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底本の書名    讃岐ものしり事典(p225~236)
 底本の編者    香川県図書館協会
 底本の発行所   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     辻 繁
校正者名     織田文子・平松伝造
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日      2004年5月20日
      

問 岡野マツについて(香)
答 岡野マツは真覚寺の前庭のほとんど全面をおおうクロマツである。真覚寺は高徳線志
  度駅で下車して西北に進むこと約5分で達し、交通きわめて便利である。昔この地は岡
  野と呼ばれ潮が満ちると海となり、干けば陸となったところで、その岡の上に一本松が
  あったところから岡野マツと呼ぶようになったとのいい伝えがある。
    マツは樹高約7メートル、根本の周囲13メートルで地上1.7メートルで幹周は8メー
  トル、ここから東南・西・北に周囲1.5メートル位の大枝を出し、この3大枝を軸とし
 てさらに周り50センチ前後の枝13を出し、これよりさらに無数の小枝を分かちつゝほぼ
 水平に伸びて東西34メートル、南北40メートルに広がり石柱や木柱合せて35本の支柱
 で支えられている。幹は3大枝を出したところから伸長すること5メートルで、この間
 に多数の枝を生じ鉢をふせたような形となって水平に広がった枝の上に重なって均整の
 とれた美観を呈している。樹齢は 500年以上と推定され樹勢きわめて旺盛で東讃随一の
  名松である。昭和44年4月28日県指定天然記念物に指定された。
○ 香川県の文化財 P298
    志度町史
    


問 郷土玩具について(香)
答 ホーコーさん、振槌、嫁入人形、高松雛人形、高松の面とかつら、高松の土焼玩具、
  高松の達磨、苦抜き達磨、高松の凧、屋島山カゴ、屋島の与一駒、小豆島の首人形、讃
  岐のチョウサ、讃岐の獅子頭、西讃の張子玩具、西讃の凧、丸亀の住吉踊、丸亀の花籠、
  観音寺の石人形、滝宮天神のうそ替、金毘羅玩具。

―226―

○ さぬきの郷土玩具
    讃岐郷土玩具考  郷土玩具叢話  郷土玩具夜話  玩具談叢
    香川県放送郷土新誌  新さぬき風土記  人形の村  童玩礼賛
    奉公さんと張子玩具―農業香川 昭28.9
    郷土玩具―月刊香川 昭29.2



問 蒟醤(ルビ きんま)と存清の名称の起源と技法について(香)
答 蒟醤の名称の起源
    わが国の書物で、蒟醤の字が見える最も古いものでは、1000年以前、藤原初期の人、
  源順の「和名類聚抄」に始まるが、ここでは単に植物の注釈に止まっている。江戸初期、
  宝永5年(1708)刊の貝原益軒の、「大和本草」に植物名と器物名が一緒になった説明
  がある。その中の芳草部に蒟醤のページがあって、「蛮語にきんまと称する物あり。長
  崎に来るシャム人などの云えるは、かの国に客あれば、先ずキンマビンローを出す。ま
  た蚌粉(貝の粉)をも少し加えて食す。日本にて煙草を用ふるが如し。今茶人のもてあ
  そぶ香合に、きんま手といふあり、すなわちキンマビンローを入れたる器なり云々」と、
  やや詳細に書かれている。
    少し後、正徳2年(1712)に出た、寺島良安編の「倭漢三才図絵」は、江戸時代最大
  の百科辞典であるが、この本には、さし絵入りで説明されている。その中の芳草部の蒟
  醤の項には「貴賤、客至れば、則ちこれを出す。今時煙草を賞するが如し。これを盛る
  器は大小あり、甚だ華美也、いま香合『きんま手』と称するものあり。その器にして、
  最も重器なり云々」とある。
    その後100年経って、本草学者小野蘭山の、「本草綱目啓蒙・巻之 10・芳草部」の中
  の蒟醤の字に、キンマとかなをつけ、下にかっこをして蛮名なりと註釈がつけられてい
  る。以後、文字は漢字の蒟醤を使い、発音は南方語のきんまを称してきた。
    きんまは、天才玉楮象谷の手で研究が重ねられ、天保4年(1833)わが国ではじめて
  作られたが、「紅毛彫」とも、「金馬」とも書かれていて、47歳ごろから、「蒟醤」と
  書くようになった。
    象谷の作品で、蒟醤の字を使った最初の作品は、嘉永7年(1854)藩命による、「蒟
  醤塗料紙箱並硯箱」で、これは技術上からも最高の作品で、中国製のものに比べても、
  遙かにすぐれているといわれ、いま国の重要美術品に指定されている。
    このように、象谷によってわが国で、初めて制作された、きんま、存清の技法は、弟
  の藤川黒斉(文綺堂)が受け継ぎ、讃岐存清、きんま漆器として商品化がはかられ、2
  代蘭斉、3代黒斉と3代に亘って家業として、誉高い作品をつくった。
    きんまの技法
    象谷の作ったきんま漆器は、竹の網代、または木の素地として、堅地をつけ、

