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底本の書名    讃岐ものしり事典(p244~258)
底本の編者    香川県図書館協会
底本の発行所   香川県図書館協会
底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     川崎正子・多氣千恵子
校正者名     伏見賢治
登録日      2008年5月21日

入力に関する注記
・文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
 文字番号を付した。
・JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」旧字)
 と表記した。


      


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問 謡曲海士(あま)について (香)
答 世阿弥の作であり、藤原不比等が、唐の高宗の妃であった妹が氏寺興福寺に寄
 進した3つの宝を運ぶ途中、志度の浦でその1つが竜神に奪われたので、これを
 取り返すために志度に来て、身をやつし浦のあまと契りを結んで一子 (房前) を
 もうけた。あまはその子を世継ぎにすることを条件に、海底にもぐって明珠を乳
 の中にかくしながら竜神から取り返して死んだ。その墓が志度寺にある「海士の
 墓」であり、毎年10月17日~23日まで法要を行っている。
○ 讃岐伝説風土記1 (荒井とみ三) P99
  讃岐民話集  (三木春露)    P54~  日本伝説讃岐の巻 P223
    勝地讃岐と其産業陣営   海士の玉取り一農業香川 昭34.3
    日本文学大辞典7  P360  讃岐人物伝 P387~
  讃岐郷土読本  P123~129  讃岐文芸読本  P42~47
  謡曲大観 1巻 P169~188  詳解謡曲全集 巻6 P287~300
  志度町史 P1019
   香川県の文化財


問 生田春月詩碑について (香)
答 小豆島坂手港から歩いて10分、坂手の観音寺境内に高さ約2メートル、幅約1
 メートルの自然石に銅版をはめ込み次の詩が刻まれている。
    「海図
   甲板にかヽってゐる海図――それはこの内海の
   海図だ――ぢっとそれを見てゐると、一つの
   新しい、未知の世界が見えてくる。
    普通の地図では、海が空白だが、これでは
   陸地の方が空白だ。たヾわづかに高山の頂き
   が記されてゐる位なものであるが、これに反して、海の方は
   水深やその他の記号などで彩られてゐる。
    これが今の自分の心持をそっくり現してゐ


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   るやうな気がする。今迄の世界が空白となっ
   て、自分の飛び込む未知の世界が、彩られ
   るのだ。」
  作者の自筆筆蹟を高村周豊が制作したものである。
  春月は昭和5年5月19日、大阪発別府行きの汽船菫丸の客となり、月明の夜播
 磨灘に身を投じ、その遺体は坂手港に引き上げられた。
  昭和11年7回忌の命日に坂手の入江を見下す小高い丘にこの碑が建てられたが
 後、現在のところに移された。
○ 観光資源要覧第6編 P247  旅と郷土の文学碑 P318~P319
  讃岐の文学散歩 P57~P60 讃岐句碑めぐり P258~
  悔なし海に死すとも


問 大西一外について (香)
答 俳人。名は千一、仲多度郡象郷村大字上櫛梨 (現在の琴平町)の生まれ、永く大
 阪に住み、官吏として務めていた。晩年帰郷して月刊雑誌「ことひら」を発行し
 た。俳諧史の研究家である。昭和18年没した。「木太刀俳句抄」(大正6年刊)
 「新選俳諧年表」(大正12年刊) 「蕪村の俳諧学校」 (大正13年刊)「讃岐俳諧
 年譜」平井鳳二と共著 (昭和10年刊) などの著書がある。(#「櫛」は旧字)
○ 香川県俳諧史 P181
   日本古典文学大系58   蕪村集一茶集


問 尾崎放哉(ほうさい)について (香)
答 尾崎放哉は明治18年鳥取市に生まれ、本名は秀雄。旧制一高から東大法科を卒
 業し、大正12年保険会社の要職を捨て、自ら無一物となって放浪生活をはじめた。
 その間自由律俳句の追求は止めず、一燈園のざんげ生活の体験を経て、師の萩原
 井泉水の紹介により、小豆島土庄本町の南郷庵の留守番となる。しかしわずか8
 か月の島生活ののち、大正14年4月7日喉頭結核のため、近隣の漁師に見守られ
 て不運の人生を終えた。ときに42歳であった。
  現在南郷庵は取こわされたが、側の大松の根のところには、高さ1メートルあ
 まりの自然石に刻んだ放哉の句碑がたっている。
  「いれものがない 両手でうける」
  代表作には「足のうら洗えば白くなる」「春の山うしろから煙が出だした」
○ 土庄町誌 P910   光あふれる香川 P152  小豆島八十八か所 P24
   (南郷庵)  讃岐句碑めぐり P198~200  讃岐文学散歩  P41~P45
  尾崎放哉集 大空  俳句シリーズ人と作品15   尾崎放哉全集
  〔キ〕人常人(#「キ」は文字番号21893 たへん+奇) 放哉  人間尾崎放哉
  海も暮れきる


