伝記 (66K)

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底本の書名    讃岐ものしり事典(p82~111)
 底本の編集者   香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     川崎 正子
校正者名     織田 文子
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年2月14日
      

-伝 記-

ー82ー
問 神櫛王 (ルビ かんぐしおう) について (香)
答 神櫛王は、第12代景行天皇第17の皇子で、御母は妃五十河媛(ルビ いかわひめ
  )である。
  日本書記景行天皇4年の条に神櫛王は、讃岐の国造(ルビ くにのみやつ)の始
  祖と見えている。
  讃岐は国造本紀に「讃岐の国造は応神天皇の御世に景行天皇の児神櫛王の三世
 の孫、順売保礼命国造に定め賜う」とあって、応神天皇の御代、順売保礼命の国
 造に任ぜられたのが始りである。
 景行記及び姓氏録に神櫛別命を讃岐の国造の始祖としたのは、神櫛王の三世の孫、
 順売保礼命の讃岐国造となったその後の名を、初めにめぐらしていったものであ
 り、神櫛王が讃岐において賊を平定した功績によって、その子孫が国造に任命さ
 れたものである。
  王の御墓は、木田郡牟礼町国道11号線南側にあり、明治3年5月高松藩知事松
 平頼聡、朝廷に奏請して四辺を修理し石碑を建立した。
  城山神社は、延喜式内24社の名神大社であり王を祭る。嫡統讃岐朝臣永成の子
 孫は、更に分れて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の
 諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄した。
○ 讃岐人名辞書 P242
  木田郡史 P65~66 牟礼町史 P33~35 郷土の歴史 (四国篇) P5~6


問 京極家の家紋について (丸)
答 生駒家 天正15年~寛永17年
  山崎家 寛永18年9月~明歴3年3月 (絶家)
  京極家 万治元年2月~明治2年3月 藩籍奉還
      同2年3月丸亀藩知事任用
  佐々木京極家系図などには「重目結紋なり。惣領家はこれを用う」とある。四
 つ目を紋所とすることは、元久2年、平賀朝雅違勅の罪により追討のとき、佐々
 木太郎定綱の四男信綱が先駆けして勇をふるい、太股に矢傷をうけ、院のお声に


ー83ー
 達して、この紋を賜った。これが、四つ目結である。京極家が四つ目結を家紋
 としたのは、ずっと後のことである。
○ 京極家の由来と家紋について


問 香西氏の家紋について (高)
答 香西氏の家紋は藤丸に三蓋松根笹をもちいる。藤丸は藤原家の出をしめし、三
 蓋松はその祖の霊夢により、根笹は植松四郎が将軍より許された株桐紋の変化し
 たものという。 (日本紋章学には、香西氏は三階松に岩に笹とある)
○ 香西史
  日本紋章学


問 多度津の京極家について (多)
答 多度津の昔の殿様は京極氏である。丸亀の京極氏の2代目高豊の子高通が1万
 石を与えられて分家したものである。高通は42年間殿様として在職したが平常の
 生活は丸亀の城内であった。第2代目の高慶もやはり丸亀城内で政治をしたがこ
 の時に寛延の百姓一揆が起った。次の高文を軽て第4代藩主京極高賢の時にはじ
 めて多度津に陣屋を造って移転した。文政12年6月であった。この陣屋は居館、
 倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などの外に外郭と外門濠を構えて立派なも
 のであった。殿様は居館に生活して政治をみた。第5代藩主高琢 (ルビ たか
 てる)は天保5年に多
 度津湛浦 (ルビ たんほ)の大工事を起し約5か年の歳月と6200両に余る大金を
 投じて完成し港町
 多度津としてのその後の発展の基礎を築いた。在職27年で慶応3年に没した。第
 6代藩主は京極高典で従五位下壱岐守に任ぜられた。元治元年11月には京都で日
 之御門の警固に当り、また伏見・鳥羽の戦にも参加して勤王につとめた。明治4
 年には他藩に率先して解藩の議を建白してここに廃藩置県が決まった。従って藩
 知事も免ぜられたので多度津より乗船して東京に移住した。代々の藩主は文化面
 にも協力し学問や芸術の興隆を図り陽明学者として有名な林良斉ならびに三谷景
 信、国文学者の森長見その他の書家や画家が多く出た。京極氏の家紋は菱四つ目
 定紋でありその図案が今日の多度津町章になっている。多度津藩最後の殿様高典
 の乗船順風丸は今日では宇多津の西光寺に茶室として残つている。第2代高慶と
 第5代の高琢の墓は丸亀市の玄要寺にありその外の代々の墓は東京になる。第5
 代高琢の築いた多度津湛浦は現在造成地を擁する大築港として発展しつつある。
○ 多度津町史


問 香川県の銅像について (香)
答 香川県内には、政治家、教育者、事業家、宗教家、芸術家、物語や伝説に出て


ー84ー
 くる人物など、多くの人物の銅像が、明治40年ころから現在まで数多く建立され
 ている。
  そのうちよく知られているものは、三土忠造、久米通賢、野網和三郎、伊賀小
 四郎、大久保湛之丞、三木武吉、菊池寛、琴陵宥常、西尾末広、山川波次、糸よ
 り姫、琴陵光熈、庄松同行、山下谷次、増田穣二、山口嘉次郎、平和の群像、景
 山甚右衛門、中繁治、人柱の女、弘法大師、一太郎や-い、玉楮象谷、平賀源内、
 棚次辰吉、松平頼寿、大平正芳などがある。
○ 四国の銅像 銅像物語  高松の事始め P214


問 井上通女について (丸)
答 井上通女は丸亀藩士井上儀左衛門の長女として万治3年6月11日丸亀に生れ、
 幼名を初といった。
  幼少の頃より朱子派の儒者であった父より厳しい家庭教育を受けた通女は、5・
 6歳で列女伝などを読み、母からは和歌を、堀江治部斎からは書を学んだ。7・
 8歳のときには物語・草紙など読み特に源氏物語を愛読した。16・7歳のとき「処
 女賦」「深閏記」を著わし、20歳で漢文・漢詩を読破し、当時の人々からは女博
 士の賛辞を受けました。そして22歳の時には「東海日記」を、その後更に「江戸
 日記」「帰家日記」といわゆる江戸文学の粋と称せられた三日記を著わしました。
  元禄2年、同藩士三田宗寿に嫁し、三男二女をもうけたが、宝永8年55歳の時
 夫に先立たれた後は、家業を宗衍にゆずり、末子義勝の教育のかたわら読書、文
 筆の生活を送る。元文3年6月23日、79歳でこの世を去った。
○ 丸亀史料シリーズ 1号P8 6号 P47
  まるがめ     3号P38 6号 P5
  井上通女  井上通女史遺稿  井上通女直筆軸物
  井上通女80周年祭記事     讃岐先賢小伝 P22
  讃岐人物伝 P421~P434