―227―

  その上に漆を厚く塗り重ね、これに適当な模様をきんま刀をもって彫刻、その彫り口の
 中に、固く練った色漆をへらですりこんで平面とし、乾かしてから、研炭で模様が鮮明
 になるまで研ぎ出したもので、一種の漆象眼というべきものである。
    象谷ならびに黒斉のきんま手法は、讃岐きんまの源流であり、今日からすれば、古典
 式きんまとでもいうべきであろうか。
    現代になって、美術工芸作家は、近代感覚を取り入れた、新しい「こき彫り」や、「
 点彫り」を行い、またそれらを併用した各種の手法による作品を作り出し、それらが香
 川の特産美術工芸品として、作品の質の上からも、作家数からも非常に高い水準にある。
    存清の名称の起源
    象谷が案出した技法による存清は、「存清」と書くのが正しい。
    室町末期、天文23年(1554)の一謳軒宗全の「茶具備討集」には「彫りに星のような
  る物ある故に存星という」と書いてある。
    江戸の中期、享保3年(1718)の「万宝全書」の中の「和漢諸道具古今知見抄」には、
  明の時代の美術工芸作家の三傑、張成、存清、銭周の外、多くの有名作家について、各
 々の特徴などを説明している。その中に、「存清、唐作者、唐彫物師。存清、作人の名
 也。赤又黒き地に紋をあさくして地をほりて、ちんきんに似たる物也。まれなる物云々」
 と記されている。
    江戸末期の「茶道筌蹄」の写本、「東山殿飾書」には、「存清」と書かれ、これまで
 の「星」を「清」の字に直してある。
    異国渡来のものはともかくとして、象谷考案の讃岐の存清は、象谷自身始めから「存
 清」と書いていることからも、「存清」と書くのが正しいといえよう。
    存清の技法
    存清の技法は、一言でいうならば、黒地、赤地、黄地等の上面に、色漆で適当な模様
 を描き、その図案の輪郭をケン(のみ)で手彫りをするか、あるいは金泥でもって、筆
 で隅取ったものである。
    その手法は大別して次の3つになる。
  1.模様の輪郭を、細かく毛彫りして、彫り口に金泥を埋めたもの。
  2.模様の輪郭を、金泥で骨描き式に、筆で線描きしたもの。
  3.模様の輪郭を、細かく毛彫りしたままのもの。
    わが国では、古くから蒔絵の技法が非常に発達し、漆器といえば、すぐに蒔絵が連想
 される程であった。そこで、存清に金泥を用いると、蒔絵や沈金彫りにやや似たものに
 なるところから、象谷は主として第3の手法を多く用いた。
    そして図案、しかも風雅な趣きをそなえた、いわゆる純日本的な讃岐存清漆器を作り
 上げたのである。
○ 「香川の伝統工芸きんま・存清」より P17・23

