民俗 (56K)

入力に使用した資料
底本の書名   讃岐ものしり事典(p147~172)
 底本の編者   香川県図書館協会
 底本の発行所  香川県図書館協会
 底本の発行日  昭和57年4月1日
入力者名    坂東 直子
校正者名    平松 伝造
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2002年10月9日
      

- 民 俗 -


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問 庵治町の俚謡「〔ナ〕須与一(#「ナ」は文字番号39305)」(「〔ナ〕須与一」は太字)を知りたい(香)
答 「〔ナ〕須与一宗高」
  〔ナ〕須の与一のほまれの次第
  なりは兵にて御座候えど
  つもる御年十九歳にて
  扇相手に高名たてる
  四国讃州屋島の磯で
  源氏平家のいくさのさなか
  平家方より押し来る船に

  的に扇を立てさせてれば
  あれを射落す者あるなれば
  手がら者じゃとほうびをとらす
  そこで与一は御前に出でて
  かしこまいたとお受けをいたす
  与一その日のいで装束は
  かちんあかしの鎧を召して

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  弓は日月きりふの矢にて
  黒き名馬にゆらりと乗りて
  すわ松原より波打際に
  しんずしんずと歩ませければ
  風は激しく波高くして
  的のねらいも定らずして

  そこで与一はりよ願をこめる
  南無や八幡〔ナ〕須明神(#「ナ」は文字番号39305)と
  引いて放てば扇の的の
  かなめどこをばぐんずと射抜く
  そこで平家は船ばたたたく
  そこで源氏は打ちよろこびぬ
○ 庵治の祭と民謡 P48(3)

問 秋祭りとダカ(「秋祭りとダカ」は太字)について(善)
答 讃岐の秋の村祭にみこし行列の先頭を行き、人気をあつめるダカの性格や行動には、
不思議な面白さが漂っている。ダカの原型はもちろんテングであろう。
 元来、わが国によう怪変げが少ないのは、日本民族の想像力がこの方面に案外弱い
ということにもなる。文学上にもすばらしい構想に富んだ化けものや、よう怪はまず少なく、
ほとんどは中国やインドからの舶来ものか、そのイミテーションが多い。その中でテングだけ
は日本民族の考えだした大傑作だと、その道の学者はいっている。
 「テングは日本人の独創ではない。中国の「史記」「山海経」などにもそれらしいものが
出ているし、仏典中にある天魔の思想を造型化すればテングになるのではないか」と、一部
の人たちはいうが、日本で最初にテングの文字が現われたのは「日本書記」の舒明天皇9年
(637)の条からである。
 「ときに大星、東より西に流れた。音は雷のごとくである。上下うち震えたが「まあ待て」
と、諸衆の騒ぎをおさえたのが僧旻という学僧。おごそかにこう解説した。---あれは
テングというものじゃ」とある。
 「日本書記」にはテングに「アマツクツネ」と振り仮名をつけている。「クツネ」はつまり
キツネ(霊狐)である。なるほど獣類に例をとれば、キツネに近い顔だろう。あとになって
顔が赤く、鼻の高い例の鼻高テング(略してダカ)ができあがったが、カラステング、
シバテングはキツネそっくりである。
 「水の精霊がカッパで、山の精霊がテング、祭の山の神の先頭を切るのは、カッパではダメ
どうしてもテングということになる。原型は鳥か、獣か、空かける神人か、キツネかは判らな
いが、赤顔鼻高で、羽ウチワを持ち、マサカリをかつぎ、兜巾(ルビ ときん)を顔にいただ
き、鈴懸衣(いまはボロの法衣姿になったが)ダカの姿がひとまずまとまったのは室町末期の
画家、狩野元信の筆からであるという。
○ 讃岐風土記(第1巻) P54~P55

問 雨乞い踊(「雨乞い踊」は太字)について(香)
答 地方によって多少の相違はあるが、太鼓を雷鳴に、ささらを蛙の鳴声になぞら

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え、踊子の笠から下る四垂(ルビ しで)を雨にたとえて、やがて本物の雨を見ようという感染
呪術である。本県の無形文化財に指定されているものには綾子踊と弥与苗踊がある。
前者は仲多度郡仲南町大字佐文に伝わるもので、笛、太鼓、小鼓、かね、貝など
を伴奏楽器として用い、龍王社又は氏神の加茂社の広前で行なわれる。踊は水おどり、四国、
綾子、小鼓、花籠、鳥籠、たまさか、六調子、京きぬ、塩飽舟しのび、かえりおどりの十二段
からなっており、踊の表現形式は念仏踊と類似している。後者は三豊郡財田町宮坂の
鉾八幡神社に奉納されるもので、雨乞いの際は四隅にしめなわを張り、踊子はみの笠姿で手に
団扇を持って一曲を三回繰り返して六曲(一庭(ルビ は))を雨の降るまで踊り続けた。
 このほかに雨乞いの民謡として伝わるものに三豊郡豊浜町の雨乞いの土謡と、大野原の
「あたご詣りて…」で始まる雨乞いおどりがある。
 なお念仏踊が雨乞い踊に転用されることが多々あった。例えば滝宮のそれが雨乞いに転用
される際、午前6時から日暮れまで三十三庭(ルビ は)の踊を舞ったと伝えられている。
しかし雨乞い踊と念仏踊は本来異質のものであった。
○ 平凡社 音楽事典1 P40  讃岐公論 昭37年2月号
  農業香川 昭32年2月号と4月号  香川県指定の文化財とその解説P43P46
  香川県文化財調査報告5 P43  讃岐の史話民話 P521
  三豊郡史 P231  仲多度郡史 P1146  新香川 昭33年10月号
  大野原町誌 P589  民謡のふるさと(服部龍太郎) P234P235
  さぬき盆踊り雑記(四国夕刊)  綾子踊りについて(四国新聞)
  「讃岐の雨乞い踊」調査報告書

問 いただきさん(「いただきさん」は太字)について(香)
答 「ごようはな……」と魚を入れたハンボ(桶)を頭にのせ町々を売り歩いた女の魚行商人
を「いただきさん」と呼んだ。この「いただきさん」は漁港、西浜の漁師の妻や娘さんがその
日の海幸を持って町へ出て来ていたのだ。現在では手押し車や自転車などにかわり、本来の
「いただきさん」の姿は見られなくなった。町には店舗をかまえた魚屋、又男の行商人もいた
が「いただきさん」の魚はその親、夫、兄が釣りあげたものをすぐ消費者に渡す役割を果たし
ていたので、いつもピチピチとはねている魚の新鮮さが買われ値段も卸し値に近かった。どの
「いただきさん」も常得意をもっていて町中をあてもなく歩き回るような事はなく大体の行く
先は決まっていたようだ。しかし彼女等の大体の行く先は番町あたりの邸町が多かったようで
ある。
○ 高松今昔記 P184

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問 一合まいた(「一合まいた」は太字)について(香)
答    ハァー
     一合まいた籾の種 その桝あり高は
                   コリャセ
     一石一斗一升一合と一勺
         ハ ヨオホイ ヨオホイ
                  ヨーイヤナ(セ)
     ハァー
     二合まいた籾の種 その桝あり高は
                   コリャセ
     二石二斗二升二合と二勺
         ハ ヨオホイ ヨオホイ
                  ヨーイヤナ(セ)
                  (以下九合まで)
 この歌は讃岐独自の盆踊唄で、「讃岐節」ともいわれ、西讃の一部を除く讃岐一円で唄われ
、現在もこの地方の人たちに親しまれ、愛好されている。
 農村の豊年祝いとして沢山の人が集まり、一夜の歓を尽くすので歌の内容は種々あるが、
主に耕作の労苦をのべたものであり、歌詞が平易で誰にでもわかりやすく、節が明るく軽快で
普遍性のあるよい歌となっている。
○ 讃岐の民謡P20~P21 綜合郷土研究 P735
  新修高松市史Ⅱ P40~P41 讃岐俗謡集 P135
  明治百年(香川県の歩み) P177~P179 香川県の歴史 P41
  新さぬき風土記 P225~P226

問 糸より姫(「糸より姫」は太字)の銅像について(香)
答 高松市浜ノ町の西浜漁港に面して「糸より姫」の銅像がある。高さ1.7メートルで胸に
香袋を抱いて立っている。地元の古文書によると、糸より姫は後醍醐天皇(1318~1345)の
第二皇女で南北朝の争いの渦に巻きこまれ讃岐の西浜の地に流され、そこで地元の青年と結ば
れて6人の子供を生んだと伝えられる。姫は網糸をつむいだり、糸をよったり、地元漁師の
とってきた魚を売り歩いて生涯を過ごした。西浜の古名の「糸より浜」も糸より姫の住んで
いたところからといわれる。
昭和45年10月26日建立、制作者 新田藤太郎。
○ 四国の銅像(四国新聞46.9.27掲載)
  新田藤太郎作品集

