1 四国廻国の旅

 底本の書名 巡礼と遍路 
 入力者名  木内美知子・多氣千恵子
 校正者   平松伝造
 登録日   2006年2月23日
      

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Ⅰ 四国遍路

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1 四国廻国の旅

  日本人と霊場めぐり

  日本の国内には各地に霊場、霊地というものがあって、その大半はそこに寺院があるか
一宇のお堂が建っている。中には何の建物もなく、ただ何かの信仰があるか伝説が行なわ
れている土地もある。
  こうした霊場をめぐる風習がまた広く分布していて、その中で名高いのは、西国三十三
ケ所巡礼と、四国八十八ケ所遍路である。そのほかにも坂東三十三ケ所、秩父三十三ケ所、
小豆島八十八ケ所などがある。これらの霊場巡拝は名のあるものだが、小規模の霊場めぐ
りでその土地の人のみしか知らぬものを加えるとおおよそ何百という数に上るだろう。そ
れほど日本人は、こうした霊域巡拝の風習の中に息づいているのである。そうした信仰が、
なぜかくまでに発達したかについてはおいおい述べることにして、まず四国遍路の旅につ
いて述べてみたい。

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  四国遍路の道筋

  四国遍路の旅というのは、四国の島内に存在する八十八ケ所の霊場を巡拝することであ
る。
  それらの霊場は四国四県に平均して散らばっていて、
    阿波の国(徳島県) 二三ケ寺
    土佐の国(高知県) 一六ケ寺
    伊予の国(愛媛県) 二六ケ寺
    讃岐の国(香川県) 二三ケ寺
  となっている。そしてこれらの霊場寺院の他に番外礼所といって、弘法大師ゆかりの寺
がいくつか存在している。
  八十八ケ所の霊場は、四国全域の主として海岸近く(中には山岳霊場も若干はあるが)
にあって、阿波の一番の札所からめぐりはじめて讃岐の八十八番の札所までめぐり終える
とちょうど四国を一巡するようになっている。非常に要領よくできているといえそうであ
る。
  第一番札所の霊山寺は吉野川の河口に近い。
  なぜこの寺が第一番になっているかについて述べてみよう。ある時代には、今では第七
十五番札所になっている善通寺が第一番札所にされたというが、それは弘法大師誕生の寺
というわけでそうなっていたのであろう。それが現在のように第一番札所が吉野川河口近
くの霊山寺になったのは、

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やはりそれなりの理由があることである。
  紀州からやってくると鳴門の港に上陸するのがもっとも便利がよい。そこで河口の肥沃
な平野地帯を歩きはじめるのである。これは四国遍路の風習の起りが、紀州の熊野・高野
あたりから出てきた熊野山伏・熊野比丘尼・高野聖たちの手にゆだねられていたことを物
語っている。四国はまわりに海をめぐらしているので、どこへでも上陸することができる。
それが阿波へ上陸して、第一番を阿波の霊山寺としたのは熊野信仰や高野聖の影響による
ものである。それともう一つは、吉野川河口近くの村々は農業が盛んで富んでいたのにち
がいない。そこでいわゆる旅がしやすかったのである。米麦の収穫の時に食物を乞うのに
都合がよかったのである。旅の語源のタベ(「タベ」に傍点)が示すように、こうした宗
教人が食物をもらって歩くのに最適の地であったろうと思われる。
  早くから開けた農村地帯を、吉野川に沿って第一番の札所から第十番の切幡寺まで行く
と、そこからは西へは進まずに吉野川を渡って南岸に出て、今度は再び河口近くまで下っ
ていくのである。
  第十番の切幡寺というのは、その縁起に哀れな女の宝手拭の昔話にも似た説話がくっつ
いているが、もともとキリハタというのは焼畑のことで、ここから先は焼畑耕作が残って
いるほどの山村なので、もはや奥地へは簡単に行けなかったのである。そこで吉野川を渡
って南岸に出て十一番の藤井寺に至り、今度は十二番の焼山寺に達するのである。焼山寺
というのも、おそらくは焼畑山村の中にある寺というので名づけられていたのである。そ
して焼山寺を下りると、河口地帯に下っていき、今度はどちらかというと海に沿うた地方
を行くのだが、途中で「鶴(ルビ つる)・太竜寺(ルビ たいりゅうじ)」という二十番・

