3 大師信仰

 底本の書名 巡礼と遍路 
 入力者名  渡辺浩三
 校正者   合葉やよひ
 登録日   2006年2月21日
      

-48-
3 大師信仰


 四国遍路の起りについては、弘法大師の遺跡をめぐることから始まったということがも
っぱらいわれている。弘法大師は、年齢が四二歳の折に四国八十八ケ所の霊場を開いた、
という伝説が早くからあって、そこでその遺跡をめぐるのだというのである。しかし大師
がその多忙な身をもって、四国の山野に分け入って八十八ケ所を開いたということはとて
も考えられない。だが、四国の中でも、讃岐(香川県)は生誕地であるから、何といって
も若干のゆかりの土地なりゆかりの物は残っている。そこでそれらの遺跡を訪ねようとし
て四国に巡歴する僧も多かった。ここではまず大師の境涯について述べ、次いで西行法師
の讃岐巡歴について述べることにする。

 弘法大師の生涯

 弘法大師は宝亀五(七七四)年に生まれた。生れたところは、讃岐の国の多度郡屏風が
浦である。生家はその地方きっての名家で、佐伯氏といい、父は佐伯直田君、母は阿刀氏
であったという。幼名は真魚(ルビ まお)で、生れつき聡明、学を好み、延暦七(七八
八)年には都へ上って、母方の親類である阿

-49-
刀大足(ルビ あとのおおたり)について論語・孝経のほかに文章や詩文を学んだ。一八
歳の時に大学に入り、毛詩・左伝・尚書・左氏春秋など中国から入ってきた新しい学問の
いろいろを学んだ。
 しかし、空海は業半ばで大学を退き、仏門に入って石渕寺の勤操僧正(ルビ ごんそう
そうじょう)に師事して、三論を学び、四国に帰って、阿波の国の大滝嶽に登ったり、土
佐の国の室戸岬に行って難行苦行をしたといわれている。そして二〇歳の時には和泉国槇
尾山寺(ルビ まきのおさんじ)で勤操に従って得度し、それから大和の国の久米寺で密
教の研究に従事している。『三教指揮(ルビ さんごうしき)』を著したのはそのころで
ある。これは儒教や道教よりも仏教がよりすぐれていることを述べたものであるという。
 空海は唐に渡って仏教の教義を究めようとして、勅許を得て留学生として延暦二三(八
〇四)年の五月に、遣唐使(ルビ けんとうし)の船に乗って唐に渡った。途中、台風に
あったが、その年の一二月にようやく唐の都長安に到着。その年から翌年にかけて勉学し
て師を求めたが、翌年の五月に青竜寺の慧果阿闍梨(ルビ けいかあじゃり)に会い、そ
の学殖の深さに打たれてこれに師事した。そして真言の秘奥(ルビ ひおう)を受けて真
言八祖(ルビ しんごんはっそ)となった。ところが師の慧果阿闍梨が急に亡くなったの
で、空海は日本に帰ることになった。その後の空海の事蹟を簡単に年代順に述べると、
  大同元(八〇六)年 八月明州を発して帰途につく。筑紫の観世音寺に入る。
  大同二(八〇七)年 和泉国槇尾寺に入る。
  大同四(八〇九)年 高尾の神護寺に入り留まること七年。
  弘仁七(八一六)年 嵯峨天皇の親任厚く紀伊の国の高野山を賜って金剛峰寺を建て
  る。

-50-
  弘仁一二(八二一)年 讃岐の国満濃池を修築。
  弘仁一四(八二三)年 京都の東寺を賜って真言の道場とする。
  天長元(八二四)年 神泉苑(ルビ しんせんえん)で雨乞いをなし、験(ルビ し
            るし)あり。
  承和元(八三四)年 宮中に真言院を建てる。
  承和二(八三五)年 三月二一日高野山にて入寂。
 これが大体の空海の事蹟ということになっている。このようにその生涯は、真言に対す
る研鑚と、皇室よりの信任を得てからは朝廷のための祈願に、終始している。しかし、『
三教指揮』に見えるように山岳修行者として山野を跋渉していたのである。この空海の山
岳修行にあこがれ、また彼の生誕地を求めて、西行はじめ多くの僧が讃岐遍歴のために、
四国へやってきている。西行はその歌集の『山家集(ルビ さんがしゅう)』にその讃岐
遊行(ルビ ゆぎょう)の跡をとどめているのでここに記すことにする。