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問 伊吹島のデベヤの風習(「伊吹島のデベヤの風習」は太字)について(観)
答 一部の宗派神道をのぞき、古来より女性の月のさわりは不浄とされたのと同様、出産も又
不浄とされ、特に当市伊吹島では、その血液等が海に入ると海が荒れるという信仰から産の忌
が厳重に守られていたようである。
 この伊吹島のデベヤ=出部屋(ベッチャー=別屋ともいう)制度は、原則として出産後クマ
ウジを忌み、方位十二支を考えて日を決め、デベヤ入りをする。出かける時は産婦が新生児を
抱き、鎌又は包丁等刃物をもって先頭に立つ。その後から家族や親類の女性が、後産等の汚れ
物を出産に使用したカッパ、油紙等に煮干2匹と共にくるみ、又当座の食料、薪炭等の生活用
品を持ってついて行く。昔のデベヤは部落から離れた山の高みのカヤの生い茂った荒涼とした
場所に、4畳半3間の建物2棟、土座にむしろ敷きの建物だったらしい。ここで33日の忌明け
まで、出産祝いにもらった食料等で自炊生活をする。その間ほとんど煮干と味噌だけの副食で
きびしい生活様式が定められていたようである。又デベヤへの出入りは女性に限られ、夫とい
えども子供と対面することも許されなかった。33日の忌が明けると、産婦は真冬でも海に入り
海水で身を清め、衣服を着かえ、子供の産毛をそり落とし、又デベヤで使ったナベ等も海水で
洗い清めて帰宅する。家ではウケジャメシ(出部屋飯)、酒さかなを用意して、産祝をもらっ
た人々を招いて忌明けを祝う。
 この様な風習は西讃地方の島々で伊吹のデベヤにあたるものとして、コエン、カゲ、
カゲノウエ等と言われて根強く行われていた様で、伊吹では明治初年頃までは厳重に行なわれ
、月のさわりの間もデベヤ入りをしていたといわれている。
 このデベヤも昭和31年全面改築により(明治初年と昭和5年にも改築されたらしくデベヤの
風習も少しずつ改善されていた)理想的な伊吹産院として模様がえされ、デベヤの風習も現代
にふさわしいものに改善されている。
○ 讃岐の民俗誌 P132~P135 観音寺市誌 P1020~P1024
  日本の民俗37 香川 P142

問 滝宮天満宮のウソ替え行事(「滝宮天満宮のウソ替え行事」は太字)について(香)
答 ウソ替え行事の行われる神社は、菅原道真を祭神とする天満神社、天神社である。
 九州の太宰府天満宮・大阪の天満天神・東京の神戸神社のウソ替え行事とともに、讃岐滝宮
天満宮のウソ替え行事は有名である。
 この奇祭が初めて行われたのは、明治9年で毎年4月24日に行われている。
 うるしの木を彫り、高さ10センチほどの白丸木に頭と口を赤く、目と脚を黒く、背部を削っ
て羽をカールさせた愛嬌たっぷりのウソ鳥を「替えましょう」「替えましょう」と老若男女が
呼びかけながら、互いに交換する。交換すればするほど、いい開運の吉兆が得られ、一年中、
知らず知らずのうちに犯した人間の過失や罪

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けがれを、ウソ姫鳥に託して清めはらい、よき心身に取り(鳥)かえることを暗示している。
○ 新香川 昭39年11月号 P28  讃岐の史話民話 P415
  讃岐公論 昭和33年6月号 P8  昭42年1月号 P14

問 馬木踊り(「馬木踊り」は太字)「やっしっし」について(内)
答 苗羽字馬木に「やっしっし」という奴(ルビ やっこ)おどりが残っている。これは内海
八幡宮の祭礼で神輿の先導をした踊りである。他町の祭りの練りに相当するものである。
 「槍持ち」「やっしっし」「太鼓台」の順で、20~30人の若者が大名行列の供奴に似た踊り
をして、お旅所まで先払いし乍ら、練って歩いた踊りである。
踊り方は現在と殆んど同様で、各人右手に手槍を持ち、左手は左胸あたりに握りこぶし、素足
で囃子と共に大勢で「やっしっし」とかけ声をかける。男性的で、豪快な威勢のよい踊りで
ある。
 昔は太鼓台とも、皆、裸に六尺ふんどしの姿であった。誰の作でもなく、庶民の生活の中か
ら生まれた素朴な踊りである。
 歌詞は150位あったそうだが、現在は10位残っている。
 明治の中頃まで続いたこれも現在では祭礼とは切りはなされてしまっているが、数年前から
保存会が発足。毎年8月1日、八幡宮末社、金羅明神の祭りに披露されている。
○ 小豆島今昔 P68
  小豆島の民俗
  広報うちのみ 昭50年1月号、11月号

問 讃岐の浦島太郎伝説(「浦島太郎伝説」は太字)について(香)
答 仁尾町の家ノ浦古家に生まれた与作という人が、浦島の三崎(今の上里)に来たが、その
家を新屋という。そこで小浜(今の仁老浜)のおしもという界隈きっての美人をめとり、2人
の中に一子太郎が生まれた。(或は大兵衛ともいわれている)
 これは一人息子で母に似て美しい上に気立てのやさしい男であった。17、8歳の頃、明神の
里(今の箱浦)に移り住み、漁り業として、浦島の各浦々岬々に釣をしていたある日、父の
生家、家ノ浦から鴨ノ越丸山辺へ釣りに行く途中、鴨ノ越弁天の浜辺で亀をいじめる子供らに
あい、かわいそうに思って亀を買い受け、弱り切っている亀に自分の腰に下げていた竹の筒の
酒(きびで造ったもの)を飲ませ、元気がつくのを見てこれを海に放してやったのであった。
 さて、青春の胸高鳴る新緑5月の雨あがり朗らかな日、いつものように浦崎(今の箱崎)の
亀石にのって釣をしていた。

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 不思議と今日は何も釣れない、妙にぼんやりと1日を過してしまった。沖の島々に炊煙がの
ぼり鳥もねぐらに帰る頃、薄暮の静かにかすむ海の彼方から大亀があらわれて驚き見つめる彼
の目の前に……、茫然と夢うつつのような彼の前に……忽然として美女に変って立ち、過去の
恩を感謝しそのお礼に竜宮へ案内することを告げるのである。
 この点について、伝説はいろいろになっている。
○ さぬきたくま「伝説 浦島太郎」  讃岐の民話 P127
  さぬきの伝説 P45  香川の伝説・民話集 その5
  讃岐公論 P18 四国路の伝説
  うらしまの太郎

問 餓鬼めし(「餓鬼めし」は太字)について(内)
答 有名なのは、小豆島の寒霞渓のふもとを流れる別当川の河原の餓鬼めしで、8月14日の早
朝行われる。これは先祖の墓まいりに先がけて、無縁仏を供養するため、早朝から釜やたきぎ
等炊事用具を持って河原に集まり、一家総出で精進の五目飯を食べるもので、神懸通(立恵)
に古くから伝わっている。
 夜明け前の冷気がまだ残っている河原には午前4時ごろの暗いうちから、河原の石で築いた
かまどに釜をかけ、油揚げや椎茸入りの五目飯作りに取りかかる。五目飯を無縁仏のために12
~13枚の柿の葉等にのせて供える。(1年分のごはんである)その後、一家(知人も含めて)
そろって河原で食事をするのである。7時ごろには食事も終え、河原から引き揚げると、その
足で先祖の墓参りに出かける。
 俗に川めし、川施餓鬼、かわらけめしともいい、このめしを食べると、健康が保たれ、夏負
けせぬと言われている。
 現今は、家族のレクリエーションを兼ねたお盆の行事として残っている。
○ 小豆島今昔 P40  日本の民俗・香川

問 不喰梨(ルビ くわずのなし)の伝説(「不喰梨の伝説」は太字)について(香)
答 源平の古戦場屋島は、屋根の形をした山の東ふもと一帯であるが、丁度その反対側にケー
ブルもドライブウェイも開通しない頃、観光客、お遍路が通っていた唯一の登山道がある。通
称二つ池を通り抜け左手に高松市街がぼつぼつ見えはじめる頃には何処か憩う場所を探したく
なる。
 かつて弘法大師が屋島寺まで行こうとしてこの道を通った時、一息入れたと伝えられる場所
に来る。武田明著「四国路の伝説」によれば、その昔、みずみずしくて美味しい梨が時季にな
ると実がたわわになって里へ売りに行くと皆こぞってこの梨を買い求めようとしたといわれる
梨の木は屋島の中腹にあった。ある日旅

