一 内海を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   田上八重子
    校正者名   坂口和子
    入力に関する注記
     ・文字コードにない文字は『大漢和事典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の文
      字番号を付した。
  登録日 2005年11月11日
      


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   小豆島を歩く(#「小豆島を歩く」は太字)

  一 内海を行く(#「一 内海を行く」は太字)

   1 応神天皇小豆島行幸『日本書紀』(#「1 応神天皇小豆島行幸『日本書紀』」
   は太字)

  小豆島は『古事記』の国生み伝説によると伊邪那岐命と伊邪那美命が吉備の児島に次
 いで一〇番目に生んだ島となっている。当時、小豆島は「ショウドシマ」ではなく「ア
 ヅキジマ」と呼ばれていたが、またの名は「大野手比売(ルビ オオノデヒメ)」と記
 されていることから、島内各地に古墳を残し、島神として島内各地で祭られている大野
 手比売の率いる有力氏族が島を支配していたと考えられている。
 総面積一七〇km2(#「2」は「m」の右上隅に小文字)の、瀬戸内海では二番目に
 大きなこの島が次に文学上に登場するのは七二〇年に編纂された『日本書紀』の応神天
 皇の項である。
  四世紀後半、応神天皇の二二年春、天皇は妃である兄媛(ルビ エヒメ)が吉備の国
 へ里帰りする際、難波から出航する船を高台から見送りながら瀬戸の島々を望み見て
   淡路島、弥二並(ルビ イヤフタナラ)び、小豆島(ルビ アヅキシマ)、弥二並
  び、宜しき嶋々、誰(ルビ タ)、片去れ、ちらし、吉備なる妹を、相見つるもの
 と歌われた。
  その年の秋九月六日、天皇は淡路島に狩りに出られ、ついで吉備国に行き、小豆島に
 遊行され、そして一〇日には吉備国葉田の葦守宮に入られた。
   天皇便自淡路轉以幸吉備遊小豆島
  と、その記述はわずか二〇字足らずの短いものであるが『小豆郡誌』によると
   応神天皇二二年秋九月天皇淡路島ニ御遊猟吉備ニ幸シ転ジテ本島ニ御遊幸遊バサル
  当時天皇ハ四海村御幸居(今ノ伊喜末)ニ御上陸渕崎村〔コ〕土山(#「コ」は文字
  番号23076)(今ノ富丘)ニ登御セラレ效ノ森ニ行在セラル池田村半坂丘山(今八幡山
  ト云フ)ニ於テ島玉神(大野手比売)ヲ御親祭遊バサル後海路西村ニ御着(今ノ水木)
  ノ上苗羽村馬

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  目木山(今ノ馬木)又草壁村神懸山ニ御登臨遊バサレ遂ニ安田村立浜(今ノ橘)ニテ
  御船ニ召サレ将ニ吉備ニ還幸アラセラレントセシニ風波ノ為メ福田村ニ御避難遊バサ
  レ後吉備ノ葦森ノ宮ニ行在シ給フ是等ノ事蹟ハ多クノ史伝ニ昭々タリ且ツ里人ノ口碑
  ニ嘖々タリ
 とあり、以下『譽田縁起』『小豆島八幡宮五社由来記』

      (#写真が入る)応神天皇歌碑(太陽の丘)

 等をひいて天皇の行幸の跡を説明している。ただしこれはあくまでも伝説であり、どこ
 までが事実であるかは確かめるすべもないが、とにかく『郡誌』に示された道順を追っ
 てみることにする。
  天皇は淡路島から岡山に渡り、そこから船で四海の伊喜末にご到着なさったという。
 伊喜末は島の西北部にあり、土庄港からバスで約二〇分の所にある漁村である。そこか
 ら南に約四km離れた所にある渕崎の富丘に登られた。この丘の山頂は島内で最大最古
 の古墳であり、この辺りを双子浦とも言い、讃岐百景の一に指定された名勝で眼下に余
 島、彼方に屋島・八栗を望む絶景の地である。丘の麓を走る国道のすぐ脇に応神天皇の
 船をつないだと言われる松の木があったが、現在は石碑だけが残されている。次に立ち
 寄ったのは池田町蒲生と池田の境にある半坂の八幡山である。富丘からはバスで約一〇
 分、東へ行った所にある。この山にあった神社(現在は星ケ城に移されている)には大
 野手比売を祭ってあり、そこに親祭なさった後、船で三都半島を巡って内海湾に入り、
 西村の水木に到着なさった。池田町と内海町の境には丸山峠という、現在でもかなり険
 しい峠があり、当時は陸路を行くのは非常に困難であったろうことが想像される。

