二 海岸線を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
  入力者名   多氣千恵子
  校正者名   平松伝造
  入力に関する注記
     ・ 文字コードにない文字は『 大漢和辞典 』( 諸橋轍次著 大修館書店刊 )
      の文字番号を付した。
      ・ JIS コード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて( #「 □ 」
       旧字 )と表記した。
  登録日 2005年9月27日
      


-41-

二 海岸線を行く(#「二 海岸線を行く」は太字)

 1 志度寺関係(#「1 志度寺関係」は太字)

 JR高徳線志度駅のすぐ前を通っている国道を横切り直進すると、東西にのびている志
度の商店街にあたる。それを東に向かい、商店街が切れたすぐ目の前に志度寺がある。駅
から徒歩でも一〇分とはかからない。
 寺に伝わる『讃岐國志度道場縁起』によれば、志度寺の創建は推古天皇の三三年(六二
六年)である。その後、天武天皇の一〇年に、右大臣藤原不比等(淡海公)

-42-

が堂宇を増築し、持統天皇の七六年には、後に太政大臣になった藤原房前が僧行基ととも
に改造したとされている。現存する堂宇は一六七〇年(寛文一〇年)、高松藩祖の松平頼
重公が建立したもので、四国霊場八六番札所の名刹として知られている。また、志度寺は
謡曲「海人(ルビ あま)」や浄瑠璃「花上野誉の石碑」等、古典文学とも縁の深い寺で
ある。

       (#図版が入る)
        (1)(#直前の「1」は丸付き)海女の墓
        (2)(#直前の「2」は丸尽き)お辻の井戸
        (3)(#直前の「3」は丸付き)平賀源内先生旧邸・遺品館
        (4)(#直前の「4」は丸付き)多和文庫
        (5)(#直前の「5」は丸付き琴電志度駅
        (6)(#直前の「6」は丸付き)JR志度駅

 謡曲「海人」(#「謡曲「海人」は太字)
 謡曲「海人」は、世阿弥の作とする説もあるが、『申楽談儀』に、金春権守が演じたと
あるので、世阿弥以前のものと考えられ、作者は不明である。なお、「海人」は、五番目
物である。五番目物は、一日の上演の最後に演じられる能で、総体としてはテンポがはや
く、鬼神をシテとするものが多い。「海人」は、話のあらましは、およそ次のようなもの
である。
 房前の大臣(子方)が、志度の浦の房前で亡くなった母の追善のために、従者(ワキ)
・供人(ワキツレ)を連れて志度の浦へ赴く。そこで出会った海人(シテ)から、唐から
興福寺へ渡される三つの宝のうち、面向不背の玉が龍神に取られたことや、それを取り返
すために、不比等(淡海公)が、身をやつしてこの志度の浦に下り海人と契りを結び、一
人の子を儲けたこと、その子が房前の大臣であることを聞き、房前は自らを名のる。海人
は、その玉を取り返した時の模様を仕方話で語る。玉を取り得たなら、この子を藤原家の
後継ぎにするという、淡海公のことばを得て、海人は、海底の竜宮に行き、玉を取り返す
が、龍神の追跡をうける。海人は、剣で乳の下を切り、玉を押し込め、縄を引き上げさせ
る。死の息

-43-

の下で、海人は、乳の下を見よといい、玉の存在を伝える。このようにして、房前の大臣
は、藤原家の後継ぎになったのだと。その後、自分こそ海人の亡霊と名のり、弔いを頼ん
で姿を消す。亡母の手紙を読み、十三年忌の供養を行う房前の前に、亡霊は、龍女の姿で
現われ、経文のありがたさを喜び、舞を舞う。「法華経」の功徳に

         (#写真が入る)海女の墓

よって龍女は成仏し、志度寺は、仏教の霊地となった。
 謡曲「海人」の話は、『讃岐國志度道場縁起』の話と多少の相違はあるが、ほぼ同じで
ある。志度寺の境内の北西の隅に、志度湾を背景に、苔むした海人の墓と経塚とがある。
また、境内の南東部には、日本に三つしかないという曲水式庭園に続いて、無染庭がある。
無染庭は海女の玉取りをテーマに七つの石を配し、淡海公と海女の物語を描いた枯山水で
あるといわれている。
 志度寺から海岸に沿って東へ向かって車で五分くらい行くと、現在は陸続きになってい
るが、真珠島がある。真珠島は、謡曲「海人」にも出てくる島で、『讃岐國志度道場縁起』
には、次のように記されている。
 「小嶋に下り海人を見るに手足なく頭身有るのみ。(略)泣きて処所の疵を見るに乳下
に當り横に大疵有り。其の疵深く廣くして切目に彼の玉を押し籠む。(略)玉を得たるの
処小嶋の故真珠嶋と号名す。」
 浄瑠璃「花上野誉の石碑」(#「浄瑠璃「花上野誉の石碑」は太字)
 「金毘羅利生記花上野誉の石碑」は、一七七八年(天明八年)、しば叟、筒井半ニによ
って書かれ、江戸の肥前座で初めて上演された。一六四二年(寛永一九年)、丸亀であっ
た田宮小太郎(俗に坊太郎)の仇討を題材に