―228―

問 後藤塗りについて(香)
答 後藤塗りの創始者は後藤太平という人で、技巧の才に富んでいて、手芸に妙を得た茶
  人であった。慶応初年茶器、盆類を娯楽的に鑿彫して器物を作り人に頒けていた。作品
  は堅牢にして雅致があり、特に風流人士の賞賛を博した。さらに長年〔キュウ〕法(#
 「キュウ」は文字番号 45430)に研究を重ねる中に朱塗の風韻に富む、いわゆる後藤塗
  りを生むに至った。
  特 徴
    1 面廻りの角度が違う。ふっくらとした丸味がない。
    2 朱が違うので、黄ばんで底が赤くなんともいえぬ味が出ている。
    3 長年経っているうちに味が違ってくる。
    4 すりが丁寧で、する度数が多い。
    5 朱の調合が違っている、朱はきんまに入れるように堅く練っている。
    6 一番変わったところで、これが後藤塗りの特徴で、疵でなくしてふしがあるのを
      自然柄としている。
○ 総合郷土研究 P438  へら木7―11号
    高松漆器 P18  香川県の歴史 P241



問 柞原寺(ルビ くはらじ)のクロマツについて(瀬)
答 予讃線高瀬駅の駅前から南にのびる道を十分ほど歩いた県立高瀬高校のすぐ東側に柞
  原寺がある。
    同寺本堂の前庭に県の天然記念物に指定されているクロマツがあり、近在では「弘法
  のマツ」として著名である。
    樹高は13メートル余、幹の太さは地上70センチのところで周囲 5.15メートル、地上
 3メートルのところで5枝を出して東西南北に枝を広げている。それは、東西31メート
 ル、南北33メートルにもおよび、ちょうど鳳凰が羽を広げたような美観を呈している。
 樹齢は4~ 500年前後で、西讃随一の名松である。(惜しいことに昭和56年夏ごろから
 樹勢が劣えはじめ、同年末には枯死した。)
○ 香川県の文化財  高瀬町史



問 源内焼きについて(香)
答 平賀源内は、宝暦の初め長崎に遊学しており、オランダ焼き、交趾焼(ルビ こうち
  やき)などの美しい陶器を見てこれを我国で造ろうと志し、薬草や医術の研究と共に、
  土や石を調べ、焼物に適するものを捜した。宝暦13年(1763)発行の著書「物類品隲(
 ルビ ぶつるいひんしつ)には、阿野郡陶村(現綾歌郡綾南町)や寒川郡富田(現大川
 郡大川町)の白堊(焼物用の土)、また陶村産の画焼青(俗にゴスと呼ぶうわぐすり用
 の石)などのことを発表した。これらの陶土をもちいて志度の赤松松山(五番屋伊助)
 や堺屋源吾などを指導して、緑、黄、褐色等の釉薬を用いて焼かせたのが源内焼であり、
 源内焼は一口にいって、軟陶交趾焼風なものである。交趾焼とは、交趾地方(ベトナム
 南部)で焼き出された陶器、または交趾がよいの船によって我国に輸入された陶器の意
 味であり、もとより中国陶器である。主な産地は中国の南部地域(広東、福建等)の諸
 窯であり、中国陶器の影響下にある交趾地方でも焼かれていた。それは明、清時代の「
 法花(ルビ はあはあ)」系低火度三彩であって、我国では「交趾手」と呼ぶものに含
 められている。三彩とは、三種類の色彩とい う意味でなく、その技法から来た名であ
 るといわれ、文様の輪郭を強い彫線や、細い線状の泥土でくぎり、内外に異なる釉をぬ
 る。この場合彫線や、泥土の線は異色の混融防ぐ役目を果たし、いくつかの色彩が対照
 の妙を発揮する。「法花」系三彩は、緑を中心に紫や黄が美しく映える異国趣味豊かな
 ものであるが、それを模した源内焼も同じような美しさを持っている。源内が三彩陶を
 選んだのは、それが彼の異国趣味を満足させるとともに、当時茶人の間で「交趾手」が
 珍重されていて金儲けにもなったからであろうと思われる。こうして軟陶三彩の源内焼
 は緑、黄、紫などの色彩の持つ、つややかな美しさが賞美されることとなった。
    源内焼の陶工としては堺屋源吾、脇田舜民、赤松松山等がいるが、これらの人々の死
  後一時衰えたが、その跡をついだ三谷林叟、赤松陶浜等によって屋島焼、富田焼となっ
  た。
○ 平賀源内 P98
  志度町史 P246