問 上田樹徳について (多) 
答 名は晴治(はるじ) 諱は可親(よしちか) 書道には樹徳と号し、時として親の
 一字を以って称することもある。
  弘化四年(1847)10月4日、仲多度郡豊原村堀江に生れた。現在の多度津町堀江
 である。
  上田家初祖より数えて4代目に当る。幼時、近くの寺子屋師匠森政道について
 漢文素読と手習を学び父親信より史書、経書を教えられる。長じて財田村の伊舎
 那院主安藤大心和尚について大師流書道を修める。続いて高野山に上りその蘊奥
 を究めて帰郷す。時に21歳であった。翌年慶応4年鳥羽伏見の戦に多度津藩は京


ー85ー
 都御所御車寄御門の警護に当り、多度津藩士としてこの役に従い、京に1年間在
 任する。この年改元して明治となり翌2年藩籍奉還により藩士を去り秩祿を離れ
 る。この時志を立て意を決し尾張国名古屋に遊学し、大書史蜜道北泉慧徹和尚に
 就いて錐股蛍雪の功を積むこと数年。遂に大師流正統第47代伝来えの口訣を伝授
 允可された。時、明治8年、29歳の頃である。樹徳書塾の門をたたくもの多く近
 隣はもとより遠村、遠国名声は全国に布す。大正11年 (1922) 9月6日病を得て
 没。行年76。墓は、丸亀市寺町吉祥院に在る。
○ 改訂讃岐人名辞書 P486  上田樹徳先生


問 牛窪求馬 (ルビ うしくぼもとめ) について (香)
答 文久3年 (1863)8月2日、香川郡宮脇村 (現在の高松市宮脇町)高松藩松平
 家の重臣の家筋に生まれた。西洋文明にあこがれ、洋服をきたり、油絵をかくな
 ど文化の先端をあゆんだ。とりわけ、高松市の石油ランプの暮らしに電灯をとり
 いれようと、旧藩主松平頼寿伯の後援のもとに資本金5万円で高松電灯株式会社
 を内町に創立、社長となった。日清戦争の影響で建設がおくれ、明治28年11月3
 日、高松市に四国で初めての電灯供給が開始された。創業当時の利用者295軒、
 675灯で、おもに商店街であった。当時は、電灯を知らないものが多く、〝石油ラ
 ンプのように、風がふいてもぜったいに消えない" と宣伝につとめ電灯の普及を
 はかった。
  創業時代には、50キロワット火力発電であったが、明治34年、100キロワットに
 増力、5,000灯の利用者があった。
  明治35年4月、玉藻城内において、関西2府16県の連合共進会が開催され、高
 松電灯出品のガラス水槽内に金魚を泳がせた水中電灯は非常な人気をよび、場内
 の電灯設備とともに、観衆の目をみはらせた。
  明治40年、病気のために社長を退く。昭和9年 (1934) 10月9日死去、72歳。
○ 新修高松市史Ⅱ P326
  四国電気事業沿革史 P85
  高松の事始め P61 


問 大久保湛之丞の事蹟について (観)
答 大久保湛之丞 (1849~1891) は、三豊郡財田村字財田上の大地主大久保森治の
 三男として嘉永2年8月15日生れた。家庭の事情から本家を継ぎ、独学にて教養
 を高め明治5年村議を振出しに、郡吏員・学区世話係・愛媛県農談員・愛媛県会
 議員・香川県会議員等、明治24年42歳で病死するまで地方行政一筋に生き、その
 間地方の産業・文化の発展につくした事蹟は画期的なものであった。
 1. 四国新道の建設


ー86ー
  多度津港を修築し、丸亀よりとの両方面より金蔵寺、琴平ー阿波池田ー土佐
 高知ー佐川―須崎ー伊予松山に至る総延長280,361メートル総事業費741,564円
 明治19年3月着工、同27年竣工。当時としては誠に遠大な難事業であり、企画
 より竣工に至る間、氏の物心両面にわたる苦労と努力は、はかりしれないもの
 がある。特に私財を投入してまで事業の完成に努力したため、氏の没後遺族は
 生活に困ったといわれている。工事の完成を待たずして氏が他界したことは、
 誠に惜しむべきである。
2. 讃岐鉄道の開設
  多度津町景山甚右衛門氏と協力、四国初の讃岐鉄道の開通に努力完成を見る。
3. 殖産興業
  米麦の増産、養蚕業の振興、製絲会社、造林振興、教育振興、移民の推進、
 失業対策事業
○ 道神大久保湛之丞命  明治百年~香川の歩み
  郷土にかがやく人々1  讃岐人物伝  讃岐人名辞書
  農業香川 昭33.1


問 大塚一格について (丸)
答 天保11年(1840)丸亀県大参事大塚梅里の次男として那珂郡丸亀町大字土居146
 に生れる。香川県に出仕し、学区取締、丸亀一番小学4等教授、名東県第21大区
 長、丸亀亀湾学校参教兼学長心得となり、那珂多度郡書記、 同中学予備学校長、
 同高等小学校長、那珂郡興北村戸長等を歴任した。西讃府志著述の業を成しとげ
 た梅里を父に豊富な経験と天賦の才腕をふるって多岐な内外の事務を巧みに処理
 していった。明治23年丸亀町制施行とともに初代町長となって創業の事務を整備
 し、再選されて前後4年余り活躍した。退職の後東京に出て京極家教育係となり、
 70余歳にして東京で没した。
○ 旧丸亀藩士族戸籍  丸亀史料シリーズ6号  丸亀市史


問 岡内清太について (香)
答 幼稚園・小学校・中学校・高等女学校・特殊学校・高等専門学校の建設促進な
 らびに、教育内容の充実に根気と情熱を傾け、教育県香川の礎を築いた郷土の先
 覚者。
  岡内清太は、文久3年12月28日(1863)、高松市九番丁に岡内甚蔵の三男として
 生まれ、幼名を清之助といった。父親や藩校講道館について早くから漢学を習い
 5歳で四書を読み、高い識見を身につけていった。
  明治13年3月化成小学校教員となり、長い教育の道への第一歩をふみ出し、明
 治16年には弱冠21歳で三木郡田中村の天枝小学校の校長になり、同19年5月に現