-44-

したもので、四段目の「志度寺の段」は、特に人気を集めた。「志度寺の段」のあらまし
は、次の通りである。
 民谷源八の遺児、七歳の坊太郎は、口がきけないふりをして、敵の森口源太左衛門の目
を避け、乳母のお辻と志度寺に住んでいる。乳母のお辻は、「唖となったるこなたの業病。
・・・・・・金毘羅様へ立願かけ。・・・・・・清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」
と坊太郎のために祈る。一方、坊太郎は、お辻のために、寺の名物の桃を盗む。お辻は坊
太郎をいさめ、敵討を説いて、自害。(それから一〇年、坊太郎は、父の仇を討ち本懐を
遂げる。)
 田宮坊太郎の敵討を金毘羅御利生とを結びつけた作品の最初のものとしては、一七五三
年(宝暦三年)、二四歳の並木正三によって書かれ、大阪三桝大五郎座で上演された、歌
舞伎「金毘羅御利生幼稚子敵討」がある。そして、この作品をもとにして生れたのが、前
述の「金毘羅御利生花上野誉の石碑」と、一七六四年(明和元年)、近松半二・竹本三郎
兵衛によって書かれ、竹本座で上演された、浄瑠璃「金毘羅御利生敵討稚物語」である。
 こうして、歌舞伎や浄瑠璃で繰り返し上演される中で田宮坊太郎像が作られ、坊太郎は、
孝子の手本として、全国的に有名になり、敵討物の主要な一系統を作った。志度寺境内の
曲水式庭園の片隅に、「お辻の井戸」がある。また、書院前には、「薗の桃」の碑が建っ
ている。いずれも史実に従って作られたものではなく、浄瑠璃から生れた人気にあやかっ
たものである。(田中紘一)

 2 志度の俳諧(#「2 志度の俳諧」は太字)

 国道一一号線を西から志度町に入ってすぐ右手の小山のとりつきに、恵遠山放光院東林
寺という寺がある。その門前、向かって右に”露塚”と刻まれた墓があり、そこには、三
千舎桃源の辞世の句が読みとれる。
  露とちるこの身は草に置ねとも
 これは、一七九四年(寛政八年)八月六日に歿した、この地の俳人、渡辺桃源(号三千
舎)の墓である。
 志度の俳諧は、
 ”近きころは花月斉珊楽翁比浦(注、志度)に居を移し、不遠居士(注、桃源の父)と
ともに雪月花に遊んで、風雅を導しより漸俳道に志すものあり、中にも指月堂芳山翁・三
千居桃源叟は、甘泉庵(注、大阪の椎本芳室)の門に遊んで道に長ぜる人なり”
 と、一七五三年(宝暦三年)、白石李山、(注、平賀源

-45-

内、当時二六歳)が書いている(『平賀源内全集補遺第二』)ように、西山宗因の流れ(
談林)をくむ大阪の椎本芳室につながり、高松から志度に移り住んだ珊楽を中心にして、
当地の渡辺不遠などによって興され、宝暦頃(一七五一~一七六三)に芳山・不遠の子桃
源、若き日

     (#写真が入る)松風塚(左)と椎本芳室翁文塚(右)

の源内(李山)などによって確立された、ということになるようである。
 古くは、一六八五年(貞享二年)、全国行脚の俳人大淀三千風が、
 ”志度(ルビ シド)の里、渡辺氏につく、きこゆる房崎(ルビ フササキ)のうらめ
 づらしく・・・・”(『日本行脚文集巻之五』)
 と、この渡辺家を訪ねており、(渡辺家は、家号を宇治屋といい、農・酒造等を営む一
方、郷士として政所なども勤めた家柄である)
 下って
○ 一七四三年(寛保三年)、前記椎本芳室の八十の賀集に句を送り、
      甘泉叟の俳徳を仰ぎ、鶴齢の句をもて
      人々これにむかふ     臨江亭
  幾星のりつるや梅の山かつら    不遠
                         (『蓍(ルビ めどき)の花』)
○ 一七四六年(延享三年)、桃源による、その父不遠の追善集『影響詩稿』(未刊)に
      梅翁(注、西山宗困)より伝来してもてる文台を、甘泉叟のぬしより
      (注、高松の人)古道のぬしへゆずられければ
  永き日の翁渡しや山かづら    不遠