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人が通りかかった時、百姓がその梨の実をもぎとっていたので一つ所望すると百姓は「この梨
は固くて味もなく食べられません」との返事。旅人はそのまま山上へと向かった。その後でこ
の百姓は里へ売りに行くと、その味たるや先程の旅人に教えた通りの味になっていて以後、あ
の美味しい梨はこの木から姿を消してしまったといわれる。そしてその時の旅人は弘法大師で
あった。
○ 四国路の伝説 P23 屋島

問 讃岐の結婚の風習(「結婚の風習」は太字)について(香)
答 讃岐の各地とも、昔は地区内での婚姻が多かった。それがくずれてきたのは大正の中頃に
なってからである。しかし、出稼ぎの多い島嶼部では、明治の初めから出稼ぎ先(主に阪神地
方)で嫁をとり、そこに住みつく者も多かったようである。
風習は地方によってそれぞれ異なるが、讃岐地方の特色としては次のようなものがある。
 投入(ルビ なげいれ)……これは結納の前に行なわれるもので、見合の結果よいとなれば
男の方から酒肴料・金包み等を贈った。
 嫁入人形……高松地方では嫁入りの際に手土産として独鯛(ルビ ちんたい)、鯛戎
(ルビ たいえびす)などの土製の人形(ルビ でこ)を持参し、近隣の子供たちに配った。
これはいずれも近隣の人々への披露のためのものである。
○ 香川県綜合郷土研究 P554  香川県民俗誌 P15
  日本の民俗(香川) P150
  讃岐郷土読本 P158  讃岐(第一編) P16
  明治百年にちなむ高松今昔記 P4  小豆島今昔 P106
  小豆島の民俗 P48  各市郡町村史

問 こがれ松(「こがれ松」は太字)について(丸)
答 いつ頃であったか、本島の西北福田に悪い庄屋がいた。島民から重税をとりたてたり、苦
しい使役を命じたりした。堪えかねた島民達が相談の末、3月3日の雛祭りの日に庄屋を誘い
、沖の砂洲で酒盛りをし、さかんに酒をすすめた。酔いつぶれた庄屋を一人おき去りにして帰
ったため、満潮に呑まれ庄屋は溺れ死んだ。この庄屋におそのという娘がおり、これを知って
島民に助けを求めたが誰も聞いてくれず狂気のようになって近くの宮の越の断崖の松にとりす
がり沖を眺めて泣き暮らしそのまゝ死んだ。それから誰いうとなく、この松を「こがれ松」と
呼び沖の洲を「そのの洲」というようになった。
○ 丸亀風土記 第5号  日本の伝説5(讃岐の伝説)

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問 金毘羅の遊女と請状(「金毘羅の遊女と請状」は太字)について(金)
答 金毘羅が門前町として整ったのはおおよそ寛文年間と考えられ、遊女町もそれと同時代と
みてよいと考えられる。しかし、金毘羅の当局者は表面「遊女は御座無く候」といっていたの
で、関係資料はごく少ない。これまで目に触れたものでは、「金刀比羅宮史料第29巻」に収め
られた「文政7年申3月酌取女雇人茶同宿一同へ申渡並請書、旦同年10月追願請書通」が唯一
のもののようである。これによると金毘羅では茶屋の女が公許されていたこと。女を抱える茶
屋は一般の旅籠屋と区別してその亭主は服装も差別し集会等の節末座につけること。遊女につ
いての訴えごとは、一切金光院では取り扱わないこと。当時金毘羅の人口は約5000人で、これ
に対して遊女を置く茶屋が百軒弱であったことがわかる。
 次に請状については「ことひら(昭和13年2月号)」や「四国法務(昭和32年12月号)」に
くわしくのっている。

問 坂出地方の伝説・昔話(「坂出地方の伝説・昔話」は太字)の書かれている本について
(坂)
答 村翁夜話  坂出市史 P510  香川県民俗誌  さぬき民話集
  讃岐の民話(日本の民話5)  日本伝説叢書、讃岐の巻
  香川県の気象に関する俚諺  讃岐の史話民話  讃岐民話集

問 坂出地方の民謡(「坂出地方の民謡」は太字)について(坂)
答 讃岐の民謡の歴史は詳ではないが、相当古い時代から唄われていたらしく、秀吉から塩飽
水夫が朱印状を貰った時の船出を祝って唄った歌が残っていることによっても知ることが出来
る。徳川末期頃がその最盛期で、私達の祖先が、その生活の中から、自然的に唄われ初め現在
に残って来たものの一つ二つを次にあげてみる。
1.浜ひき唄 この唄は、久米通賢によって坂出に塩田が開始された前後から、浜子たち炎天
下のきびしい労働の中から生まれ、唄い継がれて来たもので、次のようなものがある。
  うちの殿ごが 浜引くときわ 涼し風吹け 空くもれ。
  讃州坂出の塩浜育ち すねの黒いは親ゆずり
  釜たきさんとは 調子でほれた 夜釜たきとは知らなんだ。
  讃州坂出の浜どの娘 色の黒いのはごめんなはれ。
  くるかくるかと 浜へ出て見れば 浜の松風 音ばかり。
2.盆踊の唄
 盆踊は、孟蘭盆(ルビ うらぼん)、普通、旧暦13日~16日に老若男女が、寺院の庭や、墓
地で、祖先の精霊を迎え、送るために行われた全国的な風習であったが、近年はその宗教的な
意味も薄れて来た。明治年間までは口説(ルビ くどき)と称して、八百屋お七、目蓮、

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京屋おみち、などと口説き、夜を徹して踊り通したそうであるが、大正時代になり、大正踊り
その他種々の踊が流行して、現今では、昔の趣も一変してしまった。盆踊の代表的なものとし
て「目蓮」という、盂蘭盆供養の起原の伝説故事を唄った歌詞は「讃岐の史話民話」(福家惣
衛著)に記されている。
 島踊の一部
  京の三条に糸屋がござるドッコイセーソラナー
   置いた番頭が 七十五人ソラヤーレ コラセー ヨイヤナーの番頭が
  清三でござる 清三 二十一 男のさかり
  お吉十八 今咲く花よ 立てば シャクヤク座れば牡丹
                                以下略
その他、「一合まいた」、「島踊のくどき」は坂出老人会編の「村翁夜話」に掲載されている。
尚、坂出地方で昔から唄われて来た民謡は、その数多く、砂糖しめ唄、田植の唄、たんぼ節、
縄ない唄、籾すり唄などが次の書籍に掲載されている。
○ 讃岐の民謡  金山村誌 P91~P99 村翁夜話 P80~P89
  讃岐の史話民話 P603~P620 香川県郷土総合研究 P733~P738
  府中村史 坂出市史 香川県の歴史 P41~P43
  飯野村誌 P318~P324 香川県民俗誌 P60~P93
  讃岐俗謡集 香川県の民謡

問 讃岐男と阿波女(「讃岐男と阿波女」は太字)について(香)
答 古くより存する「東男に京女」より転じた「奈良男に京女」「越前男に加賀女」等と同類
の諺である。讃岐男は美男でしかも勤労をいとわない。阿波女は始末屋で家庭経済の切盛に秀
でている。このことからこの言葉が出た。
 また、神代の始、諾冊二神が国生し給ひ、讃岐を飯依比古(男神)、阿波を大宣都比売(女
神)と名付け給うた、と古事記にみえる。
○ 綜合郷土研究 P718
  ふるさとの歌  香川県人  香川県の歴史

問 シカシカ踊り(「シカシカ踊り」は太字)について(善)
答 シカシカ踊りは、善通寺市周辺の農村に古くから伝わる盆踊りの一種である。お盆の夜、
踊り櫓を囲んでいろいろな盆踊りが楽しまれるが、その最後に踊られるのが、このシカシカ踊
りである。それまでのゆっくりした踊りが、一転して急テンポの踊りになり、櫓のまわりを
「シッカリ、シッカリ」とかけ声をかけながら踊る。その踊りの格好はいわば狂乱とも思える
もので、お盆の夜、死者の霊が踊り手に乗り移ったしぐさをあらわすものとみられ、死者供養
のために行われた

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盆踊りのクライマックスである。
 なお、一説には年貢米の軽減をゆるされた農民のよろこびのおどりともいわれている。
 いにしえの祖先の姿をしのんで、最初に島おどり、次に一合まいた、そして最後にシカシカ
踊りを踊る。昭和48年5月12日、香川県指定無形文化財に指定。

