2 徳道上人と花山院と

 底本の書名 巡礼と遍路 
 入力者名  多氣千恵子
 校正者   塚本順子
 入力に関する注記 
   ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
      文字番号を付した。
   ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
    と表記した。

 登録日   2007年6月13日
      


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2 徳道上人と花山院と

 大和の長谷寺に徳道上人という僧がいた。それは養老年間(八世紀初頭)であるが、観
世音を信仰し、巨大な樟の木を得て観世音の仏像を造った。やがて亡くなったが、冥途に
行った徳道上人がえんま(「えんま」に傍点)大王から、この世へ帰って、三十三ケ所の
観世音霊場を広めるようにいわれたのが、西国巡礼の起りとされている。このことについ
て考えてみたい。

子育て幽霊の話(「子育て幽霊の話」は太字)

 民間説話に中に異常誕生というモチーフがある。これは桃の中から生れた桃太郎とか瓜
に中から生れた瓜子姫、さては親指から生れた親指太郎など、いずれも常人とは異った生
誕をするものであるが、並の者とは違って生れた者は何かにつけて傑出しているのであっ
た。このような異常誕生の中で、いささか奇異なものとして子育て幽霊という昔話がある
。日本の各地からもう何十となく採集されているが、その中の代表的なものをここに紹介
すると――
 昔あるところに子供のいない夫婦があった。清水の観世音に祈って子供をはらんだが、
いよいよ産

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む時になって忽ちのうちに女は死んでしまった。そこでそのまま葬ったが、それからとい
うもの、近くの飴屋へ夜更けてから女が飴を買いに来る。そして飴を受け取るとすぐに帰
っていってしまう。そんなことがたび重なるので不思議に思った飴屋が跡をつけていくと
、その女は先日葬ったばかりの墓の中へ入っていってしまった。飴屋の亭主が呆然として
いると、どこからともなく子供の泣声が聞えてきた。その声を確かめると、どうも女が入
った墓の中から聞えてくるようである。その夜はそのまま帰ったが、翌朝になって近所の
人といっしょに行き、その墓をあばいてみると、葬られた女が、まるまると肥った赤児を
抱いていた。そこで、その赤児に母親の菩提を弔わせようと、赤児を墓に穴から出して育
てたところ、成長してから通幻(ルビ つうげん)という名前の名僧になった(兵庫県有
馬郡の話・関敬吾『日本昔話集成』による)。
 この話では通幻という名僧になったとあるが、子育て幽霊の話は頭白上人という高僧に
なったとか、学信和尚という学僧になったとか、あるいはその墓のある寺の何代目かの住
職になったなどという例が多く、いずれにしてもすぐれた僧になったという語り方が多い
のである。
 子育て幽霊の説話から思い出されるのは熊野の本地の物語で、この中に子育て幽霊のモ
チーフに近いものが小部分ながら見いだせるのである。すなわちその筋書を簡単に述べる
と――
 昔、まかだ(「まかだ」に傍点)国の善哉王には、七人の后と一〇〇〇人の女御がいた
。その中には、五衰殿(ルビ ごすいでん)という女御がいたが、一七の時に来て一九に
なるまで、王の目にかけられず捨てておかれた。この女御は、観世音を厚く信仰していた
、十一面観世音を造って、王が自分を思い出すようにと祈った。そのた

