三 長尾街道を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   徳永知恵子
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年8月30日
      


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 三 長尾街道を行く
  1 静御前の伝承
 静御前は源義経の愛妾であり、当代一の白拍子といわれた美女である。しかし、はっき
りしたことはわからず伝説的なところが多い。母を磯野[ゼン](#「ゼン」は文字番号
24835)尼と言い、大川郡大内町丹生小磯の出身であるところから、彼女も晩年は三木町で
過ごしたと言われている。『義経記』巻五、「静吉

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野山に捨てらるる事」、及び巻六、「静鎌倉へ下る事」にくわしく描かれている。その概
略は次の通りである。
 平家を滅ぼし壇浦から凱戦した源義経は、兄頼朝より疎まれるところとなり、一時吉野
山に身を隠す。その時、静御前をつれて逃げるのであるが、雪深い山中での同行はかなわ
ず、静一人とり残されることになる。静は、奈良法師に捕えられて、鎌倉の頼朝のもとへ
送られる。折しも懐妊していた静は、男子を出生する。しかし、頼朝の命によってその子
は殺される。失意の中で乞われるままに静は、頼朝の前で舞を舞うのである。その部分を
『義経記』の中では次の様に書いてある。
 詮ずる所、敵の前の舞いぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、
 しづやしづ賤(ルビ しづ)のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
 吉野山[レイ](#「レイ」は文字番号8553)の白雪踏み分け入りにし人の跡ぞ恋しき
 と歌ひたりければ、鎌倉殿御簾(ルビ みす)をざと下ろし給ひけり。
 鎌倉殿「白拍子は興醒めたるものにてありけるや。今の舞ひ様、歌の歌ひ様怪しからず。
 頼朝田舎人なれば聞き知らじとて歌ひける。しづのをだまき繰り返しとは、頼朝が世つ
 きて九郎が世になれとや」
 と頼朝の怒りにふれて都へおい返されるのである。静は、母の禅尼とひっそりと余生を
送り二○歳でなくなったと言われている。
 しかし、讃岐には、古来別の伝承がなされている。各地をさまよった静と禅尼は、長尾
寺にたどりつき剃髪得度して尼僧になったという。そして三木町中代の薬師庵で念仏三昧
にあけくれ、その地で往生したと伝えられている。三木町の願勝寺には、静御前の位牌と
墓があり、長尾町西の長尾街道北側には、磯野禅尼の墓がある。
  2 細川林谷の漢詩
 大川郡寒川町役場の南西側に、林谷山人の碑がある。これは、一九八三年(昭和五八年)
に建立されたものであり、徳富蘇峰の揮[バク](#「バク」は文字番号312)によるもの
である。一九三四年(昭和九年)に建立が予定されていたものであるが諸般の事情により
延び延びになっていて、やっと完成した。
 細川林谷は、同町出身の篆刻家(ルビ てんこくか)である。また、漢詩、絵をよくし
た人でもある。一七八〇年(寛永九年)同町石田で生まれ、林村の安部良山について篆刻
を学び、後に江戸へ出て第一人者となった。生涯に全国を周遊し、多くの漢詩を作ってい
る。著書に『林谷詩妙印譜』があ

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り、書中の漢詩の部分は『新編香川叢書』(文芸篇)に収められている。それによると竹
をうたった詩が多い。

 若(ルビ も)し生涯の事を問はば 我には[タン]石(#「タン」は文字番号1195)
(ルビ たんせき)の[タクワエ](#「タクワエ」は文字番号1284)(ルビ たくわえ)
 も無し 
 唯だこの数竿(ルビ すうかん)の竹   千戸の侯(ルビ こう)も如(ルビ し)
 かざらん
 などが代表的な詩といえる。また、会津、箱根、富士木曽、厳島、阿蘇、薩摩など全国
を旅し、その土地、土地で詩を作っている。その旅の途中で歌った詩に次のようなものが
ある。

 「舟中より屋島を望む」
 雲遊霞宿鬢[ハン]々(ルビ びんはんはん)(#「ハン」は文字番号13470)たり 
 東走西奔なほ未だ還らず
 怪しむなかれ舟中頻りに願望するを 元来屋島は是れ 家山
 また故郷石田のことを詠んだ詩に次のものがある。
 金を彫り(ルビ ほ)玉に刻む一条の鉄
 万里雲山客により[ショウ]す(#「ショウ」は文字番号37823)
 常に方寸の地を[タガ]す(#「タガ」は文字番号40480)を怪しむなかれ
 我れ元東讃石田の農
 讃岐に帰ることは、ほとんどなく、一八四三年(天保一四年)江戸で没した。
                               (以上・井川昌文)