ー87ー
 在の栗林小学校の前身の校長となって、経営の困難な荒れはてた学校の再建に尽
 力した。
  当時の教育状態はまことに幼稚なもので、正式の教師は少なく、清太はよりす
 ぐれた教育をするためには、まず優秀な教師を養成しなければならないと考え、
 有志とともに高松同盟以文会を組織した。この会は県下の教育団体の最初のもの
 で、会員の活動によって発展し、讃岐の教育発展の礎となった。この以文会は讃
 岐教育会と改称し、明治22年に香川県教育会となり、清太は長く副会長をつとめ
 教育発展に寄与した。
  さらに当時、男子教育にくらべ女子教育の振わないことから、明治24年10月進
 徳女学校を天神前に設立した。その後同校は内容を改善充実し明治26年香川県高
 等女学校となり、終戦後、高松中学校と合併して現在の県立高松高校となった。
 いわば県下の高等教育の草分けを手がけたのが彼である。
  大正6年に高松市天神前に香川県教育会の会館「表誠館」を建設し館内に図書
 館を設けた。これが後に県立図書館となった。また学資のとぼしい青少年のため、
 有志の間をかけずり回って資金を集め、明治35年11月に財団法人香川県育英会を
 設立、東京郊外染井に広大な寄宿舎を建設して多くの奨学生を収容した。このほ
 か高松市内に幼稚園・盲唖学校・高等商業学校設立に尽力した。これらの功績に
 より明治43年12月1日藍綬褒章が贈られた。昭和19年9月25日、82歳でこの世を
 去った。
○ 郷土に輝く人々  郷土の先覚者
  新修高松市史Ⅱ P328  明治100年香川県の歩み P172
  香川県教育史  香川県教育会50年史


問 景山甚右衛門について (香)
答 幕末世上騒然たる安政2年 (1855) 4月に4代目当主の長男として生まれ、
 明治維新を膚で感じる少年時代を過ごした。明治の香川で、鉄道や銀行、電力会
 社の創業と経営にたずさわったほか、政界でも活躍、いわゆる地域開発で先覚者
 に当たる一人の景山甚右衛門である。明治までは回船業を主とする地域でも指折
 りの商家だった。千石船を持っていた家業のせいもあって、まず手がけた事業が
 讃岐鉄道で明治18年、29歳のとき計画された丸亀ー多度津ー琴平間の鉄道は4年
 後に開通された。同じころ有志とともに地方銀行の設立に努め、多度津銀行の初
 代頭取として地域の金融界でも活躍した。続いて明治40年には、中讃へ配電して
 いた讃岐電気会社は、需要の伸び悩みから創立以来10年間も無配であったが、景
 山社長が実現したから経営不振の電力会社を再建し、明治43年には7倍増資を行
 ない「四国水力株式会社」と称し、県下の電力供給を一手に引き受ける企業に成
 長した。四国水力では副社長、社長、取締役会長を歴任して、昭和12年10月19日
 83歳で死去するまで30年近く在職し、全国電力業界では「四水の景山」として知


ー88ー
 られていた。
 安政2年4月  仲多度郡多度津町に生まれる
 明治15年    励商会を設立 肥料及び穀物売買を営む
 "  22年    讃岐鉄道を創設
 "  23年    町村制実施当初の町会議員に選ばれる
 "  24年    多度津銀行を創設して頭取となる
 "  35年    衆議院議員に選ばれ日露戦役の功労により勲四等叙さる
 昭和12年    死去
  その他    多度津製氷会社、西讃電燈買収、四国水力電気等に活躍
○ 四国新聞昭和46年12月6日  地方発達史と其の人物ー四国の巻ー
   人物編 (仲多度郡之部) P1
  百十四銀行80年史 P106    日本国有鉄道百年史4巻 P52
  琴参60年史 P15   新修高松市史Ⅱ P504   四国大観 P3


問 笠原鎧泉(がいせん)と玄龍寺について (香)
答 笠原鎧泉は、名は娯、字は如水、雨香と号する。幼より画を能くする。15歳に
 して漫遊の志を起し、遂に讃岐榎井に来り、玄龍寺に寓する。その時日柳燕石の
 徒と交る。のち九州に遊び画道を研究し、転じて江戸に帰り、東北に遊び、明治
 の晩年迄は越後に留り、大正8年ごろ迄は須磨に於て画房を開き、同10年頃高松
 に帰って宮脇町に寓し、晩年を送ったが、同15年11月24日没す。年85歳。高松市
 史の絵画の項にもその名が見える。
  玄龍寺(真宗)は仲多度郡琴平町榎井にある。幽洞山と号す、真宗興正寺派、む
 かしは真言宗で玄要寺と称し、千部供養の道場があつたが、暦応の兵火にかかり
 灰燼した。明暦2年恵玄法師復旧して寺号を玄龍寺と改め真宗となる。慶応元年
 僧秀海の再建なり。玄龍寺の天井絵は鎧泉の筆によるものである。(当寺住職談)
○ 讃岐人名辞書 P319  琴平町史 P134


問 片岡弓八について (綾)
答 片岡弓八は、明治17年5月15日に陶村九十原の細谷鈴吉の第3子として生まれ
 た。陶尋常小学校、陶高等小学校を卒業後、明治32年5月、高松市八本松の高松
 英華学校中学部に入学。同33年12月、従兄を頼って上京。翌年4月に東京航海学
 校に入学し、更に翌年4月東京高等商船学校に入学し、40年9月に卒業、10月に
 東洋汽船株式会社に入社し、4か年海上勤務の後退職した。
  その後、トロール漁業を始め事業は順調に発展した。大正2年、片岡家を相続。
 同年、東京高等水産講習所練習船の教官に補せられ、一等運転士・甲種船長とし
 て勤務。翌3年、第一次世界大戦中にフランス政府の傭船であった帝国丸に乗船、


ー89ー
 大西洋の戦時輸送に2か年従時。下船後、海事事業に転向し、潜水器の改良に取
 り組んだ。
  大正7年、東京潜水株式会社を設立。同11年4月には豪州木曜島で深海潜水の
 記録を作った。同13年3月、船舶救助を業とする日本深海工業株式会社を創設。
 ここで、彼の名前を永遠のものにした大事業を行なった。それは、大正3年8月
 に欧州大戦のため地中海でドイツ潜水艦により撃沈された、邦船八坂丸積み込み
 の英国金貨百万ポンド(当時の邦価換算で約9,763万円)の引揚げに成功したこと
 である。大正14年6月、母船として八坂丸の姉妹船諏訪丸に乗り、11人の作業員
 を連れて作業基地ポートサイドを目ざし、神戸港を後にした。現地に着くと、2
 隻の船を傭い、列国の監視下でひそかに八坂丸を捜索。海底240フィート(約73m)
 に船体を発見すると、潜水夫を使って20個の金貨の木箱を麻袋に入れて、素早く
 引き揚げた。このことが、やがて世界に報道されると、内外の人々は、僅か71日
 の短時日に、このような深海での作業に成功した例がないと驚嘆し称賛した。そ
 の後、この種の注文は各国から会社に殺到し「深海王」「潜水王」などの敬称で
 呼ばれるようになった。
  昭和30年4月、台湾海峡の沈没船阿波丸の積み荷引揚げ作業の準備中病気に罹
 り、同33年10月2日、自宅で没した。