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 また、今でこそ島を巡る幹線道路は立派に拡張整備されて交通の便もよくなったが、戦
 前までは、むしろ海上交通による他郷との交流が多かったとのことである。古代におい
 ては船で島を巡るというのは当然の手段であったのであろう。
  内海町に入られた天皇は西村から苗羽の馬木へ、そして草壁に戻り、神懸山に登られ
 るのである。神懸山は紅葉の名勝地・寒霞渓として知られており、標高六二〇mのこの
 山も、現在ではロープウェイを利用したり、ブルーラインと命名された登山道路を車で
 約一時間も走れば容易に頂上までたどりつける。さて、寒霞渓からは島の東部にある橘
 に下山されたらしい。海に沿ったわずかな平地にできた村落である橘の背後には、人間
 の親指を立てたような形をした親指嶽(標高三七〇m)という岩山があり、ロッククラ
 イミングの練習にかっこうの山であるが、おそらく天皇一行は道なき道を、その山を目
 標にして下りて来られたのではなかろうか。現在でも、そのような道はないのだから。
 橘からは再び船に乗り、吉備の国に戻ろうとなさったのであるが、風波が烈しく、橘か
 ら約八km北にある福田に避難なさった。その後、無事に岡山へ渡られた。
  応神天皇が遊行なさったあとを地図でたどってみると、島の南側を半周している。約
 一六〇〇年後の現在、観光の島として、あるいは『二十四の瞳』の島として全国に知ら
 れ、多くの観光客が訪れているが、さしずめ応神天皇は記録上の観光客第一号であった
 と思われる。岡山に行幸されたついでであったとしても、天皇が小豆島に立ち寄られ、
 島内の各地を巡ったということは、それなりの意味があった。それだけ小豆島を重視し
 ていたということであり、逆に言えば島の支配者達も大和朝廷の支配下に置かれていた
 とも考えられる。
  天皇が立ち寄られた伊喜末鷹尾山、渕崎富丘山、池田宝亀山、馬木亀甲山、福田葺田
 (ルビ フクダ)の森にはそれぞれ八幡神社があり、応神天皇を奉祀する社殿がある。
 毎年、一〇月中旬には氏子達による太鼓奉納などの盛大な秋まつりが行われ、正月には
 「五社巡り」と呼ばれる以上の五つの神社に参拝する風習が残っている。
  また『古事記』などには国魂信仰に根ざして、地名由来の説話が数多く取り入れられ
 ているが、応神天皇の小豆島行幸の際にも、そのような伝説ができたようである。
   神懸山
   伝フラク往昔応神天皇ノ遊猟アラセラルルヤ峻崕巉(ルビ ザン)

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  壁登攀ニ難ク乃チ千鉤(ルビ カギ)ヲ岩角ニ懸ケ以テ僅ニ頂上ニ達シ給ヘリ鉤懸(
  ルビ カギカケ)ノ名茲ニ始マルト
   福田
   伝フラク天皇本島ニ於ケル遊幸ヲ了ヘ立浜(今ノ橘)ヨリ御船ニテ還幸マシマサン
  トセラレシカ風波荒ク為メニ福田ノ里ニ御船ヲ寄セ給フ依テ土人ハ田ノ中ニ丸木ノ御
  座所ヲ建テ刈穂ニテ御屋根ヲ葦キ以テ行宮ニ供シ奉リシト云フ後世其ノ古跡ニ祠ヲ建
  テ天皇ヲ奉祀シタリシヲ現在ノ地ニ遷宮シ奉リシナリト盖シ村名森名両ツナカラ茲ニ
  発セシニ外ナラス 以上、「郡誌」に載せられた代表的なものである。(太田久代)

   2 星ヶ城(#「2 星ヶ城」は太字)

  小豆島の最高峰・星ヶ城山。八一六メートルの頂きから望む景色は壮大である。東は
 淡路島・鳴門、北は岡山、西は塩飽諸島を見下ろし、南は阿讃の山々までも見渡すこと
 ができる。
  南北朝時代、この山にはその名の通り、星ヶ城という城が築かれていた。城の主は佐
 々木飽浦(ルビ あくら)三郎左衛門尉信胤(ルビ さえもんのじょうのぶたね)。南
 朝方の武将である。近江源氏の流れで、祖父・佐々木胤泰から備前児島の飽浦を拠点と
 していた。一三三九年(延元四年、北朝暦応二年)、信胤は児島から兵を挙げ、あっと
 いう間に小豆島を制圧した。以後八年間、信胤は小豆島にあって星ヶ城に腰を据え、海
 上権を握ることによって南朝方の勢力維持に貢献したのである。
  しかし彼は元から南朝方の武将ではなく、北朝方の人間であった。一三三五年(建武
 二年)には、讃岐鷺田庄にいた細川定禅に従い、備前に兵を挙げ福山城攻めに手柄をた
 てた。『太平記』巻一四「諸國(右下隅に「ノ」)朝敵峰起(右下隅に「ノ」)事」に
 も彼の名を見ることができる。
  が、この後、巻二二では「作(「作」に(ママ))々木信胤成(右下隅に「ル」、左
 下隅に「二」)宮方(右下隅に「ニ」、左下隅に「一」)事」とあり、彼が南朝方に寝
 返ったとの記事が記されている。伊予国から南朝・吉野の朝廷に、然るべき人物を大将
 として遣わして欲しい、との要請があった。そこで新田義貞の弟・脇屋義助を下すこと
 にしたが、当時陸も海も敵ばかりであり、四国へ渡る方法を思案していたところ、信胤
 から早馬があったのである。
  去月二十三日小豆嶋ニ押(ルビ オシ)渡り、義兵ヲ擧(ルビ アグ)ル處ニ、國中
  ノ忠アル輩馳加(ルビ ハセクハハツ)テ、逆徒少々打順(ルビ シタガ)ヘ、京都
  運送ノ舟路ヲ差塞(ルビ サシフサイ)デ候也。急近日大將御下向有ベシ。
 と告げて来たのであった。そこで、南朝方は急ぎ義助を伊予国に遣わすことにしたので
 ある。

