く天災に財政は逼迫し、講堂

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 の経営を一時中絶した。この頃、高松に中村〔テキ〕斎(ルビ てきさい)(#「テキ」
 は文字番号10803)の門人宮村経弼(ルビ けいひつ)がいた。学徳の誉高く、従学す
 る者が多かった。後に藩儒となった中村君山(ルビ くんざん)、菊池黄山(ルビ こ
 うざん)もこの門に学んだ。
 四代頼桓(ルビ よりたけ)は一七三七年(元文二年)に講堂を再興し、青葉士弘(ル
 ビ あおばしこう)、中村君山(ルビ くんざん)を招いて儒臣とし、月三度の講釈を
 命じた。この時は藩士から城下の町人に至るまで聴講し、相当な盛会であったという。
 後には岡 長州(ルビ おかちょうしゅう)、上田浚明(ルビ しゅんめい)、菊池黄
 山(ルビ こうざん)等にも経書を講じさせている。

      (#写真が入る)「新建大聖廟記」碑(付属高松小学校)

  五代頼恭(ルビ よりたか)は特に儒学を尊崇し、常に儒臣を召して経書を講じさせ
 た。夜も儒臣達を召して、『貞観政要(ルビ じょうがんせいよう)』を読ませたり、
 聖賢の言行、古今の名臣の善行等の話を聞くことを好んだ。この好学の名君のもとに、
 中村君山、岡井〔ケン〕州(ルビ けんしゅう)(#「ケン」は文字番号08365)、青葉
 士弘、菊池黄山、岡長州、後藤芝山(ルビ しざん)、深井興祖(ルビ こうそ)など
 錚々たる逸材が揃い、讃岐教学史上無比の盛況を呈した。六代頼真(ルビ よりざね)
 は藩財政が立ち直ったので、父(頼恭)の遺志を継承して一七七九年(安永八年)に中
 野天満宮の北側に従来の講堂に倍する藩校を建て、講道館と命名した。ここでは藩士に
 限らず町人や農民の師弟も無料で教育を受けることができた。九代頼恕(ルビ よりひ
 ろ)は一八三二年(天保三年)に講道館に聖廟を建設し小野篁作の孔子像を安置し釈奠
 (ルビ せきてん)を行った。その後時代とともに変遷し一八七一年(明治四年)の廃
 藩置県により藩校は廃止された。
  藩儒の中でまず第一に数えられるのは藩校「講道館」建設を企画し、初代の総裁とな
 った後藤芝山である。
  芝山は名を世鈞(ルビ せきん)といい、字を守中(ルビ しゅちゅう)といった。
 通称は弥兵衛で、芝山は号である。祖父の弥右衛門友房(ルビ ともふさ)は初代頼重
 に仕え、百石の禄を受けていたが、父の弥右衛門友貞(ルビ ともさだ)の時に禄を離
 れ、香西芝山の麗(#「麗」は底本のママ)で半農半漁の生活をしていた。芝山は幼少
 より学問好きで、守屋義門(ルビ ぎもん)に就いて暦・