問 讃窯について(香)
答 第9代高松藩主松平頼恕は、大川郡三本松の庄屋、堤治兵衛に命じて、京都の陶工高
  橋道八(仁阿称)を召し、三本松五輪で種々の焼物を作らせ藩に納めさせた。道八が初
  窯の作品を献上した天保4年(1833)8月10日、頼恕公はこの作品に「讃窯」の銘を与
  えた。以来三本松の窯で焼かれたやきものには「讃窯」の印が入っている。道八自信の
  作は「讃窯」と「道八」と併印になる、銘印について主なものは「讃窯」長亀甲印の大
  中小三種、「讃窯」銘凹印の大小二種。輪郭なしの「讃窯」印、小判形「讃窯」凹印な
  どがある。ほかに「酔茗亭」「仁阿称」「桃山」などの印がある。藩主のお墨付きとな
  った「讃窯」は人気が高まり薄茶々わん一個5両もするようになった。道八が京都へ帰
  ったあと弟子たちが土地の若ものたちにその技術を教えたので「讃窯」は順調に発展し
  た。ところが幕末から斜陽のきざしが見えはじめ明治18年についに三本松にあった窯場
  がつぶれ廃業にいたった。
○ 讃岐人物風景 P170, P171
  讃岐のやきもの  大川町史

―230―

問 讃岐の獅子頭について(香)
答 高松の獅子頭(張子製と一閑張)は作者によって2つの系統がある。
    沢井系のものは大型で威容、大いに凄味があり、赤黒一対で牡牝となっていて普通の
  張子製である。黒い髭は操りによって動くようになっていて玩具としては大掛りのもの
  である。民芸風な味があり、秋のお祭ころにかつがれる。
    岩佐系のものは一閑張で、角ばった型であり色彩も茶を用いている。朱塗仕上げの、
  玩具として精巧なものである。高松の獅子頭としては普通この方が多く知られているよ
  うである。この方は相当他府県へ販路をもっている。
○ 綜合郷土研究 P750  郷土玩具叢話  郷土玩具夜話
  讃岐の郷土玩具 上巻 P50  讃岐郷土玩具考 P21



問 重要文化財十一面観音立像について(綾)
答 この仏像は、高さ176.3センチの内刳りの全くない桧材の一木造りで、頂上に仏面、
  天冠台上に十面の化仏を、正面に如来形立像をいただいている。
    作者は不明であるが、藤原時代初期の作で、すんなりとした姿勢、静かな表情は、
  まことによく調和がとれ、この時代の長所を表現し、すぐれた美しい観音像である。
    もと滝宮龍燈院綾川寺観音堂の本尊として安置されていたが、明治6年西讃暴徒の放
  火により、お寺やお堂は焼失したが、幸いにして本尊は災いを免がれた。時に当院末寺
  堂床観音堂の本尊が盗難紛失していたので、区民の懇請により移譲し、以来区民の厚い
  信仰にまもられて、端正な姿を今日に伝えて来た。
    昭和30年2月2日重要文化財に指定され、同32年に国庫補助も得て、収蔵庫を建てそ
  こに安置されている。
    現在観音像の管理は、綾南町教育委員会がしている。
○ 香川県の文化財 P86  香川県の仏像と神像 P176
  郷土の文化財