 西行の四国遍歴

 西行は仁安二(一一六七)年に讃岐へ来ているが、まず、生前に親しくお仕えしていた
崇徳院の廟所に詣り、それから大師の跡をたずねている。
  同じ国に大師のおはしましける御あたりの山に庵むすびて住みけるに、月いとあかく
  て、海の方くもりなく見え待りければ
   くもりなき山にも海の月見れば 島ぞ氷の絶え間なりける

-51-
  住みけるままに庵いとあはれにおぼえて
   今よりはいとはじ命あればこそ かかるすまひのあはれをも知れ
  庵の前に松の立てりけるを見て
   久にへてわが後の世をとへよ松 跡したふべき人もなき身ぞ
   ここをまたわが住みうくて浮かれなば 松はひとりにならむとすらむ・・・・・
 それから今では四国札所になっている曼荼羅寺に行き、
  花まゐらせける折しも、をしき(折敷膳)に霧のふりかかりければ
   しきみおくあかのをしきにふちなくば 何か霰の玉とちらまし
  大師の生れさせ給ひたるところとて、めぐりしまはして、そのしるしの松の立てりけ
   るを見て
      あはれなり おなじ野山にたてる木の かかるしるしの契ありけり
   岩にせくあか井の水のわりなきは 心すめども宿る月かな
  まんだら寺の行道どころ(今の善通寺市の禅定岳すなわち札所寺院出釈迦寺(ルビ 
  しゅつしゃかじ)より徒歩一〇〇〇メートルばかりの山上である)へまいるは世の大
  事にて、手を立てたるやうなり(絶壁である)大師の御経かきて埋ませおはしました
  る山の嶺なり
   ぼう(坊)の外は一丈ばかりなる壇つきてたてられたり。それに日毎にのぼらせお
  はしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり めぐり行道すべきやうに壇も二
  重につきまはされたり 登るほどのあやふさことに大事なり かまへてはひまはりつ
  きて

-52-
   めぐりあはむことの契ぞたのもしき きびしき山の誓見るにも
  やがてそれが上は大師の御師にあひまゐらせおはしましたる嶺なり わがはいしさ
  (今の我拝師山、善通寺の西にある)とその山をば申すなり その辺の人はわがいし
  とぞ申しならひたる。山もじをば捨てて申さず、また筆の山とも名つけたり 遠くて
  見れば筆に似てまろ<(♯「<」は繰り返し)と嶺のさきとがりたるやうなるを申し
  ならはしたるなめり 行道所よりかまへてかきつき登りて嶺にまゐりたれば師にあは
  せおはしましたる所のしるしに塔を立ておはしましたりけり 塔の石ずえはかりなく
  大きなり 高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ 苔は深く埋めたれども石おほき
  にしてあらはに見ゆ 筆の山と申す名につきて
   筆の山かきのぼりても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを
  善通寺の大師の御影にはそばにさしあげて大師の御師かき具せられき 大師の御手な
  どもおはしましき 四の門の額少々われて大方はたがわずして侍りき すゑにこそい
  かがなりけんずらむとおぼつかなくおぼえ侍りしか
 西行は、高野山で修行してから大師の遺跡をめぐろうとして、讃岐の国の善通寺のかい
わいに来て大師の誕生地の近くに庵を結び、大師の生まれた土地に立っている松の木を見、
また大師の修行した山、すなわちまんだら寺(現在の四国七十二番札所)から登ったとこ
ろにある出釈迦寺や我拝師山(禅定)のあたりまで登っている。
 大師ゆかりの寺(七十五番札所)善通寺をも訪れている。おそらくこの時代のこのあた
りは、大

-53-
師の霊域とはいうものの八重むぐらの繁った山あいの寺で、山林行脚にふさわしい寺であ
ったにちがいない。
 西行は詩文に巧みだったのでこのようにおのが山林行脚の状況を『山家集』に書きとど
めているのである。西行と同じように高野の山から四国へ来て大師の生誕地をめぐった僧
は多くあったろうが、西行のように記録をとどめ得なかったのである。このように高野の
山から出てきて大師の遺跡をめぐるということが、それがまるまる四国遍路に結びつかな
いまでも、四国遍路というものを今日のような姿のものにしていったことは否定すること
ができないと思う。