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 天文を学んだ。次いで菊池黄山に師事した。この時、香西から高松まで風雪寒暑の中、
 一日たりとも休むことはなかったといわれる。このような芝山の英資好学が藩主に聞こ
 え一八歳の時、藩より学費を受けて江戸に游学した。昌平黌(ルビ しょうへいこう)
 に入り、林 榴岡(ルビ はやしりゅうこう)に従って学んだ。この時の芝山の才子ぶ
 りを先哲叢談には次のように記している。
  芝山、林公(ルビ りんこう)の家塾(ルビ かじゅく)に寓(ルビ ぐう)し、後、昌
  平学(ルビ しょうへいがく)に入り、読書怠らず。疑似錯簡(ルビ ぎじさっかん)
  にして、衆人の弁識する能はざる者に遇ふ毎に、直に数語を出せば、一坐之が為に解
  頤(ルビ かいい)す。故に未だ弱冠ならずして、才子の称、宿儒老輩の間に聞こえ
  ぬ。
  かくして江戸に遊ぶこと一六年、ひたすら勉学に励んだ芝山は三三歳で帰藩し、名君
 頼恭(ルビ よりたか)のもとで力量を発揮する。爾来、六〇歳で致仕(ルビ ちし)
 するまで、一日も務を廃することがなかった。一七八二年(天明二年)四月三日歿、享
 年六三。
  芝山は朱子学者であったが、この学派の学者によくありがちな道学者的なところはな
 く、博く学ぶことに心掛けた。そのために、国学への造詣も深く、『宮詞(ルビ きゅ
 うし)百首』や『職原鈔(ルビ しょくげんしょう)考証』などの著書も生まれた。こ
 のほか芝山には多くの著作があるが、芝山の名を有名にしたのは、いわゆる後藤点(ル
 ビ ごとうてん)を施した『四書五経』である。後藤点の特徴は従来の訓点が繁雑に過
 ぎるのを簡潔にしたところにある。またこの『五経』は従来の書になかった音注を標注
 (ルビ ひょうちゅう)として施し、読者に便宜を与えた。これがために先儒の訓点は
 影をひそめたといわれる。
  また『元明史略(ルビ げんみんしりゃく)』も看過することのできない著書の一つ
 である。この書は明の舒弘諤(ルビ じょこうがく)の『古今全史(ルビ ここんぜん
 し)』の元明二代が簡略に過ぎるので、これをもとに、『宋元通鑑(ルビ そうげんつ
 がん)』『綱鑑(ルビ こうがん)』『十九史略(ルビ しりゃく)』『明史紀事(ル
 ビ みんしきじ)』『明季遺聞(ルビ みんきいぶん)』『名山蔵(ルビ めいざんぞ
 う)』等の諸書を取って補訂し、曽先之(ルビ そうせんし)の『十八史略(ルビ し
 りゃく)』の続編たらしめんとしたものである。
  芝山の『元明史略』は三巻本で出版されたが、一八〇三年(享和三年)京都の山本清
 溪(ルビ せいけい)がこれを増補して四巻本とした。この書に清溪の師、岩垣龍渓(
 ルビ いわがきりゅうけい)が跋を寄せているが、その中で、
  高松の藩儒、芝山後藤氏、明の舒弘諤の『古今全史』に拠りて『元明史略』三巻を作
  る。事甚だ簡明にして、華夷(ルビ かい)の盛衰、歴々徴すべし。実に有益の書な
  るかな。
 と賛辞を呈している。この外、芝山には『和漢年鑑』『左伝古字寄字音釈』『日光御名
 代記』等の著があるが、紙幅の都合で割愛する。

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    菊池黄山
  黄山、名は武賢(ルビ ぶけん)。字は庭実(ルビ ていじつ)。初名元忠。のち祖
 父の称を継いで菊池八衛門と改めた。又、別に綾小路左大夫と称す。別号は〔スウ〕渓
 (ルビ すうけい)(#「スウ」は文字番号08209)、天山居士(ルビ てんざんこじ)、
 清河牧豎(ルビ せいかぼくじゅ)、藩候(ルビ ばんこう)山人等々枚挙に暇がない。
 幼少より学問を好み、七歳で書を僧通法(ルビ つうほう)に学んだ。一二歳で牛を春
 日川で放牧し、夜は長兄増田休意(ルビ きゅうい)に従って論語・孝経を学んだ。一
 五歳で宮村経弼に入門。傍ら医術も姉の夫の真部義端に学んだ。その後京師に行き、医
 術と儒学を学んだ。一七五一年(宝暦元年)召されて講道館の儒員となった。一七七六
 年(安永五年)三月歿す。享年八〇。
  菊池五山はその著『五山堂詩話』で自分の家系を、始祖元春先生、高祖耕斎先生、曽
 祖半隱先生、王父〔スウ〕渓(ルビ おうふすうけい)(#「スウ」は文字番号08209)
 先生、先考室山(ルビ せんこうしつざん)先生と説明し、あたかも黄山が、半隱の子
 であるかのごとく記している。しかし、黄山が自ら記した『翁嫗夜話(ルビ おううや
 わ)』自叙伝には『元春の妾腹である菊池武信(ルビ たけのぶ)』が讃岐に流れ来て、
 菊池の姓を名乗らなかった。その子の正宅(ルビ まさたく)が母方の姓の増田を名乗り、
 その子の雅宅(ルビ まさたく)(黄山の兄、増田休意)もこれに倣った。自分は祖父
 の称を継いで菊池八衛門と名乗った』と記している。半隱の家系とは同宗ではあるが、
 五山の言うところと相違している。五山がなぜこのような記述をしたのかは、今後の研
 究を俟たなければならない。
  では『翁嫗夜話』とはどのような書なのかをみてみよう。これは菊池武信、増田正宅、
 増田雅宅の父子孫三代にわたって調査研究した『三代物語』を菊池黄山が整理校訂をし
 て一五巻にまとめ、中野天満宮へ寄進した。時の藩主松平頼恭はこれに『讃州府志(ル
 ビ さんしゅうふし)』の名を与えた。
  その内容は歴史的には忌部(ルビ いんべ)氏の昔より近世の街談巷説(ルビ がい
 だんこうせつ)に至るまで地理的には東は大内郡より肇(ルビ はじ)めて西は豊田郡
 に至る一三郡の一郷一邑の大は山川城邑(ルビ じょうゆう)戦場名蹟神祠寺観(ルビ
 じかん)等、小は草木魚虫薬石物産に至るまでこと細かに記している。讃岐の地理歴史
 書としては第一級の価値を持つ。
  『翁嫗(ルビ おうう)夜話』の名は、増田雅宅の叙に
  西河(ルビ せいか)の憂(ルビ うれい)に遭い、復た家事を幹理(ルビ かんり)
  し、初めのごとく諸弧(ルビ しょこ)を襁褓(ルビ きょうほう)の中に撫育(ル
  ビ ぶいく)す。毎夜、其の将に睡らんとするや、慰諭(ルビ いゆ)するに邦内の
  往昔の事を以ってす。以って翁と嫗と有りて翁樵蘇(ルビ おうしょうそ)、嫗洗濯
  (ルビ うせんたく)の説に代う。
 と説いている。つまり、「桃太郎の話」の代りに讃岐の地歴を語ったことに由来してい
 る。また、一名『聾〔カイ〕筆談(ルビ ろうかいひつだん)』(#「カイ」は文字番
 号29175)というのは聾者の隣人に筆談したことに因んだものである。