-46-

  梅まだ寒きもののひま風     古道
 とあって、これは、志度の俳諧が、談林の正系であること(文台をゆずられた)を示し、
更に、同集に、前記甘泉叟・吉田了雨・浪花の千鹿の追悼文、京の羅人高松の四友庵古道
の追悼句が収められているなど、志度の俳諧の重さ、広さを示している。
○ 一七四八年(寛延元年)、大阪の俳人堀梅門が来讃しての紀行『象山影』に、志度連
 中として、芳山・桃源・李山らが、梅門と歌仙を巻いている。
○ 同年、京の俳人正木風状が来讃しての紀行『飯富士』(『香川県史芸文編』所収)に
      八月一七日蘭谷・柳郷にいざなはれて志度へ行く。三千舎を訪ふに留守なり
      ければ
  留守訪ふは立まち月の曇り哉
     と書残してかへる跡より申付りし四季の句に
  是は<(#「<」は繰り返し)まくら言葉や花の山
  峯を蹴て波をしほるやほとときす
  三日の夜やかづらをとこの宵歩行   桃源
などと、多くの俳人を迎え送っている。     
 これら、外からの刺激を受けて、地元では、
○ 一七五〇年(寛延三年)、桃源・李山ら四人の百韻連句「竹の戸を」(『新編香川叢
 書文芸編』所収)
○ 一七五三年(宝暦三年)、桃源・李山ら十人の百韻連句「寒梅」(同右)
○ 一七五四年(宝暦四年)、桃源・李山願主の「志度新珠島奉納発句」「椎本芳室翁文
 塚奉納発句二万?集」(いずれも志度町故出雲秀一氏旧蔵)
○ 一七五六年(宝暦六年)、桃源・李山・安芸文江(注、津田町の人)の三人が、摂津
 有馬に入湯した時の紀行『有馬記行』(『新編香川叢書文芸編』所収。ただし同書解説
 によれば、桃源のものは焼失したらしく李山・文江のもののみ所収)
と、次々と作品が成り、その隆盛ぶりを見せてくる。
 ただ、その中心人物の桃源も、芳山は早世、李山は江戸に出て行くなど、同士を失い、
その後は、次々と訪れる俳人を迎えて風雅を語るということで終わったようである。
 現在、志度寺山門をくぐっての突き当たり、境内の東南の隅、薬師堂の南側に、竹薮を
バックにして、二基の塚が北面して建てられている。
 向かって左側は、松風塚。
これは、桃源が七一歳の時、抜けた歯を埋めたもの。

-47-

 松高しわか秋風の吹処   桃源
   天明六丙午年九月十五日常甫落歯
 向かって右側は、その桃源の師にあたる、前記芳室のもの、椎本芳室翁文塚である。
 前者は、志度寺山門入って左の奪衣婆堂の北側にあったものを一九七六年(昭和五一年)
に、後者は、高松市西宝町の松岩寺にあったものを、同じく一九七六年(昭和五一年)に、
それぞれ現在地に移転したものである。
 特に、後者が高松より移転していることは、志度の俳諧が、高松より入ってきているこ
とを象徴しているようで興味深い。                 (白井加寿志)

 3 平賀源内ほか(#「3 平賀源内ほか」は太字)

 琴電志度線の終点志度駅を出て左折すると、すぐ東西にのびる志度商店街にあたる。そ
こを西に向かって歩くこと五分ほどで、「平賀源内先生旧邸」、「平賀源内先生遺品館」
に着く。
 平賀源内は、一七二八年(享保一三年)志度に生まれ、二五歳の時に長崎に遊学。その
後、江戸に行き本草学、医学、国学、洋学などを研究。エレキテルの復元、火浣布(石綿)
の創製、源内焼陶法、西洋画、鉱山開発等、多方面にその才能を発揮。三四歳以後は、他
家への仕官も禁止され、浪人生活を送っている。源内を疎外した封建体制や社会の欠陥へ
の批判は、文学の面で発揮されている。
 あやまって人を殺傷し、源内は、一七七九年(安永八年)五二歳で獄中で亡くなってい
る。友人の杉田玄白は、「ああ非常の人 非常の事を好み 行ひ是れ非常 何ぞ非常に死
なる」と、源内の生涯を見事に総括した。このことばを、玄白は浅草総泉寺の源内の墓の
かたわらの石碑に記した。なお、このことばは、「旧邸」にある源内の、銅像の台座にも
刻まれている。また、志度寺に隣接する自性院常楽寺には、浅草総泉寺から分骨をうけ、
源内の墓がある。
 「遺品館」には、源内焼、陶器工夫書等五九点の遺品が展示されている。文学関係のも
のとしては、『平賀源内全集上下二巻』、『神霊矢口の渡二冊』、『飛んだ噂の評一冊』、
『長枕褥合戦一冊』などが含まれている。
 平賀源内と文学(#「平賀源内と文学」は太字)
 源内の文学は、俳諧から出発している。江戸に出るまでの二〇代の間、源内は「李山」
の号で俳諧を作っている。「やゝふとし実に竹の子のはえこころ」、「連翹は風