問 特別天然記念物 シンパクについて(土)
答 宝生院は、土庄町北山皇踏山の南麓にある寺で、シンパクはその寺の境内の東方の一
  段高い所の広場にある。樹幹は根元での周囲14.5メートル余りあり、地上1メートル
 の高さで分かれて3支幹となり、斜に南と北に向かって伸びている。各支幹は次の様で
 ある。
    支幹の位置   本幹から分岐した高さ   分岐した部位の周囲
    北向のもの   約1メートル	   約7.30メートル
    西側のもの   約0.8メートル       約6.20メートル
    南方のもの   約1.10メートル       約7.80メートル
    幹の基幹は1部空洞になっているが樹勢は旺盛で、枝葉はよく繁茂している。
  葉はことごとく鱗片状をしていて針状葉は認められない。シンパクは中国より伝来した
  樹で盆栽や庭園に植えられているが、野生のものはイブキまたはビヤクシンと呼び、本
  州中部以南の海岸地方に分布している。この樹は応神天皇が当島へ行幸のときお手植に
  なったものだと伝えられている。
○ 土庄町誌 P27  史蹟名勝天然記念物調査報告第1
  香川県の文化財  特別史跡名勝天然記念物図録
    四国―文化財をたずねて



問  玉楮象谷(ルビ たまかじぞうこく)について(香)
答 文化元年(1804)高松藩の刀鞘塗師藤川家に生まれた。藩主の庇護のもと象谷は漆工
  の研究に励み、24歳のとき当時漆工の中心地であった京都に学び、28歳のとき帰郷し、
  そののちキンマ、存清の二法と象谷彫(さぬき彫)を創案した。なかでもキンマはイン
  ドに発生し、中国を経て日本に渡った技法を象谷が純日本的なものに創作したもので、
  今日の讃岐漆芸の基礎をもなすものとして特に有名である。
    象谷の代表作としては、さい角印籠、松が浦香合、堆朱鼓箱、料紙箱ならびに硯箱文
  庫などがある。
    明治2年(1869)64歳でその生涯を終え、高松西宝町の西方寺下万日墓地に葬られた。
  (現在は宮脇町の峰山墓地に改葬されている)
○ 郷土に輝く人々第1集 P1~P20
  讃岐の史話民話 P177~P200 玉楮象谷
  香川県文化財調査報告7  新香川 昭38.2月
  讃岐公論 昭25.6~11月号と昭33.5~昭34.4

問 讃岐の茶室について(香)
答 讃岐は室町時代、江戸時代を通じて茶道の盛んなところで、すぐれた茶室や庭園が多
  く残されている。
    昭和49年、十河信善著の「新讃岐の茶室」には下記の茶室が掲載されている。
    鑑雲亭(屋島)、泛花亭(栗林町)、三昧庵(丸亀町)、養鶴亭(栗林町)、紫翆庵
    (栗林町)、藤陰亭(藤塚町)、無名庵(番町)、雲門庵(扇町)、露結庵(西はぜ
    町)、聴濤庵(玉藻町)、都倉自適斉(前田東町)、雅菖園(郷東町)、清秀亭(塩
    屋町)、花月の間(高松町)日暮亭(栗林町)、掬月亭(栗林町)、高清庵(塩屋
  町)、良久庵(仏生山町)、彩季庵(桜町)、ニ水庵(錦町)、三石庵(天神前)、
  葵山亭(林町)千尋庵(香西西町)、若水亭(桜町)――以上高松市。歓喜庵(津森
  町)、中津茶亭(中津)、延壽庵(通町)梅窓庵(松