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   菊池五山
 五山、名は桐孫(ルビ とうそん)。字は無絃(ルビ むげん)。通称は左大夫(ルビ
 さだゆう)、娯庵(ルビ ごあん)と称し、また五山堂(ルビ ござんどう)という。
 五山の由来は『五山堂詩話』に
  余貧にして書を貯ふること能はず。偶々購(ルビ あがな)ひ得ること有れども、早
  己(ルビ そうい)に羽化して去る。篋中(ルビ きょうちゅう)に留集(ルビ り
  ゅうしゅう)五部有り、一は白香山(ルビ はくこうざん)、一は李義山(ルビ り
  ぎざん)、一は王半山(ルビ おうはんざん)、一は曽茶山(ルビ そうちゃざん)、
  一は元遺山(ルビ げんいざん)、此の外(ルビ ほか)有ること無し、因りて五山
  を以って堂に名づく。
 と説明している。巷間五山の号は五剣山に因るとする説の誤りはこれによって明白であ
 る。
  五山は若年にして高松を出て京都に上った。当時、京都には柴野栗山(ルビ しばの
 りつざん)がいた。五山は栗山に従って各地の詩会に赴いた。後、江戸に出て市河寛斎
 (ルビ いちかわかんさい)の江湖社(ルビ こうこしゃ)に参加し、頭角をあらわし
 た。その筆名を高めたものが「深川竹枝(ルビ ちくし)三十首」である。これは寛斉
(#「斉」は底本のママ)の「北里歌三十首」、柏木如亭(ルビ じょてい)の「吉原三
 十首」に倣ったものである。竹枝詞(ルビ ちくしし)は江湖社の詩人によって多く作
 られた。竹枝詞とは唐の劉禹錫(ルビ りゅううしゃく)が朗州(ルビ ろうしゅう)
 に謫(ルビ たく)せられた時に屈原(ルビ くつげん)の「九歌(ルビ きゅうか)」
 になぞられ(#「れ」は底本のママ)て作った竹枝詞九首に始まるといわれている。そ
 の内容は土地の風俗や男女の情事を七絶の形式で連作したものである。一例を挙げれば
  月は落つ江頭半夜(ルビ こうとうはんや)の潮、船家艇(ルビ てい)を艤(ルビ
  ぎ)して帰橈(ルビ きじょう)を候(ルビ ま)つ。女奴酔人(ルビ じょどすい
  じん)を扶け得て上り、先ず毬灯(ルビ きゅうとう)を点して桟橋を照らす。
  更に五山の名を不動のものとしたのは、一八〇七年(文化四年)に第一巻を上梓した
 『五山堂詩話』である。これは袁枚(ルビ えんばい)の『随園詩話』に倣ったもので
 ある。詩論は少ないが、全国の藩主から武士、商人まで広い階層にわたって採録してお
 り、この詩話によってのみ作品の伝えられるものも少なくない。文化文政期の漢詩を知
 る貴重な資料である。
  五山は最初、温庭〔イン〕(ルビ おんていいん)(#「イン」は文字番号26032)や
 李商隱などの婉麗な詩風に倣っていたが、三〇歳頃から韓愈や蘇東坡に学び更には楊万
 里の詩集を読み、詩風に変化をきたした。その間の事情を『五山堂詩話』には
  余十年以前、詩を作るに口を開けば便ち婉麗に落ち絶えて硬語を作すこと能はず。嘗
  つて「昼簾半ば捲きて西廂を読む」の句有り。人の誦する所と為る。岡伯和譏(ルビ
  おかはくかき)して女郎の詩と為す。爾後其の幣を矯めんと欲す。韓蘇に枕藉(ルビ
  ちんしゃ)し方且(ルビ まさに)有年ならんとす。始めて〔カ〕臼(ルビ かきゅ
  う)(#「カ」は文字番号25556)を脱するを得たり。余の今日有るは実に伯和の激
  に因るなり、
 と述べている。当時五山の詩、文晁の絵、米庵(ルビ べいあん)の書は三