問 獅子の霊巌伝説(「獅子の霊巌伝説」は太字)について(香)
答 屋島山上から高松市街を一眺出来る一帯を獅子の霊巌といい、展望台のすぐ下にある大き
な岩が少し横から見ると獅子の頭によく似ている。四国八十八カ所の札所のうち屋島寺は84番
の札所、その寺は弘法大師が一日建立されたと伝えられている。完成まであとわずかになって
陽は西に沈もうとしているので大師は“今しばらくの時を与え給え”と日の丸の扇子でその陽
をまねき返し、無事寺を一日建立されたという。大師が座禅をくまれた岩が獅子の頭によく似
た岩であるところから大師の霊のこもった岩、「獅子の霊巌」と何時の頃からか、誰れいうと
なくいわれ、東の「談古嶺」、西の「獅子の霊巌」とそのあたり一帯を呼ぶようになった。
○ 観光学術読本 屋島 P34

問 香川県におけるジャンケン(「香川県におけるジャンケン」は太字)について(香)
答 呼び方としては「ジーヤン・リーヤン」系(東讃)と「ケンマ・ケンマン」系西讃に大別
され、中讃で合流している。
 また、手の形は「いし・はさみ・かみ」形と「ぐ・ち・ぱ」形および「ぐ・ちょき・ぱ」形
があり、はさみを表す手の形に、親指を使う形と中指を使う形がある。
○ 言語生活(1964年5月号)で子供の遊びことばの共同調査の呼びかけがあり、明善短大
文学研究室が「香川県におけるジャンケン用語」と「ジャンケンの由来」について調査し、
鋤雲紀要第8号に発表。

問 小豆島の伝説・昔話(「小豆島の伝説・昔話」は太字)の書かれている本について(内)
答 讃岐・伊予編(日本の民話18)  さぬきの民話
  香川のむかしばなし 6  日本の伝説15,四国の巻
  小豆島の伝説と民話  日本昔話通観21,徳島、香川の巻

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問 小豆島の虫送り(「小豆島の虫送り」は太字)について(香)
答 代表的なのは土庄町肥土山の「稲虫送り」で、半夏生にあたる日に行われる。夕刻、豊作
を願って害虫駆除の祈願のあと、仏前の火をぼんぼりに移して、子供たちの待つ田の畔まで運
ぶ。待ちかねていた子供たちは、ぼんぼりから火を移してもらったホタを高く掲げ、およそ1
粁の畔道を走って川下の蓬莱橋付近の川原に投げる。
 この行事はおよそ300年前から伝わるもので、この火をしたって集まる虫を海までおびき出
す役目を果していたが、今では子供の初夏の遊びとなり農村の風俗行事として残っている。
○ 香川県年中行事資料 P60  小豆島今昔 P33~

問 白鳥の虎獅子舞(「白鳥の虎獅子舞」は太字)について(香)
答 虎頭の舞、虎舞とも呼ばれる。白鳥神社の秋祭に奉納される。虎の頭にゆたんがついてい
てその中に2人の若衆が入って舞うのである。ゆたんの模様は虎の皮に因んで縞模様になって
いる。
 国姓爺合戦にちなんで和藤内に扮した少年が顔に隈取りして出てくる。そうして虎を退治す
るという趣向になっている。
 青年数名が太鼓を打って噺し立てるが、これは笹振りという役の少年がいる。笹振りは3メ
ートルばかりの笹竹を持って虎をつかう。いわゆる獅子舞の太鼓打ちの少年が獅子をてがうの
と同じである。虎舞は仙台地方にも九州地方にもあるというが県下では唯一のものである。
 寛文4年(1664)に白鳥神社が高松藩祖松平頼重によって再興された際に京都から招かれた
卜部(ルビ うらべ)兼古が虎獅子の頭を伝来したのがその起りであると伝えている。
  公開日  10月6、8日
  公開場所 白鳥神社
  保存団体 虎頭の舞保存会
  昭和44年3月28日 県指定無形文化財
○ 香川県の文化財 P205  文化財協会報 第51号
  讃岐風土記 讃岐の獅子舞

問 西讃地方に行われた民俗行事(「西讃地方に行われた民俗行事」は太字)について(三)
答 (月日はすべて旧暦で)
 1 元旦…早朝に起きて若水を汲み、歳徳の神を拝し雑煮を食べ恵方詣といって産土神や神
社仏閣に詣でて1年の幸福を祈る。
 2 四日…山の口明けといって餅を山の神に供え薪の初伐りをして帰る。
 3 十五日…前日取払った門松注連縄を早朝燃やし餅を焼いて食べる。

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 4 お月待…23日の夜部落の者集まり夜更ける迄会食雑談をする。
 5 百々手…2月朔日又は2日に弓の的を射、頭家で会食をして散会する。
 6 上巳の節供…3月3日新しい女児の生れた家に雛祭の宴を催す。
 7 春秋の彼岸…7日間で中日には七か所参りでにぎわう。
 8 春の社日…農家は鎌鍬を休め地神祭を行い、簡単な宴を催す。
 9 端午の節供…5月5日男児の生れた家では武者人形を飾り宴を催す。
 10 さむばえ…田植が終るとスシ等を作って休み残った近所に手伝いに行く。
 11 請取厄払…厄年の人は6月1日に厄払いとして神祭りを行い祝う。
 12 さばらい…6月朔日自家の牛馬を河海に引出し全身をよく洗ってやる。
 13 七夕節供…7月6日の夜七夕を二星に手向け花火をあげ翌日は休む。
 14 中元霊祭…7月13日は仏を祭り14日からは盆踊り等の行事を行う。
 15 地蔵盆…7月23日は老人が地蔵堂に集まり詠歌奉詠等が行われる。
 16 村祭り…9月は村祭りのシーズンでも其行事は年々さびれている。
 17 重陽の節供…9月9日は1月7日の若菜と共に五節供の一つ。
 18 おかいれ…稲を全部取入れた日で小豆飯等を神棚に供える。
 19 庭あげ…我家の籾摺りの全部終った日でスシ等を作って休む。
 20 節分…夜福内鬼外を唱えながら豆をまき子供は自分の年だけ拾って食う。
 21 大晦日…神棚仏壇家内の煤払い門松注連縄飾りと終日多忙を極める。
○ 新大見村史 P448  西讃府志  大見村史  観音寺市誌
  上高瀬村史  山本町誌  大野原町誌  詫間町史  仁尾町史
  日本の民俗37香川

問 善通寺の郷土芸能(「善通寺の郷土芸能」は太字)について(善)
答 善通寺市内には60余りの獅子舞が秋祭りに奉納されていたが昭和35・6年頃から次第に姿を
消し始めたので今後とも末長く伝え後継者の養成を図る為に保存会をつくった。その1として
和唐内がある。鎌倉町青年団によって守られていて昭和10年10月毛獅子作成と共に元老から習
い伝えられていて、秋祭りに奉納され又近郷の獅子舞大会に出場仁尾夫婦獅子と競演し優勝
(昭和11.4)剣山奉納(昭和29.8)NHK郷土芸能で練習風景を紹介された(昭和39.8)和唐
内おじいさん、獅子追い(子供2、大人1)毛獅子2、大太鼓2、地太鼓2、鐘1、笛2が1
組になって演じる。その2、吉原地区の雨乞念仏踊り、これは記録としては元治元年7月から
始められ明治大正昭和と行われていた。昭和14年以後中止となり昭和44年8月吉原公民館祭り
に復活した
 当地区は山間部で農地が少く水田の水が不足し3年に1度は不作であった。ため池も少く
日照り続きの時農民は天を仰ぎ雨を待っていた。
 その時どこからか1人の老人が現れ雨乞いの踊りを教えたという。その後農民は日照りが続
けば集って龍王明神に雨乞いの踊りをした。

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 吉原には16の池があるが大池が中心となり旱ばつすると踊りをした。
 その3龍川地区のシカシカおどり、大体江戸中期よりと推定される。
丸亀京極家に対する年貢軽減の要求が再三なされた後やっと認められた農民の喜びの踊りであ
る。シカシカとは農作業にしっかり励もうという農民の表現が踊りの名称になったといわれて
いる。毎年の旧盆踊りとして婦人会などが行う。やぐらを囲み円形の体形で太鼓を用いる。

問 たたら踊り(「たたら踊り」は太字)について(香)
答 生駒時代に、銅山師が銅を採るとき、若連中をよんでたたらをふませた。この時、歌にあ
わせて手拍子おもしろく踊りながら、たたらをふんで見物人をなぐさめたのが、はじまりと伝
えられている。以来たたらをふむ踊りというわけで、たたら踊り(たたら音頭)と名がつけら
れた。
 その後、老若男女誰れでも踊れる大衆向の踊りに改めたのが、現在の糀川組たたら踊りであ
る。塩江ではこの名物踊りを長く保存しようとして、古典民謡保存会を結成して、保存につと
めている。
 「たたら」とは、鋳物を作る時、鋼鉄を溶解するのに火力を強めるため、フイゴを足で踏ん
で風を送った、このフイゴの事をいう。
○ 塩江町史 P432 日本民謡辞典 P214

