794年(延暦13) ~ (50K)

入力に使用した資料
底本の書名   香川県史 別編2 歴史年表 古代・中世
 底本の編集者  香川県
 底本の発行者  香川県
 底本の発行日  平成三年三月二十日
入力者名    渡辺浩三
校正者名    渡辺美智子
入力に関する注記
      ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
      ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
       と表記した。

登録日     2004年4月30日
      


1192 建久3 (壬子)
 県内  7・28 讃岐国に設けられた崇徳院御影堂の寺領に官符を下す(玉葉)

1194 建久5 (甲寅)
 県外  7・30 一条能保の嫡子高能,藤原光俊を讃岐守に推薦し,認められる(公卿
         補任)

1196 建久7 (丙辰)
 県内  9・10 長命寺(現,丸亀市本島)蔵木造弥勒菩薩坐像,造られる

1197 建久8 (丁巳)
 県内  2・- 守藤原光俊,一条能保の命により,阿野郡羽床郷内萱原神田10町を
         祗園社へ寄進する(八坂神社文書)
 県外  10・13 一条能保,没する(公卿補任)

1198 建久9 (戊午)
 県内  この年 讃岐国の費用により,大内裏朱雀門が再建される(明月記)
 県外  9・17 一条高能,没する(公卿補任)

1199 正治1 4・27 (己未)
 県内  2・14 一条家の遺臣讃岐守護後藤基清ら,内大臣源通親を討とうとして幕府
         に捕らえられる〔三左衛門の乱〕(明月記・愚管抄)
     3・5 後藤基清,讃岐国の守護職を改易され,替って近藤国平が任命される
         (吾妻鏡)
     4・7 東大寺,寺領三木郡原・多度郡金倉両保の証拠文書の破損を修復する
         (東大寺文書)
 県外  1・13 源頼朝,没する(明月記・吾妻鏡)
     3・- 守藤原光俊を停任し,源家俊を讃岐守に任命する(明月記・公卿補任)

1200 正治2 (庚申)
 県内  この年 興福寺,維摩会の費用について現状を調べる.多度郡藤原荘の負担は,
         円座20枚・硯20面であったが,いずれも十分の一となっていた(興
         福寺文書)

1201 建仁1 2・13 (辛酉)
 県外  3・21 故藤原俊盛の子仏子阿弥陀仏,父より相伝した善通寺旧蔵の空海筆妙
         法蓮華経1巻を河内金剛寺へ寄進する(金剛寺文書)
1203 建仁3 (癸亥)
 県内  3・7 知行国主九条良経.讃岐国内の1村を家司藤原定家に与える(明月記)
     6・20 九条良経,善通・曼荼羅両寺を東寺に付属させる(善通寺文書・随心
         院文書・東寺文書)
     7・- 備前国衙,小豆島郷などの公領の麦年貢についての収納状況を東大寺
         へ報告する(南無阿弥陀仏作善集所収文書)
     10・- 朝廷,円珍の誕生地那珂郡上金倉郷を園城寺領とする(善通寺文書)
 県外  9・2 北条時政・政子,比企能員を討ち,源実朝を将軍に立てる〔比企氏の
         乱〕

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1204 元久1 2・20 (甲子)
 県内  4・23 九条兼実,家領を処分し,那珂郡小松荘などを娘宜秋門院へ譲る(九
         条家文書)

1205 元久2 (乙丑)
 県内  10・- 右清水別当道清,社領寒川郡鴨部荘・阿野郡新宮・豊田郡山本荘など
         を子息宗清へ譲る(石清水文書)

1204~06 元久年間
 県内  この頃 僧貞慶,鵜足郡二村郷内の荒野を領主に寄進させ,興福寺五重塔領と
         して立荘する(九条家本振鈴寺縁起紙背文書)

1206 建永1 4・27 (丙寅)
 県内  この年 青蓮院門跡慈円,自領寒川郡志度荘などを同院へ寄進し,自らの忌日
         の費用に充てる(門葉記所収文書)
     この頃 守藤原資隆,多度郡仲村郷を高野山一心院へ寄進する(高野山文書)
 県外  3・7 九条良経,没する.父兼実,良経の知行国讃岐・越後両国を大炊御門
         頼実知行の土佐国と交換し,藤原能季に替って藤原資隆が讃岐守に任
         命される(三長記・公卿補任)

1207 承元1 10・25 (丁卯)
 県内  3・26 法然,那珂郡塩飽荘に到り,領主の館に寄宿する.ついで,同郡小松
         荘に移り生福寺に住する(法然上人行状絵図・拾遺古徳伝絵詞)
     12・- 法然,罪を赦され,四国を去る(法然上人行状絵図・拾遺古徳伝絵詞)
 県外  2・- 法然・親鸞ら,配流される(愚管抄・明月記)

1208 承元2 (戊辰)
 県内  1・24 那珂郡真野荘,園城寺に寄進される(寺門高僧記)

1209 承元3 (己巳)
 県内  8・- 守藤原資隆,多度郡生野郷内の水田6町を善通寺御影堂の修理料に充
         てる(善通寺文書)
     この年 後鳥羽上皇,善通寺所蔵の弘法大師御影を京都において模写させる(南
         海流浪記)

1211 建暦1 3・9 (辛未)
 県内  7・3 朝廷,那珂郡木徳荘ほかを比叡山根本中堂修理の費用に充てる(天台
         座主記)

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1213 健保1 12・6 (癸酉)
 県内  2・- 青蓮院門跡慈円,寒川郡志度荘などの門跡領を後鳥羽皇子朝仁親王へ
         譲る(華頂要略所収文書)
 県外  5・2 和田義盛,挙兵して敗北.和田氏一族滅亡する〔和田合戦〕

1214 健保2 (甲戌)
 県外  12・13 知行国主大炊御門頼実,後鳥羽上皇の御所を造営し,その功により守
         藤原資隆が重任する(仙堂御移徒部類記)

1218 健保6 (戊寅)
 県外  2・12 源実朝,讃岐守の推薦を後鳥羽上皇に認められるも.北条泰時の固辞
         により辞退する(吾妻鏡)

1219 承久1 4・12 (乙卯)
 県内  2・10 阿野郡神谷神社本殿(国宝)の建築始まる(同神社棟札)
 県外  1・27 源実朝,甥の公暁に殺される(吾妻鏡)
     6・3 幕府の申請により,九条道家の子頼経,将軍家を継ぐため鎌倉に下る
         (吾妻鏡)

1220 承久2 (庚辰)
 県外  11・5 仲恭天皇の御着袴に際し,弘筵・円座などを讃岐国より納める(玉蘂)

1221 承久3 (辛巳)
 県内  8・- 守藤原実雅,多度郡仲村郷を高野山一心院へ安堵する(高野山文書)
 県外  5・- 承久の乱,起こる.
     6.- 六波羅探題を置く.

1223 貞応2 (癸未)
 県内  10・- 屋島寺蔵梵鐘,沙門蓮阿弥陀仏の勧進によって鋳造される.