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二十一番の難所の寺に詣で、今度は太平洋に面した長い道中を歩くのである。
  第二十三番の薬王寺は阿波の国最後の札所であるが、これから先、土佐国二十四番の最
御崎寺(ルビ ほつみさきじ)までは海に沿った荒々しい道である。昔の里程でいえば、二
〇里(約八〇キロ)の長丁場(ルビ ながちょうば)をただひたすらに歩くのである。八坂
八浜といって海に沿って八つの峠があり八つの村があるというが、今はバスの便があるの
でそうした難所の趣は少なくなってしまった。景色のよいことは無類だが、風が強くて波
の荒い日は非常な難路であったという。

  土佐路から伊予の国へ

  土佐の国最初の霊場の最御崎寺は室戸岬の突端にあるのだが、二十五番・二十六番の札
所は最御崎寺からはあまり遠くない。それからは土佐湾に沿って行き、三十番は高知市に
ある。
  高知市の東にある三十一番の竹林寺に来れば、高知市内は指呼の間にある。やがて西に
向って三十七番の岩本寺まで来ると、ここから第三十八番の金剛福寺までは二五里(一〇
〇キロ)の長丁場である。足摺岬の突端に近く、暖国に多いうばめ樫と椿の群落がいくつ
もあって四国の南端の感が深い。第三十九番の延光寺を経て伊予の国に入ると、第四十番
の観自在寺である。伊予を北上し、第四十五番の岩屋寺の山に上り、第四十六番の浄瑠璃
寺へ行くと、もうそこには松山平野がひらけている。第五十一番の石手寺あたりを中心と
して、第五十二番の太山寺あたりまではのどかな遍路の旅である。

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 それからは瀬戸内海に沿うていくが、第六十番の横峰寺(ルビ よこみねじ)は山中の寺
である。ここからは瓶(ルビ かめ)が森(ルビ もり)山などの石鎚連峰が見渡されるが、
やがて六十六番の雲辺寺(ルビ うんぺんじ)の山を越えて、讃岐平野に下る。雲辺寺は、
阿波・讃岐・伊予の三国にまたがる山頂にある寺である。東に向って進んでいくと、弘法
大師の遺跡に満ちている善通寺周辺の寺々に至る。その中でも弥谷寺(ルビ いやだにじ)
は、奇岩怪石の間にある山寺である。第七十七番道隆寺(ルビ どうりゅうじ)、七十八番
郷照寺(ルビ ごうしょうじ)と海沿いの寺を東へ行くと、五色台山上に第八十一番の白峰
寺がある。ここには崇徳上皇陵が寺に接して存在する。
  それより東には、やはり五色台山上に根香寺(ルビ ねごろじ)がある。山を降りて、高
松市の東方の屋島寺・八栗寺を訪れると、第八十六番の志度寺がある。
  志度湾にのぞむいわゆる志度の道場で、多くの縁起譚がある。次いで長尾寺を訪れると、
やがて山路にかかり阿波との国境に近い第八十八番の大窪寺(ルビ おおくぼじ)に達する
のである。ここからは第一番の札所霊山寺も近く、ほぼ四国を一周したことになる。全行
程は約三五○里(約一四○○キロ)で、歩いたならば六○日かかるという。
  昔は大半の遍路は歩いていたのだから、なかなかの難行苦行であった。初期の四国遍路
は廻国の行者が多かったから、八十八ケ所の札所にとらわれることなく、そこに霊地があ
ればたとい遍路道に沿っていなくとも参拝していたから、本当はもっともっと日数がかか
っていたに相違ない。しかし今では、交通機関を利用して八十八ケ所だけを廻る遍路が大
半だから、遍路の旅もまったく楽になったものである。

