二 土庄を行く

底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   辻繁
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年8月25日
      


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 小豆島を歩く

 二 土庄を行く

   1 荻原井泉水

 ほとけを
  しんず
  むぎのほの
  あおきしんじつ
 これは小豆島本覚寺にある井泉水の句碑である。本覚寺は島の西の玄関土庄港から徒歩
四0分程の距離にある。港にある『二十四の瞳』の群像前を通り、新町、本町を過ぎて、
土渕海峡にかかっている永代橋を渡り、海に沿って一五00メートル歩くと、右手の山腹
に寺が見える。この寺は、島における桜の名所の一つに数えられ、満開の頃には茶会など
も催される。三四段の石段を登って山門をくぐると、右に鐘楼があり、その前に苔むした
自然石の句碑が建っている。昭和三七年四月一四日、井上一二氏の発起によって、井上家
の菩提寺であるこの寺に建立されたものである。その脇には、井泉水の句碑に寄り添うよ
うに一二氏の句碑が建っている。
  杖を洗うて
  くれかかる月

         (#写真が入る)荻原井泉水の句碑(土庄町渕崎本覚寺)

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  さらに左前方五メートルに井泉水の妻、桂子の句碑がある。
  夕となれば
  風が出るよ
  ともし火
裏面には、
  往年吾妻桂子と共に爰なる井上氏が別墅に客たりし事あり、其後此荘烏有に帰し、彼も
 亦他界に入る。我今一介の遍路となりて此島の仏を礼する次ニ一石を建て彼を紀念す。
 氏が志に依る処也。
  大正十三年五月  荻原井泉水誌
と刻まれている。夫人は大正九年四月に井泉水と共に島を訪れ、井上氏の別荘「宝樹荘」
に滞在したことがある。
 井泉水は碑文にあるように、大正十三年にもこの寺を訪れている。島遍路として、亡母
亡妻を弔う小豆島八八ヶ所巡礼の旅に出た彼は、どのような思いで五三番札所であるこの
寺にたどりついたのだろうか。
   妻桂子死す
 ただに水のうまさを云う最後なるか
   妻を葬る三句
 彼女が骨壺のぬくみ膝にしている
 葬り終えし空に星一つ懸る時
 いまは仕事を愛するより外なき独り炭つぐ
      母死す二句
 我顔寄せてこれぞいまわの母の顔
 今夜は母と並んで寝る事きれし母と
  大正一二年に妻を、一三年には母を相次いで失った彼は、傷心の身を自ら主宰する句誌
「層雲」の同人であった井上一二邸に寄せたのであろう。土庄町渕崎にて醸造業を営んで
いた井上邸は、本覚寺から一キロメートル程の距離にあった。二人の女性の死を弔う彼の
行脚は、自身を弔う旅であったのかも知れない。
  大正一四年八月、一高、東京帝国大学の一級後輩で、門弟でもあった尾崎放哉を、小豆
島の土庄町王子山蓮華院西光寺南郷庵の庵主として紹介したのも、この縁によったのであ
ろう。西光寺は本覚寺から徒歩一0分の距離である。
  好い松もって死場所としていたが
  痩せきった手を合わしている彼に手を合わす
  墓どころ探して雲雀鳴く海も見える
  墓穴出来た星が出ている
  放哉を葬る四句である。大正一五年(昭和元年)四月二

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日、放哉死去の報を受けた井泉水は、翌日、内島北朗と共に南郷庵にかけつけた。そこで
彼の目に映ったものは松の大木の奥に隠れるように建つ小さな庵の中で、栄養失調と湿性
肋膜炎のためにやせ衰えた身体を横たえている門人のかわりはてた姿であった。放哉の墓
碑銘「大空放哉居士霊位」は井泉水の筆による。
  現在、陽光きらめくオリーブの島、小豆島は、多くの車や観光バスが走る明るい観光地
となり、井泉水の心に宿っていたであろう陰は見当たらない。ただ幹線道路からはずれ、
ひっそりとたたずむ本覚寺の句碑の前に立って彼の残した句の数数を思い起こした時、当
時の彼の心が、貧しかった寒村の風景と共に哀しく浮かんでくるのである。
  笠着てわたしも遍路とて雲雀啼く中
  お接待があるさうな蝶蝶も行く
  雨に雨蛙も鳴き出れば泊められる
  夕日の葱の穂の影も遍路宿
  淡路も霞む杖立ててゐる
  ほう雉子が啼く茶屋に長居しすぎた
  雨のおと笠のまま合掌する
  牛おいて柿の木も若葉する日の影
 藤のこぼれる掃いている満願となる
これは井泉水が島四国巡礼のおりの句である。
  井泉水は明治一七年(一八八四年)六月一六日、父藤吉、母ふじの次男として東京芝神明
町の雑貨卸商の家に生まれた。本名を幾太郎といった。明治三三年、一六歳で投句を始め、
一高法科に入学した彼は、一高俳句会を結成して高浜虚子、河東碧梧桐の指導を受けるよ
うになる。明治三八年に東京帝国大学に入学した年には、碧梧桐の新傾向俳句運動に加わ
り、井泉水の号を用いるようになった。彼は大正二年に季題制度の廃止を唱え、碧梧桐と
も袂を分かつこととなり、「層雲」を主宰。この句誌の中で、彼は印象詩としての俳句を
めざしたのである。
  無季自由律俳句を自己の哲学の発露として実践した荻原井泉水。彼と小豆島とは、直接、
或は井上一二氏を通じて、さらには尾崎放哉の目と心を通して深く関わっていたのではあ
るまいか。                            (大森慎一)