1224 元仁1 11・20 (甲申)
 県内  9・7 幕府,承久の乱の勲功により,法勝寺領那珂郡櫛無保の地頭職を藤原
         忠義に宛行う(島津家文書)
     9・- 東寺,前任国司による善通・曼荼羅寺領の押領を讃岐守へ訴える(随
         心院文書)
     11・- 讃岐守源某,善通・曼荼羅両寺を東寺の末寺と認め,国衙の妨げを停
         止する(白河本東寺百合文書)
 県外  8・5 専修念仏,禁止される(暦代皇紀)

1225 嘉禄1 4・20 (乙酉)
 県内  4・- 知行国主大炊御門頼実,多度郡良田郷の水田3町を善通寺御影堂へ寄
         進する(善通寺文書)
     この年 九条道家.善通寺所蔵の弘法大師御影を京都において模写させる(南
         海流浪記)

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1226 嘉禄2 (丙戌)
 県内  6・4 寒川郡志度荘の本家最勝光院,焼失し,以後,年貢の大半が未納とな
         る(東寺百合文書)
     8・- 三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院,撼焼失する(覚城院文書)
 県外  1・23 九条頼経,征夷大将軍に任じられる(公卿補任)

1227 安貞1 12・10 (丁亥)
 県内  4・9 将軍九条頼経,越後国の武士色部公長に那珂郡木徳荘地頭職などを安
         堵する(色部文書)
     10・20 朝廷,専修念仏の張本人成覚が那珂郡手島に滞在するとの噂により六
         波羅探題に調査を命じる(高祖遺文録所収文書)
     この年 知行国主九条道家,鵜足郡二村郷内外の水田56町を泉涌寺へ寄進す
         る(泉涌寺不可棄法師伝)

1228 安貞2 (戊子)
 県内  3・13 幕府,善通寺の訴えにより,同寺の地頭職を停止する(吾妻鏡)

1229 寛喜1 3・5 (己丑)
 県内  5・19 朝廷,東寺の申請により善通・曼荼羅両寺を東寺領とし,随心院門跡
         に付属させる(随心院文書)
     10・20 九条道家.香東郡多肥村を家司藤原定家へ与える(明月記)

1230 寛喜2 (庚寅)
 県内  1・- 石清水社,寒川郡鴨部荘・同郡津田坂子などの社領について同社若宮
         の課役を定める(石清水文書)
    (1)・2(#「1」は丸付き数字) 僧尊遍,興福寺領鵜足郡二村郷に対する藤原
         定光の横暴を同寺へ訴える(興福寺別当次第紙背文書)
    (1)・17(#「1」は丸付き数字) 藤原定家,自領多度郡弘田郷の年貢を同郷公
         文佐々木信綱に請け負わせる(明月記)

1231 寛喜3 (辛卯)
 県内  1・19 多度郡弘田郷の公文佐々木信綱・広綱父子,領主藤原定家に謁する(明
         月記)
     4・22 石清水社,三木郡牟礼荘などの社領に御供米を催促する(榊葉集所収
         文書)
     9・- 三条公房,三野郡豊福荘の濫妨の件につき朝廷の裁可を請う(民経記)

1232 貞永1 4・2 (壬辰)
 県外  8・10 幕府,関東御成敗式目(貞永式目)を制定する

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1233 天福1 4・15 (癸巳)
 県内  12・7 九条道家の政所,寒川郡神崎郷を立荘し,興福寺三面僧房領とするこ
         とを讃岐国の在庁官人に命じる.ついで12月16日,道家.同荘の寄
         進を興福寺別当へ伝える(興福寺旧蔵抄物紙背文書)

1234 文暦1 11・5 (甲午)
 県内  2・25 これ以前,安楽寿院領多度郡多度荘の領家,年貢の一部を高野山寂静
         院へ寄進するも,地頭の横暴により未納が続き,僧某,領家に訴える.
         ついで4月21日,領家,同荘の替りに摂津国武庫下荘を寂静院に寄
         進する(高野山文書)

1236 嘉禎2 (丙申)
 県内  7・25 幕府,足立遠親知行の石清水八幡宮寺領三野郡本山荘の地頭職を停止
         する(吾妻鏡)

1237 嘉禎3 (丁酉)
 県内  5・- 石清水検校宗清,所領を一族に処分し,寒川郡鴨部荘内〔バ〕淵浦
         (#「バ」は文字番号46377)などを妻へ譲る(石清水文書)
     8・24 九条道家,石清水社に新三昧堂を建立し三野郡本山荘を料所に充てる
         (石清水八幡宮末社記)
 県外  4・16 讃岐守源兼教,目代とともに賀茂祭に用いる九条道家夫妻の桟敷を造
         る(玉蘂)

1238 暦仁1 11・23 (戊戌)
 県内  5・20 高野山一心院主道勝,同院をもって御祈願所となし,寺領多度郡仲村
         郷を不輸・不入の荘園とすることを朝廷に申請する(高野山文書)

1239 延応1 2・7 (己亥)
 県内  2・8 朝廷,高野山一心院主道勝の申請により,同院を天皇家の御祈願所と
         し,寺領多度郡仲村郷の立荘を認める(高野山文書)

1241 仁治2 (辛丑)
 県内  3・25 僧戒如,興福寺領鵜足郡二村荘の件につき,領主の藤原定光・僧尊遍
         に僧貞慶の遺志を伝える(九条家本振鈴寺縁起紙背文書・興福寺別当
         次第紙背文書)
 県外  1・- 八省院真言供に際し,讃岐国に銭1貫文を賦課する(勝延法眼記)

1243 寛元1 2・26 (癸卯)
 県内  2・12 僧道範,讃岐国府に到り,同月14日,守護所より宇多津の御家人橘
         高能のもとに預けられる(南海流浪記)
     3・21 僧道範,善通寺に参詣し,以後,逗留する(南海流浪記)
 県外  1・25 高野山僧道範,前年7月の根来寺との争いにより,讃岐国配流となる
         (高野山検校帳・南海流浪記)

1244 寛元2 (甲辰)
 県内  この年 随心院門跡厳海,将軍家御祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)
         料所寒川郡神崎・多度郡吉原両荘地頭職を弟子宣厳へ譲る(随心院文
         書)

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1245 寛元3 (乙巳)
 県内  3・- 僧隆胤,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院の再建を図る(覚城院文書)
     4・17 妙法院門跡公性,香東郡野原・山田郡林荘などの寺領を弟子尊恵へ譲
         る(妙法院文書)
     この頃 山田郡坂下荘の領家と地頭争い,六波羅探題での裁判のため,地頭代
         の三善康経が上洛する(高野山文書)

1246 寛元4 (丙午)
 県内  3・18 讃岐守護三浦光村の代官,讃岐国御家人藤左衛門尉による海賊逮捕を
         幕府へ報告する(吾妻鏡)
     9・23 九条道家息男実経.讃岐国の1村を葉室資頼に与える(葉黄記)
 県外  2・13 讃岐国を大政官庁修造の費用に充てる(百錬抄)
     4・24 名越光時,前将軍頼経を擁して執権時頼を除こうとし,鎌倉中,騒動
         する(吾妻鏡)
     7・- 幕府,前将軍頼経を京都へ送り帰し,ついで,翌月,九条道家の関東
         申次を更迭する(吾妻鏡・葉黄記)

1247 宝治1 2・28 (丁未)
 県内  6・5 讃岐守護三清光村,宝治合戦により滅亡する(吾妻鏡)
     6・30 大宝院(一宮寺)供養塔,建立される.
 県外  6・5 北条時頼,三浦氏を滅ぼす〔宝治合戦〕
     7・24 後嵯峨中宮の御産雑事を定め,讃岐国などに御七夜の費用を賦課する
         (葉黄記)

