工学 (25K)

入力に使用した資料
底本の書名    讃岐ものしり事典(p181~190)
 底本の編者    香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     坂東直子
校正者名     磯崎洋子
入力に関する注記 
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。
    JISコード第1・2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は旧字)
    と表記した。

登録日      2003年3月20日
      

-工学-

問 大坂城用残石(「大坂城用残石」は太字)について(内)
答 大坂城用残石群(岩谷)昭和47年3月16日 史跡指定
 通称、天狗岩、南谷、豆腐石、八人石、亀崎丁場、及びそれらに附属する磯丁場からなる。
 大阪冬・夏の陣によって徹底的に破壊された大坂城の城壁は、徳川二代将軍秀忠、同三代家光
 によって元和6年(1620)から寛永6年(1629)にかけて前後3回修築されたが、この小豆島草加
 部村の枝郷岩谷の各丁場は、第一期工事には、筑前福岡城主、黒田筑前守長政の受持丁場とな
 り、第二・三期は、その子右衛門佐忠之が採石にあたったことが笠井文書により明らかである
 。
 そして、当時採石ののち積み残された一群が、これである。それ以後も黒田家は番人を派遣
 し、また岩石、年寄長町与左衛門にも依頼して、永く残石群の管理をしていた。
 文久3年(1863)草加部村庄屋、年寄以下が倉敷代官所に提出した(御用石員数尺改帳)石改めで
 これらの丁場跡には「角取石」「そげ石」あわせて654個の残石を数えている。
  8月、その一部が今津御台場の用石として切り出され、現在、これらの丁場跡には、おそよ40
 0個足らずの巨石(石質はすべて花崗岩)が残っている。なお、黒田家派遣の番人七兵衛が住
 居した同地の屋敷跡も残石が国指定になる以前の県指定昭和45年4月28日「番屋七兵衛屋敷跡
 」として同時に県指定をうけた。
 大阪城築城用残石(福田)昭和48年3月 町指定
○ 内海町史 P378  史跡、大阪城石垣石切丁場跡保存管理計画報告書

問 小比賀家住宅(「小比賀家住宅」は太字)について(香)
答 小比賀家住宅は主家、牛門、土蔵、米蔵、土塀など数棟が、昭和46年6月1日重要文化財の
 指定を受けた。同家は元武田信玄の一族で、元和年代(1651~23)現在の高松市御厩(ルビ み
 まや)に居を構え小比賀家と称した。以後家系連綿として当主は第15代になる。幕政時代大政所、
 大庄屋の役職を務めた家柄である。昭和21年の南海地震で破損をしたので大修理をして昭和52年
 に竣工した。なお、同家築山庭園は昭和46年4月30日、県指定名勝に指定された。
○ 小比賀家住宅修理工事報告書

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問 救命銃(「救命銃」は太字)について(土)
答 遭難者を救助するために使用する銃であるところからこう呼ばれているのであろう。昭和12
 年、帝国水難救済会から土庄町の水難救助団体に交付されていた。遭難船等の救助活動に当た
 って、救助側から目的地点に網を張ろうとする時、先ず砲弾形のオモリに細網を結んで救命銃
 から発射する射程は50メートル前後である。
  現在ではほぼ同様の機能を持ったものが救命発射銃と呼ばれて消防署等に設置されている。
○ 小豆島小江の若者組  小豆島消防署