問 讃岐のタヌキ(「タヌキ」は太字)について(香)
答 讃岐のタヌキについての伝説は数多くあるが、その中でも面白い話をあげてみる。
 屋島の太三郎狸:昔から屋島狸は四国の狸では親分格で屋島寺の開基以来、寺の守護神とし
て祀られ、寺内に異変の起る前には、住職に夢告げをして災難を未然に防いだという。又源平
屋島合戦のおり高い樹の上に登って戦を見物しておったので、屋島合戦については一部始終を
知っている。
 浄願寺の禿タヌキ:ある年の暮、老人夫婦を助けようとヤカンに化けたまま、ある御隠居の
家に売られていったが、ある日火の上にかけられたので、あつくてたまらず寺へにげ帰ったと
いう。又源平合戦の時、源氏に味方して沢山の狸をつれて出陣して戦果をあげ勝利を収めたの
で、義経は正一位の位を白禿狸に贈って正一位白禿大明神として祀られている。
 お城のタヌキ:城内に一ツ目小僧がでる噂があった。生駒家のあとを受けて玉藻城に移って
きた頼重公が夜カワヤにたたれ手水をつかわれようとしたとき、一ツ目入道が現われ「この場
の主を知らぬか」とどなった。公が「バカものめ、われこそは高松藩主頼重であるぞ」としか
りつけてから姿を見せなくなったという。

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 そのほかに、おウメ狸・小坊主狸・久五郎狸・丸一狸・本尊狸・恩返し狸等、名のない狸は
かぞえきれないほどいて、ずいぶん人間どもに悪戯をしたという。
○ 讃岐の史話民話 P471  新修高松市史Ⅰ P279
  候えばくばく P74  讃岐の民話 P62  屋島古城P68
  志度町史 P1055  讃岐民俗誌 P164
  明治100年にちなむ高松今昔記Ⅰ P42、3 P209、4 P239
  史蹟伝説めぐり(四国新聞) 香川の伝説民話集4 P13
  夫留佐土・第8号

問 爺神(ルビ とがみ)山の鈴石(「爺神山の鈴石」は太字)について(瀬)
答 神代に伊弉諾尊が降臨された処で爺神(ルビ ととかみ)山と云うのを略してとかみ山と
いっている。伊弉冉尊の降臨された山を母上山と云うのを今では羽上山(はがみ山)と云う。
この両山に降臨された二神は爺神山南側中腹の高潔な処で会合された。このあたりから出る石
を鈴石と云って鶏卵大から大人のこぶし大ぐらいの振れば音の出る珍しい石がある。この石に
は色々の伝説があり、伊弉再尊が鈴を打ち振りながら伊弉諾尊の許に通ったが、その時落した
鈴が土中に埋って鈴石になった。又、一説には二柱の神が爺神山の南麗に祭場を作り、天津神、国
津神を祭られた時、諸神を慰めるため鈴を鳴らして、千寿の舞を献じたが、その鈴が土中に
埋って鈴石になった。
○ 高瀬町史  全讃史

問 豊浜の伝説と昔話(「豊浜の伝説と昔話」は太字)について(豊)
答 御盥(ルビ みたらい)池(御手洗の意)豊浜町姫浜一の宮神社境内東部に御盥池がある。こ
れは天智天皇が当地に行幸なされた時、海浜を賞美なされ、この池で御手を洗われたところ
から御盥池と称したと伝えられている。広さは16.5平方メートル。その後、雨乞いに池の中の
砂泥をさらえてお祈りすると必ず降雨があった。その他、国祐寺本尊観世音大菩薩、明神前泉
等の伝説がある。
 鶏牛馬みみずの参詣…鶏、牛、馬、みみずが連れだって、琴平参詣に行って帰る途中日が暮
れかかった。馬はヒインが暮れた。牛はモウイといい、みみずはミチヒが忘れたといい、鶏は
コッコからいてころ帰れといった。その他、山里の人、猿と蛙、悪狐、娘の知恵、あわてもの
等昔話がある。
○ 豊浜町誌 国祐寺縁起 豊浜町の歩み

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問 根香寺(ルビ ねごろじ)の伝説(「根香寺の伝説」は太字)について(香)
答 むかし五色台の青峰山に、牛鬼と呼ばれる変な動物が住んでいた。人や家畜に害を加えて
村人たちを困らせた。村人は藩主に牛鬼を退治してくれるよう願いでた。
 そこで藩主は、弓の名人である香川郡井原郷安原の住人、山田蔵人高清に命じて、牛鬼を退
治するようになった。
 高清は、青峰山に行きあちこちとさがしたが、牛鬼は出没自在でどうすることもできなかっ
た。そこで17日の間、根香寺の本尊千手観音に祈願をこめ、断食苦行をした。
 満願の暁に、千尋が嶽の下の鬼が原で、眼光するどい怪物に出あった。これこそ牛鬼にちが
いない。これは観音様のお加護だと、ねらいを定めて見事に射ち殺した。
 高清は怪物のたたりをおそれて、牛鬼の2本の角を切り取り、禄米6石をそえて、根香寺に
納めた。
 今もその角と牛鬼の姿といわれる絵が同寺に残っている。
○ 塩江町史 四国路の伝説 P57

問 念仏踊り(「念仏踊り」は太字)について(香)
答 現在残っている代表的なものに、「滝宮念仏踊」と「南鴨念仏踊」と「北条念仏踊」など
がある。
「滝宮念仏踊」
 香川県の無形文化財、整然たる一体系をなした音楽と舞踊の調節配合による芸能であるとい
われているが、そもそもは菅原道真公が讃岐国司在任中ひどい干天に見舞われた折、公は城山
にのぼり断食7日の祈願の結果雨が降りだした。農民たちは全身で歓喜し何時の間にか感謝と
報恩の踊りとなったのが始まりで、鎌倉時代に法然上人がこれに一定の方式を与えたものであ
る。踊っている様は身のひきしまる心地で「南無阿弥どうや」と踊り、手と身体の合わせ具合
で背にする御弊が手に持つ大刀で切られ花吹雪になる様は美しいというよりも身のしまる何か
を覚えさせる。
「南鴨念仏踊」
 起こりについては詳かではないが、元和2年(1616)にこのことが明記されている文献があ
る。別名を「雨乞い踊り」ともいわれ、総勢100名にも及び、踊る人、見る人、ともに忘境に
誘うものがある。この踊りは仲多度郡多度津町の加茂神社で干天の時にだけ踊る念仏踊りで、
常の年にはおこなわない。やはり滝宮念仏踊りと同形式であるが、稚児の踊りに特色がみられる。
○ 郷土の文化財 P113  香川県民俗史
  多度津町史 P1024  日本祭礼風土記1  今古讃岐名勝図絵

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  讃岐女子郷土読本 P119  日本の民俗37香川
  「讃岐の雨乞踊」調査報告書

問 八朔(ルビ はっさく)馬(「八朔馬」は太字)について(香)
答 むかし崇徳上皇が讃岐に流されて来たとき、里人が上皇をなぐさめるために馬を作ったと
か、丸亀藩の馬術の名人曲垣平九郎にちなんだとかいわれている。
 江戸時代から金持などが競って立派な団子馬をつくったが、普通の民家では大袈裟な事はせ
ず家族思い思いに小さな団子をつくったり、天狗、鯛、猿、茄子、胡瓜等を作って男の子の成
長を祈願したのである。そして翌日はこれらの団子細工を砕いて醤油でつけ焼にして食べたの
であるが、これを食べる時は灸治をすえる習慣がある。西讃府志にも「猪駒、八月朔日、此日
田実トテ男子ノアル家ニハ米ノ粉ノ団子ニテ馬ヲ作リテ飾ル、是ヲ猪駒ト云、子生レテ初テナ
ルハ初馬トテ親キ人ナドヲ招キ宴ナドヲ設ケテ祝フモアリ云々」とある。現在東讃はあまり見
られなくなったが西讃はいまなお盛んである。
○ 讃州高松叢誌 P80  郷土玩具叢話  讃岐文化の展望
  讃岐生駒時代加茂本荘物語  日本の民俗・香川 P227
  讃岐の暮しと民俗下 P83