1248 宝治2 (戊申)
 県内  4・- 高野山の道助法親王の命により,京より絵師を下して善通寺の弘法大
         師御影を模写する(南海流浪記〉
     5・13 幕府,石清水社の申請により,同社領三野郡本山新荘を守護不入の地
         とするよう讃岐守護北条有時に命じる.ついで5月23日,有時,守
         護代に施行する(石清水八幡宮旧記抄所収文書)
     8・- 石清水社,社領三野郡本山新荘に守護不入のことを伝える(石清水八
         幡宮旧記抄所収文書)

1249 建長1 3・18 (己酉)
 県内  1・10 僧道範,弘法大師誕生所に一堂を建立し,誕生院と号する.ついで5
         月1日,完成し,鎮壇の法会を行う(南海流浪記)
     3・- 讃岐守源兼康,九条道家の命により,多度郡生野郷西畔の狩猟を禁じ
         るとともに同郷の公田12町を善通寺の修理料に寄進する(善通寺文
         書)
     5・- 僧道範,流罪を許され,7月29日,善通寺より白峯寺へ移る.つい
         で8月17日,讃岐国を立ち高野山へ帰る(南海流浪記)
     この頃 讃岐国,蓮華王院再建の費用に充てられ,そのため園城寺領の三野郡
         高瀬・那珂郡下金倉両郷,公領に戻される(岡屋関白記・兼仲卿記紙
         背文書)
 県外  3・23 京都大火により蓮華王院,焼失する(百錬抄)

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1250 建長2 (庚戌)
 県内  3・3 随心院門跡厳海,将軍家御祈〔トウ〕料所(#「トウ」は文字番号24852)
         寒川郡神崎・多度郡吉原両荘地頭職を弟子厳恵へ譲る(随心院文書)
     5・28 鵜足郡法勲寺,地頭葛西時重の本補・新補両様兼帯を幕府に訴えて認
         められる(吾妻鏡)
     11・- 源有長,領主の寄進により三野郡詫間荘を立荘し,主人道家に寄進す
         る(九条家文書)
     11・- 九条道家,家領を処分し,寒川郡富田荘・同神崎荘・香西郡笠居御厨
         ・那珂郡小松荘・鵜足郡河津荘・三野郡詫間荘・同本山荘・豊田郡柞
         田荘・備前国小豆島荘などを一族に譲与し,香西郡飯田郷を東福寺観
         音堂領とする(九条家文書)

1251 建長3 (辛亥)
 県内  9・20 幕府,北条重時の提議により讃岐国の海賊を蝦夷島へ流すことを定め
         る(吾妻鏡)

1252 建長4 (壬子)
 県内  7・24 寒川郡司讃岐基光,同郡石田郷の蓑上社(大蓑彦神社)へ大般若経を
         奉納する(弘法寺所蔵大般若経奥書)
     9・16 幕府,将軍家御祈〔トウ〕料所(#「トウ」は文字番号24852)寒川
         郡神崎・多度郡吉原両荘地頭職を随心院門跡厳恵へ安堵する(善通寺
         文書)
     9・- 守藤原公貫,善通・曼荼羅両寺を東寺末寺として随心院門跡に安堵す
         る(善通寺文書)
     11・- 留守所,国司の命にもとづき多度郡生野・良田両郷内の免田を善通寺
         へ安堵するとともに良田郷司の妨害を止める(善通寺文書)
     11・- 後嵯峨上皇,白峯寺千手堂を勅願所とし,唐本の法華経1部を奉納す
         る(白峯寺縁起)
 県外  2・20 幕府,将軍九条頼嗣を廃し,宗尊親王を迎えることを奏請する(吾妻
         鏡)
     2・21 九条道家,没する(公卿補任)
     6・22 讃岐国,洞院実雄の知行国となり,弟の公貫が守に任命される(公卿
         補任)

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1253 建長5 (癸丑)
 県内  2・18 伊勢社,社領香西郡笠居郷の預所職に大中臣国兼を任命する(公文抄
         所収文書)
     2・- 分国主後嵯峨上皇,阿野郡鴨部郷を賀茂御祖社へ寄進する(賀茂御祖
         皇太神宮御幸記・凡人太政大臣例紙背文書)
     5・25 僧慶政,善通寺へ真言宗八祖師の御影を施入する(善通寺文書)
     10・21 近衛家,鵜足郡栗隈荘・那珂郡塩飽荘・備前国家浦荘・同国直島など
         の家領荘園の明細を書き上げる(近衛家文書)
     この年 後嵯峨上皇,阿野郡松山荘を白峯寺へ寄進する(白峯寺文書)
     この年 僧幸厳,大内郡水主社の大般若経を修復する(水主神社大般若経函底
         書)
 県外  1・13 讃岐国,後嵯峨上皇の院分国となる(公卿補任)

1254 建長6 (甲寅)
 県内  10・28 後嵯峨上皇,阿野郡鴨部郷を賀茂御祖杜神官へ安堵する(賀茂御祖皇
太神宮御幸記)

1255 建長7 (乙卯)
 県内  3・- 幕府,亡父色部為長の譲与に従い,那珂郡木徳荘地頭職などを公長に
         安堵する(色部文書)
 県外  10・27 洞院実雄,讃岐国を賜り,後嵯峨上皇の御所を造営する(民経記)

1249~56 建長年間
 県内  九条道家,勅勘をうけ,一族謹慎する.嫡孫忠家,家領備前国小豆島荘などを
         没収される(九条家文書)

1256 康元1 10・5 (丙辰)
 県内  3・14 朝廷,日吉社領豊田郡柞田荘の立荘を認める(続左丞抄所収文書)
     3・- 知行国主洞院実雄,阿野郡羽床郷内萱原神田を祗園社へ安堵する(八
         坂神社文書)ついで3月20日,守藤原経業,施行する(西村信治所
         蔵文書)
     8・29 日吉社領豊田郡柞田荘,官使・国使により立荘される(続左丞抄所収
         文書)
     9・29 僧良禅,阿野郡山本荘などの崇徳院御影堂領を注進する(門葉記所収
         文書)
     この頃 日吉社神官祝部成茂,後嵯峨上皇より同社領豊田郡柞田荘の相伝知行
         を認められる(日吉山王新記所収文書)

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1257 正嘉1 3・14 (丁巳)
 県内  4・19 法勝寺,寺領那珂郡櫛無保の地頭島津氏による年貢滞納を朝廷へ訴え
         る(経俊卿記)
     4・26 源有資,家領那珂郡柞原荘よりの官御祈願所への年貢についての訴え
         を朝廷へ取り次ぐ(経俊卿記)
     4・27 賀茂御祖杜,阿野郡松山荘の替地の件を朝廷へ訴え,讃岐国在庁の申
         状により認められる(経俊卿記)
     5・14 知行国主大炊御門冬忠,讃岐国の地頭請所の停止を朝廷へ申請する(経
         俊卿記)
     7・22 阿野郡松山荘につき,賀茂御祖社と白峯寺が争い,朝廷において裁判
         が行われる(経俊卿記)
     8・9 建春門院法華堂,蓮華王院領三野郡豊福荘の年貢の件につき朝廷へ訴
         える(経俊卿記)
     9・7 後嵯峨上皇,備前国小豆島荘を某院法華堂領とするよう本家安嘉門院
         へ命じる(経俊卿記)
     12・28 三宝院門跡憲深,寺領那珂郡郡家郷を弟子醍醐寺座主定済へ譲与する
         (醍醐寺文書)
     この年 在庁の訴えにより8年間,鎌倉に拘禁されていた阿野郡新宮別当泰源
         が罪を許される(石清水八幡宮記録)

