4 死霊のこもる山

 底本の書名 巡礼と遍路 
 入力者名  多氣千恵子
 校正者   合葉やよひ
 入力に関する注記 
   ・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
      文字番号を付した。
   ・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
    と表記した。

 登録日   2006年4月11日
      

-68-
4 死霊のこもる山

死霊の行く山

 人が死ぬと、その霊は村里の近くの秀でた山に上るという。日本にはそうした山が古く
から無数にあったのであるが、それらの山の中のあるものはいつしか信仰を失い、いくつ
かの山が何かの理由で死霊のこもる山としていまだに残っている。そうした山々には、信
仰の対象として寺が設けられ、その寺自体あるいは寺の背後の山が死霊の行く山として考
えられるに至った。四国八十八ケ所の寺の中にはそのような寺がいまだに存在している。
私は山麓地方の住民の中にそうした寺々へ参詣する風習があって、その風習が他国から来
た者にも広まって、現在の八十八ケ所寺院のいくつかとなっていったと想像している。そ
してそのような寺は山上にあり、岩山が多く、後世になっては修験の山伏たちが修行する
山となった。すなわち死霊が早く清められるためには岩石の聳え立つ山がふさわしいと考
えたのと、山伏修行のためには岩山が必要であるという、二つの条件に相通ずるものがあ
ったからである。おそらくは故郷から眺めて秀麗な山であったら、死霊が行くのにはどこ

-69-
ででもよかったのであろうが、修験道の発達とともに岩山で荒行するものが多くなるにつ
れて、岩山のみが死霊の行く山として残ったのかもしれない。
 私の見聞したそうした山寺は次のごとくである。
   徳島県――――切幡寺 焼山寺 恩山寺 鶴林寺 太竜寺 薬王寺
   高知県――――最御崎寺 禅師峰寺 
   愛媛県――――岩屋寺 横峰寺 三角寺
   香川県――――弥谷寺 大窪寺 白峰寺
 これらの寺について私は今から八年ばかり前に発表したことがあるが、その時の発表の
上に徳島県の薬王寺と愛媛県の三角寺、香川県の白峰寺を私は追加している。そのほとん
どが修験とも関係が深い寺で、中には、今は死霊が行く寺としての痕跡も残っていない寺
もあるようである。薬王寺をその中に加えたのは、この寺と関係が深くて奥の院と称され
ている玉厨子山(ルビ たまずしやま)が、麓の人々によって死者の霊が行くところと信
じられているからである。さらに香川県の白峰寺を加えたのは、山から近い綾歌郡国分寺
町や綾南町の一部に、昔は死者があると必ず白峰寺の市には参ることになっていたと最近
になって聞いたからである。前記の寺の中で死者の霊が行くという信仰がもっとも根強く
残っているのは、第七十一番の弥谷寺(ルビ いやだにじ)である。

-70-
弥谷寺

 死霊が行くといまだに信じられている弥谷寺のイヤという言葉は、おそれ慎むという意
味でうやまうのウヤ・オヤなどと同義の言葉であろう。徳島県の剣山麓の祖谷山(ルビ 
いややま)のイヤも同じ言葉で、この奥深い山村に、吉野川上流地方の人は古くは死霊の
こもる山というイメージを持っていたにちがいない。
 要するにイヤダニヤマはその言葉の持つ意味からも死霊を想像できる山であった。
 弥谷寺は中腹にあるが、その境内の至るところに岩壁があり、岩穴があって、いかにも
死霊のこもる山にふさわしい。弥谷山の頂上は海抜四〇〇メートルぐらいだが、寺のある
あたりは三〇〇メートルぐらいで樹木がよく茂っている。仁王門から大師堂まで行く途中
の参道の両側はサイノカワラとよばれ、地蔵がいくつか祀られて、小石が無数に積み重ね
られている。急な石段を登り切ったところには役行者(ルビ えんのぎょうじゃ)の石像
があって、その左手に大師堂の岩窟がある。
 大師堂は暗い岩窟の中に設けられているので、昼でもなおうす暗い。大師堂を出て本堂
に行く途中にも岩穴があり、そのあたりから本堂までの間を比丘尼谷(ルビ びくにだに
)またはお墓谷とよぶ。岩壁には弥陀三尊(ルビ みださんぞん)が彫られているが、こ
れは一遍上人が刻んだものだという。比丘尼谷の入口には、またも岩穴があって、その前
には岩壁を伝って流れる水滴をためるための水たまりがある。弥谷山へ参りにきた人はこ
こで経木(ルビ きょうぎ)に水をかけて死者の菩提をとむらうことになっている。この
あたりから本堂までの