問 讃岐の人柱伝説(「人柱伝説」は太字)について(香)
答 高松市仏生山町の仏生山来迎院法然寺の南側、香川郡香川町大字浅野との境に平池(平家
池)というのがある。高倉天皇の治承2年、平清盛の命令で、阿波民部大夫成良がその平池の
築堤工事を監督していたが何回築いても豪雨のたびに氾濫し、なかなか築堤工事が成就しない
。ある人が告げて人柱として人を土にまじえてこれを築くとふたたび潰れないという。時にた
またまそこを通りあわせた、若い機織り女性が蓑子(ルビ みのこ)といって機を織る時使う
ちきりをふところにして通っていたところさっそく捕えて、むざんにも生き埋めにした。する
と、さしもの難工事も、たちまち立派に完成した。その平池の堤に柚の樹が生えて遂に大樹と
なった。のちにこの里に天災が度々おこった。これは生き埋めにされた女性がたたりをなして
いるという。人に憑(ルビ つ)いて告げて曰く「よくわれを敬祭すればすなわちまた擁護し
よう」と。そこで犠牲者の霊を祭るため毎年9月13日にこれを祭る。犠牲になった若い女性を
勝(ルビ ちきり)の女といい霊を祭るため建てられたのが勝神社である。
 また丸亀城の人柱については、慶長2年、生駒親正は子の一正と図り、〔ナ〕珂郡(#「ナ
」は文字番号39305)柞原(ルビ くはら)郷に丸亀城を築いた。ここに人柱伝説が生まれた
。城を幾度築いても壊れて出来上らない。そこで人柱をたてることとして、雨のしとしとと降
るある夕暮、ちょうど1人の老豆腐売りが通りかかった。そこで人々襲いかかりいやおうなし
に人柱として生き埋めにした。このようにしてあの立派な城は出来上がった。それ

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から後は雨の降る夜毎に「とうふ とうふ」と豆腐売りの声が聞こえるので、女子供などは恐
れこわがって戸口から外へは出なかったという。
○ 新修高松市史 P249  讃岐の史話民話 P508~P509
  讃岐公論 昭和26年7月号

問 ひょうげ祭(「ひょうげ祭」は太字)について(香)
答 (祭礼の意義)香川町浅野の高塚山にある新池神社を中心にくりひろげられる牧歌的な祭
礼、それが「ひょうげ祭」である。祭礼日は旧暦の8月3日である。この神事は古くから浅野
地区の人たちによって伝承されているものであり、神輿の渡御に使われる祭典用具は、すべて
農作物や家庭用品などを中心としたもので整えられている。供侍となる人たちはそれぞれに工
夫をこらした仮装をし、色あざやかにメーキャップをする。そうした扮装で渡御行列をするの
である。神輿の渡御は浅野高塚山の山頂から東赤坂-坂下-道端-赤坂-丸山の部落を経て新
池までの2キロ余りをひょうげてねり歩きながら行われる。
 「ひょうげる」とは「気軽でおどける」という意味であり、「ひょうげ祭」という呼び名も
ここからきているのである。この祭礼については、新池築造者の功績をたたえる、農作の祈願
、藩に対するレジスタンス神事の芸能化などといろいろ意味づけられているが、本町には古く
から地蔵盆の日に作り物といって、野菜その他で人形などを作ってみせる風習であったが、そ
れがいつのころよりかこの祭りにも採用されたのであろう。
 (新池築造の伝説)この池は寛文年間(1660~1670)に藩普請として藩の費用で築造された
ものであり、次のような伝説が残されている。
 元来、浅野村の土地は高低がはなはだしく荒廃地が多かった。藩では開墾させたけれども水
の便利が悪く灌漑に困っていた。これを見かねた矢延平六は大川原某および篠原某と話し合い
、川東上村を流れている香東川の水を引いてくることを考えた。暗夜にちょうちんを持った人
夫を遠く離れた所から見とおして土地の高低を測定し、多くの労力を費して、ついに川内原に
面積26町歩にわたる新池を築いた。平六と大川原・篠原の両氏は三谷村の犬の馬場に住んでい
たので、この新池の水は犬の馬場方面にも引かれるようになったという。農民たちの喜びはひ
としお大きかったが、ここに一大事が起こった。
 それは平六がこの池を築いたのは「高松城を水攻めにするためである」と藩主にざん言をし
た者があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されてしまった。ある年の
旧暦8月3日のことであった。
 平六を慕う地方の農民はその行くえを求めたがついに探し出すことができなかった。そこで
せめてその御恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下すことができる高塚山頂に小さい
祠を建てて神としてこれをまつった。これが新池神社であるという。

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○ ひょうげ祭 P1、8
  讃岐香川郡志  香川県神社誌下  松下頼重伝  讃岐人名辞書

問 盆踊り(「盆踊り」は太字)について(香)(丸)
答 讃岐の盆は盂蘭盆(ルビ うらぼん)といい、旧暦の7月13日から16日までをいう。
 地獄に落ちて苦患を嘗めた亡者の救済されるのが7月15日で、仏および死者に食物その他を
供し、死者の魂を供養し、踊りを踊って魂を慰めたのが盆踊りの始まりである。わが国では室
町時代から始まったようで、古くは神社や墓地で行われた。
 村や町の老若男女が集って円形の輪をつくり、その円の中央には、音頭出しの高い台をつく
って、雨傘を手にした音頭取が拍子木・太鼓・三味線の伴奏で浄瑠璃くずしの音頭でうたい、
円形の男女も、はたきこみの手ぶりで踊る。
 「一合まいた」「まるくなれ」「ふたつ拍子」「じゃらじゃんおどり」などがよく唄われた。
 明治14年8月8日、県は「男女混合する盆踊りは風俗を害する」ということできびしく禁止
した。同32年禁止がとかれたが、更に32年8月1日再び禁止令が出された。こうした長い禁止
令で伝統の民俗行事はすたれ、「正調一合まいた」や「くどき」の歌える老人は、残り少なく
、田植え歌・草とり歌・もみすり歌などの民謡がほとんど滅んでしまった。
○ 綜合郷土研究 P742  明治100年香川県の歩み P177 讃岐の民謡
  日本伝説讃岐の巻 P87  塩江町史 P431  新修丸亀市史 P869
  法勲寺村史 P427  金山村誌 P94  香南町史 P588
  山田町史 P218  観音寺市史 P955  山本町史 P897
  仲多度郡史 P1144  大野原町誌 P314  高松市史 P475
  男木島の歴史 P172  現代展望郷土誌 P87
  丸亀史料シリーズ5 P17P19  香川県農山漁村の生活 P275
  さぬき盆踊り雑記(四国新聞夕刊)

問 丸亀の郷土芸能(「丸亀の郷土芸能」は太字)について(丸)
答 古くから各地に伝わっているものは、たくさんあるが、なかでも有名なものを2~3あげ
てみる。
 塩飽八幡太鼓
 今から600年前、鎌倉幕府時代、朝鮮・中国から倭寇(ルビ わこう)と呼ばれ恐れられて
いた日本海賊は、塩飽水軍をはじめとする瀬戸内水軍衆が中心となり、自ら海賊大将と名乗り
南支〔ナ〕(#「ナ」は文字番号39305)海までその名をはせた。70トン余りの帆船で意気高
らかに出陣して士気を鼓舞したその勇姿を表現したものである。

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 石切唄
 瀬戸の島々は、昔から良質の石を産出し、豊臣秀吉が大阪築城の折、海を渡って巨石を運ん
だ事は有名である。その時、労働の苦しさをまぎらわす為に歌った仕事唄がこれである。歌詞
も即興的なものがあり、人によって節もかなり違っている。現在は機械化された為、ほとんど
歌われていない。
 塩飽音頭
 塩飽諸島に古くから伝わる盆おどりである。
 その他、丸亀まつり太鼓・御城下太鼓・手島供養踊りなど、多く残っている。
○ 丸亀の文化財

問 丸亀地方の伝説・昔話(「丸亀地方の伝説・昔話」は太字)などの本について(丸)
答 讃岐の民話 (ごぶいち茂作と夢 P67  手なし娘 P88
  牛島の五左衛門長者 P143  炭焼き五郎兵衛 P171
  どびの長者ねずみの浄土 P188  猿の聟入り P204)
  香川の伝説民話集5 P23  讃岐の史話民話
  新修丸亀市史(丸亀城にまつわる話 P350)