1258 正嘉2 (戊午)
 県内  7・19 小早川本仏,大内郡与田郷地頭職などを子息政景へ譲る(小早川家文
         書)
     11・28 観音寺(現,観音寺市)蔵釈迦如来坐像,修理される.
     12・24 後嵯峨法皇,多度郡生野郷の免田を善通寺へ安堵する(善通寺文書)

1263 弘長3 (癸亥)
 県内  3・22 官御祈願所,源有資知行の那珂郡柞原荘などの同所領について供料の
         現状を注進する(門葉記所収文書)
     12・- 讃岐守藤原某,善通寺と多度郡生野郷司との和解により,免田につい
         ての争いを止どめる.ついで同月,讃岐国衙,施行する(善通寺文書)

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1264 文永1 2・28 (甲子)
 県内  3・11 高井道円,那珂郡真野勅旨などの所領を孫へ譲る(中条家文書)
     3・12 幕府,亡父小早川本仏の譲与に従い,大内郡与田郷地頭職などを政景
         に安堵する(小早川家文書)

1265 文永2 (乙丑)
 県内  9・20 幕府,備前国小豆島荘などの預所職を九条忠家へ返付する.ついで11
         月19日,六波羅探題,施行する(九条家文書)

1266 文永3 (丙寅)
 県外  この年 三野郡出身の僧白雲恵暁,入宋する(月輪年表)

1267 文永4 (丁卯)
 県内  11・- 備前国家浦荘を料所として,本家近衛家のための祈〔トウ〕(#「ト
         ウ」は文字番号24852)が春日社において行われる(大乗院日記目録)
     12・3 島津忠義(道仏),那珂郡櫛無保内光成名を後家に譲る(島津家文書)
     この年 白峯寺蔵石造灯籠が造られ,崇徳天皇陵に奉納される.

1268 文永5 (戊辰)
 県内  2・27 幕府,讃岐守護北条有時に対し,蒙古襲来の警戒を讃岐国の御家人に
         伝えるよう命じる(新式目所収文書)
     この年 朝廷,多度郡良田郷内東寄りの田畠荒野30余町を金蔵寺領とする(善
         通寺文書)
 県外  1・- 高麗の使者,初めて蒙古の国書を持って太宰府に到る(北条九代記・
         一代要記)

1269 文永6 (己巳)
 県内  8・21 某.三野郡詫間・筑後国生葉両荘の年貢の一部を祈願の費用として摂
         津勝尾寺へ寄進する(勝尾寺文書)
     この頃 源有資,官御祈願所領那珂郡柞原荘を知行する(壬生家文書)

1270 文永7 (庚午)
 県内  9・7 清立寺(現,坂出市)蔵木造阿弥陀如来立像,造立される.

1271 文永8 (辛未)
 県内  3・30 幕府,亡父源資光(光念)の譲与に従い,山田郡十河郷公文職を千午
         王丸に安堵する(土佐国蠧簡集残篇所収文書)
     5・19 朝廷.那珂郡木徳荘などを比叡山西塔の法華・常行両堂造営の費用に
         充てる(天台座主記)
 県外  1・11 香西郡円座保より納められた円座を朝廷での御鞠始に用いる(吉続記)
     9・13 幕府,九州に所領を持つ御家人を下向させ,海防と悪党の鎮圧を命じ
         る(吉続記)

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1272 文永9 (壬申)
 県内  4・8 後嵯峨皇后大宮院,後嵯峨法皇の譲与に従い,円助法親王に鵜足郡河
         津郷の知行を認める(賀茂別雷神社文書)
     8・1 祗園社感神院長吏晴算,社領三野郡西大野郷などを弟子感晴へ譲る(八
         坂神社文書)
 県外  1・15 後嵯峨法皇,讃岐国を亀山天皇へ譲る(後嵯峨院御文類所収文書)
     2・17 後嵯峨法皇,没する(本朝皇胤招運録)

1273 文永10 (癸酉)
 県内  6・3 賀茂御祖社,多度郡葛原荘などの社領に社頭築地の費用を充てる(賀
         茂社諸国神戸記)

1274 文永11 (甲戌)
 県外  10・- 元・高麗軍,壱岐・対馬を侵し,筑前に上陸する〔文永の役〕

1275 建治1 4・25 (乙亥)
 県内  3・8 亀山上皇,祗園社領三野郡西大野郷などを同社執行感晴に安堵する(八
         坂神社記録所収文書)
     9・8 滝水寺梵鐘(現,池田町長勝寺蔵),僧円性の勧進によって鋳造され
         る.
 県外  12・- 幕府.異国討伐を企て,西国の梶取・水夫を招集する(東寺百合文書)

1276 建治2 (丙子)
 県内 (3)・-(#「3」は丸付き数字) 沙弥妙意(藤原光衡),東北院領讃岐国里海
         荘の知行について摂関家政所へ訴える(兼仲卿記紙背文書)
     6・9 亀山上皇,多度郡良田郷を後嵯峨法皇の御菩提料所として善通寺へ寄
         進する(善通寺文書)
     8・21 善通寺,朝廷と幕府の御願により蒙古人治罰の祈〔トウ〕(#「トウ」
         は文字番号24852)を行う(善通寺文書)
     10・19 守藤原宗親,阿野郡羽床郷内萱原神田を祗園社へ安堵する(青木鉄太
         郎所蔵文書)
     この年 豊田郡姫江八幡宮の僧法覚,大般若経を弘安3年まで書写し,元の襲
         来がやむことを祈る(宗林寺所蔵大般若経)
     この年 大興寺(現.山本町)蔵木造天台大師坐像,願主勝覚によって造立さ
         れる.
 県外  8・24 幕府,元の襲来に備えるため,山陽・南海道諸国の守護に長門国の警
         備を命じる(東寺百合文書)

1277 建治3 (丁丑)
 県内  4・28 高井道円,那珂郡真野勅旨などを孫和田長茂に譲る. ついで11月
         5日,再び,譲与を行う(中条町役場所蔵文書・中条家文書)

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1278 弘安1 2・29 (戊寅)
 県内  5・18 幕府,祖父高井道円の譲与に従い,那珂郡真野勅旨などを和田長茂に
         安堵する(伊佐早文書)
     6・- 三野郡詫間荘預所僧某,僧祐賢を荘内浪打八幡宮の供僧職に任命する
         (宝寿院文書)
     9・23 讃岐国御家人沙弥円意,阿野郡林田郷内および梶取名内の潮入新開を
         祗園社へ寄進する(八坂神社記録)
     (10)・8(#「10」は丸付き数字) 園城寺貫主円満院門跡,金蔵寺の僧侶のう
         ち一和尚をもって院主職に任命することを定める(金蔵寺文書)
     この年 白峯寺十三重塔,建立される.