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  第一番から順次に第八十八番までめぐるのを昔から順打ちとよび、逆に廻っていくのを
逆打ちとよんでいる。四国島内の土地の住民ならば、まずわが土地のもっとも近いところ
にある札所寺院に参詣し、それから順打ちにめぐっていく。九州や中国地方から来た者は、
伊予・讃岐の港に上陸すると最寄りの札所に行き、それから思い思いに順打ち・逆打ちの
コースをたどるそうである。
  中には日帰りか一泊程度で札所めぐりをする遍路もあって、この方は讃岐の七ケ所めぐ
り・阿波の十里十ケ所・松山の五ケ所めぐりといったところをめぐるのである。

  その難所

  平野に札所寺が存在する場合は難所というものはないが、それが山深く分入ったあたり
に札所があったり、荒々しい海岸の道を通っていかねばならぬ場合には、難所といわれて
いるところが少なからずあった。そして難所の中には、遍路に危害を加えようとする妖怪
・大蛇の類もいたようである。
<焼山寺の山路>
  第十二番札所の焼山寺は海抜八〇〇メートルの高所にある。昔、役(ルビ えん)の小角
(ルビ おづぬ)がこの山へ修行のために登ってきた。登るにつれて山は振動し、草木は倒
れて、登ることができなかった。小角は物ともせずに登っていったが、山の岩穴から毒蛇
が出てきて、小角に襲いかかろうとした。しかし小角はそれを祈り伏せて山上に至り、こ
こを霊地としたのだという。それからは山に登る修験者もあった

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のだが、小角が去って何年かたつと、再び大蛇は岩穴から出て、人々をおびやかした。
  弘法大師は、四国巡歴の途中にこの山に登ろうとした。ところが岩穴の大蛇が出てきて、
火を口から吹きつけ、山も谷もすべてが火の海となった。しかし大師は、山麓のこりとり
河で身を清めて登っていった。山上近くの岩穴からくだんの大蛇が大師を襲おうとした。
しかし大師は、法力で大蛇を岩穴の中に封じこめてしまった。それ以来毒蛇は出なくなり、
この山路はだれもが登れるようになったという。
  このような伝説があるように、焼山寺までの山路はまったく難所の一つとなっている。
<立江寺の九つ橋>
  第十九番立江寺の近くに九つ橋というのがあるが、これは悪人にとってはまた一つの難
所であった。この橋を渡っていて、その前途に白鷺が出ると、心のよこしまな人は橋を渡
ることができないという。
<鶴・太竜寺>
  第二十番の鶴林寺と第二十一番の太竜寺への道は、阿波では最大の難所とされている。
交通の利便のない時代には、遍路たちから恐れられていた深山の寺であった。太竜寺につ
いては、弘法大師が『三教指揮(ルビ さんごうしき)』の中に「或は阿波の大滝の嶽に上
って修行し」とあるので、これは太竜寺のことならんということになっているが、太竜で
は大滝と読めないので、私は少し不審に思っている。この大滝嶽は阿波と讃岐との国境に
ある大滝山(ルビ おおたきさん)のことではなかろうかと、私は想像しているのである。
大