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  さて、北朝方であった信胤がなぜ南朝方に付いたのか、 『太平記』はこう続ける。
  將軍(尊氏)ノ爲ニ忠功有シカバ、武恩ニ飽テ、恨ヲ可(ルビ ベキ)(左下隅に「
  レ」)含(ルビ フクム)事モ無リシニ、依(右下隅に「ツテ」、左下隅に「レ」)
  何(右下隅に「ニ」)今俄(ルビ ニハカ)ニ宮方ニ成(ルビ ナル)ゾト、事ノ根
  元ヲ尋ヌレバ、此比(ルビ コノコロ)天下ニ禍(ルビ ワザハヒ)ヲナス例ノ傾城
  (ルビ ケイセイ)故トゾ申ケル。其此(ルビ ソノコロ)菊亭殿ニ御妻(ルビ オ
  サイ)トテ、見目貌無(ルビ ミメカタチナク)(左下隅に「レ」)類(ルビ タグ
  ヒ)、其品(ルビ ソノシナ)賤(ルビ イヤシ)カラデ、ナマメキタル女房アリケ
  リ。
 つまり信胤は「御妻」(以下「お才の局」とする)という美女の為に、南朝方に走った
 というのである。事の起こりは、足利尊氏の重臣・高師秋(ルビ こうのもろあき)の
 思い人であったお才の局を、師秋が伊勢守として任地に赴いている隙に、信胤が奪い取
 り児島に連れ去ったことであった。
  土佐守(師秋。初め土佐守だった)彌(ルビ イヨイヨ)腹ヲ居兼(ルビ スエカネ)
  テ、軈(ルビ ヤガ)テ飽浦ガ宿所ヘ推(ルビ オシ)寄テ討(ルビ ウタ)ント議
  (ルビ タバカ)リケルヲ聞テ、自科依(左下隅に「レ」)難(左下隅に「レ」)遁
  (ルビ ソガレ)、身ヲ隠シカネ、多年粉骨ノ忠功ヲ棄テ、宮方ノ旗ヲバ擧(ルビ 
  アゲ)ケル也。
 当時尊氏の側近であった師秋からお才の局を奪えば、北朝を敵に回し南朝方に付かざる
 を得なかったのは、当然の結果であった。
  その後信胤は小豆島に渡った。島の最高峰に星ケ城を築き、そこから見下ろせる地に
 お才の局の居館を建てた。現在、星ケ城跡は史跡として、県の文化財に指定されている。
 一五〇〇メートルの自然研究路も整備されており、格好のハイキングコースとなってい
 る。
  寒霞渓に通じるドライブウェイを途中南に折れて、駐車場まで進む。そこから先は、
 杉木立ちに囲まれた登山道が続いている。三五〇メートル程行くと、東峰・西峰に向か
 う自然研究路がある。
  東峰の方に足を向ける。頂上にいく途中に少し右へ下ると、地下水の湧き出る二個の
 井戸、石塁を築くための石の採取場だった舟形遺構がある。元の道に戻ると、左手に阿
 豆枳(ルビ あずき)神社が見える。この神社は西峰にもあり、両神社とも小豆島の守
 護神を祭っており、この東峰の方は豊受神を祭神としている。ここを過ぎると頂上が見
 えて来る。頂上付近には石が積み上げられた石塔があるが、これは某宗教団体の信者達
 が作ったもので、星ケ城とは無関係である。この背後に東峰の最高地点八一六・六メー
 トルの標石がある。ここまでやって来るとさすがに疲れるが、足元から来る清々しい風
 と瀬戸内の一大パノラマに慰められて、ほっと一息つける瞬間である。山頂南部には、
 緊急時に、集落があった草壁・安田方面との連絡に用いた峰火台があり、石塔の背後に
 は、祭祀遺構があ

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 る。東峰を回るコースの北側には、居館跡と人口井戸が残っている。居館跡は西峰の居
 館跡が見渡せる場所で、何らかの建物があったと推定される。
  西峰を回るコースは東峰に比べると長い。鍛冶場跡、居館跡、水の手曲輪がある。水
 の手曲輪は、山城にとって欠くことのできない飲料水を確保するためのもので、

      (#写真が入る)東峰阿豆枳神社

 当時の姿のまま残っている。西へ行くと、寄せ手を食い止める土壇と外の空壕がある。
 東に行くと、阿豆枳神社があり、こちらは大野手媛を祭っている。西峰の頂上は八〇四.
 九メートル、東西約六七メートル、南北三十メートルという広さを持つ。ここからの眺
  めも東峰に劣らず、小豆島の最高峰として恥じないものである。頂上を下り下の空壕を
 通り、再び鍛冶場跡を過ぎると西峰の城跡を一通り見て回ったことになる。
  東峰を回るコース約五〇〇メートル、西峰を回るコース約一〇〇〇メートル。一時間
 程で一周できる。自然の中に残された遺構を見ていると、南北朝の時代、信胤の意気上
 がる青年らしい心持ちに触れたような気がするのである。
  一方、お才の局は星ケ城の麓、現在の内海町安田の地に居館を構えていた。が、彼女
 がどういう生活をしていたのかは全く不明である。信胤には竹成御前と呼ばれる娘がい
 たが、その人物がお才の局のとの間に生まれた子であるかどうかさえも分かっていない。
 愛する男と伴に京を出たお才の局は何を思い何を感じ、一生を終えたのだろうか。彼女
 は星ケ城が落ちた時に死んだとされており、その墓は農協安田支所の東南の角に残って
 いる。