問 鎌田勝太郎 (淡翁) について (坂)
答 元治元年1月1日、坂出村で醤油醸造と販売を業とする鎌田家の長男として生
 まれた。3歳の時父親が死亡し祖父母と母親の手で育てられた。7歳の時坂出学
 校に入学、12歳で高松の三野盤渓(ルビ ばんけい)の塾に塾生として住込み勉学
 に励んだ。14歳で
 上京、慶応義塾の内弟子として入門、教えを受けること2年、この間に近代的知
 識と進取の気性を養い、北海道を見聞して帰郷し、快航丸を購入し坂出ー函館の
 海運業を興し、明治16年塩産合資会社をつくり社長となり、19年には私立済々学
 館長となる。以来香川県議会議員、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、その間に
 坂出町会、坂出銀行、讃岐鉄道、讃岐紡績、農工銀行、県教育会長等各方面に活
 躍し、県下の商工水産業の発展に尽力した。又明治38年に朝鮮実業株式会社を興
 し、大正7年には社会教育振興のため私財を寄附して財団法人鎌田共済会を設立
 し育英事業をはじめ、図書館、社会教育会館、博物館を建設、成人学会などを創
 設し、教育文化の発展に大いに貢献した。昭和17年3月28日、79歳で死去。藍綬
 褒章を受章。
○ 修身資料讃岐の誇  近代四国人物夜話  郷土に輝く人々 (第1集)
  讃岐公論   昭和44年5月  坂出市史  淡翁


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問 河田迪斎 (ルビ てきさい)・貫堂・烋(ルビ よし)・烈(ルビ いさお)につ
  いて(香)
答 河田迪斎は、文化2年 (1805年) に、那珂郡金倉郷(現在の善通寺市金蔵寺町)
 で生まれた。通称八之助という。
  18歳のとき江戸にでて、儒学者佐藤一斉の門弟となる。のち、その学識、識見
 をみこまれて一斉の第8女と結婚した。
  安政元年(1853) ペルリー提督米艦9隻を率い浦賀港に来て、開港を迫る。幕
 府は林述斉大学頭に命じてこれに当らせた。
  迪斉は、述斉に随って下田にゆき、交渉のてん末の記録などで、大いに述斉を
 たすけた。この間、迪斉は開港の説をとって、進歩的な与論の第一線にたってい
 た。
  のち幕府の儒員となり、学問振興のため活躍した。
  安政6年 (1859) 享年54歳
  貫堂は、迪斉の長男で、名を熙(ルビ ひろむ)といヽ、貫堂と号した。
  政府の儒員となり、特に外交の事務に当る。開港延期の談判に、副使として仏
 国にいった。明治維新後は、静岡県小参事となり、また徳川家の家扶となった。
 享年60歳
  烋は、貫堂の弟で、その養子となる。省処と号した。
  貴族院、逓信省書記官などを歴任し、のち東京市助役となった。
  烈は、烋の長男として生まれた。
  明治41年東京帝国大学法科を卒業し、直ちに大蔵省に入る。
  昭和15年7月第2次近衛内閣の大蔵大臣となる。
  昭和27年2月、日華講和条約全権委員として、条約の締結の大任を果した。
  昭和38年9¬享年80歳。
○ 河田家の遺墨  讃岐人名辞典
  讃岐公論創刊45年記念特集号  仲多度郡史


問 蕪村が逗留した菅暮牛 (金川屋左平太) の家について (金)
答 蕪村が昭和3年の頃逗留した暮牛菅左平太の先祖は、はじめ美作国弓削庄にい
 たが、慶長年間備前国金川村に移り、寛永5年、時の別当住職宥[けん](#「ケ
 ン」は文字番号23392)に招かれて金
 毘羅へ移った。初代は孫左ヱ門正信、2代正親、3代金右ヱ門政秀、4代孫左ヱ
 門政勝とつづき5代茂市正彼は、俳人としても知られた冬扇で暮牛の父親である
 左平太は6代にあたる。
  代々酒造を業として、町年寄役を勤めた。冬扇の代までは菅納姓であったが寛
 保3年、姓を菅一字に改めたい旨金毘羅当局へ願い出て許された。
  代々金毘羅金光院の役人として務めながら、江戸深川富岡八幡宮別当永代寺の
 住職を出した堀端の菅、また元文3年から宝暦10年まで別当住職を勤めた宥弁を
 出した羽間村住居の菅、さらには幕末期菅廣松の名でお守箱所を営み、かたわら


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 参詣案内図なども発行した「新かね」と呼ばれた菅家など、みなこの家から別れ
 たものである。
  このような菅家 (橋本の菅と呼ばれた)ではあったが、冬扇、暮牛の頃がもっ
 とも栄えた時代で、後はだんだん衰え、8代政参、9代政芳頃からは借家や居宅
 を売払うようになり、10代光栄・11代正輝は金光院の役人の末席に加えられて扶
 持を貰うようになった。
○ 古老伝旧記 (新編香川叢書史料篇所収)
  進 退 録 (琴平町菅納彰次氏蔵)
  菅家 系図 (琴平町菅納彰次氏蔵)


問 木村黙老(ルビ もくろう)について (高)
答 高松藩執政で安永3年 (1774) 4月3日、高松城下二番丁の屋敷に生まれた。
 幼名熊次郎、通称与総右衛門、諱は通明、号を黙老といった。
  講道館に学び近侍にえらばれ、第9代高松藩主松平頼恕に才能をみとめられて
 家老となる。とくに財政面に力をそそぎ坂出塩田の開拓・砂糖為替法を考えて藩
 の金庫をうるおした。
  自筆本に「聞くままの記」「続聞くままの記」100巻がある。また滝沢馬琴と
 の交友は有名である。安政3年 (1856) 12月10日死去。 83歳。
○ 新修高松市史 Ⅱ P348  木村黙老と滝沢馬琴 消夏漫筆 (自筆本)
  讃岐人名辞書 P763   讃岐人物伝 P233   漂流記 (自筆本)
  久米栄左衛門の資料によく出てくる。 
  「正・続聞くままの記」は県立図書館にある。