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滝山は山上に修験の寺があって、ここであっても一向にさしつかえないのである。
 さて、太竜寺の山から下りる途中に、竜の岩屋とよぶ鍾乳洞がある。昔はここに竜が住
んでいて人々をおびやかしていたのだという。
<八坂八浜>
 海沿いとはいえ、ここもまた難所である。山が海に迫っているために、昔は道らしいも
のはなかった。峠を越えては浜辺に出て、ごろごろとした岩の上を歩いていくのであった。
高波が打寄せた時は歩行できないところも多かったという。
<足摺の寺>
 金剛福寺は、今でこそ自動車の便があるが、古くは遠い西南の果ての岬の寺であった。
夏から秋にかけての台風の季節には、広い境内の樹木は強風のためにいっせいなびき、そ
のために曲りくねっている木々が多い。ここもやはり古くはたいそうな難所であったので
ある。
<岩屋寺の行場>
 岩屋寺まで来る道は遠い。寺の周囲には高い山がそびえ、山全体を霊域としてあがめて
いる。ここには大師が修行したという穴禅定(ルビ あなぜんじょう)や迫割禅定(ルビ 
せりわりぜんじょう)がある。一遍上人がこの寺で修行したのはやはり岩崖の中で沈思冥
想したのであろう。岩山に登るのに鎖につかまっていくが、そこには白山権現が祀られて
いる。
<横峰寺>

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 第六十番札所横峰寺へ至る道は伊予第一の難所である。そして四国八十八ケ所の中で、
ここほど山ふところ深く入っているところは少ない。第五十九番の国分寺からは約三〇キ
ロの山路を歩かねばならない。大明神川の渓谷を渡り、痩せ細った尾根を登っていくので
ある。そしてここからは石鎚の山々が見渡される。こんなに山深いところが札所となった
のは、石鎚修験の影響であろう。
<雲辺寺の難所>
 伊予から讃岐を打っていくのに、その国境の山にあるのが雲辺寺の難所である。番外札
所の椿堂から登るのだが、なかなかの急坂である。海抜約一〇〇〇メートルの山上の寺は、
遍路の最盛期以外はひっそりと静まりかえっている。
<納めの寺大窪寺への道>
 讃岐平野にある寺には難所といわれるほどのものはないが、結願所大窪寺への道は難所
である。長い道のりであるが、これが最終の道であると思えば、遍路にとっては感慨の深
い道となっている。大窪寺へ近くなるとともに、この山道の傍には多くの遍路墓があるの
に気がつく。歩き疲れてこと切れたのもいるだろうし、もはや帰るあてのない遍路がここ
まで来て、気落ちしてはかなくなったというのもあるにちがいない。この難所の道は、そ
うした悲しみの道でもあったわけである。
 長尾寺から山路にかかって前山から多和へ抜けるあたりの遍路道に、村の人だけが記憶
している難所がある。今から二〇年ばかり前にここを越えて大窪寺へ行こうとした遍路が、
どうしても前へ進めなくなってしまった。おそらく弘法大師のおいましめを受けたのであ
ろうと、もはや結願の寺

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へは行かずに引返していったそうである。難所には、ただ道が長丁場であるとか山路がけ
わしいといったものだけではなく、目に見えない信仰的なものもあるのである。
<四国遍路の関所>
 信仰心のうすい人や悪事を働いた者は関所を通れないという。昔から関所とされている
のは、阿波の立江寺、土佐の神峰寺(ルビ こうのみねじ)、伊予の横峰寺、讃岐の雲辺寺
がそれで、讃岐の人は立江寺で、阿波の人は神峰寺で、土佐の人は横峰寺、伊予の人は雲
辺寺で大師のいましめを受けるのだという。無論これは信仰的な関所である。
<へんろころがし>
 へんろころがしというのは、札所から札所へ行くのに急坂を下る時に、今にも転がりそ
うになる地形をいい、これも一つの難所とされている。たいていの場合、その道筋には一
杯清水という清泉があって、遍路ののどをうるおすという。
 一升水といって、岩のくぼみにわずかな水をたたえているところもあるが、これもまた
自然が遍路のために清らかな水を饗しているのである。

 遍路の行装

 現代の四国遍路の服装はまちまちである。古くから定まった服装を身にまとった遍路を
見ることは、少なくなってしまった。今から四、五〇年前までの身なりを今もしている遍
路は、よほどの信