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  その後、信胤は一三四七年(貞和三年)、淡路守護細川師氏によって小豆島を攻めら
 れ、必死に攻戦したものの、一ケ月後遂に降伏してしまったという。彼がどういう死に
  方をしたのかは不明である。以後、一五年間生きていたらしい。安田の植松には彼を祭
  る小祠が残っている。
  愛する女性をライバルから奪い、南朝方に走った信胤。彼に連れられて、はるばる瀬
  戸の海を渡ったお才の局。今から六五〇年前の二人の恋物語を、地元安田の人々は愛し
 く、あるいは羨しく思い、「安田踊り」という盆踊りに仕立てた。男踊りと女踊りに別
 れて毎年八月一四日に、二人を偲びながら踊るのである。なお、この「安田踊り」は、
 一九七三年(昭和四八年)に、県の無形民俗文化財に指定された。  (山本真由美)

   3 黒島傳治の文学と生涯(#「3 黒島傳治の文学と生涯」は太字)

  (1) 作家としての自立と背景(#「(1) 作家としての自立と背景」は太字)

  プロレタリア作家・黒島傳治は、明治三一年、一二月一二日、香川県小豆郡苗羽(ル
 ビ のうま)村苗羽甲二二〇一番地(通称芦ノ浦(ルビ あしのうら))に、父・黒島
 兼吉、母・キクの長男として生まれた。当時、黒島家は畑五反、山二町を持つ自作農で
 あった。父の兼吉は鰯網の株を持っていて、鰯の時期には網引きにも出たという。決し
 て豊かではなかったが、地味でよく働く堅実な家柄であった。
  明治四四年三月、苗羽小学校を卒業、四月、内海(ルビ うちのみ)実業補習学校へ
 入学した。当時、小学校を卒業する者のうち、大部分は醤油会社などで働き、一部の者
 は実業補習学校に、そして、ごく限られた分限者の子弟だけが島外の中学校に進学して
 いた。傳治は長身、猫背で学業に秀でていたが、野球なども教室から見ているだけで、
 目立たない存在であったという。
  大正三年、内海実業補習学校を卒業し、船山醤油株式会社に醸造工として入社した。
 しかし、軽い肋膜炎に加えて性に合わないということもあって一年ばかりで退職。一七
 歳のこの頃から、講義録・雑誌などを取り寄せ、文学修業を始める。一八歳にかけて、
 日本、世界の名作を手あたりしだいに読み、法華経やスヴェーデンボリの作品にまで及
 んだという。
  この頃、隣村の岩井(壺井)栄の友人で、大阪の病院の看護婦をしていた岡部小咲と
 親しくなり、やがて肋膜を患って帰島した彼女と頻繁にゆききした。病気の小咲と自分
 をモデルにして、この頃書いたと思われる「呪われし者より(K姉に)」が残っている。
 (しかし、彼女は、

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 大正八年五月、肺結核でこの世を去った……。)
  大正六年秋、一九歳の傳治は文学の志を抱いて上京、三河島の小さな建物会社に勤め
 ながら小説を書いた。
  大正七年、会社を辞め、神田の暁声社(養鶏雑誌社)の編集記者となる。そして、ト
 ルストイ、ドストエフスキー、チェホフ、島崎藤村、志賀直哉らに深く傾倒、黒島通夫
 のペンネームで「すゝり泣き」を書いている。当時、早稲田文学社主催の定期文芸講座
 が、神楽坂の芸術倶楽部で開かれていた。中村星湖の講演のあった夜、その倶楽部で、
 早稲田大学英文科の学生であった同郷の壺井繁治に出会い、以後、親しく往来すること
 になる。傳治は次のように書いている。--「その時、ふと、同村の壺井繁治に出会っ
 た。そこで初めて壺井が文学をやろうとしているのを知った。意外だった。文学をやる
 人間を国賊のように云う村から、文学がすきな人間が二人出ていたからである。」(「
 僕の文学的経歴」)傳治二〇歳、作家として生涯の転機となった年であった。
  翌、大正八年春、繁治の世話で、早稲田大学高等予科英文科へ第二種生(中学を経な
 いで進学できる選科)として入学した。しかし、喜びも束の間、その年の徴兵検査で甲
 種合格。選科の学生は徴兵猶予が認められず、召集され、一二月一日、姫路歩兵第一〇
 連隊に入営、衛生兵となった。東京を去る一一月二〇日の日より、「軍隊日記」が書き
 始められた。(大正一一年七月まで。昭和三〇年一月理論社刊)
  「軍隊日記」には、「一生の中において最も大切なる時期」を浪費させる軍隊生活を
 呪い、その制度に激しく抗議している。また、その中で歪められ、卑屈になり、エゴイ
 スチックになった人間たちにも激しい批判の言葉を浴びせている。
  大正一〇年五月、シベリア派遣となり、ラズドリーエ陸軍病院に衛生兵として勤務し
 た。彼にとっては、憤りのシベリア出兵であり、同時に、大学での勉学・文学への願い
 が断ち切られたのであった。しかし、この時の体験が、後の「シベリア物」と呼ばれる
 一連の反戦作品を生み出すことになったのも事実である。
  大正一一年三月、幸か不幸か、肺尖炎の疑いで入院し、ニコライエフスク陸軍病院に
 転送された。五月八日、姫路衛戌病院に移され、七月一一日、兵役免除となる。郷里の
 小豆島で療養生活に入り、再び創作の筆を執るが、この頃から傷病恩給を月額四〇円支
 給され、晩年に及ぶ。
  大正一二年三月、小説「電報」「窃む女」、六月、「創