 大師伝説──その1

 弘法大師が諸国を巡遊したという信仰は全国各地でいわれていて、そのために多くの伝
説が分布している。これは無論四国地方にも広く分布していて、それが四国八十八ケ所の
起源をも説明しようとするのであるが、ここでは諸国に分布するそうした伝説について述
べてみることにする。
〈弘法清水の伝説〉
 まず第一に弘法清水とも名づくべき伝説がある.これは諸国をめぐっている旅の僧があ
まりにものどがかわいたので、付近の村人に水を所望する、ところがこのあたりは水が悪
くて困っているのだが、わが家には少々の水のたくわえがあるからといって一椀の水を持
ってきた。旅僧はそこで手に持っていた杖もしくは錫杖で地面を突くと、こんこんといい
水が湧き出てきたという話である。

-54-
そしてこの旅僧は弘法大師だったというのである。この伝説なども話し方がいろいろとあ
って、手に持っていた独鈷(ルビ どっこ)(仏具)で地を突くと地面から清水が湧き出
たと語る例もあるようである。
 ほかにもまだ変った話し方がいくつかあって、気だてのよい村人のためには清水がほと
ばしり流れるのだが、欲の深い老婆が出てきて、ここの水は飲めない水だといって、旅の
僧に水を与えないと、今度はほんとうに飲めない水になってしまうという語り方もあるの
である。また機を織っている女に水を飲ませてくれと頼むと、ここにはいい水はないのだ
といって、遠くからよい水を運んでくる。すると大師が、持っていた杖で地面をさすとた
ちどころに清らかな水が湧き出たと語る例もある。
 この大師水の伝説は日本中に広く分布していて、とても大師が行けそうもないところで
も語られているのである。
 水はもともと貴重なもので、昔の村人の暮しはよい湧水がなければ成立しなかった。多
くの村落は水のほとりに発達してきている。その貴重な水を与えることができる僧が多く
は弘法大師の話になっているのである。そして水を湧き立たせるのは、何としても、杖の
力である。それは時には僧が持っているから錫杖ともなっているが、いずれにしても杖は
神秘的な力を持っていると考えられていたのである。そうした杖の不思議な力を示すもの
に杖立の木(ルビ つえたてのき)の伝説がある。
〈杖立ての木〉
 これも諸国に数多いのだが、二、三の例を述べることにする。三重県の飯南郡の西蓮寺
の境内に

-55-
は弘法柿(ルビ こうぼうがき)という一本の柿の木がある。これは昔、弘法大師が柿の
木の杖を突いてこの寺まで来た。そして柿の杖をさかさまにさしてここを去っていったが、
その杖は成長して大きい柿の木となった。今も甘い実がなるが、さかさまにさしたせいか
柿の実がさかさまに下に向いてなるという。
 また、香川県三豊郡財田町の戸川という土地には、世の中桜という桜の老木がある。こ
れは昔、弘法大師が阿波の国から峠を越えて讃岐の国へ来た時に戸川の村へ来て休んだ。
その折にたずさえていた桜の木の杖をさしたのが根づいて桜の大木となったのだという。
なぜ世の中桜というのかといえば、東の枝に花が多く咲くと東の村が豊年で、西の枝に花
が多くつくと西の村が豊年であるというふうに、豊凶をうらなう木となっているからであ
るといっている。
 このように大師の杖が成長したという木は各地にあるが、四国八十八ケ所の番外札所に
なっている伊予の椿堂には、弘法大師が持っていた椿の杖をさしたのが成長した大きい椿
の木がある。もとの木は枯れてしまって今のは二代目か三代目といっているが、この木の
葉で水をすくって飲むと難病が治るのだといっている。
 和歌山県伊都郡杖が藪というところには、大師の杖が成長したという竹が生えている。
これは、大師がよい水が出るようにと投げ棄てた杖が成長したのだといっている。そのほ
か一つ一つあげていると限りないが、前述した衛門三郎の墓じるしとした三郎のたずさえ
ていた杉の木の杖が大木になったというのも同じ系統の話である。杖が成長したという話
は別に大師だけのものではなくて、聖徳太子の話にもあれば、後醍醐帝の伝説にも、また
神功皇后の伝説にもある。神秘な力を持った