問 五色台(「五色台)は太字)(白峯)の建造物(「建造物」は太字)について(坂)
答 (1)白峯御陵
  坂出市青海町白峯山の稚児嶽百尺崖岩の所に所在する、人皇第75代崇徳天皇の御陵である。白
 峯山即ち五色台が歴史上に輝いているのは、そこに白峯御陵が存する故である。保元の乱の結
 果讃岐に遷御された崇徳上皇(讃岐院、後崇徳院)は、松山の館及び鼓岡行在所に配所の月を
 眺め、常に都を慕われてすごした9年も空しく長寛2年(1164)8月26日崩御され、白峯山に御
 陵を営まれた。
 (2)白峯陵石塔
  陵の玉垣より外に2基の五輪塔がある。これを世に文治年間、源頼朝が崇徳院に仕えた為義、
 為朝の供養のために奉納したものと伝えられている。陵前方のものは、宮内庁詰所北方にあっ
 て、容姿木造に似て古式を保ち、鎌倉時代初期のものである。陵前南方のものは、頓証寺から
 御陵に至る道路の右方(東側)下段にあって、その様式は鎌倉中期のものと考えられている。
 何れも年期銘がないので、考古学的見地に立って推測する他ないものである。
 (3)白峯寺
  坂出市青海町白峯山中腹にある。真言宗御室派の別格本山、綾松山洞林院又は、千手院と号し
 、
 四国霊場第81番の札所である。平安時代に弘法、智証両大師が真言宗の道場として創建した
 古寺である。本尊は智証大師円珍作の千手観音菩薩である。旧寺領60石、後120石を受けたと
 いわれている。
 (4)白峯寺十三重石塔
  この塔は、西遊園地から白峯総門に至る道路の中間の南路傍に2基が東西に並んで建っている
 。
 東の塔は総高5.6メートルの花崗岩製、初重軸部の四方に金剛界四仏の種子を刻んだ大日如
 来三昧耶形をあらわした通例のもので、左側面の梵字ウーンの左横に「弘安元年戊寅(1278)□
 」の刻銘があり、上面に穴を掘り納骨されていることから供養塔として建てられたと考えられ
 る。西の塔は総高5.53メートル、角礫凝灰岩製で各層は東塔と同じであるが、基壇は板石を組
 合せた箱形で、基礎から七重目までは内部が空洞で初重軸部の正面には扉を付けたと思われ

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 る穴があり、正面右側に「大願主□(#□は2文字分)」左側に「元亨四(1324)□(#□は2
 文字分)」の刻面がある。他の三面には不動三尊の種子が刻まれた特異な様式で信仰的造塔と
 考えられている。両塔とも形体工法によく鎌倉時代の様式を現わした県下の石塔中の優品であ
 る。昭和29年9月17日重要文化財に指定されている。
 (5)頓証寺殿
  この寺殿は、鎌倉時代初期、崇徳上皇が讃岐で崩御され、御遺詔によって、白峯に御陵が営ま
 れて、後の建久2年(1191)上皇の菩提を弔い、御霊を慰めるため、遠江阿闇梨章実が、鼓岡の
 行宮を請い得て御陵の傍に移した仏堂で、崇徳天皇の御廟所である。御宸筆の御影を奉安して
 頓証菩提を弔ったのでこの御廟を頓証寺殿という。応永年中に後小松上皇御宸筆の「頓証寺」
 の〔ヘン〕額(#「ヘン」は文字番号11724)が寄進された。これより御廟を頓証寺殿といい
 、
 勅額をかかげた門を勅額門と称されている。この頓証寺殿宇の構造は紫宸殿に擬して庭前に
 左近の桜、右近の橘が植えられている。現在の建物は延宝8年に高松藩主が造営したものであ
 る。
 (6)勅額門・木造頓証寺勅額
  応永21年(1414)将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇宸筆の「頓証寺」の三字を彫出した
 〔ヘン〕額(#「ヘン」は文字番号11724)が奉納された。この額は縦96.5センチ、横63セン
 チの板の周囲に繰り形のある縁を斜外に向けてつけたものである。この額が寺門にかかげられ
 たので、この門を勅額門と呼び左右の随神は源為義、為朝の武装像である。この勅額一面は、
 明治34年3月27日重要文化財に指定されている。
 (7)七棟門
  高麗門形式の門の左右に2棟の塀をつらねた珍しい門で、その棟数合せて7棟、左右から段々
 に積み上げられた屋根の形は面白く、白峯名物の一つである。
 享保3年(1803)に再建されたものである。
 (8)頓証寺石燈籠
  頓証寺の左側を北に進むと、相模坊社登りの石段の左横に高さ1.91メートルの風化の甚しい石
 燈籠が一基ある。文永4年(1267)の刻銘のあるもので、鎌倉中期の様式をよく残していて、本
 県最古の石燈籠で早くから頓証寺型燈籠として知られている。源頼朝が御陵に奉納したものと
 いう。
 (9)西行法師石像
  仁安の頃、讃岐に渡った西行法師は王越みお坂の林にしばらく留まり、仁安3年(1168)神無月
 (10月)崇徳院の御陵に詣でた。御陵前に座した西行は、讃経廻向の上「よしや君むかしの玉
 の床とても かからんのちはなにかはせん」と歌を奉った。西行像は後人がこれをしのんで西
 行腰掛石と伝わる石上に安置したものである。
 (10)金 堂(薬師堂)
  折衷様重層のこのお堂は、薬師如来を祭ってあるので薬師堂とも呼ばれている。
 天和元年(1681)に高松藩主松平頼常公が再建した。正面須弥壇には、弘法大師作と伝える薬
 師如来座像を中心に、日光月光菩薩、十二神将を祭り、又、往古