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 絶と称されたが、太田南畝は「詩は五山画は文晁に書は三亥(ルビ さんがい)芸者お
 かつに料理八百ぜん」の狂歌を詠んだが、さしずめ五絶というところであろうか。
  このように見てくると五山は詩の方面に才能を発揮して儒者の本分たる経史の方面に
 は力量を示さなかったかの感があるが、五山はこの方面でも抜群の力量を持っていた。
 牧野藻洲(ルビ そうしゅう)の五山伝に
  五山の人と為り聡慧(ルビ そうけい)、書を読み章句に屑(ルビ いさぎよしと)
  せずして大体に通ず。其の栗山に従う時、大学の頭林信敬庸闇にして事に任えず。幕
  府栗山に命じて経史を講授為さしむ。栗山疾病事故あれば輒(ルビ すなわ)ち五山
  をして代授せしむ。林門の老儒宿学心甚だ平らかならず。屡々疑義を以って之を難ず。
  五山論弁自若として少しも撓を為さず。栗山之を聞き、咲いて日く、孺子果して我に
  負かざるなり
 とある。筆者の牧野藻洲は高松藩に仕え五山と同僚であった牧野黙庵の孫であるから、
 この話はかなりの信憑性があるものと思われる。
    菊池半隱
  五山が許されて家を継いだ菊池半隱(ルビ はんいん)も閑却できない藩儒の一人で
 ある。半隱、諱(ルビ いみな)は武雅(ルビ たけまさ)、字は子師、通称は舎人。
 林鵞峯(ルビ がほう)に学び昌平黌の学頭を務めた。一六九五年(元禄八年)に二代
 藩主松平頼常に三〇〇石で召し抱えられた。『翁嫗夜話』に
  是の歳(一七〇二年)講堂を中の村菅廟(ルビ かんびょう)の南偏に経始(ルビ 
  けいし)し、文学菊池舎人武雅(ルビ しゃじんたけまさ)(半隱)に命じて釈菜(
  ルビ せきさい)せしむ。
  其の後、十河順安、根本久武(ルビ ひさたけ)をして経を講じ業を授けしむ。
 とあり、藩学の中心的存在であった。
  半隱は一七一四年(正徳四年)に松平頼豊に「艱厥篇(ルビ かんけつへん)」と名
 づけた一文を奉り、君徳の養成を説いている。一語一語が当を得ており、誠意言外に溢
 れ、半隱の人柄に自ずから尊敬させられる名文である。
    梶原藍渠
  藍渠は名は景惇といい、字は復初(ルビ ふくしょ)という。通称は三平。後に九郎
 右衛門と改称した。最初、松州主静庵(ルビ しょうしゅうしゅせいあん)と号したが、
 後に藍渠、また三痴(ルビ さんち)学人と号した。本町の豪商(屋号「〔カイ〕屋」)
 (#「カイ」は文字番号15679)に生まれ、幼少より学を好んだ。性頴敏、博聞強識に
 して、和漢の学に通じ、詩文書画また茶事をよくした風流人であった。中年より、発憤
 して、帝王編年史『歴朝要紀』を私撰して、一八三二年(天保三年)藩主松平頼恕(ル
 ビ よりひろ)に献じた。頼恕はこれを嘉(ルビ よみ)して、藍渠を士分に取り立て
 た。さらに五代藩主頼恭の修史事業の遺志