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仰者である。
 頭には菅笠をかぶり、笠の四方には、迷故三界城(迷うが故に三界は城なり)、悟故十
方空(悟るが故に十方は空なり)、本来無東西(本来東西無し)、何所有南北(いずくに
か南北あらん)と書く。そして同行二人と書くのである。
 身には白装束をまとい、挟み箱とさんやぶくろ(「さんやぶくろ」に傍点)をかける。挟
み箱には納め札を入れて、さんや袋には手まわりの品を入れる。長さが一メートル余りで、
上の方は五輪にかたどり、空風火水土(ルビ くうふうかすいど)の五字を梵字で書いた金
剛杖を持つ。杖は弘法大師が導いて下さるしるしと考えて、もっとも丁重に取扱うことと
している。
 背には、柳行李を白布で巻いて負う。納め札入れに入れる納め札は、「奉納四国八十八
ケ所霊場巡拝同行二人」と印刷してある。この納め札の色によって巡拝回数がわかる仕組
みになっているのである。
 白札はまだ何度という経験もない並の遍路の持つ札で、赤札になると二〇回以上廻った
者、銀色の札は三〇回以上、金札になると五〇回以上だという。
 この納め札はお寺でお経を上げると、大師堂や本堂の納札箱に入れるのだが、稀には柱
などに貼りつけてある。遍路が行逢った時に、お互いに交換することもあるようである。
 また接待を受けた時に、お札のしるしとしてこの納め札を渡すことがある。香川県大川
郡の農家で見たのだが、お接待を先祖以来何十年もして何度も納め札をもらったので、そ
れをお米が一斗ぐ

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らい入る俵の中に入れて天井からつるしていた。これは、そうすると魔除けになると信じ
ていたようである。
 この納め札は、古くは木の札でこれを札所寺の天井や柱などに打ちつけていたという。
香川県三豊郡大野原町(旧大野)の雨乞踊に札所おどりというのがあって、
   あれに見えしは、どこ寺ぞ、音に聞えし雲辺寺、いざ立ちよりて札をうつ、札所お
  どりは一おどり、ここはどこ寺、音に聞えし、小松尾寺、いざ立ちよりて札をうつ・
  ・・・・
 と歌っていたが、札を打つという章句から木の札を打っていたことが想像される。しか
し四国遍路が、たとい木の札を打っていたとしても、それは初期の廻国の宗教人がやって
いたことではないかと思う。もっとも西国三十三ケ所の石山寺には木の札の納め札が今も
残っているが、おそらくそうしたものを打ちつけていたのであろうか。
 納め札のほかに納経帳も持っていった。これはお寺でお経を上げると、奉納経(経を納
め奉る)と書いて、その寺の本尊の名を書いてもらい、寺の印を押してもらうのである。
 手には手甲をつけ、足にははばき(「はばき」に傍点)をつける。腰に白布の尻あてを
つるす。こうした遍路の身なりを見ていると、山野を跋渉する山伏の風体によく似ている
ことに気がつくが、これは遍路と山岳修験の間に深いつながりがあったことを想像させる
のである。
 しかし、初期においてある種の宗教人が四国廻国をしていた時代の服装は、現在のもの
とはだいぶ違っていたようである。例えば、平安朝末期にできた『梁塵秘抄』(ルビ り
ようじんひしよう)の僧の歌一三首の中には、次

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のようなものがある。
   我等が修行せしやうは、忍辱袈裟(ルビ にんにくけさ)をば肩にかけ、又笈を負
  ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺路(ルビ へち)をぞ常に踏む
 すなわち、平安朝の末には、四国の辺路を修行のために常に歩んでいる僧体のものがあ
ったということがこれによってわかるし、その行装が笈を負ひ、袈裟を身にまとっていた
というのである。そしてその衣が、海辺の道を行くために潮しぶきに濡れているというの
であろうか。
 この『梁塵秘抄』の中の歌は、『今昔物語』に出てくる四国の辺地を歩く「三人の僧の
物語」と共に、四国遍路の起りを考える上において貴重な資料であるが、それは後述する
からさておき、初期の四国廻国の宗教者たちはこうした服装をしていたものと思われる。
 いずれにしても、現代の四国遍路の服装が、昔からのそのままであることは考えられな
いのである。