1279 弘安2 (己卯)
 県内  5・5 分国主亀山上皇,阿野郡林田郷内および梶取名内の潮入新開を祗園社
         領と認める(八坂神社記録)
     10・26 幕府,那珂郡木徳荘など色部行忍の遺領をめぐる争いを裁決し,子息
         長茂に知行を認める(色部文書)

1280 弘安3 (庚辰)
 県内  10・21 随心院,僧真恵を善通寺領一円保の公文職に任命するとともに,僧侶
         らによる寺領の売買を禁止する(善通寺文書)
     10・- 園城寺,沙弥成真を寺領那珂郡金倉上荘の公文職に任命する(園城寺
         文書)
 県外  2・21 朝廷,諸国の寺院に異国降伏の祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)
         を命じる(高野春秋)

1281 弘安4 (辛巳)
 県内  3・29 園城寺,沙弥成真に寺領那珂郡金倉上荘の公文職を安堵する(園城寺
         文書)
     8・28 朝廷,善通寺の申請により,寺領多度郡良田郷を不輸・不入の荘園と
         する(善通寺文書)
     11・18 三宝院門跡定済,那珂郡郡家郷などの寺領を弟子定勝へ譲る(醍醐寺
         文書)
 県外  5~(7)(#「7」は丸付き数字) 元・高麗軍,九州地方に襲来する〔弘安の
         役〕

1282 弘安5 (壬午)
 県内  11・12 尼真如,那珂郡良野郷などを女子土用王(尼妙蓮)へ譲る(正木文書)

1283 弘安6 (癸未)
 県内  4・- 守藤原某,善通寺領多度郡良田郷を不輸・不入の荘園とするよう留守
         所に命じる(善通寺文書)
     8・14 小豆島伊喜末村地頭高橋入道の下人,肥土荘内において別宮八幡宮の
         神人に乱暴を加える(肥土荘別宮八幡宮縁起)
     この年 長尾寺蔵経幢,建立される.
     この年以前 那珂郡下金倉郷,園城寺へ返付される(兼仲卿記紙背文書)
     この頃 日吉社神官祝部成顕,亡父成材の遺領豊田郡柞田荘などの安堵を朝廷
         に申請する.これ以前,成顕,同荘の知行をめぐり一族の成貫と争い,
         成貫.地頭とともに成顕の代官を殺害し,幕府より断罪される(兼仲
         卿記紙背文書)
     この頃 小豆島肥土荘公文紀家能,伊喜末村地頭高橋入道の下人による別宮八
         幡宮神人への乱暴を六波羅探題へ訴え,勝訴する(肥土荘別宮八幡宮
         縁起)

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1284 弘安7 (甲申)
 県内  3・- 某姓能成,三野郡詫間荘仁尾村の神田1段を僧祐尊に宛行う(仁尾賀
         茂神社文書)
 県外  5・20 幕府,諸国守護に一宮・国分寺の復興を命じる(追加法)

1285 弘安8 (乙酉)
 県外  11・17 安達泰盛一族,北条貞時に滅ぽされる〔霜月騒動〕

1286 弘安9 (丙戌)
 県内  9・29 後宇多上皇,善通寺の申請を認め,摂津国兵庫津艘別銭を修理料に充
         てることを大勧進へ伝える(善通寺文書)
     11・8 幕府,摂津国兵庫津の艘別銭を善通寺の修理料に充てることを認める
         (善通寺文書)
    (12)・6(#「12」は丸付き数字) 朝廷,賀茂別雷社領阿野郡氏部卿の立荘を認
         める(賀茂社諸国神戸記)
    (12)・23(#「12」は丸付き数字) 賀茂御祖社,社領多度郡葛原荘の公文職に千
         寿丸を任命する(林康員所蔵文書)
     この年 長尾寺蔵経幢,建立される.

1287 弘安10 (丁亥)
 県内  9・1 幕府,高井道円の遺領那珂郡真野勅旨などをめぐる争いを裁決し,道
         円女子尼意阿の訴えを退ける(中条家文書)

1288 正応1 4・28 (戊子)
 県内  4・8 朝廷,摂津国兵庫津の艘別銭を善通寺の修理料に充てることを止め,
         代わりに河内国禁野渚院の艘別銭を寄進する(善通寺文書)
     5・9 幕府,河内国禁野渚院の艘別銭を善通寺の修理料に充てることを認め
         る(善通寺文書)
     8・3 幕府,北条政子の法華堂領寒川郡長尾荘の田地を同堂の僧侶に分配す
         るよう六波羅探題へ命じる(醍醐寺文書)
     この年 亀山上皇,阿野郡瀧上社を祗園社の本堂へ寄進する(八坂神社記録)
     この頃 善通寺領多度郡良田郷の年貢について善通寺と地頭某姓仲泰とが争
         い,六波羅探題の判決に地頭が従わないため,同寺,再び提訴する(兼
         仲卿記紙背文書)

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1289 正応2 (己丑)
 県内  この年 一遍,善通・曼荼羅両寺へ参詣する(一遍聖絵)
 県外  9・7 亀山上皇,出家の費用を分国の讃岐・美濃両国に充てる(亀山院御落
         飾記)

1291 正応4 (辛卯)
 県内  3・28 亀山法皇,浄金剛院領大内郡大内荘内の白鳥・引田両郷につき高倉永
         康父子の子孫相伝を認めるよう後宇多上皇に求め,了承される(安楽
         寿院古文書)
 県外  2・3 幕府,諸国の寺社に異国降伏の祈〔トウ〕(#「トウ」は文字番号24852)
         を命じる(東大寺文書)

1292 正応5 (壬辰)
 県内  2・3 仁和寺御室門跡,善通寺領多度郡良田郷地頭仲泰の年貢滞納について
         の訴えを朝廷に取り次ぐ.ついで2月7日,朝廷,善通寺の訴えを幕
         府に取り次ぐよう関東申次西園寺家へ命じる(兼仲卿記紙背文書)
     2・- 守惟宗某,延命御修法料の米・油を東寺へ支払うよう留守所に命じる
         (醍醐寺文書)
     3・21 仁和寺御室門跡,善通寺領多度郡良田郷地頭仲泰の年貢滞納について
         の再度の訴えを朝廷に取り次ぐ(兼仲郷記紙背文書)
     この年 石清水社領備前国肥土荘の領家・預所,同荘へ下り在荘する(肥土荘
         別宮八幡宮縁起)
 県外  この年 白雲恵暁,東福寺四世となる(本朝高僧伝)

1293 永仁1 8・5 (癸巳)
 県内  3・17 九条忠教,那珂郡小松荘・備前国小豆島荘などの家領を子息師教へ譲
         る(九条家文書)
     3・- 賀茂御祖社,社領多度郡葛原荘の公文職に藤原千寿丸を任命する(林
         康員所蔵文書)
     この年 幕府.那珂郡金蔵寺の地頭職を停止し,同寺および本寺園城寺へ寄進
         する(金蔵寺文書)

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1294 永仁2 (甲午)
 県内  3・6 朝廷,善通寺の訴えにより,同寺住人基綱の濫妨を止めるよう本寺随
            心院門跡へ命じる(善通寺文書)
     6・4 亀山法皇,多度郡良田郷を善通寺へ安堵する(善通寺文書)
     6・23 朝廷,善通寺の訴えにより,同寺住人基綱を追放するよう本寺随心院
         へ命じる(善通寺文書)
     この年 僧宥範,櫛無の大歳明神で7日間参籠の後,高野山へ出立する(贈僧
         正宥範発心求法縁起)

1295 永仁3 (乙未)
 県内 (2)・18(#「2」は丸付き数字) 亀山法皇,三条公貫に阿野郡梶取名の知行を
         許す(実躬卿記)
     この年 現・寒川町新川自治会蔵石幢,左近将監某姓守俊を願主として建立さ
         れる.