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 の東西両塔に祭られていた。金剛界大日如来、胎蔵界大日如来(雲慶作と伝う)が合祠されて
 いる。
 (11)行者堂
  安永8年(1779)藩主松平頼真公が再建したお堂で、本尊は、役の小角の自作木像を祀り、雲慶
 作と伝えられる閻魔王など十王をはじめ、伽羅陀山地蔵尊(堪慶作と伝えられる)が合祀され
 ている。行者先達等が、入峰の時には先ずこのお堂に参拝している。
 (12)千体阿弥陀堂
  宝形造りの当堂は、永正7年(1510)に創建された。延宝8年(1680)に藩主の修理した白峯寺堂
 塔中最古のお堂である。本尊の阿弥陀如来は、体内に初代藩主松平頼重公の御髪を収め、白毫
 は2代頼常公の御歯をもって造ったと伝えられているもので、観音勢至の両脇士と共に一木造
 阿弥陀小像1000体に囲まれて祭られている。この尊像に藩主より10石が寄進されたといわれて
 いる。江戸初期の阿弥陀堂として、県文化財に指定されている。
 (13)大師堂
  宝形造りのこの御堂は、弘法大師尊像を祭ってあるので、大師堂と呼ばれている。文化8年
 (1811)8代藩主松平頼儀公が再建したものである。
 (14)下乗石(摩尼輪塔)
  白峯寺への東、西、南の参道に各1基あて計3基ある。笠塔婆の一種で、正面に摩尼宝珠を形
 どった大円相(月輪)がついているのでこの名がある。東参道のものは完全であるが西、南参
 道のものは破損が甚しい。東のものは、白峯寺から根香寺へ向う約300メートルの猪の谷にあ
 る。基壇上に方33センチの方柱状の塔身があり、前面下方に「下乗」と彫り付け中央に金剛界
 大日如来の種子を刻んだ円板状の月輪を入れ、上に笠石と宝珠を乗せている。塔身に「願主元
 応三□(#□は2文字分)二月十八日」(1321)左側に「願主金剛仏子宗明敬白」と刻んでいる
 。
 形も全国的に珍しく古いもので、昭和36年6月6日に県指定有形文化財になっている。
 (15)層 塔
  頓証寺の勅願門を入って直ぐ右の上段に在る。各層は不揃いであるが、様式上判断して、室町
 時代のものと思われている。
 (16)勧請塚
  本堂の北方にあって、石を積み重ねた壇状とし、お経を埋めた経塚であろうといわれている。
 (17)〔ユ〕祇(ルビ ゆぎ)塔(#「ユ」は文字番号21129)
  白峯寺の班祇塔は、真言宗所依の経典を納め、国土安泰宗旨の興隆を祈るため、文政12年
 (1829)に建立された県下で稀有の塔である。
 (18)五重石塔
  白峯寺洞林院客殿の中庭にある。形式上は室町時代のものといわれている。塔身部が六角形の
 石柱で珍しいもので、六面部にはそれぞれ刻字があり、上半部は