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問 香川菊池寛賞について (香)
答 高松市が生んだ文豪菊池寛を顕影する一事業として、郷土文学および演劇の向
 上をはかるため優秀な作品に対して、毎年1回香川菊池寛賞を贈呈している。
  応募規定
 1.   応募者は県下に在住する人で、応募作品は1人1編。作品内容には発表、未
  発表の別を問わない。
 2.   応募作品の範囲は文学、放送、演劇にわたる小説、戯曲、脚本およびそれら
  の研究を対象とする。
 3. 応募作品は応募申込書をそえて、高松市番町1丁目8-15 高松市教育委員
  会事務局文化振興課気付菊池寛顕彰会「香川菊池寛賞」係まで。
 4. 応募締切は11月20日。
 5. 発表は高松市報、四国新聞の3月上旬発行紙上およびNHK、西日本放送、
  瀬戸内海放送で放送。
 6. 受賞作品1編には賞状と副賞のほかに文芸春秋からの記念品を贈呈。
 7. 授賞式は3月6日の菊池寛忌。
 8. 審査にあたっては応募作品以外に選考委員の推せん作品を加えることがある。
  受  賞  の  記  録
         香 川 菊 池 寛 賞

  回 年度  受 甞 作 品 名     氏 名   年令

  1  40   花の根村合財録       守川慎一郎   32
  2  41   毬 の 唄         宮 脇 昌 敬   30
  3  42   いつもスペシャルな感じに  武田喜美子   35
  4  43   誕生日小景         門 脇 照 男  44
  5  44   夕 映 え         塩 井 豊 子  35
  6  45   讃岐文学散歩        佐々木正夫   44
  7  46   屋島の残照         石 原 利 男  64
  8  47   最後の攘夷志士       山 村   宏  40
  9  48   大 楠 物 語         荒 井 小 菊  72
   10  49   劇曲 天神弥市郎覚え書    南  四  郎  45
  11  50   霸   王         西 村 忠 臣  36
  12  51   野にさく白い花のように   川 田 雅 美  26
  13  52   貝呪符の女         中 山     彩  40
   14  53   お 止 橋         薄井八代子   56
  15  54   パンドン・ルーシー     竹安まゆ美   24
  16  55  俳諧の風景          剣 持 雅 澄  43
  17  56  事故             千 秋   勇  37
○ 香川菊池寛賞小説四人集 (花の根村合財録・毬の唄・いつもスペシャルな感じ
  に・誕生日小景)


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  讃岐文学17号 (夕映え)
  讃岐文学散歩
  屋島の残照
  香川文学1971・10 (最後の攘夷志士)
  大楠物語


問 香川不抱(ふほう)について (香)
答 明治23年2月10日、綾歌郡川西村 (現在の丸亀市川西町)  の鍛冶屋部落に生ま
 れた。本名は栄、号を延齢といった時代もあったが、のち不抱となる。丸亀中学
 3年の頃から文学雑誌に投稿をはじめ、プラトンの哲学や明星派の短歌の世界に
 はいっていった。途中、一家は高松市に移転、41年に丸亀中学を卒業、翌年、上
 京して新詩社において与謝野夫婦の指導を受けた。一度帰高ののち、再び上京し
 て新詩社同人となった。鉄幹の家にいたのは1年半ばかりであるが、「常盤木」
 「スバル」「火柱」などの歌誌に作品を発表、「自家の窮境を歌いてユーモラス
 なる新体を開くことは石川啄木に先行せり」と激賛されている。明治42年の終り
 に、家計をささえるために帰高して、香川新報社 (四国新聞社) の記者となった。
 明治45年、大阪に出て米相場に手を出し、結核をわずらい帰高、大正6年10月5
 日、高松市西浜新町の自宅で死去。遺稿や遺品は、母の手で焼かれてしまい、ほ
 とんどの資料がなくなっている。
○ 讃岐の文学散歩 P69  香川不抱の人と芸術 (山陽新聞)
  香川大学教育学部研究報告1部27号 P37  香川不抱歌集2


問 香川大学の初代学長神原甚造の短歌について (香)
答 大審院判事部長をもって法曹界を去り、香川大学発足とともにその初代学長と 
 なった神原甚造は、その若き日は「明星」に属する中堅歌人であった。
  明治における新派和歌育成者の第一人者、与謝野鉄幹による新詩社の雑誌「明
 星」 ( 明治34.4~41.11)には、香川県出身の三歌人、神原彩翅・間島琴山・香川
 延齢が発表し、またその後継誌と見られる「スバル」にもひき続いて発表してい
 る。――香川延齢は不抱と号を改めている。
  香川大学付属図書館神原文庫には数冊の自筆稿本歌集などがあり、その短歌は
 一千首近いといわれている。
  香川大学教育学部 研究報告 1部第20号には桂孝二の研究として、明星 (明
 治36年12月号から40年8月号までの160首) が登載されている。
  明治17年11月10日多度津で出生、丸亀中学・第三高校・京大を卒業して、明治
 44年京都地裁判事を皮切りに昭和20年3月末まで法曹界で活躍し、昭和25年1月
 19日香川大学学長となり、昭和29年4月2日死亡。