1296 永仁4 (丙申)
 県内  5・4 僧慈空,寒川郡志度荘内天野村を鶴石へ譲る(徴古雑抄所収文書)
     7・- 官務小槻氏,那珂郡柞原荘などの家領に氏寺法光明院の盆供料をかけ
         る(壬生家文書)
     11・2 多度郡仲村荘内高野山寂静院領の百姓ら,大風の被害により年貢半分
         の減免を同院へ訴える(高野山文書)

1297 永仁5 (丁酉)
 県内  5・4 幕府,善通寺の修理料河内国禁野渚院艘別銭については,朝廷へ申請
         するよう僧教厳へ返答する(善通寺文書)
     6・- 石清水検校尚清,三野郡本山荘などの善法寺坊領を子息通清へ譲る(石
         清水文書)
     7・- 官務小槻氏,那珂郡柞原荘などの家領に氏寺法光明院の盆供料をかけ
         る(壬生家文書)
     8・- 九条家,那珂郡小松荘・備前国小豆島荘などの家領についての御所大
         番役を定める(九条家文書)
     11・4 石清水社領備前国肥土荘の領家・預所,別宮八幡宮の遷宮を行う(肥
         土荘別宮八幡宮縁起)
     この年 幕府,春日兼家を初めて多度郡掘江荘地頭に任命する(細川家文書)
 県外  3・6 幕府,徳政を行い,御家人の質券売買地の取り戻しを命じ,利銭出挙
         の訴えを取り上げないこととする〔永仁の徳政令〕

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1298 永仁6 (戊戌)
 県内  7・21 善通寺大勧進僧真恵,多度郡良田郷の田畠20町を同寺へ寄進し,金
         堂・法華堂・御影堂の供僧らに配分するとともに水田2町を大勧進職
         に寄進する(善通寺文書)

1300 正安2 (庚子)
 県内  3・7 本山寺(現,豊中町)本堂(国宝),造営される.
     7・13 朝廷,興福寺供養のため,河内国禁野渚院の艘別銭を善通寺の修理料
         に充てることを停止する(善通寺文書)

1301 正安3 (辛丑)
 県内  2・4 朝廷,石清水善法寺坊領三木郡牟礼荘などの別相伝を止め.社務領と
         する(当宮縁事抄所収文書)
     7・21 多度郡堀江荘地頭某,同荘の公文職について契約を結んだ上で平氏女
         を任命する(細川家文書)
     この年 那珂郡柞原荘上村の領家源経資,官御祈願所への年貢半分を納めるも,
         同荘下村の領家源信有,残る半分を未納する(門葉記所収文書)

1302 乾元1 11・21 (壬寅)
 県内  10・10 亀山法皇,院領豊田郡姫江荘の年貢の件を知行者の僧忠源に命じる(吉
         続記)
     10・14 後宇多上皇,石清水社領三野郡本山荘の伊勢社役夫工米を停止する(石
         清水文書)
     この頃 「とわずがたり」の作者後深草二条,白峯・松山を訪れ,大集経20
         巻を写経して,松山法華堂に奉納する(とわずがたり)

1303 嘉元1 8・5 (癸卯)
 県外  4・11 昭訓門院御産雑事を定め,亀山法皇分国讃岐国などに御七夜の費用を
         かける(公衡公記)

1304 嘉元2 (甲辰)
 県内  8・- 那珂郡鴨荘下村地頭掘江本西,荘内道隆寺を氏寺とする(道隆寺文書)
     10・15 亀山法皇,鵜足郡川津郷の代わりに備前国尾張保を賀茂別雷社へ寄進
         する(座田文書)

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1305 嘉元3 (乙巳)
 県内  7・26 亀山法皇,寒川郡富田荘・三木郡井戸郷・三野郡豊福荘・同郡詫間郷
         などを近親者へ譲る(亀山院御凶事記)
     7・26 亀山法皇,自らの一周忌までの仏事の費用を定め,後宇多上皇の分国
         讃岐国に10万疋を負担させる(亀山院崩後仏事記所収文書)
 県外  7・20 亀山法皇,讃岐国を後宇多上皇へ譲る(亀山院御凶事記)
     9・15 亀山法皇,没する(師守記)

1306 徳治1 12・14 (丙午)
 県内  6・12 後宇多上皇,昭慶門院へ庁分の豊田郡姫江荘・備前国小豆島荘,安楽
         寿院領の寒川郡富田荘・多度郡多度荘,蓮華心院領寒川郡鶴羽荘,興
         善院領寒川郡長尾荘,浄金剛院領大内郡大内荘,皇室領豊福荘などの
         荘園とともに分国讃岐・美濃両国を譲る(竹内文平所蔵文書)
     10・- 大和西大寺長老信空,阿野郡鷲峰寺(柏原堂)において僧衆60余人
         とともに供養を行う(本朝高僧伝・浄土寺文書)
     11・24 後宇多上皇,善通寺の釈明を認め,同寺を寛容に取り扱うよう本寺随
         心院へ命じる(善通寺文書)
     12・18 後宇多上皇,三野郡西大野郷を宸筆仁王経料所として祗園社へ寄進す
         る(八坂神社文書)
 県外  3・24 香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いる(実躬卿記)
     10・10 大和西大寺長老信空,備後尾道浦浄土寺金堂の供養を行う.ついで同
         月13日,讃岐柏原堂供養のため,尾道浦より乗船する(浄土寺文書)

1307 徳治2 (丁未)
 県内  3・1 後宇多上皇,勅願に准じて善通寺の五重塔を再建させることを随心院
         門跡へ伝える(善通寺文書)
     5・25 後宇多上皇,崇徳院御影堂領阿野郡北山本新荘の預所職を僧源恵が請
         け負うことを認める(洞院家記所収文書)
     8・25 後宇多法皇,多度郡良田郷を善通寺へ返付するよう知行国主洞院実泰
         へ命じる.ついで9月2日,実泰,法皇の命を随心院へ伝える(随心
         院文書・善通寺文書)
     11・- 善通寺の百姓ら,寺領一円保の絵図を携え,本寺随心院へ列参する(善
         通寺伽監并寺領絵図)
 県外  7・26 後宇多上皇,嵯峨野無量寿院において出家する(増鏡・大覚寺門跡次
         第)

1308 延慶1 10・9 (戊申)
 県内  1・1 九条忠教,子息師教の意志により,那珂郡小松荘・備前国小豆島荘な
         どの家領をその弟房実へ譲る(九条家文書)
     3・1 金蔵寺,火災にあい,金堂・新御影堂・講堂以下の堂舎が焼失する(金
         蔵寺文書)
     7・15 石清水社,明年の僧供料を社領備前国肥土荘へかける(榊葉集)
     11・18 後宇多法皇,善通寺と春日社との和解を認め,河内国禁野渚院の艘別
         銭を両者に折半する(善通寺文書)
     この年 僧宥範,善通寺東北院に入る(贈僧正宥範発心求法縁起)
 県外  1・26 後宇多法皇,東寺において伝法灌頂をうける(大覚寺門跡次第)

1309 延慶2 (己酉)
 県内  11・8 九条忠教,備前国小豆島荘などの家領についての奉行人のことなど諸
         事を定める(九条家文書)
     12・30 後宇多法皇,善通寺へ河内国禁野渚院の関務半分を修理料として安堵
         する(善通寺文書)

1310 延慶3 (庚戌)
 県内  3・- 善通寺蔵銅造阿弥陀如来立像,鋳造される.