-48-

をいつはる柳哉」などの句を残している。辞世の句は「乾坤の手をちぢめたる氷かな」で
ある。
 三〇代の後半から晩年にかけ、談義本を書いている。談義本とは、世態・世相をうがい、
作者の批判を加え、滑稽にあるいは教訓的にした中間読物である。『根南志具佐(ルビ 
ねなしぐさ)前編』、『風流志道軒伝』、『萎陰隠逸伝(ルビ なえまらいんいつでん)』
、『根無草後編』、『里のをだ巻評』、『放屁論』、『天狗髑髏鑒定(ルビ しゃれこう
べめきき)縁起』、『放屁論後編』、『飛んだ噂の評』等が源内の作である。

      (#写真が入る)平賀源内先生銅像

号は、「風来山人」、「天竺浪人」、「紙鳶(ルビ しえん)堂」などを使っている。
 四〇代になって書き始めた浄瑠璃は大評判をとり、江戸浄瑠璃に一時期を画した。一七
七〇年(明和七年)江戸外記座で上演した「神霊矢口渡」が処女作である。
 新田義興は矢口の渡し舟の上で自害。弟の義岑、遺児の徳寿丸、遺臣が、義興の魂魄の
力や渡し守の娘お舟の身を捨ての助けをかりて、敵を倒す。義興は矢口の村の社に祭られ
るという話の筋である。
 その後、『源氏大草子』、『弓勢智勇湊』、『忠臣伊呂波実記』、『霊験宮戸川』等八
編の浄瑠璃を発表している。号は、「福内鬼外」である。
松岡調(ルビ みつぐ)と多和文庫(#「松岡調(ルビ みつぐ)と多和文庫」は太字)
 JR高徳線の志度駅を出て、国道を西(高松方向)へ五分ほど歩いて行く。やがて左手
に鳥居と石段とが見えてくる。鳥居をくぐり、石段を登りつめると、右手に白壁、土蔵造
りの多和文庫(別名 香木舎(ルビ かきのや)文庫)がある。
 この文庫は一八八五年(明治一八年)、田村神社、多和神社、金刀比羅宮等の宮司や祢
宜をつとめた松岡調が創設したものである。松岡調は、生涯をかけて、神道、国史、国文、
郷土史、考古学、書画骨董の各方面の文献

-49-

資料を収集した。これらの文献・資料等、一八〇〇点、五八〇〇冊が、この文庫には収蔵
されている。中でも、袈裟襷文銅鐸、東大寺写経文書は、国の重要文化財に指定されてい
る。なお、この文庫の文献、資料等は、国立国文学研修資料館の手で、マイクロフィルム
に収められ、同館に入架されている。また、松岡調が、幕末から死去に至まで記した百数
十冊に及ぶ『年々日記』と、未完成の『新撰讃岐風土記』は、当時の讃岐を知る上で貴重
な資料である。                           (田中紘一)

 4 平家物語(#「4 平家物語」は太字)

 今から八〇〇年ほど前の一一八五年(寿永四年)二月一の谷での敗戦の後、屋島に逃れ
た平氏軍と、源頼朝より平家追討の命を受けた源義経率いる源氏軍との戦いがこの地で繰
り広げられたという。屋島と五剣山の間に深く切り込んだ入江付近(高松市屋島東町・木
田郡牟礼町)には、多くの源平合戦の史跡がある。たとえば、総門跡佐藤嗣信の墓、弓流
し跡(「総門跡佐藤嗣信の墓、弓流し跡」は太字)などである。そのようなこの土地で生
まれ育った人は、いくつくらいから、自分のふるさとと『平家物語』との係わりを意識す
るのだろうか。案内板などが立てられていても、柵で囲まれた史跡は、子供たちにとって
は小さな公園に過ぎない。石碑の周りで無頓着に遊んでいる。
 子供が源平合戦がこの地で行われたのだということを最初に意識的に受けとめるのは、
屋島山上にある「血の池」というショッキングな名前を耳にする時かもしれない。「平家
を敗った源氏の武者たちが血のついた刀を洗