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 を受け継いで国史編纂の志を抱いていた頼恕は、城中西の丸に「考信閣(ルビ こうし
 んかく)」を設けて、藍渠、藍水(ルビ らんすい)父子、友部方昇(ルビ ともべほ
 うしょう)、源春野等に命じて、藍渠の私稿をもとに校讐の任に当らせた。一八三九年
 (天保一〇年)「後醍醐天皇紀」(二三巻)を完成させて、光格上皇、仁孝天皇及び幕
 府へ献上した。
  藍渠はまた修史事業の傍ら『讃岐国名勝図会』の編著を企てていたが、完成を見るこ
 となく、一八三四年(天保五年)七三歳で世を去った。この書はその名の示すとおり、
 讃岐の名勝、神社、仏閣を絵入りの読み物として紹介しようとしたものである。この仕
 事は子の藍水によって受け継がれ、一八五四年(嘉永七年)に「東讃之部」五巻は刊行
 されたが、「中・西讃之部」は上梓されずに終ったことが惜しまれる。
    菊池高洲
  諱(ルビいみな)は武矩(ルビ たけのり)。字は周夫(ルビ しゅうふ)。俗称助
 三郎。高洲は其の号である。香川郡由佐村の人。先祖は由佐氏、本姓は加藤氏。のち高
 松藩士菊池除風(ルビ じょふう)の養嗣子となる。始め菊池黄山に学ぶ。性穎悟にし
 て常に聖人の書を読誦した。のちに京都に遊び、斎宮静斎(ルビ いつきみやせいさい)
 から古文辞(ルビ こぶんじ)学を学んだ。晩年国学を修め、画もよくした。その著は
 多く、『史記文訣(ルビ しきぶんけつ)』巻之一、巻之二、『韓退之送何堅序文論一
 巻』『堀川夜戦文論二巻』『諸経管見十巻』『讃州孝子伝二十巻』『筑紫苞二巻』『高
 洲文集十巻』『〔ケイ〕肋(ルビ けいろく)(#「ケイ」は文字番号42124)三巻』
 『高洲雑記十巻』『阿州祖谷紀行一巻』がある。
  『史記文訣』は史記の伯夷列伝の文章について古文辞学派の立場から分析し、文法を
 詳解したものである。
  『阿州祖谷紀行一巻』は高洲外三名の者が一七九三年(寛政五年)四月二五日に由佐
 村を出発して祖谷に行った往復八日間の見聞や祖谷の人々との交流の模様を国文で草し
 た紀行文である。                         (森本義人)

   2 漢詩集の流行

    岡部拙齋
  一六四二年(寛永一九年)常陸下館から高松へ国替えになった松平頼重は、学問を重
 んじ水戸藩から岡部拙齋を招き、漢学興隆の基を築いた。拙齋は徳川幕府の儒者林鵞峯
 (ルビ がほう)の高弟であり、高松藩入部とともに一六四三年(寛永二〇年)に禄四
 〇〇名(#「名」は底本のママ)を賜わった。頼重は、この年さっそく拙齋に命じ、屋
 島檀ノ浦の合戦で主君源義経の身代りとなった佐藤継信の碑文と銘を書かせ、武士たる
 者の理想を顕彰させている。

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  拙齋には『拙齋詩集』(上下二巻 明暦四年版)がある。この詩集は、一六一九年(
 元和五年)藤原惺窩(ルビ せいか)の死を悼む二首から始まり、一六五五年(明暦元
 年)元旦試毫の七絶一首にいたるまで三七年間の詩を年代順に収めている。
  この詩集により拙齋の経歴を知ることができる。拙齋は播州網千(#「千」は底本の
 ママ)奥浜村の人岡部宗清の子であるが、京都に出て惺窩の門人菅玄洞に学び、その間
 に惺窩にも林羅山にも教えを受けている。