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 作ノート」、一二月、「砂糖泥棒」「まかないの棒」「田舎娘」を書いた。
  大正一三年一一月、苗羽村の馬木部落で粉ひきの手伝いをしていた少年が、牛に踏み
 つぶされて死亡した。これがのちの「銅貨二銭」のモデルとなったといわれる。
  大正一四年初夏、二度目の上京をし、世田谷太子堂の壺井繁治の家に寄宿。六月、同
 郷の石井トキエと結婚した。(しかし、昭和三年二月に協議離婚。傳治の思想的立場を
 理解できなかった妻が、神経衰弱にかかったためといわれている。)
  大正一五年、「二銭銅貨」「豚群(ルビ とんぐん)」を『文芸戦線』に発表。好評
 を得、同人となった。
  昭和二年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂に際しては、労農芸術家連盟の創立に加
 わり、後には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、ナルプ内の農民文学研
 究会の主要メンバーとして活躍した。シベリアでの軍隊生活の体験から、この年、「雪
 のシベリア」・「橇(ルビ そり)」・「渦巻(ルビ うずま)ける烏(ルビ からす)
 の群(ルビ むれ)」・「国境」などの、すぐれた反戦文学が生まれた。
  昭和四年、三一歳で杉野コユキと再婚、杉並区高円寺に移り住んだ。私生活において、
 初恋の人の夭逝、離婚、と悲しみが続いた傳治であったが、再婚後は、昭和五年・長女
 耀子誕生、昭和一〇年・長男一実、昭和一五年・二女知子、と三人の子宝に恵まれた。

  (2) 晩年の小豆島(#「(2) 晩年の小豆島」は太字)
 
  昭和八年(三五歳)、早春の頃、中野区の百貨店で喀血。夏、病気療養のため帰島し
 た。翌九年春、苗羽村甲二二三四番地に一九坪ほどの家を建てた。原稿のよく売れてい
 た時代から酒もたばこもほとんどのまず、人づき合いも少なく、地味で堅実な生活を続
 けた彼は、この家も、ほとんど自力で建てたという。きびしい闘病生活ではあったが、
 山羊や鶏を飼い、自給自足のできる田舎で傷痍軍人としての恩給によって、一応の生活
 が出来たのである。
  その後、一〇年近い年月を闘病生活の中で過ごす。
  昭和一七年四月、肋膜炎を併発して病状が悪化。昭和一八年一〇月一七日、傳治は小
 豆島芦ノ浦の自宅で逝去した。享年四五歳。
  晩年、文通の多かった川那辺光一から依頼された色紙に、死の半年前、傳治は次の言
 葉を書き記している。
  一山こゆれば 又一山
  一峰こゆれば 又一峰 

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  限りなき 道ぞたのしき
    一八・四   傳治
  傳治の文学碑は、昭和四〇年一月一七日、芦ノ浦の丘の上に、壺井繁治を主とする文
 学碑建立発起人の手で建設された。碑文は次の通りである。
    一粒の砂の
    千分の一の大きさは
    世界の
     大きさである

      (#写真が入る)黒島傳治文学碑(内海町芦浦)

  哲学的なこの碑文は、丘の上から、今も、おだやかな瀬戸内の海を見つめつづけてい
 る。

  (3) 代表作について(#「(3) 代表作について」は太字)

  傳治の代表作を一篇、その一部を掲げて、彼の作風を案内する道しるべとする。
 「渦巻(ルビ うずま)ける烏(ルビ からす)の群れ」(昭和三年『改造』二月号)よ
 り
    九章
  薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。
  どちらへ行けばいいのか!
  疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いて
 いた。
  疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものなのだ。
  一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あって
 いいものだろうか?
  少佐の性欲の××になったものだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。
  何故、シベリアへ来なければならなかったか。それはだれによこされたのか? そう
 いうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分からなかった。
     (中 略)

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  ……雪が降った。
  白い曠野に、散り<゛(#「<」は繰り返し)に横たわっている黄色の肉体は、埋め
 られて行った。雪は降った上に降り積った。倒れた兵士は、雪に蔽われ、暫らくするう
 ちに、背嚢(ルビ はいのう)も、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横
 たわっている痕跡は、すっかり分からなくなってしまった。
  雪は、なお、降り続いた。……                  (大町 明)

   4 壺井繁治「石」の詩碑(#「4 壺井繁治「石」の詩碑」は太字)

 『二十四の瞳』の岬の分教場がある田浦に行く途中、小さな入江があり、いつも老朽船
 が繋留されている。廃船の解体場である。田浦半島がくびれた所で県道を直進すると田
 浦へ、左折(東へ)して細道を進むと外海に面して小さな集落がある。内海町苗羽堀越
 の集落であり、詩人、壺井繁治の生まれた村である。
  壺井繁治の生家は村でも有数の農家であり、また網元でもあった。耕地の少ない島で
 はどこの村でも同じであるが半農半漁で生計をたてていた。堀越から沖を眺めると左手
 に坂手港、右手に福部島という小さな島が見え、水平線のあたりに淡路島が視界一ぱい
 に横たわっている。よく晴れた日には右手遠方に大鳴門橋も望見できる。沖あいの福部
 島は格好の漁場であるが、この島の領有をめぐって坂手村との争いが起ったという伝説
 がある。
  昔この島をめぐって堀越、坂手両村の領地領海争いがおきました。「福部島はわしら
 のもんじゃ」と両村漁民は互いに譲らず、村長らの話し合いの末、「伝馬船で先に着い
 た方が領有する」ことにしようということになった。それぞれの村を代表する腕自慢の
 男が競争した。はじめから堀越村が優勢であったが勢いあまって行きすぎてしまい、後
 から来た坂手村の伝馬船の勝ちとなった。
 それから後、「堀越伝馬は行き過ぎた」と何ごとにも行き過ぎを戒める言葉として島内
 で使われている、というような話である。
  海岸に沿って二・三〇〇メートルの直線道路を集落のはしまで進むと壺井繁治詩碑の
 小さな案内表示がある。それに従って集落の中の細道をたどると、苗羽小学校堀越分教
 場跡地があり、その一番奥まった所に「石」の詩碑がある。
   石は
   億万年を
   黙って
   暮らしつづけた