問 水売りさん(「水売りさん」は太字)について(坂)
答 全国的に塩田でしられた坂出市は、むかしは塩辛い水ばかりで、飲料水にこと欠いていた。
 むかし、笠山の麓にあった笠指井戸は、まじりけのないきれいな水がいくらでも出ていた。
そしてその井戸から水を汲んで売って歩く、水売りさんがいた。
 ある日のこと、その水売りさんが紡績のそばにある堀の向うのほうで、車を置いて何べんも
おじきをしていた。ぞうりを片手に持ってしきりにおじきをするので、どうしたのだろうと不
思議に思って見ておるとやがてその水売りさんは、だんだんと池のほうに近づいて行くので、
驚いた宿屋の主人はあわてて駆けて行った。「あぶない、何しょるんじゃあ」といいながら背
中を強くたたいた。
 水売りさんは、へなへなとその場にすわりこんで、こういった。「着物を着たきれいな女の
人が、こっちへこい、こっちへこいと手をひっぱってつれてゆこうとしょったんじゃあ」
 むかしから不意の死に方をした人の7日目、49日目、命日に同じ場所で人が死ぬことを「と
りき」と人がいっている。
○ 讃岐の民話ふるさとの昔話 P14

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問 南川太鼓(「南川太鼓」は太字)について(香)
答 南川太鼓に使用されている締太鼓の起源は古く足利時代の初期に猿楽能の噺子に用いられ
徳川時代に至って歌舞伎狂言にも用いられ、やがて江戸長唄の噺子にも用いられていた。
 南川地方に入って来たのは、寛永年間(1624~1644)に頼富権左衛門時吉という人が初めて
持ち帰ったものといわれている。当時、ここ阿讃山脈の麓の谷あいにそって、点在する里人に
とってこよない農村娯楽として親しまれ主として各戸の婚礼、名付け祝、棟上げ等のお祝い事
に始まり地域をあげての祝賀行事に、また御領主様の巡回の折の歓迎には大勢の人が太鼓をも
ってにぎやかにたたかれたようである。終戦後、生活に追われ、この太鼓も余りかえりみられ
なかったが、昔、師に教えられた古老がこれを保存、伝承すべく若い人達に夜毎、教えたもの
であるが、当時の古老達も次々と死亡し、現在では殆んど青年層の人達によって保存されてい
るのである。
 この締太鼓を一糸乱れず揃って打つところに特長があり、昔から打ち手の衣裳は男の長じゅ
ばんとか女の衣裳をつけたりして、たすきがけに豆しぼりの手掛けをかむり、おねり道中には
、すげ笠をかむった。仲々あでやかな衣裳であった。これらが行列を組んで先頭と後尾に先達
がついて指揮をして往復20キロの道のりをねり歩き、弁当も炊き出してむすびにして、大八車
で送りこの行列に参加したものは1日で下駄1足すり切れ、着物の前が破れたそうである。現
在では余り行列を組んでねり歩く機会が少いが八幡神社の祭典にはおみこしの先導として親し
まれている。現在南川太鼓として打ち方が残されているものには噺子太鼓として、さくら噺子
、〔ギ〕園噺子(「ギ」は文字番号24639)、大正噺子、道中噺子、しゅんどう噺子の5種に
松づくし大津絵節、南川小唄、東京節、ラッパ節、はんや節、さのさ節の計12種であり、この
地方で作られた独特の打ち方である。
○ 南川太鼓由来記

問 桃太郎の伝説(「桃太郎の伝説」は太字)について(高)
答 桃太郎の伝説は、各地にのこっている。中でも、岡山県(吉備津神社)、岐阜県(犬山)
、香川県(高松)は、よくしられている。
 香川県の桃太郎伝説は、高松市の沖にある女木島(鬼ヶ島)と鬼無を舞台に、伝説上の名ま
えと土地の名まえをむすびつけて物語にしてある。お爺さんとお婆さんは鬼無の人で、お爺さ
んが柴刈りにいった山が芝山で、お婆さんが洗たくにいった川が本津川である。
 2人には子供がないので、そこで近くの赤子谷の滝で子どもがさずかるように神さまに祈っ
た。ある日、川で洗たくをしているとき大きな桃が流れてきたので、お婆さんがひろって帰っ
た。桃の中から男の子が生まれたので、桃太郎と名づけた。

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 この桃太郎さんは、孝霊天皇(7代)の第8皇子稚武彦命(ルビ わかたけひこのみこと)
であるといわれている。命のお兄さんが、吉備津彦命(ルビ きびつひこのみこと)(吉備津
神社祭神)で岡山県に、お姉さんが、倭迹迹日百襲姫命(ルビ やまとととひももそひめのみ
こと)(田村神社祭神)といい、香川県に住んでいた。そこで、稚武彦命(桃太郎)は鬼退治
のためにやってきたいわれる。
 鬼というのは、瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことである。
 桃太郎におともした、犬、猿、雉は、それぞれの土地の人たちで、犬は岡山県の沖にある犬
島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。
 いよいよ、鬼退治に出かけることになった。生島湾(ルビ いくしまわん)の近くに大きな
泉があって鬼の子分が島から水をくみにきていた。ここを木出(ルビ きだし)(鬼無)とい
う。桃太郎らはここで鬼の子分がくるのをまってとりおさえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内
をさせた。
 大海戦がおこなわれ、鬼どもは島の岩窟に逃げこんだ。桃太郎は攻めて、攻めて、岩窟内の
鬼どもを降参させた。
 宝物をたくさん積んで中津の港にかえってきた。しかし、鬼どもが香西の海賊城にあつまっ
て、攻めてきたので再び合戦になった。桃太郎は大いそぎで仲間に使を走らせて、弓と矢をも
ってこさせた。この弓矢を作っていた人たちの墓が、弓塚、矢塚といってのこっている。また
、威かくのため弓の弦を鳴らしたところから、弦打(ルビ つるうち)と名づけた。本津川一
帯で激しい戦いがおこなわれた。鬼どもはついに討たれて死んでしまった。その屍を埋めたと
ころが、鬼ヶ塚である。鬼がいなくなったことから、この土地を鬼無と名づけた。
○ 上笠居村史 P658~P664 鬼ヶ島

問 百々手(ルビ ももて)祭(「百々手祭」は太字)について(観)
答 百々手は全国的に行われていて弓射神事のうちの一種、即ち宮廷の祈年祭に習って、弓矢
をもって的を射、すべての悪魔・天災地変の征服、五穀豊穣・豊漁・国家鎮護を神に祈願する
早春の祈年祭で(個々の儀式の中には弓祈〔トウ〕(「トウ」は文字番号24852)の年占い的
性格を備えたものも多い)あり、その名称は地方により様々だが、特に盛んな西讃地方では百
々手祭といって、旧暦2月1日前後に村々の氏神で盛大に行われた独特の風物詩であった。
  百々手の発生年代については明らかでないが、占い記録としては「西讃府誌」風俗篇に載
っている戦国の初め、即ち明応元年(1492)に書かれた大浜浦百々手祭についての定書である。
 その形態については、村々により独特の風習を伝えていたが、現在忘れ去られたり簡略化さ
れているものが多く、わずかに前記詫間町大浜浦の百々手祭がよくその古風を伝えているとい
われている。又観音寺市内には室本町の二手に別れて

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の千矢通し、流岡町小岡の石礫によるもの、伊吹町の競射による三度弓等特記すべき風習が伝
えられていたが、ほとんどの行事が形式化されたり、中止されつつあるのが現状である。
 香川県では、坂出市櫃石のももて祭、詫間町の生里、大浜、粟島のももて祭ともに昭和37年
4月14日、県指定無形民俗文化財に指定されて有名である。
○ 西讃府誌  風俗篇  讃岐の史話民話 P391~P409
  香川県祭事習俗調査報告 P28~P44 香川県文化財調査報告第7集
  定本柳田国男集第13巻(筑摩) P436~P449 新大見村誌
  観音寺市誌 P938~P940 日本祭礼風土記第1巻 講座日本風俗史第4巻

問 安田おどり(「安田おどり」は太字)について(内)
答 小豆郡内海町の安田おどりは、手踊りと扇の手に組合わされ、その各々が男踊りと女踊り
に分かれている。男踊りには田舎の素朴さ、女踊りには都の優雅さがあって両者の対比が面白
い。昔、南北朝時代星が城山(小豆島最高峰)に築城して南朝方に味方した備前飽浦の城主佐
々木信胤と当時京都三美人の一人といわれたお才の局との悲恋物語、勇将と麗女の物語によっ
て男踊り女踊りの対比が強まる。地元の盆踊りには、老若男女が参加して踊る。
 安田おどりの起源について、安田おどり保存会長をしていた故空井健二氏(内海町安田)
は、延宝年間頃(1673~1681)ではないかといっている。
 昭和48年5月12日県指定無形民俗文化財の指定をうけた。
○ ふるさとの民踊 P6  小豆島の民俗 P182