      (#写真が入る)佐藤継信の墓碑(屋島東町)

 師の玄洞は、一六二八年(寛永五年)四八歳で不慮の死を遂げた。拙齋は翌年一月、北
 山の正伝寺にある師の墓に詣で祭文を捧げている。その頃、摂津国三田の松平重直(三
 万石、能見松平氏)に仕えていたようである。一六三二年(寛文九年)三田の車橋に暑
 を避けた詩がある。
  拙齋は、一六四〇年(寛永一七年)春、故郷に帰り、「故郷の春」七律一首を作って
 いる。その時、羅山門人で水戸の徳川頼房(水戸黄門)の儒官である人見卜幽軒から手
 紙があり、林家の推薦により、頼房に召されることが決まった。以上が上巻の詩より窺
 い知ることができる。下巻は、主として頼重に従って高松へ来てからの詩によって構成
 されており、最後に一六四九年(正保三年)八月一〇日頼重が拙齋宅に臨まれ、種々の
 下賜の光栄に浴したこと。一六四八年(慶安元年)九月、頼房からわが病気見舞の使者
 を遣わされたこと、同年一二月には一五歳になった子息将監に〔ハン〕宮(#「ハン」
 は文字番号17323)(昌平校らしい)に入るの暇を与えられたことを述べて終わってい
 る。以上の詩の間に、藩士深見弥兵衛家の馬術伝書の跋文・屋島佐藤継信碑銘・能仁寺
 記・真行寺鐘銘并序・松平可正和歌集序等が散見される。一六五一年(慶安四年)には、

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「讃陽亀山堂八景」の詩があり、彼の代表的作品である。
   讃陽亀山堂の八景 太守即座に倭歌を詠ず。予、命に応じて即ち之を賦す。
    亀山の晴嵐
  颯々(ルビ さつさつ)たる風声嵐気晴る 前峯後嶺一時に清し 誰か絶頂に攀(ル
  ビ よじり)て暘谷(ルビ ようこく)を仰ぐ 效(ルビ なら)ひ得たり長生日精
  を嚥(ルビ の)むことを
    屋島の秋月
  落木蕭々たり矢島の秋 山光水色吟眸を澄す 源平矛盾して英雄尽く 月影空しく一
  釣舟随ふ
    香西の落雁
  天高く煙澹(ルビ たん)として水冷々たり 雁字幾行か北溟を過ぐ 渠(ルビ か
  れ)も亦た官河の悪きを嫌ふや否や 禁苑に飛ばずして寒汀に落つ
    北海の帰帆
  西泊東漂一釣(ルビ ちょう)船 煙簑(ルビ さ)雨笠(ルビ りゅう)幾多の年
  ぞ 児童喜び見る 帰檣(ルビ しょう)の影 先ず阿孃に報じて酒銭を問ふ
    西浜の晩鐘
  寺は城西津樹の間に在り 亀山此従(ルビ これよ)り躋(ルビ のぼ)り攀(ルビ
  よ)づべし 鐘声殷々として帰り来ること晩し 隠見ず備頭播尾の山
    男木島の夕照
  嶼(ルビ しま)男木と名づく海城の前 古より漁郎釣船を駕す 罩を挙げ魚を篭に
  し来りて洒に換ふ 河童迎へ立つ夕陽の辺
    姥が池の夜雨
  誰が家の阿姥(ルビ あぼ)か未だ名を知らず 神池を疏鑿(ルビ そさく)して放
  生を擬す 魚は泳游に在りて楽しむと云ふべし 夜来り増水雨声清し
  拙斎(#「斎」は底本のママ)は一六五五年(明暦元年)に死去した。
    青葉士弘
  青葉士弘(一七〇三~一七七二)は、高松藩四代頼桓(ルビ よりたけ)、五代頼恭
 (ルビ よりたか)に仕えた儒者である。その業績としては、頼桓の命によって高松藩
 の講堂を再興したことが先ずあげられる。講堂は、二代頼常の一七〇三年(元禄一五年)
 に全国的に見て早く創設された藩校であったが、享保(一七一六~一七三五)半ば中絶
 した。その後頼桓が、湯島聖堂で四年間の修学を終え、自宅研修中の士弘に講堂惣支配
 を命じ、岡長祐・上田浚明・菊池武賢らにも経書を講じさせた。これは次の頼恭の代に
 引き継がれることになる。
  また、頼恭は作詩を得意としたこともあって、着任早々