       (#図版が入る)源平古戦場図

-50-

い、水が赤く染まった」と言い伝えを聞いて、いろいろと想像を巡らしていた「血の池」
が、実際に見てみれば何の変哲もない普通の池であったことにがっかりする子供の気持ち
は想像できる。
 「血の池」の次は、「那須与一」かもしれない。小学校で歴史を学び、この地で源平の
戦いがあったと改めて認識する。先生によっては、学校の近くにある古戦場に生徒を連れ
て行くだろう。歴史に興味のある子供は目を輝かす。「ここで与一は扇の的をねらったの
か」そして中学校の国語の授業で暗誦させられる『平家物語』の「扇の的」の一節。
 与一鏑をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやふ一二束三伏、弓
 は強し、浦ひびく程長鳴して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつ
 とぞ射きッたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。
 言葉のリズムによって、その場の緊張感、与一の祈り、矢をはなつ弓の音などが、子供
に理解される。
 そして『平家物語』と言えば「那須与一」だった子が成長し、ぶ厚い『平家物語』を手
にとり、ページを繰り、その物語の世界に没頭するようになったならば、その子は幼い頃
には何の関心もなかった古戦場に足を向けるに違いない。自らが読むことによって「生き
た人間」としてとらえたこの地で戦った武将たちの足跡を追い、八〇〇年前の面影をどこ
かに求めようとする。
 以下、『平家物語』を携えて、古戦場を巡ってみよう。
 総門跡(#「総門跡」は太字) 平家追討を決意して、嵐をおして摂津国を出発し、阿
波の勝浦に着いた義経は、八島の平家軍が手薄であると聞き、「敵に知られないうちに近
付こう」と考え、阿波と讃岐の境にある大坂山を夜通しで越えるのである。讃岐の国に入
ったくだりを引用する。
 あくる十八日の寅の剋に、讃岐国引田といふ処にうちおりて人馬の息をぞやすめける。
それより丹生屋、白鳥うち過ぎうち過ぎ八島の城へ寄せ給ふ。又近藤六親家を召して、「
八島の館のやうはいかに」と問ひ給へば、しろしめさねばこそ候へ、無下にあさまに候。
塩のひて候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候はず」と申せば、「さらばやがて寄せよ
や」とて、高松の在家に火をかけて、八島の城へ寄せ給ふ。
 人馬を休ませたのが、引田の馬宿。また丹生屋、白鳥とあるが、道順としては白鳥、丹
生である。源氏軍は、丹生より田面峠を越え、長尾、前田、新田と進み、高松

-51-

牟礼に到着して、すぐ高松の民家に火をかけたのである。そして、奇襲に意表をつかれ、
源氏軍を大群と錯覚した平家一門は内裏を捨て総門の前のなぎさに着けている舟に、われ
先に飛び乗るのである。
 その総門跡は、琴電八栗駅より北へ徒歩二分。旧庵治街道沿いにある。『平家物語』に
は、「惣門の前のなぎさに舟どもつけならべたりければ」とあるが、周辺には民家が立ち
並び、海のそばであったという当時の面影はない。高松藩主松平頼重が立てた古びた門の
ような標木があるが、『源平盛衰記』の一節が刻まれた大きな碑がまず目に入り、この標
木のほうは見落としがちである。しかし隅にある古い標木に気付けば、それは八〇〇年前
の世界への入口のようにも思え、ロマンを覚える。春には、桜が朽ちかけた標木を包むよ
うに咲く。
 射落畠・佐藤嗣信の墓(#「射落畠・佐藤嗣信の墓」は太字) 海に逃れた平家の総大
将平宗盛は、内裏を源氏方に焼かれた後に、源氏軍が思いのほかわずかな軍勢であったこ
とを知り、地団駄を踏む。
 「あな心憂や。髪のすぢを一すぢづつわけてとるとも此勢にはたるまじかりける物を。
 なかにとりこめてうたずして、あわてて舟に乗って、内裏を焼かせつる事こそやすから
 ね。能登殿はおはせぬか。陸にあがっていくさし給へ」
 宗盛の「いくさせよ」という言葉を受けて、能登守教経が出陣。屋島源平合戦が始まる
のである。
 都第一の強弓・精兵である能登殿がねらうのは九郎大夫判官(義経)のみである。しか
し源氏方も心得ていて一騎当千の武士たちが、義経の矢面に立ちふさがる。なかでもまっ
先に進んだ奥州の佐藤三郎兵衛嗣信(継信・次信とも)が義経の身代わりとなって能登殿
の矢に射抜かれる、虫の息の嗣信に義経に呼びかける。
 「思ひおく事はなきか」
 「何事をか思ひおき候べき。君の御世にわたらせ給はんを見参らせで、死に候はん事こ
 そ口惜しう覚え候へ。さ候はでは、弓矢とる者の、かたきの矢にあたッて死なん事、も
 とより期する処で候なり。就中に、『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひ
 ける者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれけり』と、末代の物語
 に申されむ事こそ、弓矢とる身は今生の面目、冥土の思出にて候へ」
と申すやいなや嗣信は息絶えるのである。
 射落畠は嗣信の戦死の場所といわれている総門跡より一〇〇メートル東、県道八栗―庵
治線沿いのバス停八