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○ 香大教育 研究報告 1部20号 P28
  香川大学10年史  又信回顧35年


問 菊池寛のおいたちと経歴などについて (高)
答 菊池寛は明治21年12月26日高松七番丁菊地武脩の三男として生まれた。
 貧しい境遇にも負けず学校の成績は優秀であった。高松中学を首席で卒業しあこ
 がれの第一高等学校に入学したが、卒業間際に友人の窃盗事件にまき込まれ退学
 させられた。その後友人のすすめで京都帝国大学に学び、卒業ののち作家生活に
 入る。
  「父帰る」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」などの作品をつぎつぎに発表。大
 正12年には文芸春秋を創刊するなど文壇の大御所といわれるほど活躍した。
  昭和23年3月6日、狭心症のため亡くなつた。昭和31年10月には、高松市中央
  公園に銅像が建てられた。
○ 菊池寛半自叙伝  木村毅の菊池寛  福田清人の菊池寛
  郷土に輝く人々第1集 P179~P207  自叙伝全集菊池寛  菊池寛伝
  高松今昔記第3巻 P10~P26   讃岐の文学散歩 P185~P196
  菊池寛資料集成  菊池寛の時代


問 木村寸木について (琴)
答 俳諧師。名を直綱・平右衛門といい、琴平の豪家に生まれた。
  天和・貞享年間から貞門の言水・如泉・談林の性中、才磨・蕉門の舎羅諷竹・
 出雲の風水、大淀三千風などと交友があったので、各派の影響も受けたようだが、
 その源流は宗鑑風の讃岐ぶりをもっている。
  元禄13年「金毘羅会」を、正徳2年には「花の市」を出版したことは有名であ
 る。
  また、寸木は京都の儒者三宅石庵を招いて金毘羅地方の文化の向上にも大いに
 尽したが、正徳5年4月28日69歳でこの世を去った。
○ 香川県俳諧史 P21~23


問 琴峯(きんぽう)詩集について (丸)
答 琴峯と号した京極長門守高朗候の漢詩集  (全8巻)  をいう。五言または七言絶
 句の詩で、細微な自然観賞のすぐれた詩人の姿と、物おじしない風格がにじみで
 ている格調高い作風である。
○ 丸亀史料シリーズ 1号 P8 3号 P38  琴峯詩抄
  讃岐史談 創刊号


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問 黒島傳治について (内)
答 明治31年小豆島苗羽に自作兼小作農家の長男として生まれた。
  乙種実業補習学校卒後上京するまで近所の醤油工場などで働き上京後は、小さ
 な建物工場や雑誌社に務めながら小説を書いた。志賀直哉やトルスイト、ドスト
 エフスキー、チエホフなどに傾倒し、同郷の詩人壺井繁治と親しく往来した。大
 正8年早大予科選科に入ったが同年徴兵され衛生兵となりシベリアへ派遣された
 が胸部疾患のため翌年内地に送還され除隊した。その後故郷で療養、大正14年上
 京し「労農芸術家連盟」の創立に参加。「橇」「渦まける鳥の群」を発表し当時
 の代表的な反戦文学作家となった。昭和8年病気が悪化し郷里で療養に専念する
 が大正18年47歳で死亡した。傳治が作家として活動したのは10年に満たず作風も
 地味なため目立たぬ存在であったが、戦後プロレタリア文学の再建が進むにつれ
 積極的に評価されるようになった。(#「醤」は旧字 文字番号なし)
  郷里苗羽芦ノ浦の丘には碑文「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大
 きさである」と彫られた碑がある。(#「芦」は旧字 文字番号30716)
○ 日本現代文学全集 73  讃岐の文学散歩
  黒島傳治全集1~3巻
  他に著書、「軍隊日記」「二銭銅貨」など。