問 日柳燕石(ルビ くさなぎえんせき)について(高)
答 日柳燕石 (1817~1868)幕末の志士。文化14年讃岐国仲多度郡榎井村字籏岡に
 生れる。幼名長次郎のち耕吉、名は政章、字は士煥・燕石・猿赤と号した。もと
 姓は草薙、その文字神器に畏多しとして父「日柳」に改める。父は加島屋惣兵衛
 といい、耕作をなし又質商を営んだ。14歳から18歳まで琴平の医者三井雪航に学
 び、詩文に長じ又書画をよくした。
  嘉永元年阿波より京阪地方を遊歴し、夙に勤王の志厚く、吉田松蔭・久坂玄瑞
 ・森田節斉・荒川栗園・木戸孝允等と交わり、松本奎堂・中岡慎太郎・本間精一
 郎・椋木八太郎・木曽源太郎等の天下の志士を庇護することすこぶる多く、高杉
 晋作をかくまった罪をもって、慶応元年5月投獄せられて以来、在獄4年、明治
 元年正月放免せられ、京都・長州・長崎方面に出向し、のち北越征討の総督仁和
 寺宮の側近に従軍し、8月越後柏崎の陣中に病死した。年52歳。その著に、呑象
 楼遺稿・柳東軒略稿・西遊詩草などがある。贈従四位。


ー92ー
○ 日柳燕石全集  仲多度郡史 P810  讃岐史談創刊号
  日柳燕石伝  日柳燕石研究1~5
  史跡名勝天然記念物調査報告6・9


問 久保太郎右衛門について (綾)
答 久保氏は延宝4年2月24日、阿野郡萱原村、現在の (綾南町大字萱原)に生ま
 れ、名は太郎右衛門と称し、天性聡敏にして23歳で萱原村の庄屋となる。当時の
 萱原村は水利の便が非常に悪く、毎年旱害になやまされていた。そこで時の庄屋
 久保太郎右衛門これを憐み、里人を救わんと水利の策をたて、綾川の上流山田村、
 現在の(綾上町山田上)田頃より萱原村大羽茂池に至る、3里18町の掛井手の開索
 を計画し、幾度か高松藩主に願い出たが難工事を理由に許されず、堪えかねた
 久保氏はついに藩主に直訴の非常手段に出たため捕われの身となった。久保氏は
 獄中にあって、なお工事の許可を哀願しつヾけたが許されなかった。たまたまこ
 の事を知った藩の家老大久保主計のねんごろなる取計らいもあって、漸く工事が
 許可され出獄も許された。
  久保氏は、私財を投じ身を投じて、日夜を分たず掛井手設置と大羽茂池築造に
 力をつくし、宝永4年の春、全工事は竣工した。又、妻は4里の間を金刀毘羅宮
 に幼児を背負うて日参し、成功を祈願する等の辛苦を経て竣工させたと言われて
 いる。
  この一大水利事業の完成により、萱原村、滝宮村、陶村に跨がる 500有町歩の
 水田は、この恩恵を受けるにいたった。後、幾年か経て大羽茂池畔に祠を建て、
 家老大久保主計を祭り、大久保神社と称し、庄屋久保太郎右衛門は、正徳元年7
 月23日36歳で死去、その霊を大久保神社に合祠し、報恩謝徳の祭典を行って来た。
  後、大久保神社は萱原の村社、八坂神社の隣りに遷し祭った。
○ 讃岐人名辞書  綾南町史
  香川県通史  滝宮村史  日本灌漑水利慣行の史的研究 P483
	

問 久米栄左衛門について (坂)
答 名は通賢といい、安永10年 (1781)大内郡引田郷馬宿に生まれる。もと船乗り
 を業とし農業をかねていた。天文地理学を好み測量に精通した。
  蘭法の砲術に精通し種々の奇功の兵器類を造った。殊に高松藩主松平頼恕の命
 により文政年間坂出の浜に塩田を開いた。この塩田を開くにあたり6、7年以前
 より潮の干満を研究し、昼夜の別なく、あらゆる辛苦に耐えて文政12年 (1829)
 これを完成した。天保12年 (1841)61歳で没した。
○ 讃岐の偉人 久米栄左衛門  久米栄左衛門と天文学  讃岐の誇り
  文化・文政の頃高松藩における久米栄左衛門建策の経済政策


ー93ー
  増補・高松藩記   讃岐人名辞書   総合郷土研究
  塩田の父・久米栄左衛門の生涯  久米栄左衛門
  小説・日本の塩 久米栄左衛門  大人名辞典
  讃岐文化の展望 下 P22  物語藩史7 P424


問 固浄について (香)
答 香川郡三名村 (現在の高松市三名町)の来光寺の12世の僧侶である。佛典及び
 和漢書に通じ、和歌・俳句・狂歌を能くした。深く西行を慕い、その著書山家集
 を10年の歳月をかけて注釈し、増補山家集抄として世に出す。寛政元年西行六百
 年追善のため社中18人と歌3,000首を詠み、固浄がこれを点じ、西行影前に供し
 た。享和2年12月没した。59歳。
  著書に古今狂歌享和集、伊豫紀行などがある。
○ 讃岐人名辞書 P712
  さぬきの西行固浄伝


問 後藤芝山について (香)
答 高松藩の儒官である。名は世釣、通称は弥兵衛、芝山と号する。享保7年高松
 に生まれる。幼にして学問を好み、はじめ守屋義門に学び、次で菊地武賢に従う。
 藩主松平頼恭その才を聞き、18歳のとき江戸昌平黌に入学させ、林正懿に教えを
 受けさせた。多年研鑽遂に一世の鴻儒となる。33歳のとき藩命により帰藩し講道館
 の総裁となる。学政科条を草定し、訓督を掌り、藩学の最盛期を招来した。程朱
 学を主とし、詩文に長じ、書も精妙、皇朝の典礼有職にも精通していた。職にあ
 ること30余年三代の藩主につかえた。天明2年62歳で没した。著書は天明史略、
 職原抄考証、有職少録、玉藻詩集、芝山集など多くがある。なかでも天明史略は
 初学のものに大いに喜ばれ、後藤点なる四書五経も有名である。門人に久保〔チ
 ュウ〕斎(#「チュウ」は文字番号22958)
 柴野栗山など俊才が出た。
○ 香川県教育史  P88
  讃岐人名辞書  讃岐人物伝 


問 向山周慶 (ルビ さきやましゅうけい)について (香)
答 大川郡白鳥町の人である。医学を藩医池田玄丈に学ぶ。宝暦年間高松五代藩主
 頼恭は殖産の志あり、池田玄丈の才幹を認め甘蔗の研究を命ず。
  玄丈病気のため精糖の完成を見ずして没す。周慶は師の意志を継ぎ研究するこ
 と十数年、たまたま京都に遊学中、薩摩の医生某と親しくなり、薩摩の精糖法を
 教えられた。周慶はそれから数年研究を重ね、初めて白砂糖40~50斤を得て讃岐