-52-

栗口の裏にある。
 佐藤嗣信の墓は、射落畠より南西に三〇〇メートルくらい行ったところにあり、傍(墓
所北側)には、松にうっそうと覆われた王墓(景行天皇の皇子で讃岐の国造の始祖新櫛王
の墓)がある。また背後(墓所西側)には、静かに水をたたえる池があり、何かしらん厳
粛な雰囲気が漂っている。一六三四年に初代高松藩主松平頼重公が建立したという墓標も
苔むし、記念碑も歳月を感じさせる。近くには道路があり、一日中車が音をたてて走って
いるはずなのに、柵の中に入ると、”しん”とした不思議な静けさがある。
 同所に嗣信の菩提を弔うために義経が僧に送ったと伝えられる太夫黒という馬の墓もあ
る。太夫黒には、志度寺から極楽寺に託されたが、のがれて嗣信の墓前に倒れたという伝
説があるそうだ。その太夫黒の『平家物語』における記述を引用しておく。
 「此辺にたッとき僧やある」とてたづねいだし、「手負のただいまおちいるに、一日経
 書いてとぶらへ」とて、黒き馬のふとうたくましいに、黄覆輪の鞍おいて、かの僧にた
 びにけり。判官五位尉になられし時、五位になして太夫黒とよばれし馬なり。一の谷の
 鵯越をもこの馬にてぞおとされたりける。
 嗣信の墓はほかにもう一か所、屋島東側の遍路道にある。それはやはり松平頼重が、屋
島に向かう人たちに嗣信の忠死を知らせるために建立したものらしい。嗣信ゆかりの寺の
洲崎寺の御城(ルビ みき)俊慧住職は「この源平の戦いでは、鎌田光政も死んだし、他
にも命をおとした者は多くいる。その中で、何故に特に嗣信なのか、というと、それはひ
とえに主人義経に身代わりになって果てたからである」と語られた。佐藤嗣信の話は忠義
が尊ばれていた時代の残した物語であり、彼の墓はそのような時代の残した史跡なのであ
ろう。
 洲崎寺(#「洲崎寺」は太字) さぬき三三観音霊場二番札所、洲崎寺は、総門より北
に四〇〇メートル行ったところの、県道左手にある。この寺の扉に嗣信の遺骸をのせて瓜
生が丘の本陣に運んだという。洲崎寺には宝物として嗣信の鎧の大袖、義経の愛馬太夫黒
の轡、水の中で馬に乗る鉄製のあぶみ、室町時代の画家、小栗宗丹筆と伝えられる「弁慶
勧進帳図」、扇面の「佐藤嗣信戦死の図」などがある。また「いつの時代のものかよくわ
からないのですが」と言いながら住職が見せてくれたのは六曲二双の屏風で、鵯越を降り
る義経、海に馬を乗り入れる敦盛とそれを追う熊

-53-

谷直実、嗣信と菊王丸、扇の的、弓流しが描かれている。退色著しく、表面はところどこ
ろはがれているが、一つ一つの場面が、丁寧に描かれており一見に値する。源平の戦いの
物語が、愛着を持って伝えられたきたことがうかがわれる、嗣信ゆかりの寺にはふさわし
い屏風である。
 菊王丸の墓(#「菊王丸の墓」は太字) 菊王丸は能登守教経の使っていた童である。
佐藤嗣信が能登殿の強弓に射落とされた時、菊王丸は嗣信の首をとろうとしたが、そうは
させまいとする嗣信の弟佐藤四郎の弓によって射ぬかれた。このとき、菊王丸はまだ十八
歳だったという。
 能登殿の童に菊王といふ大力の剛の者あり。萌黄威の腹巻に、三枚甲の緒をしめて、白
 柄の長刀の鞘はづし、三郎兵衛が頸をとらんとはしりかかる。佐藤四郎兵衛、兄が頸を
 とらせじと、よッぴいてひやうど射る。童が腹巻のひきあはせをあなたへつッと射ぬか
 れて、犬居に倒れぬ。能登殿これを見て、いそぎ舟よりとんでおり、左手に弓をもちな
 がら、右の手で菊王丸をひッさげて、舟へからりと投げられたれば、かたきに頸をとら
 れねども、いた手なれば死ににけり。
 菊王丸の墓は、高松市屋島東町の屋島東小学校北側の道路沿いにある。壇浦行きのバス
の通る道で、菊王丸というバス停がある。
 祈り岩・駒立岩 (#「祈り岩・駒立岩」は太字)屋島の麓にある菊王丸の墓とは対岸
の五剣山側にあり、屋島側から行く場合は、相引川にかかる見返橋(高橋)を渡っていく
とよい。総門から北に九〇〇メートル程の所、祈り岩は県道(牟礼-庵治線)のわきに、
駒立岩はその北西の運河の中にある。