問 小林一茶と専念寺について (観)                   
答 一茶は寛政3年 (1791)  亡師竹阿の弟子達の散在する西国への旅に出、同6年
 観音寺に来り、翌7年の正月は専念寺で迎えた。
  一茶の書いた旅拾遺「寛政紀行」に
   「正月八日観音寺立て、二月廿八日帰る。三月八日立ち四月十八日大阪に入
  る。寛政七年歳旦 於専念精舎
   今日立春同寺門。 寺門花開愈清暾。
   入来親友酌樽酒。(#「樽」は旧字 文字番号15500) 豈思是異居古園。
  元日やさらに旅宿とおもほへず」………とある。
  専念寺第12世性誉大和尚は中興の祖と仰がれ、俳号を五梅と称し、江戸遊学中
 竹阿の門に入り俳諧を学んだ。
  寛政紀行3月3日の項に
  「此里の習ひとて、家々に花かざるこそ、いと風流なる風情なり。
   京にもかくありたきよ軒の花、桃柳庇々の花見かな
   ここの専念精舎に住せる五梅法師は、あが師の門に学びたまひしときくから
  に、予したひ来ゆ、しばらくづつの旅愁を休むることしばしば、さらに我宿の
  ごとして、巳に四とせの眤近とはなりけらし。……」
  因みに専念寺は昔本堂・観音堂・庫裡・大門等が等整つていたが、文化4年当
  地の大火によつて類焼、次いで明治6年西讃竹槍騒動の際に焼打ちにあい大半


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  を焼失した。
   現在同寺には昭和12年一夜庵坐石 松尾明徳氏等によって建てられた、前記
  「元日や………」の句碑がある。
○ 讃岐句碑めぐり P84  観音寺市誌 P436
  詩人一茶 P82  香川県俳諧史 P115  専念寺と一茶
  一茶一代集 P206 (寛政紀行)


問 香川県出身の著名な作家ついて (香)
答 菊池寛 (1888~1948)
   高松市出身
   父帰る、忠直卿行状記、真珠夫人、など(#「卿」は旧字 文字番号2880)
  竹田敏彦 (1891~1961)
   多度津町出身
   地に満つる愛、神に生まれる話、など
  中河与一 (1897~現存)
   坂出市出身
   天の夕顔、愛恋無限、など
  黒島傳治 (1898~1943)
   内海町出身
   二銭銅貨、浮動する地価、など
  壺井栄 (1900~1967)
   内海町出身
   二十四の瞳、暦、など
  山田克郎 (1910~現存)
   高松市出身
   海の廃園 (直木賞) 、海の異教徒など
  西村寿行 (1930~現存)
   高松市出身
   犬笛、悪霊の棲む日々、など
  大薮春彦 (1935~現存)(#「藪」は旧字 文字番号32348)
   高松市出身
   野獣死すべし、血の来訪者、など
  高城修三 (1947~現存)
     高松市出身
   榧の木祭り (芥川賞) 、など
  西村望 (1926~現存)
   高松市出身


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  鬼畜、丑三つの村、など


問 小豆島のいしぶみについて (土)
答 小豆島にある碑は、花崗岩か安山岩を素材としたものが多い。顕彰碑や従軍記
 念碑等は主として各聚落の公共地や学校、神社の境内などに建てられている。文
 学碑は、島内の由緒ある場所に点在して30余基を数える。その内、歌碑には明治
 天皇の御製などがあるが僅少である。句碑は芭蕉、子規、井泉水、放哉などに続
 いて俳人によるものが多い。なあ、生田春月、西条八十、湯川秀樹、壺井栄の詩
 碑等も見られる。
○ 小豆郡誌  島のいしぶみ


問 玉藻吉讃岐国者 (たまもよしさぬきのくには)について (香)
答 わが国最古の歌集である万葉集には、香川県関係のものが2首ある。一は万葉
 集巻1、雑歌の部で、「高市岡本宮御宇天皇代に讃岐国安益郡に幸せる時、軍王、
 山を見て作れる歌ならびに短歌」と、今一つは万葉集巻2、挽歌、藤原宮御宇天
 皇時代「讃岐狭岑(さみね)島に石中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一
 首ならびに短歌」である。
  「たまもよし」は後者の出だしに使われた讃岐の枕詞(まくらことば)であり、
 峡岑島は今の沙彌島である。
  沙彌島には、昭和11年に郷土出身の作家中河与一氏が建立した「柿本人磨碑」 
 があり、丸亀城内には「人磨の歌」をしのんだ吉井勇歌碑がある。
○ 香川県通史 P296~P301  讃岐句碑めぐり P18~P20
  讃岐文芸読本 P173~   讃岐名勝歌集   P85~
  香川県の歴史 P2  玉藻の花 P5   讃岐郷土読本 P289~
  丸亀市史 P1~   坂出市史 P5~  綾歌郡史 P26~
  西讃府史 P237  まるがめ 6号  讃岐女子郷土読本 P4~
  万葉集巻2、220の名註解書や柿本人磨などにある。