-56-
人の杖には特別な呪力(ルビ じゅりょく)があって、こうした不思議なことも起り得る
と信じられていたのである。そしてそれらの話の主人公の大半が大師になっているのは、
大師がもっともよく国内を旅行した人だと信じられていたからである。杖は神楽歌の採物
(ルビ とりもの)の歌の中にも出てくれば、能の山姥の杖となっても登場してくる。そ
して杖はまた遠路の旅をする遍歴の修行者にとっては不可欠のものであった。今も四国遍
路が旅宿に着いた時、まず杖を洗い清めて床におくのも、杖は大切なものという以上に神
秘な力を持っているものと信じているからであろう。

 大師伝説──その2

 大師が神秘な力を持っているという伝説はかなり多くあるが、食わずの梨、食わずの芋
などという一群の伝説がある。
〈食わずの梨〉
 これは大師の力によって今までおいしく食べられていた梨が、たちどころに石のように
固くなり食べられなくなったという伝説である。
 これも三、四の例をあげると、四国第八十五番屋島寺の旧登山道に食わずの梨という一
本の梨の木がある。昔、大師がこの山道を登って屋島寺へ行こうとしたが、のどがかわい
てきて仕方がない。見るとそこに一本の梨の木があったので、傍にいた一人の老婆に所望
すると、老婆はみすぼらしい僧の姿を見て、この梨は食べられぬから差しあげるわけには
いかぬという。するとそれ以来そ

-57-
の梨は石のように固くなって、食べることができなくなったという。
 また群馬県山田郡の話では、昔弘法大師がこの村を通りかかった。空腹でたまらないの
で、川べりで芋を洗っている老婆にその芋を一つ下されと言うと、老婆はこの芋は食えぬ
と言う。しばらくして老婆がその芋を自分のところに持って帰って食べようとすると、そ
の芋はほんとうに食えない芋になっていたという話である。同じような話は鹿児島県の川
辺郡にもあって、ここでも弘法大師が巡錫中の話となっている。これも大師にうそをつい
て与えなかったために、その芋は煮ても焼いても食べられぬ芋になってしまったというの
である。
 その他、食わずの芋の伝説はよくわかっているのだけでも、山梨県の東山梨郡・長野県
小県郡・大分県速見郡などに分布している。いずれも大師がその生涯においてとても行け
ない地方である。
 これらの話の特色は、欲の深い老婆は今まで食べられていたものが食べられなくなった
という点を強調するところにある。ところが一方においては、食べられぬ果実が甘くなっ
ておいしくなったという伝説が存在している。
〈おいしい果実〉
 老婆が欲深であったために、今まで食べられていた芋や梨が食べられなくなったという
話と対照的なのが、甘いおいしい果物が実るようになったという話である。
 こうした果実の中には、石のように固くて食べられぬ品種があったりまたそれとは逆に
甘くておいしい品種のものがあるということからこんな伝説が発生したのであるが、これ
は大師はどんな超

-58-
人的な力をも持っているということを強調するための伝説であった。おいしくした方の伝
説の例をあげると、岐阜県の恵那郡吉田村太田に一本の栗の木があった。背が高い木だっ
たから、大人はその木の実をちぎって食べることができるが、子供はちぎることができな
い。そこへ弘法大師が通りかかって、子供の嘆いているのを見て、その付近に丈が短いの
に甘くおいしい栗の実がたくさんなる木を作ってやったという。
 四国八十八ケ所第三十七番の岩本寺にもこれとよく似た話があって、大師がこの寺の近
くに来ると、子供が栗の木に上って実を取っているので、大師は一つほしいと所望した。
すると子供は喜んで実を差し出したので、何か望みはないかと、大師が聞いた。すると子
供は、一年に三度も実がなればよいのにと言う。
 そこで、大師は、
  うない子のとる栗三度実れかし 木をも小さくいがもささずに
 という歌を詠んだ。それからというもの、実は一年に三度もなり、木の丈は低くて子供
も楽に上ることができ、いがもやわらかく、甘い栗がなるようになったという。これとよ
く似た話は各地にあって、三河の国の北設楽郡の吹上峠一帯の土地では、三尺ぐらいの若
木の栗に実がなるそうである。そしてこれも大師が子供のためにしてやったのだと伝えら
れている。
 このような伝説は子供は純真無垢でけがれがないので、神のおぼし召しにかなうという
ところから出ているものだと思われる。栗の実の話とは別にわらびの伝説も多くあるが、
この方はあく抜き