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   尾町)――以上丸亀市。竹萌軒(寿町)、如水庵(駒止町)――以上坂出市。山心亭
   (善通寺市生野町)、自適斉(長尾町)楽翆荘(長尾町)、龍門庵(内海町)、豊泉
   亭(土庄町)、清潮庵(土庄町)、随流亭(土庄町)、忘路荘(三木町)、楽庵(三
   木町)、白雲軒(三木町)、孤月(三木町)、弥勒の庭(宇多津町)、硯滴庵(多度
   津町)、起風亭(琴平町)、松月庵(高瀬町)
      このほかに、昭和43年、十河信善著の「讃岐の茶室」や昭和42年、草薙金四郎著の
    「讃岐の茶室」にも多くの茶室が紹介されている。



問 手石場の窯跡について(三)
答 火上山の南麓、高瀬町との境に手石場(ルビ てしば)という部落がある。
    ここにむかし窯を焼いていたという窯跡が残っている。なだらかな山麓の傾斜地で松
  の木が一面にはえている。
    町役場の方で凡そ五段程度の土地に柵を廻らしてある。ここが手石場の窯跡である。
  窯跡とはっきりわかるような形跡は認められないが、たしかに窯跡であったと思われる
  地形である。
    この岡の西麓で高松、善通寺、鳥坂、観音寺から、愛媛県に通ずる国道11号線のす
  ぐそばに同じような形の窯跡がある。
    規模は手石場より遙かに小さいが、同じ時代に造られたものと思われる。
    
    
    
問 富田焼について(香)
答 大川郡富田は良質の製陶原料に恵まれ、天明年間(1781~89)赤松伊助(松山と号
 す)による吉金窯より、最近の田中十三八に至る約190年間、富田焼の名のもとに広く
 知られている。
 1 陶 土 丸山は全山これ陶石であり、道八や理平もこれを用いた。金山にも良質の
             粘土があり、吉金窯・理平焼に用いられた。横井の陶石は斉藤焼に用いら
             れた。
 2 吉金窯 五香屋伊助(志度生まれ)は平賀源内の弟子となり陶法を学び、天明から
             寛政にかけて富田西村の吉金で製陶した。
  3 助三郎 雅号不明であるが庸八の父であり、松山以後の総師的存在。
  4 庸 八 富永姓で楽只軒と号し、後蜂須賀公に招かれて阿波で製陶。
  5 尚 八 岡田姓で通人堂と号した。
  6  斉藤焼 吉金窯の分窯ともいわれ斉藤要助が創窯した。
  7 信五郎焼 富田東村の大山信五郎が楽焼の信五郎焼を製作したが、後、屋島焼を
              興した。
  8 現 在 木村広山(富田焼窯元)と田中十三八による富田焼は富田の印を用い抹茶
              器・煎茶器・花器を製造し、堅質陶器で虫明風のものが多い。

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  9 吉金窯跡(2基)は昭和44年4月3日県指定史跡に指定された。
○ さぬき美工 昭和39年8月号、昭和40年8月号  文化財協会報特別号 7
  陶工庸八  讃岐の陶芸(四国新聞)



問 長町竹石について(香)
答 画家、宝暦7年(1757)正月29日、高松の南新町の薬屋に生まれた。
  名は長徽、通称徳兵衛、竹石の号で画家として知られた。らいらくな人がらで、客を
  愛し、池大雅や凌岱の風格を慕っていた。中国の古画によって画法を研究し、一家をな
  した。とりわけ、山水に秀でていた。
    野呂介石、僧愛石(池大雅の高弟)に竹石を加えて、世に三石といわれた。
    享和3年、藩主頼儀にしたがって、1年あまり江戸にとどまっているあいだに、諸名
  家と交わった。
    その名声は、ひろく江戸でも高まった。酒を愛し、酔えばフクロウの真似をしたり、
  ハトのなき声をしたり、サルの表情をまねたり、コ(#「コ」は底本のママ)ーモラ
  スな一面もあった。微酔で筆をとれば、描くところ、ますます妙、詩をつくれば、酒
  の酔で、これまた妙、しかも愛酒は、長寿につながる妙薬であった。だから世の人た
  ちは、竹石の三徳といっていた。文化3年(1806)8月15日死去、歳50。文化9年7
  回忌法要を、霊源寺でつとめたさい、全国の雅人の書画300があつまったといわれる。
    (新修高松市史Ⅱより抜粋)
○ 新修高松市史Ⅱ P390  雲姻略伝
    讃岐人名辞書 P469  日本画家大辞典
    讃岐人物伝 P782  日本人名大辞典