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めか、六年一〇か月目に、一〇〇〇人の数をかぞえて、この女御がいるのに気がつき、通
ってみて美人なので、今まで忘れていたことを後悔した。王の寵愛は浅くなく、いつしか
懐妊の身とはなったので、他の女御が陰陽師をして占わせると、生れる子供は善王になっ
て善政をしくと出たので、おどして王にざんそをさせた。王は仕方なく鬼谷山の鬼持谷で
首を刎(ルビ は)ねさせた。死に臨んで生れた王子は、母の乳房を吸い虎狼野干(ルビ
 ころうやかん)の守護によって育った。これを山の奥の花商山にいた喜見上人が知って
王子を連れてきて三年間養育した。王の重病に王子が祈?に来て、病気は治ったが、布施
として母の首を所望したことからかの女御の子であることがわかり、王、王子、上人の三
人は万里の飛車に乗って日本の熊野に来て、熊野三所権現となって現われた(『神話伝説
辞典』による)。
 この話の中で、死にのぞんで生れた王子が母の乳房を吸って生きていたという条が子育
て幽霊のモチーフと共通するところがあるのである。それを本文によって見ると、
  ・・・・・・南無阿弥陀仏百へんばかり申し給ひて、この王子をば、御ひざに抱き参らせて
  、はやはや暇を得させよとおほせありければ、もののふ剣を抜きて、御傍へ立寄るか
  と見えしかば、御首あへなく落ち給ふ、やがて御首をば あしおけ(「あしおけ」に
  傍点)に入れまいらせて、みやこへとぞ帰りける
  さて御むくろは王子を抱きまいらせて、ひだりの乳房をふくめまいらせ給ひけり た
  だ今生れさせ給ふことなれば 母きさきの崩御ならせ給ふ むなしき乳房を御まいり
  あるこそかなしけれ・・・・・・さるほどに、后の御手足の色もかはりはて、ししむらも損
  じおはしけれども、ふくめまいらせ給ふ乳房ばかり、すこし違ひ給はず 御乳のいづ
  ること いきさせ給ひしに 少しも違

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  はずして それを御まいりありて育ち給ふ・・・・・・(くまのの本地 古梓堂文庫蔵奈良
  絵本)
 これはまぎれもなく子育て幽霊と思うが、その乳房をふくませるあたりはこの本地物語
が女の宗教人――熊野比丘尼らによって唱導されていることがわかるような気がする。そ
してあるいは、子育て幽霊の昔話そのものも、熊野比丘尼あたりが伝播していったのかも
しれないと思うのである。

異常生誕のこと(「異常生誕のこと」は太字)
 
 さて、徳道上人はえんま(「えんま」に傍点)大王の命によってあの世からよみがえっ
たというのが、今まで冥界に赴いていたものが再びこの世に生を受くるというのはやはり
一つの異常生誕とみなされるのではなかろうか。そして子育て幽霊の系統の話の主人公が
、やがては高僧や名僧に、さては熊野の本地に見る如く熊野三所権現になったように、冥
界よりよみがえってきた者は何かの宗教的な威力を持って再来したという信仰があるので
はないかと思われる。徳道上人はえんま(「えんま」に傍点)大王の命によってそうした
威力を持って蘇生してきたのであった。
 その点はかの説経説の小栗判官の物語で、毒殺された判官はいったんはうわのが(「う
わのが」に傍点)原に土葬されるが、えんま(「えんま」に傍点)大王が、熊野本宮の湯
にひたせと藤沢の上人に書面を送り、やがて餓鬼阿弥として蘇生して熊野まで運ばれ、本
宮の湯につかって再び偉丈夫となったという話にも現われている。すなわちあの世からよ
みがえってきた者はなんらかの威力を持っているのであった。それは四国遍路のところで
述べた衛門三郎も同じことで、この方は手に石を握って生れてきたという語り方が徳道上
人

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や小栗判官とは違うようだが、本質は同じで再生ということを語っているのである。そし
て衛門三郎の話は疑いもなく熊野信仰のもたらしたものであることは、熊野山石手寺の寺
名を見ても疑うところがない。
 あの世からよみがえってきた者がなんらかの宗教的な威力を持っていたということは、
前述の志度寺縁起の白杖童子などの話においても同様である。私は熊野の本地、小栗判官
、衛門三郎と並べてみて、次に徳道上人のことに思いをいたすと、徳道上人が西国三十三
ケ所の霊場を開いたという話は熊野山伏や比丘尼によって唱導されたのではないかと考え
るのである。徳道上人は養老年間の人であり、まだ熊野信仰などはあるはずがないという
人があるかもしれないが、しかしある種の信仰を持って唱導していく人々にとってはそん
な時代観念などはないのである。たとえ上人が養老年間に生れたということを信じても、
である。