           (#写真が入る) 駒立岩(中央)

-54-

 「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」といって引き退こうとした時、平氏は一艘の
船に美人を乗せ、扇の的を立てて源氏を挑発した。その扇の的を射る大役に、那須与一宗
高が選ばれた。与一は、もしこの扇の的をはずせは自分は生きてはいられないと、目を閉
じて神に祈った。その場所が、現在残る祈り岩だとされている。そして与一が目を開くと、
風も少し弱って、扇は射やすそうになっていた。もちろん扇はあやまりなく射落とされ、
両軍より拍手がおこった。駒立岩は、与一が馬を止め、扇の的めがけて矢を放った岩とい
われている。
 那須与一が扇の的を見事射抜いたことに感激して、船中で舞っていた平家方の武者を、
与一が味方のすすめで射殺したことに端を発して、平家勢の怒りが燃え、血気にはやる平
氏の武者たちは船を波打際に打ち上げ砂浜にとび降りて手あたりしだいに源軍に対して捨
身の戦法でとびかかってきた。悪七兵衛景清が美尾屋十郎の甲の錣を素手で引きちぎった
のもこの時の出来事であった。祈り岩の県道(牟礼-庵治)をはさんでほぼ向かい側に、
「景清の錣引きの伝説」という案内板があり、「十郎が『景清の腕の強さよ』景清は『十
郎の首の強さよ』といって互いに称賛し驚いた」と書かれてある。 
 弓流し跡(#「弓流し跡」は太字) 悪七兵衛景清の活躍に気分を持ち直した平家であ
ったが、それを黙って見ている源義経ではない。義経自ら海中に馬を乗り入れて攻め戦う。
ところがその時義経にハプニングがおこった。不覚にも、弓を落としてしまったのだ。「
ただお捨てなさい」という軍兵の言葉に反し、義経は、うつむき、鞭でかきよせるように
弓を拾い上げ、笑いながら帰った。後で、老武者が「命がけで拾うことはないのに」と申
しあげると、「このひ弱い弓を敵が持って行き『これこそ源氏の大将九郎義経の弓だ』と
言って、馬鹿にするのが残念だから弓を拾ったのだ」と答えたという。
 総門から北に三〇〇メートル、旧庵治街道沿いの畑に、「義経弓流し跡」の石柱が立っ
ている。
 長刀泉・菜切地蔵(#「長刀泉・菜切地蔵」は太字) この二つの史跡は、これまで挙
げた史跡からは随分離れたところにある。八栗の方から行くとすると、王墓と佐藤嗣信の
墓の前を通って、南東の瓜生が丘へ行くのがよい。国道一一号線を渡り、細い道に入った
ならば、南に少し行ったところに長刀泉がある。そしてJRの踏切を越えて坂を上がると
菜切地蔵堂がある。瓜生が丘は源氏方が陣を敷いた場所。要するに、長刀泉も菜切地蔵も
血なまぐさい戦闘とは直接には関係

-55-

がなく、エピソードもほほえましい。長刀泉は、弁慶が炊事の水に困って長刀の石突で掘
った井戸のことである。菜切地蔵の名は、やはり弁慶が野菜を切って汁をつくるために石
の地蔵を倒してまな板がわりに使ったことに由来している。汁をすすめられた義経が「弁
慶のこしらえし菜は武蔵坊」と詠むと、弁慶が「それを知りつつ九郎(食ろう)判官」と
やり返したという。残念なことに、本物の菜切地蔵は行方がわからなくなってしまったと
いうことで、丘の上にある菜切地蔵堂には、新しい地蔵が置かれている。地蔵堂のある柵
の中は、綺麗に掃除されており、周辺に住む人々がこの伝説を大切にしているのがわかる。
 瓜生が丘については『平家物語』では「弓流し」の話のすぐ後に
 さる程に日暮れければ、ひきしりぞきて、むれ、高松のなかなる野山に陣をとッたりけ
  る。
とある。マンションや住宅などに遮られてはいるが、視界の良いところを選べは、屋島の
古戦場を望むことができる。
 安徳天皇社(#「安徳天皇社」は太字) 最後に屋島の麓にある安徳天皇社へ行ってみ
よう。菊王丸の墓より北へ四〇〇メートル。屋島山麓に安徳天皇ゆかりの小さな神社があ
る。長門壇浦で二位の尼に抱かれて入水したといわれている安徳天皇も、ここに内裏があ
った頃には、この山麓から海を眺めていたものと思われる。菊王丸の墓からここへ向かう
ゆるい坂道を行きながら、海を隔てて見る五剣山の位置は、八〇〇年前と変わっていない
だろう。八〇〇年前もやはり、背後には屋島の峰があり、前方には海を隔てて五剣山があ
った。この境内から古戦場を眺めていると、確かにここで源平合戦があったと実感される
のである。   
                                   (木虎結花)
 5 柴野栗山(#「5 柴野栗山」は太字)