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   その間に
   空は
   晴れたり
   曇ったりした
  御影石の碑は昭和五九年一〇月二一日、詩人の一〇回目の忌日(球根忌=九月四日)
 を記念して建立されたも

      (#写真が入る)壺井繁治詩碑(内海町堀越)

 ので正面一三五センチ、奥行五〇センチ、高さ九六センチ、甥・戎居研造氏の設計であ
 る。島で使われていた唐臼の支点になる「ほろろ石」をデザインしたものである。碑文
 はその幾何学的な造形の中央部を縦約四〇センチ、横約七五センチの長方形に彫りこみ、
 磨いた石面に刻まれている。生前、詩碑の話がでた折、詩人自身が、これでよかろうと
 生家の甥に手渡した色紙を復刻したものだそうで、この場所も、夫人壺井栄の文学碑、
 黒島傳治の文学碑と同様、生家の近くの海の見える場所にということで選定されている。
  碑の周囲にやはり島の御影石を敷きつめた石畳を作り碑文の「石」に会わせた石の空
 間を構成している。この碑のすぐ背後に島四国八八ケ所の五番札所堀越庵があり、村の
 氏神、荒神社も祀られている。かつては巨大なうばめがしの杜があったのであろうが、
 今は伐り倒されて切り株だけが残っている。分教場の跡地もバスケットボールのコート
 くらいの広さの空地で建物等は何も残っていない。
  壺井繁治は明治三一年小豆島(内海町苗羽堀越)に生まれ、苗羽尋常小学校を経て内
 海実業補習学校(現小豆島高校の前身)に入学したが三年で退学、大正二年大阪

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 の私立上宮中学二年に編入、大正七年早稲田大学に入学。(中退)。萩原恭次郎、岡本
 潤、川崎長太郎らと『赤と黒』を創刊。ダダイズム的な芸術運動をおこしたがその後ア
 ナキズムの立場をとる。『文芸解放』の創刊に参加。さらにマルキシズムに転じ、三好
 十郎、高見順らと「左翼芸術同盟」を組織、昭和三年「ナップ」に参加し、『戦旗』の
 発行経営に全力を注いだ。この前後大正一四年に壺井栄(旧姓岩井)と結婚。戦後新日
 本文学会の創刊に参画。最初の詩集は昭和一七年刊行の『壺井繁治詩集』であり、生涯
 一五冊の詩集を刊行。昭和三七年詩人会議を結成し「詩的実践による詩と現実の変革を
 めざす」詩の運動を展開した。昭和五〇年九月四日没。プロレタリア詩、民衆詩のリー
 ダーとしての活動を一貫し、彼の忌日を球根忌と呼び、毎年詩人会議の人々によって墓
 前祭が営まれている。詩集以外にも『詩人の感想』『現代詩の精神』『現代詩入門』『
 詩と政治との対話』『公園の乞食』『奇妙な洪水』等の評論、随筆。『現代詩の流域』
 『激流の魚』等の自伝がある。
  詩人壺井繁治に関する評言は少ない。夫人壺井栄の名声に比して、その蔭に隠れた感
 じもある。詩人と小説家という歩んだ道のちがいかもしれない。しかし同じ文学の道を
 手を携えて歩んだ一心同体の夫婦である。彼の人と作品について、壺井繁治「石」の詩
 碑建立記念という小冊子に寄せて詩人の伊藤信吉が次のように述べている。
  (前略)たぶん壺井さんには融通のきかぬところがあったろう。愚直なところがあっ
 たろう。硬直し、馬車馬めいたところがあったろうし、思想表現における幅の問題もあ
 っただろう。さびしい後ろ姿、崩れによって危うく身を支えたことだってあるだろう。
 一人の生活者として私はそれが当たり前だと思うし、マイナスやプラスのがたがたなし
 に、人の生涯は成り立つものではない。況してまじめ人間だった壺井さんの七十三年の
 生涯は……。
 「老いた園丁が」「うつらうつらと仮眠しているとき、世界のどこかで、なにかが弾け
 る音で、目を覚ました。」という「球根」の一章。こういうまっとうな作品を遺した詩
 人。ここに私は壺井さんの一つの「碑銘」を読む。言うまでもなく「石」の碑の銘文に
 もそれを読む。まじめ人間の人生的銘文をよむ。(伊藤信吉「一つのこと」)また詩碑
 建立の趣意書に、発起人代表として詩人小野十三郎・伊藤信吉連名で、
  (前略)プロレタリア詩運動の先駆者として半世紀をこえるその文学的業績は、現代
 詩史に一つの山魂をきず

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 き、その裾野もまた広く働く人びとの声と重なりあい、忘れることのできない足跡をし
 るしています。
  明治・大正・昭和と苦闘にゆれながらも、時代と民衆の現実をみすえていたこの詩人
 の真摯な生き方は、これからも多くの人達への大いなる励ましと共鳴を呼びおこすこと
 でしょう。(後略)
 と記している。
  「石」の碑に刻まれた作品は、昭和一七年刊の『壺井繁治詩集』に収められている。
  もの言わぬ「石」に象徴された詩人の生涯を人生への強固な意志。激動の時代を生き
 ぬいた生活人の苦しみや悲しみ。激しい意志を内に秘めながら真摯に周囲の情況を擬視
 する姿勢がやさしい言葉づかいの中に凝縮されているような作品である。
  もの言わぬ「石」の悲しみをもっと生々しく表現した作品に「蝶」という長篇の詩が
 ある。標本箱の中に背中から一本の鋭いピンにとめられて、ナフタリンのぷんぷんにお
 う蝶のイメージに仮託された詩人の怒りと悲しみを表現した作品である。
  飛ぶことのかなわぬ蝶が翔びたち、ものいわぬ石がものを言うのが彼の詩の世界であ
 ろう。「木の芽立ち」という詩の最終行に「石が芽立つのもこの時期である」という詩
 句がある。                            (熊坂泰忠)