-59-
をしないでも食べられるようにしてくれたという話が多い。
〈わらびと胡桃〉
 山村では、春が来ると山野に入ってわらびを取ってくるのが一つの仕事であった。とこ
ろがわらびは灰汁につけてあくを抜かないと食べることができない。そこで山村の主婦に
とっては手間のかかる仕事であった。このあく抜きの手間のいらないわらびが生えるよう
にしてくれたのも、また弘法大師であった。岩手県江刺市米里の話であるが、昔、大師が
この地を通りかかると、貧しい家に正直な女がいて、あく抜きをしなくても食べられるわ
らびがあればよいのにと嘆いているのを見て、あく抜きの必要のないわらびが生えるよう
にした。また千葉県の話もほとんど同様で、大師が通りかかって一夜の宿を乞うと正直な
老婆が出てきて、お泊め申したいが、何にも食べる物がないと言うと、大師は付近の林の
中に入って、あくを抜かないで食べられるわらびを取ってきた。やがて一宿してから大師
は去っていったが、老婆がその林の中に入ってみると、あくなしで食べられるわらびが一
杯生えていたという。
 昔の食物は山野に分け入って取って来るものが多かった。いわゆる栽培植物は少なかっ
た。そしてそれを調理するためにはいろいろな技術を必要としたのである。わらびだけで
なく栃の木の実を食用にするのもそれである。これを食用にするためには渋を抜いて粉に
しなければならなかった。これは飢饉(ルビ ききん)の年には重要な食物であり、また
時には餅に入れたり団子にすることも多かった。その渋抜きの仕事は山村の主婦にとって
手間のかかる仕事であったのである。

-60-
 徳島県三好郡の東祖谷山村から土佐の豊永へ越える峠に京柱峠(ルビ きょうばしらと
うげ)というのがある。そこは高い峠であるが、昔ここへ弘法大師がやってきた。どこに
も民家がないので、今夜はここで野宿をしようと岩屋の中へ入った。
 岩屋の中で一夜を過ごしたが、翌朝になって空腹でたまらない。ところが、岩屋の横に
水の流れがあって、流れに沿って、一本の栃の木が生えていた。栃の木の実は渋くて食べ
られぬことを知っているので、大師は祈〔トウ〕(♯「トウ」は文字番号24852)して、
いっペんに甘くて食べられる実としてしまった。渋抜きをしなくても食べることができる
栃の実としたのである。それからというもの甘い栃の実がなるというので、京柱の麓の樫
尾近辺の人などは、飢饉の年はその栃の実を採りに行ったそうである。そしてこの川を今
もアマトチガワとよんでいるそうである。栃の実だけでなく、胡桃(ルビ くるみ)の実
についても同じような話があって、この方はその殻が固いので弘法大師がやってきてその
殻をやわらかくしてくれたという話が残っている。岩手県九戸郡へ昔大師がやってきて、
川で胡桃を洗っている女を見つけた。大師が胡桃を一つ所望すると、この女はこの僧があ
まりにもみすぼらしくて見苦しいので、与えるのをやめようと思ったが、あわれな様子な
ので与えた。するとその僧は手で胡桃を打って、その皮をやわらかくしてくれた。それか
らこの地方の胡桃の皮は、よその土地のよりもずっとやわらかいのだということである。
土地の人はこの胡桃を手打ち胡桃だとか歯胡桃とよぶそうである。
 これらの伝説については、大師以外の高僧だとか武将だとかが主人公になっている例も
あるのだが、その大半は大師が主人公になっている。これは弘法大師は一年中諸国を歩い
ておられるという

-61-
信仰から出ているからで、四国ではやはり遍路の姿をして歩いているといっている。四国
遍路のかぶる菅笠に同行二人と書くのは大師とともに歩いているからだ、というのもそう
した信仰に由来するのである。そして逆打ち(順序を逆に打ってゆくこと)をすると大師
に会えるかもしれないというのも、やはり大師が現在も歩いていると信じているからであ
り、衛門三郎が大師にめぐり会ってお詫びをしようと四国遍路の旅をつづけたという説話
もそうした信仰的な背景があるからであった。
 今少しくこうした伝説について述べると、一夜建立(ルビ いちやこんりゅう)の伝説
というものがある。