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 梵字で下半部は文字である。おそらく真言を刻みつけたものであるといわれている。
 (19)西寺宝篋(ルビ ほうきょう)印塔
  宝篋印陀羅尼を納める塔で、一切如来の全身舎利を安置している。初め供養塔として建てられ
 たが、後墓塔として建立された。この西寺は白峯寺西の入口で、昔は大門などが建っていた。
 (白峯古図)この参道に沿って多くの石塔が立っていたことが「塔の峰」とこの山腹が呼ばれ
 ていることから知れる。西寺の宝篋印塔はその一つで、形や古式を残し、室町期のものと思わ
 れる。傍の宮武塔は混合した江戸後期のものといわれている。
 (20)根香寺(青峯山千手院根香寺)
  讃岐の天台宗四箇寺の一つで、四国霊場第82番札所である。本尊は、千手観世音、平安時代に
 山岳仏教の思想により弘法、智証両大師により建立されたと伝えられている。本尊は県下には
 珍しくサクラ材をもって造られ像高165センチ、重厚な平安中期の作風をみせ、昭和30年2月
 2日重要文化財に指定されている。
○ 五色台、崇徳院と讃岐、香川県の文化財、四国八十八箇所、讃州府誌、香川県通史、百科大
 事典、新修香川県史、坂出市勢見学のしおり
 新香川(昭34年3月~12月)、グランド百科大事典8巻、万有百科大事典、聖跡案内 保元物
 語 平家物語 源平盛衰記 山家集 撰集抄 松山天狗 椿説弓張月 雨月物語

問 琴平の鞘橋(ルビ さやばし)(「琴平の鞘橋」は太字)について(香)
答 阿波街道の琴平口にあるこの橋は、御神事場の北端を流れる潮川(金倉川)に架けられ、桁
 行23.87メートル(78尺)、高さ4.18メートル(13尺8寸)、梁間4.55メートル(15尺)、屋根
 の広さ69坪8合の規模をもつ大そり橋である。
 “上を覆ふ屋形の鞘におさまれる御代の刀のようなそりはし”という狂歌を、十返舎一九が金毘
 羅道中膝栗毛の中に記している。古くから「橋廊複道」「複道彩虹」などといわれ、他所に例を
 見ない面白い構造で、この橋の景趣は広く喧伝されてきた。
  橋廊複道-屋根のある橋、婉曲した結構、世に浮橋ともいわれ、橋杭のない奇橋、まさに天下
 一品というべきである。
  “これやこの天の浮橋うへしこそ我大神の渡りましぬれ” 久米幹文
  全国に例をとれば、宇佐の呉橋に似てはいるが構造はさほど相似してはいない。
  複道彩虹-虹は一入の趣致を添えて古来多くの詩歌に詠われ、画にもされている。
  鞘橋納涼も名高く、琴平市街の内町と新町とをつなぎ、明治以前は橋上に鮮魚、青物類の出し
 店、その他小道具等の店があって賑い、甘酒等の出し店もあった。
  “売り物のねにいふさやは橋の名につけて真心見世の賑” 絵馬丸

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  この橋の創建年代は不詳であるが、元禄時代既に熊谷立閑の詩の中にあるので、それ以前のも
 のと思われる。
  判明するものからこの橋の変遷を記すと、
1.寛永元甲子年宥睨法印山麓の橋を造り後廊となす。
2.明和8年幸辰8月20日洪水の為流失。
3.安政4乙未年11月高松住人豊原屋平右衛門、榎井村住人柏屋甚右衛門、願人と相成再造寄附募
 集の許可を得て専ら其の準備に着手す。
4.天明2壬寅年9月全く成功す。
5.慶応2丙寅年8月3日より大雨にて同7日昼八ツ時(午後2時)洪水となり、同夜九ツ時(午
 後12時)再び流失。
6.明治2己巳年2月6日起工。
7.明治2己巳年5月9日終功す。阿州橋講中(麻植郡の人等)寄進。
8.明治37年11月現在の場所に移転。
9.昭和32年修築。
となっている。
 鞘橋は、内町から新町へ架けられ、現在の一の橋の場所にあった。金刀比羅宮宝物屏風、大祭
 頭人之図、狩野休円清信の作品の中に、当時は橋柱があって、ここで参詣者が水流に浴み斎戒
 している図がある。橋上常に市をなしたこの橋は、現在は全くの神橋として祭儀のほかは使用
 しない。
○ こんぴら物語 P96、97  琴平町史 P29、30、144、197
  金刀比羅宮の文化財  金刀比羅宮風光図絵 上巻(19)
  私の金刀比羅案内 P69  金刀比羅宮記 P89、90
  金刀比羅物語 P18、25  今昔こんぴら参詣