問 壺井栄について (香)
答 明治32年8月5日、小豆島坂手に父岩井藤吉、母アサの五女として生まれた。
 父は樽職人であったが、栄が小学校入学の頃、醤油業者の倒産のため失業してし
 まった。そのため他家の子守をしたり、内職をしたりの苦学であったが、この頃
 から少女雑誌・小説に興味を持ちはじめた。卒業後は坂手の郵便局に就職。黒島
 傳治・壺井繁治と親しくなる。(#「樽・醤」は旧字)
  大正14年、上京して壺井繁治と結婚。林芙美子・平林たい子らの近くに住んだ


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 ため、文学的雰囲気にふれ、文学への興味をかりたてられる。
  昭和5年、左翼運動大弾圧のため繁治はたびたび逮捕される。面会の時などで
 佐多稲子・宮本百合子と親しくなった。
  昭和13年、処女作「大根の葉」を雑誌「文芸」に発表。14年には童話「まつり
 ごと」を同盟通信に発表。その後「暦」「妻の座」「柿の木のある家」「右文覚
 え書」「母のない子と子のない母と」「あしたの風」「岸うつ波」「嫁さん」等
 数多くの童話・小説を発表。なかでも昭和27年発表の「二十四の瞳」は、29年松
 竹で映画化され、この作品は小豆島を一躍観光地にした。昭和42年6月23日、東
 京で亡くなったが、最後までペンを離さなかったという。
  昭和45年9月23日、海の見える坂手の向丘で壺井栄文学碑の除幕式が行なわれ
 た。碑文「桃栗三年柿八年、柚の大馬鹿十八年 壺井栄」
○ 壺井栄作品集  讃岐の文学散歩 P161
  壺井栄児童文学全集  (年譜・著作目録がのっている)
  壺井栄文学碑のしおり  回想の壺井栄  壺井栄の誕生
  壺井栄先生しおり


問 壺井繁治について (内)
答 詩人。明治30年小豆島生まれ。海軍兵学校入試に近視のため落第してから怠惰
 な学生になり多難な変転の多い生活に入る。大正6年上京、早大政経科入学、の   
 ち文科に転じたため学資を断たれ中退。色々つとめながら個人雑誌「出発」を第
 3集まで刊行。その後「赤と黒」、「ダムダム」などを経て「文芸解放社」によ
 り、しだいにマルクス主義思想へ転じてゆき、昭和3年には三好十郎らと「左翼
 芸術同盟」を組織したがまもなく解散して「無産者芸術同盟」に参加し、主とし
 て「戦旗」の発行、経営の面で仕事をし、共産主義運動で有能に働いた。戦後は、
 「新日本文学会」の中心会員として創立のときから仕事をした。壺井栄と結婚し   
 たのは大正14年である。詩集「壺井繁治全詩集」 (国文社 昭和45年)、評論「現
 代詩人門」「詩の流域」など多数。
○ 「壺井繁治全詩集」


問 中河与一について (香)
答 小説家。明治30年 (1897)  2月28日香川県坂出町長ノ堤 (現坂出市) 生まれ。
 坂出病院を創立し院長であった中河与吉郎の長男。母の郷里、岡山県赤盤郡湯瀬
 村大内で小学校を卒業、明治43年丸亀中学に入学し、大正4年卒業。5年京都に
 て弟四郎と共同生活を営み、スケッチや短歌に熱中し、「朱欒」に投稿する。7
 年画家を志し上京、本郷美術研究所に通う。翌年早大予科文学部に入学、9月同
 郷の歌人林幹子と結婚。10年早大英文科に進むも、11年病的潔癖症のため中退す