花山院と西国巡行(「花山院と西国巡行」は太字)

 徳道上人は、三十三ケ所の観音霊場を広めるために三十三の宝印をえんま(「えんま」
に傍点)大王からもらってわざわざこの世へもどされたにもかかわらず、当時の人はだれ
も信用しない。そこで三十三の宝印を中山寺に埋めた。後に二七〇年余りたって、花山法
皇がこれを掘り出して、性空上人、弁光僧正を伴にして西国の霊場をめぐったことから西
国巡礼が盛んになった、というのは何を物語るのであろうか。単なる伝説にすぎないとい
ってしまえばそれまでであるが、やはりそれには何らかの理由があ

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るはずである。
 徳道上人がえんま(「えんま」に傍点)の庁から帰ってきたということは、既述したよ
うに子育て幽霊や熊野の本地につながる説話であって、四国遍路の衛門三郎と同様に熊野
信仰から出た説話であった。時代を養老年間ということにしたのには、何らかの理由があ
るのであろう。だが、養老年間ではあまりにも年代が古くて、事実上の西国巡礼が始まっ
たころとは年代にへだたりがあり過ぎる。そこでそれから二七〇年余り後の花山院の巡行
につけたのではあるまいかと考えるのである。
 西国三十三ケ所の巡礼は、そのはじめは大和の長谷寺であったというが、これはおそら
くその当時としては、京の町からは馬に乗り従者を従えてくるのには手ごろな行程であっ
たからであろう。
 そのうえに長谷は伊勢にも吉野にも通じる重要な地点であった。いわば交通上の要路で
あったので、長谷の門前町は古くからの宿場でもあったようで、人馬の往来が激しかった
。
 今も長谷の徳道上人の廟には四国第七十番本山寺の本尊馬頭観世音の石像が祀られてい
るが、それは馬頭観世音が交通の要路に祀られる観世音であるからである。ここからは吉
野を経て熊野へ行くこともできたし、また熊野から来ることもできたので、時代がたつに
つれて、ますます熊野信仰との関係が深くなったのではあるまいか。徳道上人の物語が、
熊野信仰から出たことは否定できないが、時代が古すぎるので花山院を持ってきたのは、
おそらく花山院が那智の滝で修行されたということから出ているのであろう。
 狂疾の御身であったという花山院は、藤原氏の策謀によって帝位を追われ那智の滝にこ
もって修

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行された。その庵の跡が今も滝の上に残っているというが、滝の上で一〇〇〇日の苦行を
積まれてから西国巡礼の旅に出られたのだという。おそらくはこのことが、今まで長谷寺
を第一番の霊場としていたのを那智の青岸渡寺に変えた一つの理由ではないかと思う。
 那智の滝で修行をしてから山野を跋渉して霊場をめぐるということは、熊野山伏のする
ことである。考えてみれば、それゆえに花山院西国巡礼の御事にも深く熊野信仰が投影し
ていることがわかるのである。
 徳道上人といい、花山院といい、熊野信仰がその背後にあるとするならば、これは、当
然四国遍路の風習に熊野信仰が介在しているのと同じことではないかと考えるのである。
 さて、花山院は巡拝の後、摂津の三田(ルビ さんだ)の町の近くで一生を終えられた
という。そこは海抜八〇〇メートルばかりの山上の寺で、山麓には尼寺(ルビ にじ)と
いう集落があり、伝説によれば花山院をしたってきた女御をはじめとして一二人ばかりの
女官たちの墓があるということだ。
 私の考えは空想にすぎないというそしりを受けるかもしれないが、一二人ばかりの女官
たちの墓というのは、もとは熊野十二社権現をお祀りしてあったのではなかろうか。それ
とも一二の墓は熊野比丘尼の墓ではないかと私は思うのである。
 要するに、退位されて後の花山院は、熊野信仰をたずさえて西国の霊地(あえて観世音
の霊場とはいわない)を巡行された。その中には観世音の霊場も無論入っていたので、や
がてはそれが三十三ケ所巡礼の始めだといわれるようになったのではなかろうか、と私は
想像しているのである。