問 与北町の地つき踊り(「与北町の地つき踊り」は太字)について(善)
答 讃岐には、昔から夏の旱魃にそなえて多くのため池が作られた。仲多度郡にも、弘法大師
が修築した日本一のため池、満濃池がある。与北町にある買田池も満濃池の下池として享保16
年(1716)頃土地の郷士、高畑権兵衛さんによって修築、拡張された。彼は灌漑になやむ農民を
救おうと、琴平の野田涌、高篠の夫婦涌、生野の西村涌などの水源をたずねて買田池に導水を
はかるとともに、池を普請した。買田池の普請には老若男女をとわず、近郷の人々は朝の一番
太鼓を待ちかねるように朝早くから夜おそくまで競って参加した。おかげですばらしい池にで
きあがり、与北周辺の田畑一帯は豊富な水にめぐまれ、毎年のようにやってくる旱魃をしのぐ
ことができて、うれしい稔りの秋をむかえることができた。権兵衛さんの死後も村人はこの偉
大な偉業をたたえ、遺志を忘れないようにと、毎年8月2日に法要を営みごんべえ市を開いて
いたが、10年ほど前からいろいろな事情か

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ら中断された。また池普請で歌われた「地つき歌」もその姿を消そうとしていた。そこでこれ
らを正しく残し再現するため町内の古老の方々から地つき歌と大正2年から3年、大正12年か
ら13年の2度にわたって行われた東閘、西閘、修築工事の際行われたきねつきの所作を学び、
それを現代風に振付けして地つき踊りを昭和47年に創りあげた。また、昭和48年には地つき踊
り保存会も発足した。今では毎年夏、地つき踊りをおどり、権兵衛さんの威徳をしのぶと共に
、古老の方々は自分たちが昔苦労した姿をなつかしく思い出し、若い人は、古老の方々に感謝
の意を表している。
 地つき踊りは、老若男女をとわず大へん好評で、末長く続けられることであろう。

問 三野町吉津の夫婦獅子舞(「吉津の夫婦獅子舞」は太字)について(三)
答 寛永年間吉津村に、氏子の無事息災病気平癒五穀豊穣祈願のため獅子舞が京都からこの地
に伝来されたと伝えられている。
 当時の若連中によって獅子組が結成され、明治中期頃まで神事に奉納してきたが、其後若連
中の県外流出、維持費の困難などによって、元の一頭獅子になって明治末期から大正時代まで
続いた。
 その後伝統ある夫婦獅子舞の技術の廃ることを憂い何とかして、これを伝承して後世に残し
たいと山本隆一氏は決意し、古老に尋ねてその技を習得し他の若者達にも呼びかけて夫婦獅子
舞を復活し現在にいたった。爾来各地の大会に優勝して次第に世の注目を浴び、昭和49年6月
15日県指定無形民俗文化財の指定を受けた。
 この夫婦獅子舞の演舞は三段階に分かれ、一の段では獅子の無邪気な遊び戯れる幼年期を現
わし、二の段では獅子の青年期を迎えて愛情細やかな情緒豊かな表現を現わし、神の御前で結
ばれて夫婦獅子となる、三の段では壮年期、老年期を現わして静の動作が主であるが、時には
往年を偲んで、勇壮な仕草を演じ、さすがは百獣の王の貫禄を示し、最後に神の御前に平伏し
て全技を終ることになっている。
○ 吉津古老の伝承  讃岐の獅子舞
  香川県文化財保護協会三豊支部報第14号 P12

問 綾南町の親子獅子舞(「綾南町の親子獅子舞」は太字)について(綾)
答 起源は、古老のいい伝えによると、天保年間(1840~1844)と伝えられている。代々、獅
子組若連中により受け継がれてきた。
 獅子舞の使い手は、股引きをはき、あげはち巻、その他の者は法被を着用し、鉦・太鼓・笛
・鼓の合奏のリズムに合わせて演技をする。

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 この演技の特色は、その名のように親獅子の子獅子に対する愛撫の情、子獅子が親獅子を慕
う親愛の情など親子の情愛をあますところなく表現するところにある。
 この獅子舞は次の5段階に演ぜられる。
 ○地固めの舞(餌ひろい)
  親獅子は、子獅子に餌を教えて食べさせながら舞う。
 ○方せぎりの舞
  子獅子は親獅子の行動をまねて、たわむれ遊び疲れて、ともにいだき合って寝る舞。
 ○ほら入りの舞
  親獅子は、子獅子に乳を与え、子獅子はたわむれながら乳を飲み、親獅子は子獅子を愛撫
し、満腹して互いにおもしろく舞う。
 ○四方固めの舞
  親獅子は、子獅子をいだくようにして、安全な小高い草原に出でて、子は親をしたい、親
は子をあやしつつ舞う。
 ○帆上りの舞
  子獅子ようやく成長し、親獅子とともに元気よく遊び、親獅子も子獅子の成長を喜び威勢
よく舞う。
備考…この親子獅子舞は、現在2組みあり、「四方固めの舞」のかわりに、「坂落しの舞」を
演ずる組みもある。この舞いの内容は、親獅子は、子獅子の養育について、特に厳しく、千尋
の谷から子獅子を突き落とし、子獅子はやがてはい上がる。親獅子は、その成長を喜び、子獅
子とともに舞う。
という内容になっている。
 昭和52年7月26日県指定無形民俗文化財指定

問 両墓制(「両墓制」は太字)について(香)
答 死者の肉体を葬る葬地と霊を祭る祭地とを異にする習慣をいうが、こうした習慣は現在普
通に行われている単墓制よりも一段と古い。昔の庶民の間では、死のけがれに対する恐れが極
めて強く、遺体に対する尊重の念は薄かったために、死者はなるべく遠くへ葬ることにつとめ
た。
 しかし霊を崇拝する気持ちは強く、これを手厚く祭らねばならないとされていた。
 香川県はこの制度が比較的よく発達しており、特に小豆島の大部、小瀬、千軒や三豊郡、仲
多度郡で行われていた。現在でも多度津町の見立地には一部残っているいところもある。葬地
は流出しそうな海辺とか、土砂で埋没しそうな山麓に作り、「サンマイ」「ステバカ」「ウズ
メバカ」等と呼んでいる。又祭地は人里に近く詣りやすい場所に作られ、「セキトウバ」「オ
ガミバカ」「タントウバ」「ト

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リバカ」等と呼んでいる。
 多度津町佐柳島長崎の埋め墓は昭和40年4月2日県指定有形民俗文化財に指定されている。
○ 日本の民俗 47-香川- P182~P187 世界百科(平凡社) P603
  詣り墓(民俗選書) 地歴の窓4号 P56

問 和田の雨乞い踊り(「和田の雨乞い踊り」は太字)について(豊)
答 慶長年間(1596~1615)に三豊郡豊浜町和田に薩摩法師が作ったと伝えられる雨乞い踊りが
あり、近郷近在で霊験あらたかな事で有名である。歌は第1番から第12番にわたる長い歌詞で
あるが、これにはそれぞれの踊りが振り付けられていて、雨乞いの時には、すべての踊り子が
胸にしめ太鼓をつけて二本の撥で太鼓を打ちながら踊り舞うのである。
 一説には仁安の頃(1166~1169)西行法師が讃岐から伊予に移る途中に和田の地に杖を止めた
時に作ったものであると伝えられている。この踊りは徳川時代は盛んに行われたが、明治にな
り一時中止したが、大正3年から復興され旧7月20日に龍王宮で奉納している。吉田川を境に
して川東隊(雲岡、長谷、道溝、梶谷部落より60名)と、川西隊(本村、大平木、直場、岡よ
り60名)に別れ、それぞれ東西の龍王宮に参詣し踊りを奉納して下山し、国裕寺で両隊合流の
上、両龍神社に八大龍王の旗を建て、その大前で踊りを奉納し、現在の豊浜町立豊浜南小学校
校庭で大円陣をつくって踊った。この時には近郷近在から見物人は黒山のように集まり秋祭り
の人出をしのぐ程であったそうである。
 国裕寺に保存されている権現山新社草創濫觴によると宝暦明和の頃(1751~1772)和田をはじ
め各地で雨乞い祈トウ踊り(「トウ」は文字番号24852)が行われていたことがうかがわれる
。和田の雨乞い踊りを指導したといわれている薩摩法師の墓碑が大字和田の壬生岡墓地にある
。碑文によると、天保10年(1839)に建立されたもので、その以前にも墓碑があった事は墓地入
り口の宝篋印塔の刻文によって推察できる。和田の雨乞い踊りを後世にという事で、豊浜町南
小学校の児童を中心にして、全地区の人達が協力して保存会が結成されている。
○ 西讃府誌  豊浜町誌  豊浜町資料集  「讃岐の雨乞い踊」調査報告書