問 南山焼について(瀬)
答 高瀬町の歓喜院法蓮寺の境内から窯跡が瓦の破片と一緒に発見され、平見、末、手石
  場の山奥或は西下、瓦谷、二ノ宮などに点在する窯跡が見直され、上麻南山で良質の陶
  土と窯跡を陶芸家大森照成氏が発見し、昭和34年に増原に南山窯を築きハワイ大学で永
  年研究完成された各種の釉薬と技法を巧みに調和させて、風雅な南山焼を完成させた。
○ 高瀬町資料集



問 火上山(ルビ ひあげやま)の窯跡について(三)
答 善通寺、高瀬、三野にまたがる火上山は、天霧城に関係する烽火台の遺跡ともいわれ
  ている。三野町はこの山の西麓から平野に広がり、更に七宝山麓にまでのびている。火
  上山の西麓に窯跡が現在9つ程数えられる。南麓の高瀬町平見にも
 
―234―

  窯跡があって、よく 調査すると更に発見されると思うが、今知られている三野町のも
  のについて簡単に書くことにする。
    原上(ルビ はらかみ)窯跡は、国道11号線沿いに原上という小部落があって、出口
  医院の病棟建設の折、ブルトーザーで地均し中に窯が破壊されて陶器の破片が多数出た
 が、現在は整地されてあとかたもない。出口医院裏側から山の方へ登る傾斜面に1か所、
 ここは窯の底部と想像されているが、火気にあった窯の一部と思われるものがあらわれ
 ている。この窯跡は今も見ることができる。この横で山の方へ向って左側にも窯があっ
 たらしく、畑の中に木炭片や陶器の破片が多く見られる。
    手石場(ルビ てしば)窯跡は、下高瀬小字長坂、普通手石場の窯跡といっている。
  陥没したと思われるものが2・3ある。構造等は判明しかねるが、木炭の細片、灰、陶
  器の破片等が散在する。土中に埋まったやゝ大きな破片も時には採取されるので、学生
  が以前は発掘に来たらしい。現在は、有刺鉄線をめぐらし標柱数本をたてて貴重な文化
 財であることを知らせている。それらのうちの1つは、40度位の傾斜面に幅2メートル、
  長さ4メートル、深さ中央部にて70センチ位の凹みがあり、壁面の一部が赤く焼けてい
  る。出土品は、坏、壺、皿などで完全なものはない。割合薄手で蓋のつまみも茸型、宝
  珠型いろいろで他の地方のものに比べて別に特徴をもたない。焼けただれて玻璃状の光
  沢を持った窯壁の部分も時折見ることがある。土器採取のため、ところどころ浅く掘ら
  れているが陥没した窯の内部は荒らされていないようである。手石場窯跡の北の尾根を
  1つ越したところに下高瀬共有林を開墾した所がある。昭和49年1月開墾中、陶器の破
  片が出たが、小学生が丹念に拾ってビニールの肥料袋に入れて下高瀬小学校へ持参して
  いる。大見道免(ルビ どうめん)の桃畑にも窯跡がある。畑の岸に焼けただれた窯跡
  が坏を挟んだまゝ石垣として築かれたものが見える。以上何れの窯も平安時代といわれ
  ている。
    昭和25年7月、三豊中学校教科研究会歴史部が、考古蒐録第二集を出し、手石場の窯
  跡について綿密な見取図、細図、実測説明がなされている以外資料は殆どない。