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 る。同年4月歌集『光る波』を出版するが、絵画と短歌に熱中したことは、彼の
 文学の原点として重要であろう。作家としての出立は、大正10年「新公論」6月
 号に発表した『悩ましき妄想』 (のち『赤い薔薇』と改題) であり、つぎに11年
 7月「早稲田文学」に『踊り』を掲げるが、文壇の評価を得たのは、12年5月に
 「文芸春秋」へ発表した『或る新婚者』(のち『新婚者』と改題) である。さらに
 『海に開く窓』 ( のち『或る心中の話』)『髪』『木枯の日』『じゆんでんごぶ』
 などの優れた短編を発表、作家としての地位を確立した。13年10月より川端康成、
 横光利一、今東光など同志14名と、「文芸時代」を創刊。新感覚派運動を興し、
 その旗手として、横光、川端に優るとも劣らぬ絢爛たる才華を顕現してゆく。新
 感覚派の特色を示す作品としては、13年「文芸時代」11月号に書いた『刺繍せら
 れた野菜』、翌14年「新潮」4月号の『氷る舞踏場』昭和2年「女性」12月号の
 『海路歴程』などがあげられる。彼の初期の作風は横光のそれに近似し、モダニ
 ズムの色彩が強く、次の文壇的世代であった新興芸術派の作家たちに大きな影響
 を与えたものと思われるが、その底には意外に古い抒情詩風な発想を潜めており、
 中河文学はその予盾の上に成立していると考えてよい。しかしその予盾した作風
 は、さまざまな屈折をたどりながら、6年10月『鏡に這入る女』8年『﨟きた花』
 10年12月10日より11年4月20日まで「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」連載の『愛
 恋無限』などの作品を経てしだいに詠嘆的な抒情を濃くしながら『天の夕顔』にお
 いて、東洋風な抒情の世界に到達する。後期の作品をみると、王朝以来のロマン
 の系譜が、鏡花から潤一郎、春夫、そして中河へと継承されてきているのがわか
 る。なお、評論にも精力を傾け、その活動としては、横光が新感覚派の立場から、
 マルクス主義の文学理論と対立して、形式主義文学論の展開を行ったさい犬養健、
 川端康成、池谷信三郎とともにこれに同調し、昭和5年1月『形式主義芸術論』
 5月『フォルマリズム芸術論』を世に問うた。その後もさらに自己の文学観を新
 しい科学思想と結びつけ、5年月刊雑誌「新科学的 (文芸)」 を創刊、 8 年には
 雑誌「翰林」を刊行、10年「偶然文学論」を主張、それは自由、可能性の一面的な
 強調にあったという論自体の欠陥を持ちながらも、自然主義以来の平板なリアリズ
 ムの不毛性にたいする不満と豊かな想像の世界を切開こうとする意識とをよびお
 こした点で、その史的意義は高く評価されてもよい。やがて彼は日本浪曼派に接
 近し、12年ごろからしだいに民俗文化主義を唱えはじめ、戦時中は、「全体主義
 の構想」などを論じ、「文芸世紀」 (昭14.8.~21.1) を発行しつづけた。 戦後
 の代表作には『失楽の庭』『悲劇の季節』があり、この二編は『天の夕顔』ととも    
 に三部作とみなされる。(#「這」は旧字 文字番号38889)
  さらに31年10月号より34年2月号まで、谷崎潤一郎をモデルとした『探美の夜』
 を「主婦と生活」に連載。全集に『中河与一全集』全12巻がある。
○ 「日本近代文学大事典第2巻」 P484
 中河与一研究


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問 涙草について (丸)
答 作者は、雲州松江の城主京極忠高の娘伊知子である。伊知子は家臣多賀宮常良
 に嫁し一子高房をもうける。「涙草」は作者が高房の出生に筆を起し、慶安3年
 に至る前後7年間を綴った日記文学であると同時に、遺書文学でもある。
  序文に、人間が子を愛する道の自然を説き、次に、中年を過ぎた作者が一人の
 男子を生み幸せな生活を送るのだが、突然夫の病死に会い、悲しみながらも子供
 の教育につとめる姿を書いている。しかし、高房が6歳の時、主君京極高和には
 嗣子がなかったため、作者の愛児が養子として定められた。子供の出世を喜ぶ一
 方、愛児との別離に悲しむ。
  参勤交代のため、高房が江戸へ立った後の寂しさを、またいつかは会えること
 もあろうと自分で自分を慰めながら生きていく、というのが「涙草」のあらすじ
 であるが、武家時代に生きた女の妻として、また母としての喜びと悲しみを和歌
 を中心に綴りながらも、そのままの日記ではなく、母が愛児に残す形見としての
 意図をもった文学作品としてまとめ上げたところに特色がある。
  作者は万治3年4月27日丸亀で没、墓は丸亀市南条町玄要寺林渓院墓地にある。
○ 涙草  涙草の研究  註釈涙草  涙草原解


問 芭蕉の黄葉塚について (香)
答 三豊郡大野原町萩原高尾観音堂境内
  たふとがる涙やそめて散紅葉
  真中に「堂うとかる」右に「なミたや染めて」左に「散るもみち」と書かれ石
 の右下方に「はせを」左側に「南無庵五蕉拝書」とある。
  碑石は高さ123センチ、幅125センチの自然石で、雑石を積み上げた礎石の上の
 台石にのっかっている。
  句は元禄4年の作で、「神無月のはじめ月の沢と聞へ侍る明照寺に羈旅の心を
 澄して」と前書きのあるもの。明照寺は彦根市平田目の沢にある寺で、この明照
 寺に詣でて、ありがたさにこぼす涙を、折りからの散紅葉があかく染める、涙に
 紅葉があかくうつるという意味である。往時、北向き観音として霊験あらたかで
 あると信仰する者が多かったこの観音堂にふさわしい碑である。
○ 讃岐句碑めぐり P108 ~P110
  香川県俳諧史 P46 


問 久の松と玉の井について (善)
答 総本山善通寺の南方約100メートルの所の、玉泉院と称する49坊の一つで、又
 の名を西行庵ともいう。そこに老大松久の松がある為に、久松庵と呼ばれている。