   5 壺井栄文学碑(#「5 壺井栄文学碑」は太字)

  壺井栄の生誕の地、坂手(内海町)は小豆島の東の玄関として開けた港町である。船
 着場から洞雲山へ登る途中に小高い丘があり、向いの丘と呼ばれている。この丘に壺井
 栄の文学碑がある。港から家並みの中の小径を経て墓地を登りきると丘のとっつきに生
 田春月の「海図」の詩碑があり、丘の上は傾斜した広場になっている。その広場の奥に、
 桃、栗、柿、柚子の木に囲まれて文学碑がある。
   桃栗三年
   柿八年
   柚子の大馬鹿
   十八年
     壺井 栄
 と作家自筆の色紙を刻んだもので、碑は高さ一一〇センチ、幅二三五センチの花崗岩。
 碑の前に直径一メートルほどの石臼や藍瓶を配している。
  文学碑は壺井栄の死後、その文学的功績を讃えて昭和

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 四五年九月に建立されたものである。
  壺井栄は明治三二年、小豆島坂手(内海町)に生まれた。生家は醤油の樽を造ること
 を生業としていたが、彼女が尋常小学校へ入学した後、蔵元の倒産などによって家運は
 傾き、以後苦労を重ねて尋常小学校を卒業。郵便局、役場にも勤めたが、この頃同郷の
 壺井繁治、黒島傳治から雑誌を送ってもらい、文学への強い関心を抱く。

      (#写真が入る)壺井栄文学碑(内海町坂手向いの丘)

 大正一四年上京して壺井繁治と結婚。世田谷に新居を構えたが隣近所に林芙美子、平林
 たい子夫妻が住み、貧しいながらも文学的雰囲気に接し、作家としての萌芽がきざしは
 じめる。昭和二年夫繁治がアナキズムの文芸雑誌『文芸解放』創刊に参加、昭和三年、
 繁治、三好十郎らと左翼芸術連名を結成、翌年より機関誌『戦旗』が発行され、その編
 集・経営を手伝う。昭和七年頃から宮本百合子、佐多稲子らと親交を結び、昭和一〇年
 頃から童話、短篇小説を書き始める。昭和一三年『大根の葉』発表、以後本格的作家活
 動に入り、昭和四二年七月死去するまで三〇〇篇をこえる作品を発表した。昭和一六年
 創作集『暦』により新潮文芸賞、昭和二六年『柿の木のある家』で第一回児童文学賞、
 昭和二七年『母のない子と子のない母』『坂道』などにより芸術選奨文部大臣賞を受賞。
 昭和二七年『二十四の瞳』発表、木下恵介監督の映画化承諾。昭和二九年『二十四の瞳』
 高峰秀子主演で映画化。昭和三〇年『風』により女流文学賞受賞。昭和四二年内海町名
 誉町民の称号を与えられる。後昭和六二年、朝間義隆監督、田中裕子主演で『二十四の
 瞳』再映画化。この時のロケに使われたオープンセットが映画村として保存されている。

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  壺井栄の少女時代、娘時代は、家業の衰退、子守り奉公や内職、渡海屋(回漕店)の
 手伝い、脊椎カリエスの闘病生活等々、汗にまみれた苦労の連続であったろうが、彼女
 の作品の多くはこの頃の体験をベースにして書かれている。うす暗い蔵の中でもろみを
 醸すように、彼女の胸の中で温められた素材やモチーフが、後年次々と作品として結晶
 したのであろう。
  彼女の作品は醤油を上手に使った田舎料理の趣がある。小豆島の方言を使って味つけ
 した童話や小説はその舞台が彼女の村であったり、作中の人物が近隣の人であったりす
 る。淡泊で歯ざわりのよい料理は強烈な個性やアクの強さを持たないが、やさしいおふ
 くろの味であり、腹中におさまると頑固でしたたかな強さを持つ逞ましい母親の味であ
 る。
  彼女の文学を記念する碑のことばが、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿十八年」と
 いうのも、その文学と人生を象徴しているようである。畑に植えられた苗木は土の中で
 辛抱強く根を張り、幹を太らせ、枝を張るための地中の営みによって、やがて花咲き、
 実を熟す準備をしているのである。
  昭和一四年発表の童話に『桃栗三年』というのがある。船乗りの父親は家を留守にし
 ており、老齢の祖母と病の母は野良に出られず、幼い姉弟が段々畑で麦を作る話である。
 手に余る野良仕事をもて余した姉弟が麦畑を果物畑にしようと母に相談するのだが、「
 桃栗三年 柿八年柚は九年の花盛り」という俗諺で、果樹はすぐには収穫できないのだ
 と諭される。
  碑文は彼女が好んで色紙などに書いたことばだそうだが、古い島のことばでは「……
 柚は九年の花盛り」なのだが、「……柚の大馬鹿十八年」と結んでいる。作家としての
 出発が遅かった彼女自身を比喩したものではあるまいが、「大馬鹿」ということばには、
 子供の姿を巧みに描き、子供の成長を優しく見守る母親の姿を描いた彼女の慈愛がこめ
 られているような響きがある。若い時代に苦労を重ね、前向きに明るく、せい一杯に生
 きようとしたこの作家には、「十七八が二度候かよ、枯木に花が咲き候かよ」という色
 紙も残っている。
  昭和六二年版『壺井栄のしおり』(壺井栄顕彰会編集発行)の中で、碑文の拓本を載
 せ、その解説文に、(前略)一般に流布されている俗諺は「……柚は九年の花盛り」と
 結んでいる。ところが茨城県から来たお手伝いさんから「私の田舎では終わりのところ
 は、柚の大馬鹿十