  2 尾崎放哉の生涯と句
  自由律の俳人尾崎秀雄(俳号放哉)について、生涯・南郷庵・俳句の三点から述べてみた
い。
   (1)生涯

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  尾崎秀雄(以下放哉と記す)は明治一八年に鳥取県邑美郡吉方町(現、鳥取市立川町)
に尾崎家の次男として生まれた。地元の鳥取第一中学校(現、鳥取西高)に入学し、一年
早く卒業して第一高等学校に入学した。同学年に安倍能成、小宮豊隆、中勘助、藤村操な
どがおり、一学年上に俳句の師となり生涯の支援者ともなった荻原藤吉(俳号井泉水、以
下井泉水と記す)がいた。明治三八年に東京帝国大学法科大学(現、東京大学法学部)に
入学し、校友会誌に俳句・随筆などを発表した。
  明治四二年に卒業して日本通信社に入社したが、一か月ほどで退社した。退社の理由は
不明である。明治四四年に東洋生命保険会社東京本社に入社し大正三年に同社大阪支店次
長、翌年東京本社契約課長となったが、大正九年に約十年勤務した同社を退社した。
  大正一一年に朝鮮火災海上保険会社の支配人として京城(現、韓国ソウル市)に赴き、
創業の任に当った。同年一0月頃肋膜炎を病み、翌大正一二年六月頃、突然社長の命によ
り辞職した。同年一0月頃大連から内地に引き揚げて来た。その直後に一二年連れ添った
妻と別れ、各地を転々とする放浪の生活が始まった。
  日本通信社、東洋生命、朝鮮火災海上の三社を退職した理由は正直に生きることを大切
な道としていた放哉が利害関係に終始し、人を陥れることを何とも思わない当時の会社の
連中に謀られそれを酒で紛らわせたためである。大正一三年一二月一五日の佐藤呉天子宛
の書簡で「人間『馬鹿正直』ニ生ルゝの勿レ、馬鹿デモ不正直ニ生ルレバ、コンナ苦労ハ
セヌ也」と書いている。
  放浪生活は京都の一燈園に始まり、知恩院、神戸の須磨寺、福井県小浜の常高寺、京都
の竜岸寺と続いた。寺男として住み込んだものの、肉体労働に堪えられずその上に住職と
喧嘩をしたり寺の内紛に巻き込まれたりしてどの寺でも落ち着くことが出来なかった。終
に放哉は台湾に渡り自分で出来ることをして生きて行こうと考えた。しかし井泉水がそれ
をやめさせたのである。井泉水は句誌「層雲」の同人の一人である井上一二のいる小豆島
に行くことを奨めた。それは小豆島が気候に恵まれていたこと、更には海の近くの小さな
庵に住みたいという放哉の希望を叶えるためであった。井上一二は知人の西光寺住職杉本
宥玄から奥の院にある小庵を借り受けた。その庵は所在地の名を冠した南郷庵(みなんご
うあん)というものであった。時に放哉四一歳の夏、大正一四年八月二0日のことであっ
た。

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 南郷庵は放哉の安住の地で、生存する最小最低の生活に安んじ、死所を得た喜びを持っ
て句作三昧の生活に入った。翌年四月七日に死ぬまでのわずか八か月足らずの間に二00
を超える句、七篇の随筆、入庵日記という日記、四三0通を超える書簡を遺した。

  (2)西光寺奥の院南郷庵
  放哉の終の住処となった南郷庵は正式には西光寺奥の院南郷庵と言う。西光寺は正式に
は王子山蓮華院西光寺と言い、四国八八か所の小型版である島四国八八か所の第五八番札
所となっている。西光寺は天正七年(一五七九年)に建立された真言宗寺院で、毎年四月
二一日と一二月二一日には大師市という市が立って賑わう。山門を入ると正面には昭和八
年に建立された本堂がある。本堂の前にイチョウの木がある。イチョウの木の向かい側に
庫裏と客殿があり、遍路の休憩所となっている。寺の裏に王子山という小高い山があり、
その山頂には誓願の塔という朱塗りの三重塔が立っている。この塔は昭和五一年に建立さ
れたもので今では寺のシンボルともなっている。
  山門前右手の路地を寺の土塀沿いに五、六分ほど歩くと南郷という地域に来る。ここは
山の斜面を利用した墓地となっている。墓地の入口付近の左手に南郷庵跡がある。
  奥の院は昭和五一年に誓願の塔地下霊堂に移され、南郷庵は昭和五二年に取り壊された。
南郷庵前に立っていた松の木は放哉によれば「二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松」
であったが、この樹齢二五0年を超える大松もマツクイムシの被害には勝てず、昭和五四
年に切り倒された。南郷庵跡で放哉に縁の物といえば、「以れも