問 坂出の上水道(「坂出の上水道」は太字)について(坂)
答 坂出の市街は廃止塩田の上に作られたので、地下水の塩分が高く、長年の間、水不足に悩ん
 できた。笠山西麓のビリケの井戸、田尾坂南方の田尾井戸などの良水を市内に販売する水売り
 の現象が見られた。
  大正7年大束川の流れを鎌田池にみちびき上水道水源とするため、水道調査委員会がもうけら
 れたが、この池はかんがい用ため池なので関係町村の同意を得ることが出来ず、この計画は一時
 中止になった。
  その後、昭和7年にいたり、関係町村の同意を得ることが出来て、工事は昭和10年に完成した。
 貯水池に引水する取水量は年間356,230立方メートル、配水量は324 240立方メートルで給水戸
 数は716戸であった。
  54年度実績は取水量9,040,769立方メートルで、その内訳は鴨川浄水場1,553,846立方メートル、
 香川用水受水量7,486,923立方メートルである。配水量は9,038,486立方メートル、給水戸数20,3
 67戸、1日の配水能力は50,000立方メートル

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 である。
○ 坂出市の基礎研究 地理学研究第17号 P53
  坂出市水道局概要  坂出町水道史

問 坂出市人工土地(「坂出市人工土地」は太字)について(香)
答 地方都市の中心部にある不良住宅地区の改良と、その周辺にある商店街の環境整備を目的と
 した再開発計画にもとづいて施工されたものである。工期は昭和41年11月から47年3月までの
 5年4か月を要し、坂出市の中央部に、面積約9000平方メートルの地に、高さ5.3メートル
 の鉄筋コンクリートの人工地延6,781平方メートルをつくり、こゝに139戸分のアパートを建設
 し、その下の、自然の土地の上には商店、駐車場、倉庫などがつくられた。
○ 現代日本建築家全集18 P114
  香川の建築  坂出要覧  香川県の歴史 P272

問 紫雲丸事件(「紫雲丸事件」は太字)について(香)
答 昭和30年5月11日。宇高連絡船上り便、紫雲丸(1,500トン)と、下り便貨車航送船第三宇高
 丸(1,200トン)とが、午前6時55分ごろ、高松市沖合、女木島西南方約1,500メートルの海上
 で濃霧のため、たがいに進路をあやまり衝突、紫雲丸は右舷に大穴があいて浸水、横倒しと
 なり、約5分後に沈没した。
 乗船客946名(船員66名、船客880名)のうち、救助されたもの775名、残り171名(船員2名)
 の死者をだした。とりわけ、この死者のうちに修学旅行の中学生、小学生が107名あって、近来
 の大惨事を起こした。
○ 高松市史年表 P652  新修高松市史1 P590  香川県警察史 P371
  紫雲丸遭難追悼集  朝日新聞縮刷版 昭和30年5月11日(夕刊) 毎日新聞縮刷版 昭和
 30年5月11日(夕刊) 四国新聞 昭和30年5月11日(夕刊) 週刊朝日 昭和30年5月22日
 号 サンデー毎日 昭和30年5月22日号

問 瀬戸内海の公害(「瀬戸内海の公害」は太字)について(香)
答 大気の汚染、水の汚染とは何か、それは何を引き起こすか、また、瀬戸内海は「青い海」に
 よみがえるかなどしばしば新聞紙上をにぎわした。過去と現在・将来を比較する資料は問題の
 割に少ない。瀬戸内海の公害の概要を発表した資料には次のようなものがある。
○ 瀬戸内からの報告  中国新聞社 47年8月
  公害にいどむ瀬戸内住民  日本科学者会議瀬戸内委員会 47年11月
  よみがえれ“青い海”  日本経済新聞社 47年12月