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  寿永の昔、西行法師がこの松の下に籠り和歌をよんだので、西行が松ともいわ
 れている。「久に経て我が後の世を訪へよ松跡偲ぶべき人もなき身ぞ」の名歌を
 残している。又、道範上人が弘法大師の跡を慕って、ここにきて松を見て歌をよ
 んだり、本居宣長が松を賞でてよんだ歌も、鈴屋集に残されている程、立派な松
 であったが、白蟻の為に惜しくも枯れてしまった。
  又、玉の井は、この松の側にあり、水質よく一名、花の井とも称し、西行法師
 もこの清水を愛して滞留した。かつて弘法大師がこの水を汲んで仏供に用いた。
 本居翁の鈴屋集にも、「玉の井はさきくてあれど西に行きし人は又来て汲といは
 なくに」とのせられた名井である。
  西行法師は鎌倉初期の北面の武士であったが、無常を感じて出家し、諸国を行
 脚して歌集「山家集」を残した。
○ 仲多度郡史
  五岳文化


問 エドモンド・ブランデンの詩碑について (香)
答 Likealong roof,men say,and well they say,
      This hill of warrior ghosts surmounts the plain.
  God-built it stands in winter's windy day,…………
   まこと長い屋根のように強者らが霊鎮まる
   この丘は平地の上にかむさる。
   神の築くところ冬の勁風の中にがっしりと立つ。…………
 詩人の教え子、元高松第一高等学校長 故岡崎隆氏の訳と共に源平の古戦場を見
 下ろす屋島山上談古嶺に静かに建っている。こよなく日本を愛したブランデンは、
 日本のために尽した外国人作家として、第二の小泉八雲といわれた。大正13年か
 ら3年間東京帝国大学文学部で教べんをとっている。当時の教え子には前出の故
 岡崎隆氏をはじめ、中野好夫・上林暁・高見順・藤沢桓夫氏らがいた。戦後、駐
 日英国大使の教育顧問として昭和23年から25年までの2年間滞日していたが、そ
 の間に全国に散らばっている彼の教え子達は我が住む地へ恩師を迎えた。当時香
 川県英語教育研究会々長の岡崎隆氏は2度も招いた。この詩は昭和24年2月最初
 の来高の折、屋島に登った時の作であるが、彼は詩ではなくスケッチだといった
  という。碑は5年後の昭和29年11月、香川県英語教育研究会の手で屋島山上に建
 立された。英詩を刻んだ銅板は鈍い光を放っていたが間もなく何者かに持ち去ら
 れ近くの松林に捨てられていた。かなり破損はしていたが、あらゆる手を尽して
 元に近い状態にまで修正し香川県英語教育研究会に保管されている。現在のは昭
 和44年12月当時の英語教育研究会長川口勇氏によって完成されたもので、最初の
 碑文を彫った金工家赤松義弘氏によって詩人の筆蹟をもとにして刻まれたもので
 あり、詩と並んで訳詩も銅板にほっていれてある。


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   大きさ・外観は次のとおりである。
    碑石の高さ    1.10メートル
    碑石基部門    1.50メートル   奥行 0.80メートル
    英詩板  縦   0.40メートル   横  0.30メートル
○ 讃岐の文学散歩 P121   高松のいしぶみ P88
  観光学術読本屋島 P30   讃岐句碑めぐり P290


問 讃岐の文学碑について (香)
答 句碑、歌碑、詩碑などの文学碑は、最近新らしいものが競い建てられ、また古
 いものも土地造成などのために消えてゆくおそれがある。各地に見られる顕彰碑      
 墓碑、記念碑、道標などを含めて考えると、文学碑のすべてを調べつくすことは
 むつかしい。本山桂川著「古典文学名碑」は香川県内の金石文化にふれていない
 が、同著者の「旅と郷土の文化碑」では、高松の菊池寛詞碑、丸亀城址の吉井勇      
 歌碑、南郷庵の放哉句碑、土庄の萩原桂子句碑、坂手の生田春月詩碑などを収め
 ている。
  県内の文学碑を網羅的に扱った資料としては、八坂俊生著「讃岐の句碑めぐり
 」がある。句碑が中心であるが、歌碑、詩碑、文学碑などにわけて 200 基 以上
 を写真入りで紹介している。巻末の香川県内文学碑一覧では、碑主、碑文、所在
 地、建設 (除幕)年月などをまとめてあり、参考になる。また、「讃岐句碑めぐ
 り」と同年に出版された佐々木正夫著「讃岐の文学散歩」  (昭和45年9月刊)  
 は、志賀直哉の「暗夜行路」を振り出しに、香川県と縁のある作家など35人を取
 扱った詳細な研究である。この中に17基の文学碑と作品の背景が紹介されている
 が、いずれも、文学碑めぐりの詩情をおぼえる好篇である。特に他の著作では取
 扱っていない村山籌子(かずこ)の墓碑 (高松市姥ケ池墓地在)  に刻まれた美しい
 瀬戸内海の詩文を全景写真で紹介しているのは新しい。墓碑を前にした劇的な告
 別式のシーンなどあまり知られていなかったのではないか。(#「篇」は旧字 
 文字番号26257)
  高松市内の碑を扱ったものでは、小竹一郎著「高松のいしぶみ」  (昭和45年3
 月)  がある。句碑等41基、歌碑等31基、詩碑等5基を収録している。その多くは
 墓碑である。また、金刀比羅宮関係の碑文については、雑誌「ことひら」昭和40
 年新春号をあげたい。
  文学碑となると、やはり小豆島が宝庫であろう。本山桂川、佐々木正夫、八坂
 俊生などの著作でも、小豆島の文学碑にはかなりのスペースをさいている。
○ 旅と郷土の文学碑 P317~P319  讃岐句碑めぐり  讃岐文学散歩
  高松のいしぶみ  壺井栄文学碑のしおり
  雑誌「ことひら」昭和40年新春号 P73 ~P87 (金刀比羅神域の碑文)
  さぬき文学遍路  一夜庵 P25~P28 ふるさとのこころ P69~P75
   (白峰の碑文)   雑誌「ことひら」昭和44年新春号 P109   (船型歌碑)


