四 木田郡を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   徳永知恵子
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年8月30日
      


 四 木田郡を行く
  1 島木健作ほか
 琴電長尾線平木駅で電車を降り、南へ向かい、平木商店を東に行く。駅から歩いて三分
ぐらい、商店街の中

              (#地図が入る)(1)琴電平木駅 (2)島木健作住居跡
                             (3)農民開放功労者記念碑 (4)三木中学校

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ほどに島木健作住居跡がある。「島木健作住居跡」の石柱が家の前にあるだけで、他の説
明は何もない。家の方も、美容院の看板はかかっているが、今は空家になっているようで、
寂しい感じがする。
 ここには、かつて朝倉菊雄(後の島木健作)が住んでいた。一九二六年(大正一五年)
夏から、一九二八年(昭和三年)の夏までの約二年間である。彼が、処女作『癩』で、島
木健作のペンネームを初めて用い、続いて『盲目』で、新進作家としての地歩を固めたの
は、一九三四年(昭和九年)であるから、平木在住時代は、作家としては、全く無名の存
在であった。しかし、彼の平木在住の二年間の体験は、後に小説『再建』(一九三五年)
『生活の探求』正・続(一九三七年・一九三八年)となって結実する。
 北海道札幌生まれの、二三歳の朝倉菊雄が、東北帝大法学部選科の学業を捨てて、四国
の香川県木田郡平井町(現、三木町)大字平木に家を借り、日本農民組合香川県連合会木
田郡支部の有給書記となったのは、一九二六年(大正一五年)である。その当時の、日農
香川県連の力は、全国的にも最強のものであった。一九二七年(昭和二年)末、一二七支
部一二、二六三人という組織は二位の新潟の、一三〇支部六、八九一人を大きくひき離し
ていた。そして、一九二七年(昭和二年)九月に行われた、普通選挙法による最初の香川
県議会議員選挙では日農香川県連が支持した労働農民組合は、六名立候補し、四名当選し
た。
 ところで、朝倉菊雄は、この県議選で中心となって働くことになる。彼は、その当時、
過労のため肺結核を再発し、芥川龍之介の自殺にショックを受けていた。しかし、日農香
川県連の書記であり、非合法の日本共産党員でもあった宮井進一が獄中にいたため、朝倉
菊雄が中心にならざるをえない状況にあった。
 翌、一九二八年(昭和三年)三月二〇日の、普通選挙法による最初の国会議員選挙では、
朝倉菊雄と宮井進一は、各々、一・二区の選挙対策の責任者として、労働農民党が中央か
ら派遣した、大山郁夫委員長と上村進中央委員を候補者として選挙を闘った。激しい弾圧
下の選挙であった。弾圧は選挙後も続き、投票日の四日後の三月二十六日の晩、朝倉と宮
井は検挙された。三月一五日に日本共産党の一斉大検挙(三・一五事件)が行われると二
人は、直ちに治安維持法違反容疑の被告に切り換えられた。そして、朝倉菊雄は、その年
の七月、大阪の拘置

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所に護送されるまで高松刑務所につながれることになる。
 次に紹介するのは、朝倉菊雄の高松刑務所からの便りの一部である。いずれも、『獄窓
の同志より』(日刊無産所者新聞発行発起人会編 希望閣 昭和四年七月一五日発行)か
らの引用である。
  「再々書籍の差入を感謝す。但し二十日送附せられたる二冊は不許可となる。小生は
 もとよりその何の故たるを知らず。明敏なる君の推察に委ぬるのみ。書籍は………われ
 われと全然異なる反対の立場にあるものの著述でもいい。一定の動かざる立場あればす
 べて血となり肉となる。」               (高松刑務所 朝××雄)
  「二本の手紙並びに三冊の書籍ともに落手、御厚情深く感謝する。君の変わりなきを
 知って何よりも安堵し喜んだ。柿蔭集は私に遠く忘れたる生活を思ひ出さしめ甘き感傷
 をすら誇った。手紙の返事の遅れたるは元より自由ならざる身体のこととて容赦ありた
 し、小生は別に変わりなし。一日独居房に坐し、書物を読み、或は思ひを遠く馳せ、夜
 は疲れて眠る。此頃は夢を見ることが多い。」           (高松 A 君)
 その後、浅倉菊雄は、一九二九年(昭和四年)、「再び政治運動に携わる意志はない」
と、転向を表明。肺結核も悪化したが、仮釈放を許されたのは、一九三二年(昭和七年)
の三月であった。政治的には、「転向」したものの、浅倉菊雄にとって、日農香川県連で
の体験と、「転向」とは、重いものであった。彼は、文学でもって「再転向」を試みる。
 一九三四年(昭和九年)、『癩』を書き上げ、島木健作の名でデビュー。この作品の中
では、非転向者への讃嘆が語られている。一九三七年(昭和一二年)『再建』を

                 (#写真が入る)島木健作居住跡

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発表。日農の組織破壊後の香川の農民運動の実態を描いたもので、獄中にいる非転向の浅
井信吉のモデルは、宮井進一であるといわれている。この作品は、発表後一〇日で発売禁
止処分を受けた。
 『生活の探求』正・続は、香川県木田郡平井町(現、三木町)が舞台とされる。発表さ
れたのは、一九三八年(昭和一三年)、一九三九年(昭和一四年)である。この作品は、
当時としては、超ベスト・セラーとなった。主人公杉野駿作が、たしかな生活の根拠を求
めて帰農する中で、「都会の知識人から農村の知識人に成長する」(『さぬかいと』五号
 山下嘉男氏)物語である。
 「島木謙作居住跡」から、平木商店街を更に東へ。それが切れるあたりから北へ進み、
琴電長尾線踏み切りを渡り、間もなくすると、「農民解放功労者記念碑」がある。「居住
跡」から、歩いて三分ほどの距離である。碑は、新川の川岸にある。一九五九年(昭和三
四年)全農平井支部が建てたもので、戦前、戦後にわたって農民運動に貢献した三名をた
たえたものである。その一人が、溝渕松太郎である。一九二七年(昭和二年)浅倉菊雄と
ともに、初の普通選挙で県会議員選挙をたたかい労働農民党から当選した四名の中の一人
でもある。
                                  (田中紘一)

  2 阿野赤鳥
 一九二八年(昭和三年)に刊行(昭和五八年に復刻)された、『寂光流転』を手にして
愕然とさせられた。約六十編ほどの詩が、きら星のごとく並んでいたからだ。その中から
巻頭の「秋の詩」の「とんび」を次に掲げる。
一点 一つの点/高い 高い青ぞらの/まん中に/ちょんぼりと/そしてだんだんと/
小さくなる/点/ほろほろと/啼くはとんびか/いつとなく/影は消え去り/音もなく静
かに/澄み渡る空
 また、その「原始礼讃」(序言)には「予は原始を慕ひ愛する。原始こそは美そのもの
である。原始は無目的である。原始は輝く実在である」とある。
 郷土と自然をこよなく愛した詩人といえる阿野赤鳥(本名幸太郎)は、一八九七年(明
治三〇年)木田郡庵治村(現、庵治町)に生まれ、高松商業卒後、家業(醤油製造)を営
むとともに詩歌の道をきわめた。在学中から川路柳虹の「現代詩」や平戸廉吉の「炬火」
等に発表したり、前田鉄之助の詩洋社同人となって活躍。県下の詩人の先駆をなした。一
方、庵治村長一期、庵治町助役を八年間務めたりした。一九七二年歿。  (松川 進)