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 八年と言います。」と聞いて、すっかり気に入り、それ以後は碑文のように書くことに
 したと、壺井栄さんは、その随筆集「柚の大馬鹿」で述べています。
  また、亡き主人で詩人の壺井繁治さんは、「大馬鹿と軽蔑される柚でも十八年もすれ
 ば実がなるという意味がこめられていて、下積みの民衆に対する共感が彼女にこの俗諺
 を好ませた所以であり、いわば、栄の文学の一面をおのずから物語っている―」と雑話
 集に書いています。と記されている。
  壺井栄の没後、一九七一年(昭和四六年)六月二三日、五回目の忌日を期して、壺井
 栄顕彰会(事務局・内海町教育委員会)が発足している。この会の事業の一環として、
 「小・中学校及び高等学校児童、生徒の作文の表彰」が掲げられている。これによって
 昭和四八年以来、壺井栄賞が制定され、県内の小・中・高校生から作文を募集し、彼女
 の命日にあたる六月二三日に、向いの丘の文学碑の前で優秀作(栄賞一名、佳作四~五
 名)の表彰が行われている。平成三年には一九回を数え、選考には、一次選考、二次選
 考を経て最終選考を壺井栄と親交のあった作家、佐多稲子、芝木好子両氏があたってい
 る。
                                  (熊坂泰忠)

   6 生田春月詩碑(#「6 生田春月詩碑」は太字)

  坂手港は小豆島の東の玄関として開けている港である。大阪-別府間を運行している
 関西汽船の寄港地であり、神戸まで三時間、高松へは一時間で結ばれている。
  船着場から正面やや右寄りにそそり立つ岩山が洞雲山で、小豆島八八ケ所の第一番札
 所がある。洞雲山の麓の屋並みの上に小高い墓地があり、その墓地の小道を五分程登る
 と向いの丘である。
  丘の頂上はちょっとした広場になっている。壺井栄の文学碑があるこの広場のとっつ
 きに、まるで坂手港を見守るように立っているのが、詩人、生田春月の詩碑である。
  高さ三メートル程の御影石の詩碑には、
   甲板にかかってゐる海図、それは内海の海図だ。ぢっとそれを見てゐると、一つの
  新しい未知の世界が見えてくる。
   普通の海図では、海が空白だが、これでは陸地の方が空白だ。ただわづかに高山の
  頂きが記されてゐるくらいなものであるが、これに反して海の方は水深やその他の記
  号で彩られてゐる。

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   これが今の自分の心持ちをそっくり現してゐるような気がする。今迄の世界が空白
  となって、自分の飛び込む未知の世界が彩られるのだ。
 という、絶筆『海図』を拡大したレリーフが嵌め込まれている。
  生田春月は一八九二年(明治二五年)三月、鳥取県米子市に生まれた。九歳頃から詩
 作をはじめ、一二歳の時から一家とともに朝鮮ほか各地を流浪し、貧困と労働の中にあ
 って詩作を続け、一九一七年(大正六年)一二月、二五歳で第一詩集『霊魂の秋』を、
 翌年一〇月『感傷の春』を刊行、詩人としての地位を確立し、近代詩の発展に寄与した。
  また、翻訳家としても活躍し、『ツルゲーネフ散文詩』、『ゲエテ詩集』、『ハイネ
 全集』など数多くの詩作品を訳出した。なかでもハイネ研究には生涯を捧げ、社会詩人、
 革命詩人としてのハイネの一面をとらえ、その独自性を明らかにした日本における先覚
 者でもある。その他にも小説『相寄る魂』や評論集がある。
  当初、キリスト教的、人道主義的社会思想にはじまり、その後、しだいにニヒリズム
 的傾向が表面化し、つねに人生の第一義に生きんとして、あらゆる二元の対立に苦悩し
 葛藤し続けた。その絶え間なき苦闘と努力の結果、思想的流れは、ニヒリズムの徹底境
 へとすすみ、一九三〇年(昭和五年)五月一九日、瀬戸内海航路、菫丸船上より播磨灘
 に身を投じ、三八年の生涯に自ら終止符を打った。
  死をもって自らのニヒリズムを追求した詩人の碑が、一九三五年(昭和一〇年)五月
 一九日、まるで彼の終焉の海を見下ろすように、彼の絶筆とともに建立されたの

      (#写真が入る)生田春月詩碑(内海町坂手向いの丘)

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 である。戦後一時、丘の麓の観音寺境内に移されていたが、壺井栄の碑がこの丘に建立
 された後、再びこの丘に返された。直接的には、生田春月は小豆島とは何のゆかりもな
 いのであるが、この詩碑は苦悩の果てに、この地の海に身を投じた若き詩人の墓のよう
 に、静寂と荘厳な雰囲気に包まれて、今でもじっと海を見つめているのである。
                                 (玉田研一朗)