ー94ー
 に帰り試作に従事した。
  時に薩摩の人で良助という者が四国遍路の途中、大川郡湊村で不幸にも大病に
 かかり悩んでいた。周慶は八方に手をつくして病を治したので良助はこの恩義に
 報いるため、薩摩に帰り死を決して製糖の秘法を持ち出し周慶に伝えた。周慶は
 兄たちと共に一致協力し、ついに紫糖・氷糖・霜糖の製造に成功した。これより
 讃岐の砂糖は天下に知られるようになったのである。
  後年高松藩が豊になったのは砂糖の殖産事業を振興したためである。
  文政2年9月74歳で没す。郷里湊村では周慶を砂糖の神様として崇め、向良神
 社を建てその霊を祭った。その後明治5年高松市松島町にも向良神社が建てられ
 た。向良は向山の一字と良助の一字を取ったものである。
○ 讃岐人物伝  讃岐人名辞書  農業香川 昭和32.4  大川郡誌
  高松藩記  新修 香川県史  文化財協会報特別号9
  讃岐文化の展望下 P18  物語藩史7 P416

	
問 源義経の愛人白拍子静御前について (香)
答 現在の大川郡大内町丹生の富農長町庄左衛門の娘イソが磯野禅師であり、その
 娘が静である。頼朝の面前をも憚らず大胆卒直に「しずやしず、静のおだまきく
 りかえし、昔を今に、なすよしもがな」「吉野山、蜂の白雪ふみ分けて、入りに
 し人のあとぞ恋しき」と朗詠一曲を舞ったという話は有名である。しかし、静の
 父が誰であったか、死亡した場所、義経の子の生死等多くの謎もある。墓は三木
 町下高岡の願勝寺にあり、井戸の静が薬師に小庵がある。
о 「貞烈静御前」に静は判官義経の正室であると記しており、「静の足跡(山陽新
  聞 昭和35年8月9日~8月20日まで10回連載)は判官義経の愛妾としている。
  また「讃岐路の女性(3)(山陽新聞昭和35年12月3日) にも静御前がある。
  讃岐名勝図会 P108、P111 木田郡誌 P601  全讃史 P422  玉藻集
  香川叢書3 P40 三木町史 P611~612 新香川 昭和39年11月~40年4月
  と昭和40年12月


問 柴野栗山(ルビ りつざん)について(香)
答 江戸中期の儒者、名は邦彦、字は彦輔、栗山と号した。
  元文元年(1736) 木田郡牟礼町八栗山下に生まれる。10歳で高松藩の儒者後藤
 芝山に学び、18歳にして江戸に出て昌平黌に学んだ。32歳で阿波藩の蜂須賀侯に
 仕えた。天明8年52歳のとき、ときの老中松平定信に召され、幕府昌平黌の儒員
 となり、天下の学者をして程朱学に向うことを知らしめ、大いに学政を振起した。
 栗山についで幕府に召された古賀・尾藤を併せて、世に柴野彦輔 (栗山)、古賀
 弥助 (精里)、尾藤良佐(二州)の三人の儒者を寛政の三博士、又は三介(ルビ 
 さんすけ)と称す


ー95ー
 る。
  栗山は文化4年(1807) 12月、江戸駿河台で没した。年72歳。
  その著書に、国鑑、聖賢像図考、資治格言、冠服考証、栗山文集等がある。
○ 讃岐人名辞書 P900  木田郡誌 P387
  讃岐人物伝 P494  讃岐郷土読本 P86
  讃岐先賢小伝 P30  柴野栗山(福家惣衛)
  柴野栗山 (ことひら 昭和10年7月~12年1月号、森銑三)
  柴野栗山 (矢野義雄・馬場健二)  家庭に寄せし柴野栗山の書簡


問 十河一存(ルビ そごうかずまさ)と十河城について (高)
答 もとは、三好氏で名を之虎といった。讃岐の名家十河氏を継ぎ、十河一存と改
 めた。兄は三好長慶と三好実休で細川家の執事をつとめ、永禄年間には阿波・讃
 岐を支配下におさめ、主家をしのぐ勢力であった。一存は十河家を継いで讃岐の
 目代として東讃を中心に勢力を伸ばした。
  十河城 (または西尾城) は、現在の高松市十川東町字城の称念寺一帯にあった
 十河氏の居城である。天正10年8月、長曽我部軍3万6000余の兵に攻められて落
 城、讃岐は長曽我部の支配となった。
○ 新修高松市史Ⅰ P348  新修香川県史 P404
  木田郡誌 P138、P440、P620と655  讃州府志 P263
  山田町史 P18  香川叢書Ⅱ P132 日本伝説讃岐の巻 P406


問 谷本富(ルビ とめり)について (香)
答 谷本富は慶応2年高松に生れ、高松医学校を経て東京帝大に入る。卒業後山口
 高校・東京高師教授を歴任、その間欧米に留学、明治39年京都帝大文科の創設に
 参画して教授となる。
  わが国へ初めてヘルバルト学派の教育学を導入して普通教育に画期的な進展を
 もたらし、また教育学者の立場から宗教教育の緊要を力説しこれが実施を促がし
 た第一人者であった。
  このように近代的教育論の権威で京大総長を目された俊秀学者であったが、明
 治45年明治天皇崩御の折乃木大将夫妻殉死を批判して世論がわき、京大を去る。
  退官後も竜谷大学に出講しながら、「最近教育学大全」をはじめ多くの著書を
 出版して教育界に貢献した。
  また梨庵と号し、随筆も書いた。例によって皮肉と直言に満ちたものであった。
 昭和21年80歳の長寿をもって芦屋で死亡した。
○ 明治百年 P275~P277  香川県教育史 P195~P196 P201~P202
  中等教育の革新(著書一覧、略歴所載)

ー96ー
問 田宮坊太郎について (丸)
答 坊太郎は古くから平賀源内の浄瑠璃金比羅利生記で有名であるが、その後、柳
 亭仙果の読本などで全国に知られた。
  寛永2年3月、城主生駒氏が山北八幡宮を修築するとき、警固のため八幡宮の
 馬場先に赴いた坊太郎の父源八は、丸亀藩武芸御指南役堀口源太左衛門の怒にふ
 れて斬殺された。その時源八の妻は妊娠中で、翌年生まれた坊太郎は、大きくな
 って父の仇を討つため江戸柳生の門下に入り、武芸に励んだ。
  寛永19年、17歳で父の仇を討った坊太郎の孝心と武名は一躍有名になったとい
 う伝説。丸亀市南条町玄要寺墓地には田宮坊太郎塔がある。
○ 丸亀史料シリーズ 5号 P37  田宮坊太郎
  金毘羅神霊記  金毘羅御利生記  四国
  志度町史 P1050