 遍路と宿

 四国遍路の旅が昔に比べて安易になったのは、へんろ宿というものが各地にできたから
である。
 へんろ宿がなかった時代には、札所の通夜堂などに泊まることが多かった。寺には信者
のためにお籠り堂・通夜堂とよばれているものがあったのでそこに泊まった。そしてもし
そうした設備がなければ、縁の下で宿ることもあったようである。しかし、次の札所へ行
くまでの道が長丁場で泊ま

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るところがなければ、村の墓地の中のお堂に泊まるとか、コシドウという小屋に泊まった。
コシドウというのは、葬式の時の集落共同の輿を入れておく納屋のようなものである。
 輿のほかには少しばかりの葬具を入れておくだけなので、多少の空間があった。遍路は
そこへもぐりこんで寝ていたのである。コシドウの中で病死していたという哀れな物語も
よく聞いたが、もはや病気のために動けなくなった遍路が宿っているうちに、そこで往生
をとげたのである。
 墓地の中のお堂もコシドウもない時には、野宿をしなければならなかった。
 また、比較的に富裕な村落があって信仰心が厚い人が住んでいると、遍路のために宿を
提供することもあった。しかしこれとても、時には業病持(ルビ ごうびようも)ちの遍
路もあったので、そうだれも彼も泊めるということはしなかった。しかし同じように大師
に対する信仰心を持っているということで、何かの機会には喜んで泊めようとした。何か
の機会というのは、たとえば家の大切な家族の者の命日にあたるといった機会である。こ
れがいわゆる善根宿(ルビ ぜんごんやど)というものである。中には、たとい業病を持
っていてハコグルマに乗ってきている者であっても、座敷へは通さずに土間の隅などへハ
コグルマを入れさせて、食物などを与えていたようである。
 善根宿にやってきた遍路は、まずたずさえている金剛杖を洗ってから部屋へ通る。金剛
杖は大師そのものであるという信仰があるので、大切にして座敷の床の間へ立てかける。
善根宿をする家は農家が多いから、菜園へ出かけてあり合わせの野菜を取ってきて、それ
を夕食のお菜にする。遍路には家族といっしょの食事をさせて、それが終ると、仏前で遍
路とともに家族そろってお経を上げ

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る。それからはよもやまの話をする。そんな時には、よくお四国めぐりをしていての霊験
譚などがはずむのである。翌朝は早朝に起きて食事をすますと、弁当をこしらえてもらっ
た遍路は出立していくのである。
 こうした善根宿が多かったら、遍路も苦労なしに巡歴の旅をつづけることができたろう
が、こうした宿はそれこそ稀であった。そこで遍路の旅は苦労が多かったのだが、そのう
ちに札所寺の近くにへんろ宿ができてきた。これも初めは宿屋を営業して生活の資にあて
たいという目的ではなくて、善根宿などの経験のある者が、お遍路さんぐらいならば泊め
ることができるといった軽い気持ちで始めたようである。それゆえに大体が信仰心が厚い
者がやっているので、遍路にとってもありがたいものであった。飯と漬物と野菜の煮つけ、
その野菜もわが畑にあるものというわけで、経費も大してかからない。寝る時は木綿のか
たい布団である。風呂はたいても、これもあり合わせの木をくべるのだからぞうさはない
という具合である。それに、こうした田舎にはもらい風呂の風習があるから、いつも風呂
に入りにくる村人より遍路の数がふえるだけだ。おそらくへんろ宿はこんな具合でできて
いったのであろう。しかしへんろ宿ができたために、四国遍路の難渋はよほど軽くなった
ことは事実である。