 柴野栗山は一七三六年(元文元年)、三木町牟礼村字宗時(現、牟礼町宮北)に生まれ、
江戸に出たのち苦学して幕府の儒官となり「寛政異学の禁」を建議した、江戸時代中期を
代表する儒学者である。「寛政異学の禁」が発令された一七九〇年(寛政二年)当時、昌
平坂学問所で朱子学を講じていた栗山は同僚の岡田寒泉・尾藤二洲らとともに「寛政の三
博士」と世にうたわれるほど有名でかつ有能な学者であった。
 栗山は一〇歳の時から一八歳になるまで、当時有名で

-56-

あった学者後藤芝山の門に学び、牟礼から高松まで片道八キロの道のりを雨の日も、風の
日も朝夕往復したという。
 一八歳になった一七五三年の五月、高松藩の儒官をしていた中村文輔に伴われて栗山は
江戸へ行き、昌平黌(ルビ こう)に入った。昌平黌は幕府の保護を受けた朱子学の学問
所で

       (#写真が入る)神武陵詩碑(牟礼町栗山堂)

あると同時に、林羅山に始まる林家の家塾でもあった。志度の平賀源内(彼は栗山より一
〇歳年長である)栗山に後れること三日、昌平黌に入ってきている。栗山はここ昌平黌で
一二年間儒学に関してみっちりと学んだ。
 一七六五年、栗山は三〇歳となる。昌平黌での修行を終えた彼は、国学を学ぶため住み
慣れた江戸を離れ、京都へ赴いた。京都に到着した栗山は、高橋宗直(図南)の門に入り、
ここで得た良友の縁故で阿波藩に仕えることとなった。三二歳の時である。
 京都での国学修行を終えた栗山は一七六七年一〇月、徳島へ向かう。翌年秋には江戸へ
戻っているので、わずかな期間ではあるが、この時期が栗山にとって最初で最後の徳島居
住となる。阿波藩の儒官となった栗山は主に江戸の藩邸にてその公子に侍講した。途中二
度ほど休暇をもらい、京都の私邸にて塾を開き、塾生の指導にあたっている。栗山の阿波
藩仕官時代は二〇年に及んだ。この間に結婚もし、親しい者たちと集まって詩会を開いた
りもしている。経済的な基盤も安定し、栗山の生活が充実・拡大したのがこの時期であろ
う。
 田沼時代が終わり、白河藩主であった松平定信が一七八七年、老中となった。寛政の改
革の始まりである。定

-57-

信は倹約を奨励し、風紀をひきしめ、幕府の財政難を救おうとした。と同時に儒学の振興
も積極的にはかった。このような目的を持つ定信が自己の顧問として適当な学者を物色し、
まず第一に抜擢したのが栗山であった。幕府に仕えることとなった栗山は、時に五三歳、
儒者として採用されはしたが、定信の知恵袋として幕政にも大きく貢献した。その代表的
な例が初めに述べた、「寛政異学の禁」の建議である。一八〇七年七二歳で病に倒れるま
で栗山は、幕府の儒官として、また老中定信の政策顧問として長く仕官した。この約二〇
年間が、栗山の努力と才能とが多くの理解者・協力者を得て花開いた時期であろう。
 さてその栗山には、彼の死後編まれた『栗山堂文集』と『栗山堂詩集』とがある。『栗
山堂文集』は天保一三年の刊行で広く流布したらしいが、『栗山堂詩集』の方は明治三九
年の発刊で、遅ればせながらといった感が大変強い。これには二つの理由があるように思
われる。ひとつは、柴野栗山といえばやはり「寛政の三博士」であり、学者・政治家とい
った性格の強い人であったこと。もうひとつは、栗山自身の考えから来るものである。栗
山はある時友人の頼春水(頼山陽の父)のその著書を問われて「書を著するのは人に役立
てるためであるから、自分のようなつまらぬ学者がいい加減な本を書くとかえって人の害
になる」と答えている。積極的には著作をしない主義だったようである。学者としてその
ような考えを持っているのであるから、詩文に関する著作は栗山の頭にすら浮かんでいな
かったとしても不思議ではない。
 八栗寺に向かう表参道の途中に栗山堂がある。栗山出生の地である。現在は幼稚園とし
ても使用されており、その敷地内には栗山の自筆をかたどった神武陵の詩碑が建立されて
いる。詩碑を眺めると八栗の五剣山の美しい姿がその背景に入り、見る人の目を楽しませ
てくれる。                             (上村 毅)