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  瀬戸内海汚染  岩波書店(岩波新書842) 47年12月
※ 若干、専門的とみられる資料には
 瀬戸内海海域の汚染負荷解析
 瀬戸内海海域汚染の現状解析と今後の課題
 (#上記2資料を}でくくったのち)
 中国地方経済連合会
 瀬戸内海利用開発会議
 汚染専門委員会
 (#上記名称が右に記されている)
 瀬戸内海に救いはあるか 雑誌「世界」47年10月号
 公害と日本の科学(4号)  日本科学者会議 47年6月
 実態調査からみた瀬戸内海の現状と政策方針 日本社会党本部 47年9月
 昭和46年度大気汚染・水質汚濁調査結果 香川県
 香川の公害行政の概要 香川県企画部公害対策室 47年~49年
 香川県環境白書 昭和50~55年度
 瀬戸内海の油汚染
 瀬戸内海環境改善の基礎的研究総合報告書
 水質測定計画
 ※ 新聞の切り抜きには
 生きよ瀬戸内海 山陽新聞 50年2月5日~12月24日
 黒い潮 四国新聞 50年1月7日~21日
 瀬戸内を生きた海に 社会新報 47年8月6日~9月6日

問 高松市の上水道(「高松市の上水道」は太字)について(高)
答 高松藩初代藩主松平頼重は、入封まもない正保元年(1644)に飲料水にとぼしく困っている城
 下の住人のために上水道施設をつくらせた。石清尾山の自然の伏流水と霊源寺池(栗林荘の北-
 今の栗林公園の北)などの水を大井戸(西瓦町)に導き、ここから配水用の木樋、竹樋、土管、
 ハコマスなどで配水した。のちに新井戸(北亀井町)からも同じように配水したが水不足はつづ
 いた。この上水道施設は、江戸の玉川上水より9年も早く設けられていた。
 近代的な上水道は、大正3年の末に工事にかかり大正10年11月3日完成、通水式をおこなった
 。工事費1,446,117円。香東川の水を水源として西方寺山の配水池へ揚水、市内に配水した。
○ 新修高松市史Ⅱ P605と Ⅲ P445  地理学研究16
  高松市上水道のあゆみ  高松市に於ける藩政時代水道に就ての考察

問 高見島の家並み(「高見島の家並み」は太字)について(多)
答 江戸時代以来(18世紀末~19世紀初)の伝統的様式を受け継ぎながら、すぐれた環境を作りあ
 げてきた集落で中でも高見島浦部落28戸は周囲の環境と一体となって歴史的風致を形成してい
 る建造物群で、中央学界の注目するところとなり重要な文化遺産として文化庁に認められよう
 としている。

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 17世紀末計画的に宅地割され、造成された計画集落とみられ、それも藩主やある特定の人物に
 よるものではなく、島民(人民)自身の手によって自主的に開発されたと考えられる所に意義
 がある。
○ 高見島  伝統的建造物群調査報告書(1977)

問 香川県の電灯の歴史(「香川県の電灯の歴史」は太字)について(香)
答 日本の電気事業の創始は、明治16年東京電灯株式会社が事業設立を許可を得て19年営業開始
 で、高松電灯創立当時、既に全国で25社があったが四国では第1番であった。
  高松電灯株式会社は、明治25年頃より計画され、発起人牛窪求馬氏は旧藩主松平頼寿伯の後援
 のもとに資本金5万円で創立され当局の許可を得たが、日清戦争による財界の影響で建設は思
 うにまかせず、28年11月3日の天長節を期して、電灯供給を開始した。初めの供給区域は、高
 松市街地だけで、需要家数は294戸、終夜灯と半夜灯とを合わせて657灯であった。半夜灯とは
 毎晩12時になると、電灯会社でスイッチを切るもので、終夜灯は朝までつきっ放しのもの。
  料金は、米1升8銭の当時で、電灯は10燭光で月1円50銭という高いものであった。同社は昭
 和5年6月29日四国水力電気に合併吸収された。
  明治30年4月には西讃電気株式会社が創立され、36年3月15日から丸亀、多度津に電灯供給を
 行った。当初は終夜灯と半夜灯を合わせて483灯で、同社は開業に先立って社名を「讃岐電気
 」に改め、43年12月に「四国水力電気(四水)」と改称した。昭和16年8月の戦時下の配電統
 制令によって、翌17年3月31日には解散し、電力は四国配電に、電鉄は讃岐電鉄に、ガスは讃
 岐ガスに分割委譲された。
○ 四国電気事業沿革史 P84~  さぬき、あらかると P140~
  高松の事始め P61~  讃岐の国から香川県へ その10
  新修高松市史 P505~  四水30年史  四国配電10年史
  四国電力10年のあゆみ P308  勝地讃岐と其産業陣営 P5
  明治100年にちなんで郷土百話 P19  香川県の歴史 P233
  讃岐文化の展望