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  同45年新春号 P79 (芭蕉句碑)
  同46年新春号 P114~P117 (潮川神事場建碑の前後)


問 丸亀城内の石ぶみについて (丸)
答 次の石ぶみがある。
 1.記念碑 (三の丸見返り坂)
   京極朗徹公の頌徳碑
 2.帰厚之碑 (三の丸見返り坂)
   亀山公園等払下費を寄附した式村茂氏の美挙をたたえた碑
 3.高浜虚子句碑 (三の丸見返り坂)
   飯野山を望んでの即吟である。
 4.吉井勇歌碑 (二の丸)
   沙弥島を望んで詠んだ自筆の一首
 5.勤王碑 (二の丸)
   土肥大作、村岡宗四郎の表彰碑
 6.斎田喬文学碑 (こどもの国)
   児童劇作家の活躍を彰しての碑
 7.沢潟久敬の碑 (こどもの国)
   公衆道徳と文明についての碑
○ 丸亀の史料シリーズ8号 P28
  丸亀城 P8、P15、
  讃岐の句碑めぐり P14、P18、P292


問 村山籌子(かずこ)について
答 児童文学作家。
  明治36年 (1903) 11月7日に高松市の薬舗・岡内千金丹、岡内家の長女に生ま
 れる。高松高女を卒業し上京、自由学園高等科に入学。羽仁もと子に認められ、     
 卒業後雑誌「子供之友」に童話、童謡を寄稿。同誌にさし絵を描いていた村山知
 義 (劇作家・演出家、1901~1977) と大正13年結婚し、結婚後も多くの幼年向き
 の作品を発表、戦前の数少ない女性童話作家として活躍した。作品は動植物や台
 所用品を主人公にしたユーモアと機智に富んだものが多い。昭和21年 (1946)  8
 月4日没した。 
○ 日本近代文学大事典3巻P351
  日本児童文学大系26巻P557~
  村山籌子童話の世界


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問 山崎宗鑑と一夜庵のおこりについて (観)
答 山崎宗鑑は寛正6年 (1465)  近江栗田郡志那郷に生まれ、幼少より9代将軍足
 利義尚に仕えたが、義尚が25歳で陣中に没するにおよび無常を感じ、仏門に入り
 宗鑑 (幼名は弥三郎範重) と改め尼ヶ崎や山崎に住んだ。山崎の竹林中の庵を対
 月庵と名付け、風月を友として歌道書道を講じ俳諧連歌の道にふけった。一方、
 宗鑑と親交のあった京都東福寺の住僧梅谷が観音寺の興昌寺に帰山するにおよび
 対月庵を他に譲り諸国行脚の旅に出、梅谷を訪ねて観音寺に来、天文7年(1528)
 宗鑑64歳のおり、興昌寺の傍に庵を結び一夜庵と号し、天文22年 (1553) 10月2
 日89歳で病のため没するまでここで過ごした。
  宗鑑が一夜庵に在住するにおよび、また没後も、天下の俳人が来遊するように
 なり、観音寺の俳壇はもとより諸文芸も大いに発展した。
  西讃府誌では宗鑑は天正5年正月24日72歳で没すとある。
○ 山崎宗鑑  香川県俳諧史 P12  西讃府誌  三豊郡史
  香川県通史 P734~   一夜庵俳史   一夜庵宗鑑  一夜庵
  讃岐郷土読本 P299~P304、P315~P320