-71-
間には多くの墓が並んでおり、途中の岩肌には五輪の石塔が無数に刻みこまれている。本
堂の本尊は千手観世音菩薩である。これが弥谷寺の大体の様子だか、イヤダニマイリの風
習はこの山麓のみならず、かなり広い範囲にわたって行なわれている。

イヤダニマイリ

 人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのがイヤダニマイリで、死後七日目、四九日
目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の
髪の毛と野位牌(ルビ のいわい)などを持っていくのである。いちばん濃厚にこの風習
が残っているのは三豊郡の旧荘内村(詫間町)であるが、それをごく簡単に説明をしよう
。
 旧荘内の箱浦ではイヤダニマイリを死後三日目、または七日目に行なうことになってい
る。七日目の仏事のことをヒトヒチヤという。まず、死者の髪の毛を紙に包んだものと死
者が生前に着ていた着物とを持って血縁の濃い者が四人とか六人といった偶数の人数で参
る。はじめに墓へ行き、
「イヤダニへ参るぞ」
 と声をかけてから、その中の一人は後向きになって背に負うまねをする。そして負うま
ねをしてから、八キロばかりの道を歩いて弥谷山まで行くのである。ちなみにこの地方は
、土葬地帯だからこの墓はいわゆる埋め墓である。
 弥谷山へ着くと、比丘尼谷の洞穴の中へ髪を納め、野位牌を洞穴の前へ置いてから水を
かける。

-72-
着物は寺へ納める。洞穴の前には小さい小屋があって、彼岸の中日やオミズマツリの日に
は人がいるので、その人に頼んで経木に戒名を書いてもらい、その経木に櫁(ルビ しき
み)の枝で水をかけるのである。それから一行は本堂・大師堂とお参りをしてから帰途に
つくのだが、山を下りて仁王門の前にある茶店に上って、一行は会食をする。会食がすむ
と、後すなわち寺の方を振り返らないで家に帰ってくる。
 一方、一行がイヤダニマイリに行って留守になると、葬家の者は墓へ女竹(ルビ めだ
け)を四本持っていき、四つ又にして二五センチ四方ぐらいの板で棚をかける。その棚に
ふきん(「ふきん」に傍点)をつるし、白糸を通した木綿針をふきんにさして白糸を垂ら
しておく。イヤダニマイリから帰ってきた人は、すぐに家へは帰らず、まず墓へ行き、鎌
を逆手に持ってその棚をこわし、後を振り向かずに葬家へ帰ってくる。そこでそろって本
膳につく。
 荘内半島の箱浦の例について述べたが、イヤダニマイリの風習の古い型というのは大体
このようなものである。偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐた
めであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰るとか、家に
帰ってからも本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。墓に設けた棚
をこわすのも、死霊が墓にとどまるのを嫌うからである。要するに、再び死霊が家に帰っ
てくるのを防ぐための風習といえよう。死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミ
ズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間
もないころに行なわれるイヤダニマイリの行事は、明らかに死霊