問 四国水力電気K.K.の生いたち(「四国水力電気K.K.の生いたち」は太字)について(多)
答 明治31年4月、西讃電灯株式会社が金蔵寺に設立され、同36年3月初めて多度津で試点灯に
 成功した。次いで丸亀、善通寺に点灯、当時の発電能力60KW。燈数483個といわれた。その
 後、讃岐電燈、同43年四国水力電気K.K.と改称。徳島に水力発電を起し、辻町水力を合し、
 大正2年12月本社を当町桜川畔に新築、同6年9月当町堀江に水力発電第1期工事に着手、続
 いて2.3期と増築し、県下のエネルギーの供給源として威力を示した。戦時中、国策により
 、日発 四国配

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 電となり、ついで現在の四国電力となり、本社は高松へ移転し、元の建物は同35年4月一切を
 取り壊した。(現在電報電話局のところ)
 また、多度津発電所も、時代の推移により施設の老朽化、その他の関係で同39年これを閉鎖した。
 なお、四水発祥の地を記念して明治の初期から、香川県の近代化に一石を投じ、地方産業の発
 展に偉大な功績を残した元社長、景山甚右衛門翁の胸像が発祥地碑とともに現在の四国電力株
 式会社多度津営業所まえに併設され、翁の遺徳を称えている。
○ グラフたどつ

問 表誠館(「表誠館」は太字)について(高)
答 表誠館は香川県教育会(会長松平頼寿)が明治50年11月3日の佳節に落成式をあげるために
 、明治44年の秋に財源の確保や建物の概要を立案した。しかし明治天皇の死去により、目的を
 先帝の聖徳を記念して建築することに改めた。経費は大正3年に高松市会が5千円の支出を決
 めた。会長松平頼寿から1万円、県下の教職員の寄附もあって、大正6年11月3日、予定どお
 り落成した。
  本館は木造2階建て、洋風建築で1階は男子図書閲覧室、婦人図書閲覧室、新聞縦覧室、児童
 図書閲覧室、事務室などが設けられた。延べ面積1,288平方メートル 敷地は天神前の旧鶴林
 寺境内734坪余があてられた。
 昭和9年3月31日、図書館を県に移管した。(移管当時の蔵書冊数約8万冊)
○ 讃岐 香川県教育会 P6~P10
  高松の事始め P122~P124

問 臨海工業地丸亀市昭和町(「臨海工業地丸亀市昭和町」は太字)について(丸)
答 丸亀が公害のない工業都市をめざして、土地造成が考えられ、それと同時に港の船舶整備の
 ために浚渫工事も行われた。その土砂を利用して埋立をおし進めた。
  第1期 竣工 昭42.3.31 面積468,755平方メートル
      東洋テックス他16社などに売却
  第2期 竣工 昭47.12.  面積599,887平方メートル
      今治造船、東洋テックスなどに売却
  第3期 竣工 昭49.3.  面積約850,000平方メートル
      共永興業他8社などに売却
  第4期 竣工 昭50.3.  面積約840,000平方メートル
  町名は、将来の土地造成も考慮して一般から公募した。
 それにより「昭和町」と決った。
 公募による町名も決まり産業道路も完成し税収入増加、労働人口の確保が前

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進する丸亀の夜明けを表わしている。
○ 69まるがめ市制70年のあゆみ  香川年鑑69
  中讃地区広域市町圏計画  丸亀市開発基本計画資料1~4号