 大師伝説──その3

〈一夜建立の伝説〉
 なにしろ食べられるものを食べられなくしたり、また今まで水のない土地に清水をもた
らす、といった奇瑞を現わすのは、大師が人並みはずれた高僧であったからであると信ず
ればそれまでだが、ほんとうは大師以前の来訪神の信仰が、大師にそのまま受けつがれて
いるのであった。日本の古い信仰には、神さまが各地を訪れてくるという信仰があった。
大師はタイシであり神の子という意味で、それが弘法大師のタイシと重なって、今日のよ
うなおびただしい弘法大師伝説を生んだのである。
 さて、一夜建立の伝説というのは、大師が一夜にして堂宇を建立したり仏像を刻んだと
いう伝説である。この伝説はどちらかというと、四国八十八ケ所の寺々に多い。例えば四
国第六十九番の本

-62-
山寺の本堂は大師が一夜で建立したのだという。また第八十四番屋島寺の本尊は千手観世
音であるが、これは弘法大師が一夜で刻んで安置したと伝えている。
 一夜で建立したというのでなくても、大師が建立したり、本尊の仏像を刻んだというの
はあまりにも多い。やはりこれらは、大師が四国遍路の寺々を開創したという伝説から出
ているのだが、その根底には大師遊行の信仰がある。しかし、どちらかというと、一夜建
立の伝説などは杖立清水や食わずの梨の系統の伝説などと比較すると素朴さがうすいし、
何といっても抹香くさい。おそらくは四国八十八ケ所の寺々などによっていつの間にか語
り伝えられていたからであろうか。
 高野山の奥の院には弘法大師の廟所があるが、毎年霜月二四日はお衣がえの日で、大師
の装束をお着かえさせ申すと、衣の裾がすり切れていて、大師はいまだに諸国を歩いてお
られる・・・・・という話は有名である。今までに述べたかずかずの伝説も、それをあた
かも裏づけるような説話になっているのである。そして霜月二四日を大師講の日として、
この日は小豆粥を炊き、今夜は大師がおいでになる日だといっているところは四国の山村
にも意外に多いのである。しかしなんといっても注目すべきは、四国の山中にある大師堂
の存在と四国遍路にかかわりのないお接待の習俗であろう。

 山中のお堂

 四国には、四国遍路の道筋からは遠く離れた山中の村に、大師堂または氏堂、あるいは
単にお堂とよばれているものがある。それらの小堂にはお接待の風習があって、それは毎
年三月二一日とか

-63-
霜月二四日と日を決めて行なわれている。四国遍路はわざわざそんな山中の寺に来ること
はないから、それはあくまでも来訪すると信じられている大師のためのものか、それとも
村人自身のためのものである。
 それらの小堂について述べる前に、八十八ケ所札所寺院の中の大師堂について一言述べ
ておきたい。札所寺の中にはたいていの場合、本堂とは別に大師堂というのがあって、そ
れは本堂と並んで建っているか、または本堂よりはかけ離れたところに建っている。本堂
よりはやや小ぶりな建造物である場合が多いのだが、庶民の信仰はどちらが厚いかという
と、私などの見るかぎりでは、大師堂に蝟集する参拝者の群が多いのではなかろうかと思
うほどである。ことに春秋の彼岸の中日などはすさまじいほどの人出で、四国地方ではい
かに根強い大師信仰があるのかと驚かされるほどである。
 四国山中の大師堂なり氏堂というのは、四国八十八ケ所にある大師堂などとはほど遠い
ささやかなものである。しかし、それは村の信仰の一つの中心をなしている。
〈剣山山麓地方のお堂とその行事〉
 阿波の剣山は海抜一九五二メートル、四国第二の高山であるが、その山麓地方一帯には
単にお堂と称されているものが実に多く存在している。たいていが二間(約三・五メート
ル)四方または一間半四方で、中にお祀りしてあるのは阿弥陀如来、観世音、地蔵菩薩な
どで、それらにまじって大師が祀られている。このお堂はほとんどの集落にあって、阿波
三好郡東祖谷山・西祖谷山村などでは