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 城下に詩を善くする者を一堂に会して「江楼納涼」の題を与えて会を催す等群臣を集め
 ての詩会が多く行われた。士弘は頼恭の催す詩会には必ず召されており、高松在住の儒
 臣として最上席に奉仕していた。作品として著名なものに『栗林園二十有詠應教』があ
 る。これは頼恭が一七四五年(延享二年)に栗林荘を松平家の別荘庭園として修築を施
 し完成した際に、儒臣中村文輔に『栗林荘記』を作らせるとともに多くの侍臣たちに詩
 を作らせた。その時の作品である。
    修竹岡
  修竹長岡を被(ルビ おお)ひ 濃陰碧流に映ず 高人来って嘯咏(ルビ しょうえ
 い)す 應に此の君の為に留るべし
    芙蓉沼
  時に芙蓉沼を過ぐれば 芙蓉一様に開く 斜陽短棹(ルビ たんとう)の外 紅袖花
  に入って来る
    戞玉(ルビ かつぎょく)亭
  戞玉亭中の景 鳴泉戞玉流る 一觴復た一詠 以て春愁を洗ふべし
    西湖
  青春佳興(ルビ かきょう)を携へ 小艇花林を過ぐ 昨夜連山の雨 今朝湖水探し
    栖霞(ルビ せいか)亭
  此の亭中の幽なるを愛す 綵(ルビ すい)霞日に映じて開く 新花復た新緑 時に
  酒杯を照らす有り
    會仙巖(ルビ かいせんがん)
  真仙何(ルビ いつ)か此に来る 巖は會仙の名を餘し 風は鳳笙の響を傳へ 雨は
  彈棋の聲を作す

            (#写真が入る)栗林園二十有咏應教碑(栗林公園)

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    飛猿巖
  木屐(ルビ ぼくげき)高嶺に上る 薛蘿(ルビ せつら)秋色清し 清風深林の外
  落日猿聲を聴く
    考槃亭
  茲の亭考槃と字(ルビ なづ)く 時に碩人の軸有り 絃管の喧(ルビ かまびす)
  しきを用ひず 淡然幽谷に坐す
    芙蓉峯
  茲の山士峰に類す 峰勢自ら奇絶 峯頭萬樹の花 宛然六月の雪
    天女島
  孤島水中の央(ルビ なか) 神祠花木深し 雲雨の変を為さず 時々鳴琴を彈ず
    楓岸
  峯傍萬樹の楓 紅葉寓目に好し 水に映じ復た山に映ず 歸鳥敢て宿らず
    留春閣
  桃李三月の時、留春此の閣に讌(ルビ えん)す 唯百囀の鶯有り 慇懃に君恩を謝
  す
    百花園
  名園百花深し 花を看て瞑(ルビ くる)るを覚えず 公来りて時に詩を題す 明月
  花徑(ルビ かけい)を照らす
    鹿鳴原
  晴日〔ユウ〕々(#「ユウ」は文字番号03437)の鹿 平原春草新なり 笙を吹き復
  た瑟を皷す 以て嘉賓を燕(ルビ えん)ずべし
    梅林
  數歩(ルビ すうほ)梅行を為す 萬朶(ルビ ばんだ)の花雪のごとし 一夜月林
  に滿つ 花と清潔を爭ふ
    涵翠池(ルビ かんすいち))
  池千山(ルビ せんざん)の翠を涵(ルビ ひた)し 雲樹清流に映ず 時に春風の
  轉ずる有り 遊魚枝上に浮ぶ
    南湖
  南湖明月の夜 此に来りて好し船を行(ルビ や)らん 恍として仙客を挈(ルビ 
  とも)なふに似たり 槎(ルビ いかだ)に乘る雲漢の邊(ルビ へん)
    掬月(ルビ きくげつ)樓
  湖上清風来る 細雨夜来に歇(ルビ やす)む 此の高樓の中を愛し 坐して東山の
  月を掬す
    睡龍潭(ルビ たん)
  棹さして過ぐ睡龍潭 朦朧として晝開かず 雲雨をして至らしむる莫かれ 是に珠を
  採らずして来る
    飛来峯
  栗林園中の勝 飛来峰に過ぐる無し 下に甫田の道有り 春耕を老農に問ふ
                                  (藤本賢治)