 へんろ道

 札所寺から札所寺へ通じる道をへんろ道とよんでいる。稀には村落を横切ることもあっ
たが、さ

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びしい野中の道や山中の道、海沿いの道が多かった。今ではへんろ道も国道や県道によっ
てずたずたにされているところが多く、昔のおもかげはすっかり消え失せようとしている。
 路傍に石仏が多いのがへんろ道の特色で中には地蔵菩薩を祀った小さいお堂がその傍に
たっている。白装束を身にまとった遍路はこの道をとぼとぼとたどっていったのである。
村の道と交叉するところにはきまって道しるべが立っていて、道案内をするようになって
いる。道しるべの中には方向を指した手形だけのものもあるが、中にはその手形の上に地
蔵菩薩を彫ったものが多い。
 四国各地には、道の四つ辻のところや三叉路にあるべきサイノカミ(道祖神)の石像が
至って少ないが、これは明治初年に氏神の境内に合祀したためで、そのあとになって石地
蔵を祀ったものが多い。地蔵の石仏が路傍に多いのはそのためである。
 へんろ道の片側に戸板をおき、その上に季節の果物を並べて横に空鑵をおいて、その果
物を求めたい人は空鑵の中に金を入れる仕組になっているのがある。いわば無人の商売で
今は少なくなったが、私は伊予の三角寺のあたりで何度も見たことがある。
 へんろ道は時々共同墓地の前を通っていくことがある。こうしておくと、遍路はわざわ
ざ墓に手をあわせていってくれるからであるという。またへんろ道に面して、わざと一つ
だけの墓がぽつんと立っているのがある。八十七番の長尾寺から八十八番の大窪寺へ越え
る峠の途中で見たが、それには一つの物語があった。江戸ももう終わりごろに、多和の山
里へ紀州から一人の医者がやってきた。村の人にはどんな理由でこんな山里にやってきた
かは明かさなかったが、何か仔細があるのか、い

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つも頭巾をかぶっていた。すぐれた眼医者だったが、眼病だけではなくどんな病人のとこ
ろへも、馬に乗っていってくれる。そこで村の人はたいそう重宝していた。六〇歳にはま
だ手がとどかぬ年ごろに患って死んだが、死ぬ前に、
「わたしは紀州の者だが、どうぞへんろ道の片側に墓を立ててくれ。紀州からやってくる
遍路もあろうから」
 と言ったそうである。おそらく大名にでも仕えていた医者が何かの過ちを犯して、紀州
にいられなくなって、この多和の山里にひそんでいたのであろうかと村人は噂をしたそう
である。
 今もその墓はへんろ道の傍にあるが、今は眼病の神として祀られている。

 へんろ墓

 俳人高浜虚子はかつて、
  道の辺に阿波の遍路の墓あはれ
 の句を作ったが、へんろ墓というものは哀愁をそそるものである。しかし、へんろ墓と
いうものはそうどこにでもたくさんあるものではない。何といってもいちばん多いのは、
納めの寺である大窪寺かいわいである。八十七番の長尾寺から多くの山坂を越えて、大窪
寺に近づくと、へんろ道の傍には雑草に埋もれた無数のへんろ墓がある。
 口べらしのために家を出された遍路は満願の寺である大窪寺へ来て、もう精も根もつき
はてて、

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再び八十八ケ所をめぐろうとする気力も失ってそのあたりをさまよっているうちに、落命
したというのが多いようである。こうした遍路があると、村の人は金を出しあって酒を買
い、うどんを打って会食し共同で葬った。器用な人が棺桶を作り、墓地に埋めたそうであ
る。そして、少々の路銀が残っておれば墓石を注文して墓を立てたものだという。村の人
々の共同墓地の中に一区画を作り、そこをへんろ墓としたものもあるし、共同墓地から離
れたところに点々と葬ってある例も多い。昔は捨往来手形(ルビ すておうらいてがた)
によればわざわざ郷里にまで知らすには及ばずと書いてあるのだが、近年になってからは、
住所のわかっている場合はたいてい知らせてやるが、それでも尋ねてくる人はほとんどな
いという。
 よほど貧しいのか、何か人に知られたくないのか、どうして尋ねてこないのかと、多和
の村人は語るのである。