問 田宮坊太郎と志度寺について (香)
答 江戸時代、寛永のころ、紀州の浪人で田宮源八という侍が、丸亀藩に召しかか
 えられた。文武両道にたけ、人格者で信望を集めた。ときの藩剣道指南役、森口
 (堀口) 源太左衛門は、源八の人気あるをねたみ、ある夜だまし討ちにした。源
 八の子坊太郎は、森口の後難をおそれ、乳母お辻と志度寺に身をかくす。そのこ
 とを知った森口は、ある日志度寺にやって来る。そのとき給仕に出た坊太郎のた
 もとから、禁断の桃がころげ落ちた。森口は、これを口実に坊太郎を手打ちにし
 ようとしたが、坊太郎がオシになり、危く一命を取りとめる。そののち坊太郎は
 成人し、江戸の柳生道場に入り、剣をみがき、寛永19年、父の17回忌に、丸亀山
 北八幡宮境内にて、森口を討ち取り、父の恨みを晴らす。志度寺には坊太郎ゆか
 りのものといわれる「薗の桃」が書院の前にあり、また、乳母お辻が水垢離をと
 って仇討ちを祈願したという「お辻の井戸」もある。田宮坊太郎の仇討ち物語り
 は浄瑠璃「花上野誉石碑」として上演され、いまに伝えられている。
○ 志度町史 P1050  「森口」と記述
  讃岐文芸読本 P187  「堀口」と記述


問 津島寿一について (坂) 	
答 明治21年1月1日、坂出市に生れ、丸中、一高を経て東大政治学科を卒業、大
 正から昭和初期にかけて、英、米、仏の海外駐在財務官として活躍、この間昭和
 2年輸出入禁止撤廃国際会議全権、昭和7年ローザンヌ会議全権、翌年ロシア国
 際経済会議全権代理として出席、国際連合財政委員、ロンドン海軍々縮会議随員
 に選ばれ、日本のヤングツシマと言われる程敏腕をふるい活躍した。昭和9年帰
 朝、大蔵省理財局長を振出しに大蔵次官、昭和12年日銀副総裁、昭和16年北支開


ー97ー
 発総裁、昭和20年に小磯、東久邇内閣の大蔵大臣を歴任、後貴族院議員となる。
 終戦後公職を追放されたが解除後大蔵省顧問として活躍、フィリッピンとの講和
 条約締結に際し全権委員となるなど国政に貢献する一方、体育、交通、産業等の
 全国団体の会長としても活躍した。
  遺贈の図書が「津島文庫」として県立図書館にある。
  昭和42年2月7日死去。正三位勲一等旭日大授章を受章
○ 修身資料讃岐の誇  古今讃岐名勝図絵  近代四国人物夜話
  郷土に輝く人々(第2集)  讃岐公論 昭和44年5月号
  世界人名辞典 (東洋篇) P545
  坂出市勢要覧 昭和43第21版人事興信録(下)


問 土肥大作について (香)
答 土肥大作幼名は猪太郎、諱は実光、字は孟輝詩又甲山と号した。丸亀藩士にて
 天保8年9月生る。最初藩学正明館に学んだが後に江戸に出て昌平黌に学ぶ。つ
 ねに皇政の衰えと藩政の実情を憤慨していたが、安政6年藩に帰り弟七助と相談
 し、兄弟ともに国事につくすことを誓い弟を脱藩せしめ天下の勤皇の志士と交り
 をもたせ、また自分もしばしば京都・大阪を往来して長・土2藩の志士たちと交
 際した。また藩主の内旨をもって当時の形勢を報告し丸亀藩内において勤皇の世
 論を起すことに大いに力があったが藩においては幕府の目を恐れ慶応2年9月、
 大作を他の同志とともに幽閉した。しかし、丸亀藩が高松藩征討の命を受けた明
 治元年、にわかに許され、大作はただちに征討軍の参謀となった。さらに大作は、
 朝廷が、旧幕府、幕臣の領地を、府や県の管轄に改めたとき、三河県判事に任ぜ
 られた。翌年2月には、朝廷が、諸藩のなかから才能のあるものを選んで、政治
 に参加させることにした徴士になった。また9月には、丸亀藩知事京極朗徹に呼
 ばれて権大参事になり、藩政の改革に専念した。その後、丸亀藩の会計総裁から
 民部省の公議人、六等出仕の官吏になり明治4年5月、丸亀県の初めての政治を
 視察するため帰郷した。
  その頃、まだ新時代の事情に通じていなかった旧藩士族らは、維新の新政をよ
 く理解しょうともしなかった。藩政の数々の変更や、その家禄が減じられたのは、
 土肥大作の専断であると考えて、50余人が徒党を組んで、丸亀県庁に強く訴えた。
 県当局はこの処置に苦悩し、非常にとまどった。
  これら徒党は7月10日夜に乗じて、土肥大作の宿舎を襲った。大作等はこれを
 防ぎ敗走させたが大作も傷を受けた。暴徒側は3人が即死し、負傷者は10数人あ
 った。県庁は、翌日からこれら暴徒を捕え、裁判にかけて、それぞれ処分した。
  7月12日、丸亀県庁はこの事件の概要を政府に届け出た。政府から大作に見舞
 金がおくられ、視察を22日間延長する旨通知があった。
  8月になって丸亀県の政治が正常になったので東京に帰った。同年11月3日飾


ー98ー
 磨県参事になり、5年正月新治県参事に転任した。同年5月24日夜半時世に感ず
 るところがあって屠腹して没す。
○ 讃岐先賢小伝 P54~P56   新修丸亀市史 P417~P418   讃岐人名
  辞書 P159~P160  讃岐人物伝 P114~P119  香川県の歴史 P209~
  P210


問 鳥居忠耀について (丸)
答 弘化2年(1845)10月、江戸の町奉行であった鳥居忠耀が罪によって丸亀藩に
 お預けになった。藩では大事な預り人であったから、大ぜいの者が警固して江戸
 から丸亀に護送し、郭内六番丁の御用屋敷に幽閉し、青竹の矢来を張りめぐらし
 た。忠耀は幕府の昌平坂学問所の大学頭、林述斉の次男で天保12年(1841) 目付
 から江戸町奉行になった。悪知恵にたけていて、目付、町奉行勤務中に大名、良
 民といわず自分が好まない者は多く罪に落し入れ、評判が悪く、深く憎まれてい
 た。
 ほんとうなら重い罪になるところであったが、格別の情けで丸亀藩へお預けとな
 ったのである。京極家に幽閉されること23年。明治元年(1868)に許されて、郷
 里駿府(静岡)へ帰った。同7年10月に死去した。
○ 新修丸亀市史 P260 日本人名大事典 第4巻  鳥居甲州詩歌録