問 ますえ畑瓦窯跡について(綾)
答 昭和42年8月県教育委員会の発掘調査によって明らかになったもので綾歌郡綾南町北
  山田にある窯跡である。
    窯跡は堅穴掘さくによる半地下式で、焼成室と燃焼室は隔壁によって分離され、3つ
  の分〔エン〕(#「エン」は文字番号 19141)孔によって連絡されており構造的には平
  窯の範疇に入る。しかし焼成室の床面が登り窯式に30度近く傾斜している点と、窯の全
 長6メートル、その内燃焼室は長径2メートル、幅1.6メートルで西洋梨形平面プラ
 ンをもっている。焼成室は全長4メートル幅1.3メートルというきわめて大規模な構造
 であるという点において他に類例を求めることができない。焼成室に入れられている分
  〔エン〕(#「エン」は文字番号 19141)桟道は2条で、焼成室付近での桟道の高さは
  50センチを越えている。そして末端
      ― 235 ―
 に向かうにしたがって次第に高さを減じている。燃焼室と焼成室の隔壁には分〔エン〕
 (#「エン」は文字番号 19141)孔が3つ穿たれている。発見された屋根瓦は平瓦を主
 体として、一部に丸瓦、軒先瓦も含まれている。宝相華文・六葉弁蓮花文瓦などが出土
 しているところから、平安時代に盛期をおく窯であったものと思われる。なお同じ型の
 窯が3基並んでいたが他の2基は調査後埋蔵し保存措置をとった。昭和43年6月4日に
 県指定史跡となった。
○ 香川県の文化財 P251



問 丸亀地方の文化財・遺跡など(丸)
答 丸亀には丸亀城をはじめとして数多くの文化の遺産がある。生駒・山崎・京極氏を通
  じて、ながい間城下町として栄えてきた。こんぴら参詣の上陸地としても有名で、いま
  も昔を偲ばすものが多い。
○ 丸亀の文化財  香川県の文化財  全国遺跡地図(香川県)
  讃岐の史話民話 P343  香川県通史 P69  新修丸亀市史 P557
  讃岐句碑めぐり



問 御厩焼について(香)
答 御厩焼の元祖彦四郎は山田郡元山村の農家徳右衛門の子で亮保3年(1718)に生まれ、
  17歳の頃に尾張国に出て陶法を学び、讃岐に帰って窯を試みたが土質が適せず失敗に終
  った。
    彦四郎は国内各地の土質を研究してまわったが、遂に御厩の津内山の麓に適当な陶土
  を発見し、ここに居を定めて焼物を完成した。これを御厩焼といい、現在も続いている。
    彦四郎は廉価で実用的な焼物を作ることを念願したが、そのため需要は次第に増加し、
  現在の盛況をもたらしたものである。
    現在は火鉢、コンロ、植木鉢といった雑器に類するものを多くの窯元が競争して焼い
  ている。然し時代の要求は移りかわり、御厩焼も製品の転換を迫られており、各窯元と
 もその研究に直面している。
    元祖彦四郎は寛政9年(1797)に没したが、その碑文は御厩の津内山墓地にのこされ
  ている。
○ さぬき美工 昭和39年7月号、8月号  新修高松市史1 P666
    讃岐人名辞書 P933  月刊香川 1969年9月号
    讃岐陶磁器史稿  香川県陶磁器史

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問 松平家のお庭焼理兵衛焼について(香)
答 江戸時代の諸藩主の中には、御用窯を持ったものが少なくなかったが高松藩は藩祖頼
  重の理兵衛焼と9代頼恕の讃窯の二つがあった。
    理兵衛焼の元祖は森島作兵衛重利(粟田口作兵衛・紀太理兵衛)で、その作品は仁清
  焼・古清水焼とならんで美しさが注目されている。
○ 理兵衛焼考―讃岐のお庭焼き  理平焼き―新香川 昭和39.3
    新修 高松市史Ⅱ  P623~  高松藩祖松平頼重公
    讃岐の陶芸  讃岐陶器の研究  讃岐陶磁器史稿
    香川県陶磁器史  陶説 昭和41.3―平賀源内作陶のみかた