1308~11 延慶年間
 県内  後宇多法皇,阿野郡陶保を醍醐寺報恩院へ寄進する(醍醐寺文書)

1311 応長1 4・28 (辛亥)
 県内  6・19 尼蓮阿,賀茂御祖社領多度郡葛原荘の公文職を,夜叉御寮へ譲る(細
         川家文書)
     12・15 石清水検校尚清,三野郡本山荘などの善法寺坊領を子息康清へ譲る(石
         清水文書)
 県外  11・27 足利尊氏の父前讃岐守貞氏,出家する(公卿補任)

1312 正和1 3・20 (壬子)
 県内  10・8 三野郡本山寺二天像,造り始める.130日で完成し,翌2年3月9日
         開眼供養が行われる(二天像胎内納入文書)

1314 正和3 (甲寅)
 県内  7・7 六波羅探題,善通寺の訴えにより,多度郡良田郷の収納使綾氏女らの
         召喚を伊達蔵人太郎入道に命じる(善通寺文書)

1315 正和4 (乙卯)
 県外  3・8 鎌倉大火により,将軍守邦親王,讃岐守北条基時邸に移る(公衡公記)

1316 正和5 (丙辰)
 県内  この頃 讃岐国の悪党井上五郎左衛門尉,伊予国の武士とともに軍勢を率いて,
         同国弓削島荘へ乱入する(東寺百合文書)
 県外  この年 北条守時を讃岐守に任命する(北条九代記)

-60-
1317 文保1 2・3 (丁巳)
 県外  4・- 幕府,持明院・大覚寺両統の迭立を提案する〔文保の和談〕

1318 文保2 (戊午)
 県内  3・15 島津忠宗(道義),那珂郡櫛無保の上村・下村を子息貞久へ,同保の
         公文・田所両名を女大娘御前へ,それぞれ譲る.ついで3月23日,
         幕府の安堵をうける(島津家文書)

1319 元応1 4・28 (己未)
 県内  9・- 興福寺,多度郡藤原荘などの寺領に同寺大垣修理役をかける(文保三
         年記所収文書)

1320 元応2 (庚申)
 県内  5・19 後宇多法皇,僧約翁徳倹の没に伴い,南禅寺牧護庵へ那珂郡垂水郷を
         寄進する(仏燈国師塔銘)

1321 元亨1 2・23 (辛酉)
 県内  2・2 仁和寺御室門跡,寺領鵜足郡法勲寺荘の預所職に僧某を任命する(大
         覚寺文書)
     2・18 白峯寺蔵石造笠塔婆,願主金剛仏子宗明によって造立される.
     8・23 賀茂御祖社,社領多度郡葛原荘の公文職に尼蓮阿を任命する(林康員
         所蔵文書)
     10・27 島津忠宗(道義),那珂郡櫛無保内中村四郎給分を女伊作娘へ譲る(島
         津家文書)
     この年 後宇多法皇,善通・曼荼羅両寺および誕生院の興隆を図るため,本寺
         を随心院より大覚寺に改め,多度郡を同寺領とするとともに随心院に
         替りの荘園を与えることを定める(大覚寺文書)
 県外  12・- 後宇多法皇,院政を停め,後醍醐天皇の親政とする(花園院御記・神
         皇正統記)

1322 元亨2 (壬戌)
 県内  2・23 蔵人大進某,賀茂御祖社領多度郡葛原荘の領家鴨祐敦の訴えにより,
         同荘公文職についての濫妨の件を同社祝に調べさせる(林康員所蔵文
         書)
     5・4 賀茂御祖社,社領多度郡葛原荘の公文職を尼蓮阿に安堵する(林康員
         所蔵文書)
    (5)・26(#「5」は丸付き数字) 後宇多法皇,阿野郡陶保などの寺領を報恩院
         へ安堵する(醍醐寺文書)

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1323 元亨3 (癸亥)
 県内  2・14 万里小路宣房,賀茂御祖社領多度郡葛原荘の領家大納言局の訴えによ
         り,同荘公文職について同社祝に調べさせる(林康員所蔵文書)

1324 正中1 12・9 (甲子)
 県内  5・8 賀茂御祖社領多度郡葛原荘の領家某,同荘公文職に尼蓮阿を任命した
         同社の命令を施行する.ついで5月10日,預所某,領家の命令を施
         行する(林康員所蔵文書)
     6・- 後宇多法皇,大覚寺の規定を定め,分国讃岐国の年貢5万疋を公請と
         修理の費用に充てる(大覚寺門跡略記)
     この年 白峯寺十三重塔.建立される.
 県外  6・25 後宇多法皇,没する(花園院御記)
     9・- 幕府,後醍醐天皇の討幕計画を知り,日野資朝・同俊基を捕らえる〔正
         中の変〕

1325 正中2 (乙丑)
 県内  3・- 僧祐喜,三野郡詫間荘預所に,荘内浪打八幡宮の供僧に再任されるこ
         とを請う(宝寿院文書)

1326 嘉暦1 4・26 (丙寅)
 県内  この年 熊手八幡宮(現,多度津町)五輪塔,建立される.
     この年 山田郡桜八幡宮別当満願寺僧教専ら,大般若経600巻を書写する.至
         徳2年まで継続(願成寺蔵大般若経)

1328 嘉暦3 (戊辰)
 県内  11・4 分国主後醍醐天皇,阿野郡羽床郷内萱原神田を祗園社前執行静晴に安
         堵するよう讃岐守に命じる.ついで12月26日,知行国主三条公明,
         天皇の命令を施行する(八坂神社記録所収文書)

1329 元徳1 8・29 (己巳)
 県内  2・4 後醍醐天皇,祗園社領阿野郡羽床郷内萱原村についての濫妨を停止す
         る(八坂神社文書)

1330 元徳2 (庚午)
 県内  3・25 三野郡草木荘の住人,飢饉により子供を銭500文で売却する(仁尾賀
         茂神社文書)
     3・- 後醍醐天皇,那珂郡買田郷を園城寺へ寄進する(日吉社并叡山行幸記)
     4・8 僧隆憲,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院本堂の再建を図る(覚城院文
         書)
     9・17 三野郡二宮荘など後醍醐皇子世良親王の遺領を臨川寺本元上人へ寄進
         する.ついで10月25日,後醍醐天皇,本元上人へ安堵する(臨川寺
         文書)
     この年 宥範,那珂郡小松荘の小堂において「妙印抄」80巻を完成する(蔵
         僧正宥範発心求法縁起)

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1331 元徳3 元弘1 8・9 (辛未)
 県内  8・9 島津貞久(道鑑),那珂郡櫛無保上村・下村などを子息宗久へ譲る.
         ついで12月5日,幕府より安堵をうける(島津家文書)
     9・- 讃岐守護駿河左近将監(北条時邦),笠置山攻めのため,幕府の大軍
         とともに上洛する(光明寺律書残篇)
     12・5 三野郡高瀬郷地頭沙弥源誓,同郷内伊予大道より下半分の地を秋山泰
         忠へ譲る(秋山家文書)
     この年 元弘の乱後,三野郡二宮荘の地頭近藤国弘以下の武士ら,領家臨川寺
         の命に従わず,年貢を滞納する(臨川寺文書)
 県外  5・5 幕府,日野俊基・文覚らを捕らえる.8月,後醍醐天皇,笠置山に籠
         る.9月,楠木正成,河内赤坂に挙兵する.後醍醐天皇,幕府に捕ら
         えられる〔元弘の乱〕

1332 正慶1 4・28 元弘2(壬申)
 県外  3・- 幕府,後醍醐天皇を隠岐へ,尊澄法親王を讃岐に流す(増鏡)