-73-
を家から送り出すための行事であった。
 この七十一番の弥谷寺参詣をおもな行事として、四国八十八ケ所寺院の中で七十二番の
曼荼羅寺、七十三番の出釈迦寺、七十四番甲山寺、七十五番善通寺、七十六番金倉寺(ル
ビ こんぞうじ)、七十七番道隆寺をめぐることが春秋の彼岸の中日に行なわれているが
、香川県の西部一帯ではこれを七ケ所めぐりとよんでいる。そして七か寺の中ではなんと
してでも弥谷寺参りだけは欠かせないところから見ると、この行事は新仏のあった家では
死者の霊を送り出すため、そうでない家では弥谷山にこもっている死霊に会いに行くため
のものであった。そしてこのような寺々をめぐる風習が、やがては四国八十八ケ所遍路の
風習にまで広がっていく一因になったのではなかろうかと私は考えているのである。

 埋め墓と弥谷山

 このように弥谷山は死霊のこもる山であるが、それをはっきりと物語っているのは山麓
地方から付近一帯に行なわれている墓制である。今ではそれは両墓制(ルビ りょうぼせ
い)とよばれて、死体を埋めるウズメバカと死後一年とか二、三年目に建てられるマイリ
バカ(石碑)との二つの墓を有する墓制として知られているが、どちらかというとそれは
それほど古くない墓制であった。
 死者の霊は弥谷山にこもるのだから埋め墓だけがあればよいので、石碑を建てる参り墓
などは不必要なのであった。それがもっともよく現われているのは、香川県三豊郡三野町
の弥谷山麓の埋め墓である。ことに芝生(ルビ しばり)の埋め墓は人里から二〇〇メー
トルばかり離れた山の傾斜面にあるのだが、

-74-
試みに山の下からその埋め墓を眺めると、埋め墓は点々として際限もなく上に向ってのび
ていて、そのずっと先のあたりは弥谷山の頂上である。すなわち死者の霊はなんというこ
となしにひとりでに弥谷山に上っていくようになっているのである。このあたりでは参り
墓を作る風習が土地によっては昭和の初期に始まったということを聞いたが、それは他地
方からの影響で、もともとマイリバカなどは作る必要はなかったのである。この地方に限
っていえば、両墓制などというものがいかに新しいものであるかがよくわかると思う。
 話が少し脇道にそれたが、私のいおうとするところは、弥谷山には死霊の行く山として
の信仰が深く、付近の住民にとってはもちろん四国の霊地を遍歴する者にとっても、どう
しても立ち寄らねばならぬ霊場であったということである。

切幡寺のこと
 
 第十番の札所である切幡寺も、よく注意してみると死霊の行く山である。
 春の彼岸の中日には新仏のあった家では必ずこの山に登って戒名を書いた経木に水をか
けてくるといい、また山道の入口には葬頭河(ルビ そうずか)の婆さま(あの世へ行く
途中の三途(ルビ さんず)の川の傍にいて、亡者の衣をはぎとるという婆)の小堂もあ
るので、大体が死霊のこもる山であると考えられる。それにもまして、切幡寺が興味深い
のは、キリハタは焼畑のことであって、いうなれば水田経営ではなくて、麦や稗・そば・
粟などの畑作中心であることを意味することである。弘法大師が麦の種子を唐から盗んで
き

-75-
て麦作を広めたという説話は各地にあって、現に第一番霊山寺の番外札所の麦蒔大師(ル
ビ むぎまきたいし)にも大師が麦作を広めたという縁起話が残っている。となれば、切
幡寺は弘法大師以前の信仰、すなわち諸国を巡遊する貴い身分の神の子が麦畑の耕作を教
えた、という信仰が残っている寺であるのかもしれない。そういう点でもこの寺は大切な
信仰の霊地であった。
 そこで第一番の霊山寺から第十番の切幡寺までを歩く十里十ケ所という習慣が古くから
生れて、近在の人々は彼岸がくると十里十ケ所の霊地を歩いているのである。それは麦作
の信仰もあるであろうが、やはりなんといっても切幡寺にこもる死霊への信仰のためであ
った。
 このような死霊のこもる霊地が、四国の辺土を歩く遍歴の宗教人によって次第に四国八
十八ケ所の霊地そのものとなっていったことは否めないと思うのである。