         (#写真が入る)「放哉貿簀之地」石碑
    
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のがない両手でうける」という句碑、「俳人放哉易簀之地」という石碑、「尾崎放哉句碑
由緒記」という石板の三つだけである。句碑は井泉水の揮毫により昭和二年に建立された。
台座の上に一メートルばかりの自然石が乗っている。拓本に取られることが頻繁で、全体
が黒くなり、字はとても読みづらい。石碑は地元の「放哉友の会」の有志が建立し、石板
は鳥取市在住の放哉研究家である村尾草樹が設置した。
  南郷庵跡より墓地を奥へ登って行くと左手に広い一画がある。ここが西光寺関係者の墓
地である。放哉の墓もここにある。五輪塔の形で、正面に「大空放哉居士 霊位」、側面
に「大正十五年四月七日入寂」、裏面に放哉の経歴が書かれている。戒名は井泉水と西光
寺住職の杉本宥玄が決めたそうであるが「大空」というのは放哉の人間性、人生を見事に
表現している。
  南郷庵と大松がなくなったことは放哉が歴史の彼方に消え失せたことであるが、彼が大
正一四年八月二0日から翌一五年四月六日まで南郷庵で最も落ち着いた生活をし、俳人と
して、いや人間として生のエネルギーを最大限に燃焼させたことは厳然たる事実である。
また、南郷庵での八か月足らずの生活のために放哉が日本の俳句史上で不動の地位を固め
ることになったことも事実である。

  (3)放哉の俳句
  放哉は小学校時代に学業最優秀で、特に作文に長じていた。鳥取第一中学時代には漢籍、
洋の東西の哲学書もよく読んだ。句作を始めたのは中学三年生頃であった。梅史、芳水、
梅の舎などの俳号を用いた。第一高等学校在学中には校友会誌に投稿したこともよくあっ
た。「放哉」の号で一般商業新聞の俳句欄にもよく投句した。当時は伝統的な五七五の定
型句であった。当時の作品に次のようなのがある。
  椿咲く島の火山の日和かな
  何処へやら月が出て居る青葉哉
  紫陽花の花青がちや百日紅
  団栗を呑んでや君の黙したる
  大正四年一二月に井泉水主宰の自由律俳句誌「層雲」に放哉の句が載り始めた。以後自
由律俳句に傾斜して行った。自由律俳句は既存の権威を嫌い、自由奔放に生きようとする
放哉にはまさにうってつけの表現形式であった。放哉は直観から、物の核心を的確に捉え
て表現する術が巧みであった。しかし自由律という余りにも自由奔放で短い俳句のために
解釈が幾通りにもなることがよくある。

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「入れものがない両手で受ける」という句について評論家の大岡信は「第三折々のうた」
(岩波新書・黄版二二六)で次のように言っている。
    小庵住まいの身は、布施の米などを受ける器さえないほど無一文なのだ。理で解けば、
  「入れものが無いから両手で受ける」わけだが、句ではその「から」がけしとんでい
  る。けしとんだ時、人生の悲喜をこもごも含みながら、しかもそれを脱してしまった
  詩心の「大空」が出現した。
  大岡信の解釈はこの句が放哉自身を詠んでいるというものである。しかし別の解釈もあ
る。それはこの句が南郷庵に遊びに来た時に遍路から両手のひらに物を入れてもらってい
る子供の姿を詠んだものだというものである。それは放哉が相当自尊心の高い人間であっ
たので、いくら落ちぶれたとは言え、両手に物をもらうような乞食同然のことをするはず
がない。という放哉弁護論とも言うべきものである。西光寺の前住職杉本宥尚(放哉の世
話をした宥玄の子息)はこの解釈をしている。どちらの解釈が妥当なのかは放哉以外には
判断できない。いやそれでよいのかも知れない。
  南郷庵から門外不出の生活を旨とした放哉にとっては 南郷庵とその周辺が全世界であ
ったと言っても過言ではない。
  おそくなって月夜となった庵
  海が少し見える小さい窓も一つもつ
  せきをしてもひとり
  障子をあけておく海も暮れきる
  天気つづきのお祭りがすんだ島の大松
  大松一本雀に与へ庵ある
  わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなっている
  やせたからだを窓に置き船の汽笛
  とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
  淋しい寝る本がない                        (小林欣一)