1333 正慶2 元弘3 (癸酉)
 県内  5・21 塩飽聖遠・定頼ら得宗被官塩飽一族,鎌倉において幕府とともに滅亡
         する(太平記)
     この年 土居通綱・得能通増ら伊予国の反幕府方の武士,讃岐へ攻め込み,多
         度・三野郡境の鳥坂で戦う(忽那家文書)
 県外 (2)・24(#「2」は丸付き数字) 後醍醐天皇,隠岐を脱出する(皇代略記)
     5・- 六波羅探題,落ちる.ついで,新田義貞,鎌倉を落とす〔鎌倉幕府滅
         亡〕

1334 建武1 1・29 (甲戌)
 県内  12・21 上野国新田岩松氏の尼妙蓮,那珂郡良野郷を養子直国に譲る(正木文
         書)
 県外  8・- 京都二条河原の落書.建武新政を風刺する(建武年間記)

1335 建武2 (乙亥)
 県内  2・- 讃岐に乱起こり,紫雲山極楽寺主明範,寺を寒川郡石田郷より同郡長
         尾村吉祥院に移し,宝蔵院と号する(紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記)
     7・ 讃岐に兵乱あり,乱兵寺社領を奪う(紫雲山極楽寺宝蔵院古暦記)
     11・23 某,賀茂御祖社領多度郡葛原荘公文職を道挺上人に譲る(細川家文書)
     11・26 足利方の将細川定禅,鷺田荘に挙兵し,高松頼重と屋島で戦い破る.
         詫間・香西氏らこれに加わる(太平記)
     12・- 興福寺三面僧坊,同寺領寒川郡神崎荘の荘官・百姓に対して,動乱時
         の出陣催促への対応その他の荘務を下知する(興福寺旧蔵抄物紙背文
         書)
 県外  2・- 北条氏の残党,伊予国で蜂起する(三島文書)
     7・- 北条時行,信濃国で挙兵.足利直義を破り鎌倉に入る〔中先代の乱〕
     8・- 足利尊氏,北条時行を破り鎌倉に入る(梅松論)
     11・19 尊良親王・新田義貞ら,足利尊氏・直義追討のため京都を出発する(元
         弘日記裏書)
     11・- 備前国佐々木信胤ら,細川定禅に応じ備中福山城に拠る(太平記)

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1336 建武3 延元1 2・29 (丙子)
 県内  2・15 細川和氏・顕氏,秋山泰忠に,勲功の賞として三野郡高瀬郷領家職を
         宛行う(秋山家文書)
     2・15 足利尊氏,那珂郡櫛無社地頭職を善通寺誕生院宥範に寄進する(善通
         寺文書)
     8・24 左大将九条道教家政所,備前国小豆島・那珂郡小松荘他の知行目録を
         作成する(九条家文書)
     9・6 光厳上皇,阿野郡陶保を醍醐寺報恩院に安堵する(醍醐寺文書)
     9・18 仁和寺領三野郡二宮荘安堵の院宣が出され,足利尊氏これを保証する
         (久我家文書)
     9・24 光厳上皇,那珂郡金倉上荘・買田荘・真野荘を園城寺に安堵する(園
         城寺文書)
     10・13 光厳上皇,浄金剛院領大内郡与田郷下村を大納言阿闍梨に安堵する(浄
         金剛院文書)
     12・18 光厳上皇,崇徳院御影堂領阿野郡北山本新荘を仁和寺門跡上乗院宮に
         安堵する(華頂要略所収文書)
     この年 西教寺(現,大川町)蔵笠塔婆,僧乃円によって建立される.
 県外  1・- 細川定禅,足利尊氏に応じ,四国・中国の兵を率い京に攻め上る(太
         平記)
     2・12 足利尊氏敗北し,海路九州に走る(梅松論)
     2・13 足利尊氏,播磨国室津で軍議を行い,四国・中国に諸将を配置する.
         四国には細川一族を置き,和氏・顕氏には恩賞宛行の権を与える(梅
         松論)
     5・10 細川氏に率いられた讃岐の兵,備後国鞆津を発って東上する尊氏軍に
         参加する(梅松論)
     5・25 湊川の戦いで,新野見(新居)小太夫ら讃岐勢,細川定禅に従い新田
         義貞と戦う(梅松論)
     6・14 足利尊氏,光厳上皇を奉じて入京する(太平記)
     11・7 足利尊氏,幕府を開き建武式目を制定する.
     12・21 後醍醐天皇,吉野に移る(保田文書)

1337 建武4 延元2 (丁丑)
 県内  3・26 これ以前南朝軍,三野郡財田城に拠って蜂起する.讃岐守護細川顕氏
         ,月成太郎次郎らを宇多津に派遣し,この日,在京の秋山泰忠に参陣
         のため帰国を命じる(秋山家文書)
     3・27 蓮華王院領山田郡十川郷雑掌理舜,公文又四郎入道の濫妨を訴える
         (妙法院文書)
     5・10 細川顕氏家人宇佐美又三郎,阿野郡南条山西方に打ち入り,伊東貞祐
         の同所地頭職を押領する(伊東文書)
     5・- 幕府,浄金剛院領大内郡与田郷下村山本五箇の濫妨停止を守護細川顕
         氏に命じる(讃州府志所収文書)
     6・3 これ以前,佐々木信胤,幕府軍が小豆島に襲来し,合戦に及んだこと
         を南朝に伝える(小山文書)
     6・14 神真誠,某所一分地頭職2段を善通寺誕生院に寄進する(善通寺文書)
     6・20 守護細川顕氏,財田城の南朝軍攻撃のため,桑原常重を派遣し,香西
         彦三郎に参陣を命じる(西野嘉右衛門氏所蔵文書)
     7・12 幕府軍,小豆島に襲来する(小山文書)
     7・29 守護細川顕氏,桑原常重の財田城攻略を賞し,残党の誅伐を命じる(西
         野嘉右衛門氏所蔵文書)
     8・11 守護細川顕氏,桑原常重・周敷助房に命じて,造田長守が抑留してい
         る二位家法花堂領寒川郡造田荘是弘名の領家年貢を納入させる(西野
         嘉右衛門氏所蔵文書)
     8・11 中御門冬定,阿野郡山田荘水田名を一期の間,子息宗重に譲る(南部
         文書)
     10・13 これ以前,仁木弥二郎以下の軍勢,宣政門院領鵜足郡川津郷を濫妨す
         る.この日,光厳上皇,宣政門院の訴えにより,同郷の下地を雑掌に
         打渡すよう幕府に求める.ついで11月19日,幕府,讃岐守護細川顕
         氏に遵行を命じる.12月2日,守護細川顕氏,守護代柴島長範に同
         郷を雑掌に打渡すよう命じる(外記日記紙背文書)
     11・6 寛縁,興福寺領寒川郡神崎荘地頭方年貢を請け負う(諸宗雑抄紙背文
         書)
     12・- 醍醐寺報恩院.収公された阿野郡陶保の返付を幕府に求める(醍醐寺
         文書)
 県外  6・3 佐々木信胤の注進により,後醍醐天皇,紀州小山一族に小豆島への発
         向を命じる(小山文書)
     7・17 南朝,紀州小山・塩崎一族に後詰のため淡路・小豆島間への発向を命
         じる(小山文書)
     8・14 足利直義,細川頼春を遣わし淡路の南朝軍を討たせる(小早川什書)
     9・18 後醍醐天皇,紀州小山・塩崎一族に佐々木信胤が小豆島で挙兵したこ
         とを伝え,合力を命じる(小山文書)
     10・7 幕府,諸国大将・守護が占領した寺社領・国衙領などを還付させる(柞
         原八幡宮文書)