-64-
三六の集落のどれにもあり、中には一集落の中に二つも三つも存在することも珍しくない。
ほとんどが無住であるが、中には庵坊さんというのが住みついている例も少なくない。こ
れは葬式の時などに寺の住職をよぶにはあまりにも遠いので、庵坊さんがその代りの役を
勤めるのである。
 そして、このお堂の位置というのが、村の入口かもしくは中央で、中にはその傍に共同
の墓地を持っているところも少なくない。なんとなく霊地といった感じがするところにあ
るのが多いのである。そして、このお堂では村の信仰的な行事が行われるのだが、いちば
ん多いのは大師講などの寄合である。剣山山麓地方のお堂の数を見ると(美馬郡郷土誌)、
  木屋平村  堂 二六か所
  口山村   堂 二か所
  端山村   堂 二五か所
  一宇村   堂 三か所
  八千代村  堂 二三か所
  西祖谷山村 堂 二四か所
で、これらのほかにも井の内谷村、東祖谷村、三縄村や旧池田町などにも数多くのお堂が
存在する。
 そして、お堂の行事の大切なものは、三月二一日すなわち大師ゆかりの日のお接待の行
事であった。

-65-
 お接待の習俗

〈土佐のお堂〉
 土佐の山村にもこうしたお堂は多く見られ、長岡郡地方では本山町や大豊町付近にいく
つも残っている。しかしなんといっても、土佐のお堂で特色があるのは高岡郡檮原(ルビ
 ゆすはら)地方のお堂であろう。檮原町及び東津野村の地域は津野山とよばれている地
方だが、ここには多くのお堂があって、ここでは茶堂とよばれている。戦国時代にこの地
の領主であった津野親忠(つわのちかただ)が慶長五(一六〇〇)年に自殺して家断絶の
後、この地方一帯には天災が相ついで起り疫病が流行した。これは親忠の怨霊のためだと
いうことになって、親忠(孝山公)(ルビ こうざんこう)の霊をなぐさめるために村ご
とに茶堂を建てた。そしてこれらの茶堂には孝山公を祀り、その傍に弘法大師を祀ってあ
るというが、おそらくは弘法大師の方が先で、孝山公の悲劇的な生涯がクローズアップさ
れるとともに、孝山公を信仰の中心とするように変っていったのであろう。そして茶堂と
いう名が示すように、湯茶の接待をするのが主目的で、湯茶のほかに昔は餅や麦粉、赤飯
なども接待し、夕方になっても接待にたずさえていった物が残っているとなんとなく気に
なったそうである。これはやはり眼に見えぬ来訪者が訪れてくるのを待っているので、そ
れが大師なりや、あるいは来訪神なりやは知らず、古くからの一つの信仰の姿であったの
である。
〈伊予の茶堂〉

-66-
 伊予の茶堂は愛媛県の南の宇和地方に多く見られるが、ここでは主として氏堂もしくは
茶堂とよばれている。そしてその大半は地蔵堂もしくは大師堂で、茶堂の名の示すように、
湯茶の接待がそのおもな行事であった。
〈讃岐のお堂〉
 主として四つ足堂で、四本の柱でささえ風は吹きとおしになっているものが多く、阿波
との県境や小豆島に若干見られるのみである。
 このようなお堂に共通していることを簡単に述べると、第一に四国遍路の道筋とは関係
のないこと、第二にはいずれも接待の風習があること、第三には弘法大師に関する信仰的
な行事が中心になっていること、などである。そこでこれらのお堂の接待は、今では村人
相互の接待の行事のように見うけられるが、ほんとうは諸国を行脚している弘法大師を喜
んでお迎えする行事であったことがよくわかるような気がする。
 四国へんろ道の傍で行なっている遍路のための接待も、本来は大師をもてなす行事であ
ったものが、今のような形のものに変化したと考えられ、その祖型を山村のお堂の接待行
事の中に求めることができるように思われる。
 しかし、このような素朴な接待は瀬戸内海の島々にも見うけられる。小四国といって島
内に八十八ケ所の霊地を求め、そこに八十八ケ所の本尊を刻んだ石仏を建てて、春秋の彼
岸にそれらの石仏をめぐり歩く習俗がある。その折に、やはり何か所かの霊地でお接待の
行事があるのである。こう

-67-
した小四国は島だけでなく奥深い山村にもあって、私が見開したものの中でもっとも高所
にあるのは、阿波の剣山中腹のものであった。
 いずれにしても四国遍路の通る道筋から遥かに遠い地域で接待の風習があるのは、大師
巡遊の信仰が四国地方ではいかに根強く残っているかを推測させるに足るものであると思
う。四国遍路の風習もそのために起ったということは充分に考えられるのである。