問 長尾雨山について (香)
答 書家、名は槙太郎という。明治元年(1864)高松市に生まれる。東京文科大学
 古典科を卒業、学習院、東京美術学校、第五高等学校、東京高等師範学校などの
 教授、文部省図書編纂官、東京帝国大学講師となった。明治35年上海にわたり、
 中国各地を歴遊し、昭和16年日本に帰る。帰国後京都に住み、内藤湖南等多くの
 学者との交遊があった。書を能くし、また書画の鑑定にもくわしかった。昭和17
 年(1942)79歳で死去。
○ 新修高松市史Ⅱ P397  讃岐人名辞書 P462


問 中野武営 (ルビ たけなか)について (香)
答 高松藩勘定奉行中野次郎兵衛武憲の子として高松市鉄砲所 (今の西通町) に生
 まれ、香川県史生から権少属となり愛媛県、大蔵省、山口県を経て農商務権少書
 記官となり、14年開拓使官物払下問題をきっかけに大隈重信らの立憲改進党創立
 に参加し、愛媛県議会議員、議長となる。実業界では東京馬車鉄道会社社長、東
 京株式取引所理事長、東京商業会議所会頭、日清生命保険会社社長として活躍し、
 旧藩主松平伯爵家の財政顧問役として世話をやいた。


ー99ー
  明治23年国会開設以来、高松を地磐に連続7回、ついで東京から1回衆議院議員
 に当選し、大正3年から東京市会議員、議長をつとめた。明治42年渋沢栄一らの
 渡米実業団に加わり北米視察後、土産話として高松にも上水道をつくるようすす
 めた。また、謡曲をよくし、書道にこり多くの揮毫をのこしている。嘉永元年(
 1848)正月3日生、大正7年(1918)10月8日死去、71歳、高松市浜ノ丁蓮華寺
 にほうむられている。正5位勲3等。
○ 新修高松市史Ⅱ P391  中野武営翁の70年  大人名事典第4巻 P568
  近代四国人物夜話 P46  香川県近代史 P600  松平頼寿伝 P478
  新修高松市史Ⅲ P445(上水道のあゆみ)   郷土に輝く人々1 P75
  東京百年史4巻 P196


問 中村三蕉について (丸)
答 丸亀市土居町、丸亀藩士中村弥右衛門の子として文化14年9月に生まれた。は
 じめ僧となり、仏学を修め転じて儒学を学び、少時帆足愚亭について修行、嘉永
 2年丸亀藩学正明館の副助教兼詩文係として勤めた。後藩主の侍講となり、明治
 27年8月25日78歳で死去。
  南条町玄要寺に墓地あり、毎年祭祀を行っている。
  著書(寓茗黌詩文鈔、清気楼詩文抄など)
○ 讃岐人名辞書  香川県関係勤王志士功臣学者等の調査 丸亀史談 (丸亀史科
  シリーズ第11号)


問 南原繁について (香)
答 南原繁は、明治22年9月5日大川郡引田町相生南原貞吉の二男に生まれた。楠
 家の系統を受け、幼にして三谷椙之助先生に師事し、論語、孟子、大学、国史略、
 十八史略などを読破し、早くも天凛の才能を現わしていた。大川中学、一高をへ
 て東大政治学科卒、内務属富山県射水郡長、内務事務官を二年やり、東大にかえ
 り、昭和20年12月総長となる。なお、昭和13年貴族院議員に勅選、昭和45年11月、
 日本学士院長に選任され、昭和49年4月29日、勲一等旭日大授章受章、昭和49年
 5月19日胃がんのため84歳で亡くなった。政治哲学を専攻、戦時中、ナチズムを
 批判したり、敗戦直前には宮内大臣に終戦を進言するなど気骨のあるところをみ
 せた。戦後、東大総長時代、卒業式での演説は、当時のすさびきった日本人の心
 のささえとなる。学長でなく総長だといいはったが、めんどうくさいと博士号を
 とらなかった。昭和25年5月、サンフランシスコ講和条約に「全面講和論」を唱
 えて、時の吉田首相と対決したエピソードは有名だ。吉田総理は、「学を曲げ、
 世に阿(おもね)る曲学阿世の徒」と、こきおろしたが「国際の現実は政府関係者
 だけが知っているとなすのは官僚的独善」と、反骨ぶりを示した。大中同窓会長、
 

ー100ー
 東京香川県人会長などをつとめ、常に郷土人を愛した。東京讃岐会館に飾られた
 直筆の「ふるさとの讃岐の海の巌づたひ魚つり呆けし少年の日よ」は、ふるさと
 に思い寄せた遺作となった。著書に「国家と宗教」「フィヒテの政治哲学」「文
 化と国家」「歌集形相」など多い。
○ 四国新聞昭和49年5月21日 一日一言 P15 四国新聞昭和44年2月3日(郷
  土人脈32) 讃岐公論昭和44年5月号 P146  人事興信録(27版) (下)
  P262 四国新聞昭和49年5月20日 P1 P15 朝日新聞昭和49年5月20日
  天声人語


問 義賊南林について (多)
答 南林は三豊郡大野原の生まれで、性情義侠に富み、資産家の財貨を掠奪し、こ
 れを貧民に施すことを楽しみとした。これ義賊の称ある所以である。南林が四箇、
 薮内増治方へ闖入したので藩庁では捕吏播磨屋忠兵衛に逮捕を命じ、逮捕される。
 元治2年12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇にて処刑された。
  南林のとりたる金は幾万両
     身につく金は今日の一太刀
 と辞世の歌を読んで死んた。現在南林の墓は東白方墓地に残る。
○ 白方村史 P178~P181 多度津町史 P190 


問 西嶋八兵衛について (香)
答 西嶋八兵衛 名は之尤、後に之友と改める。八兵衛は通称である。
  慶長元年(1596)遠州浜松に生まれる。慶長17年(1612)17歳で伊勢の津藩
 主藤堂高虎に仕えた。水利・土木・経済・書道など多方面に優れていた。寛永2
 年(1625)30歳から44歳まで藤堂藩から高松生駒藩に、普請奉行・郡奉行をかね
 て派遣された。延宝8年(1680)85歳で伊賀において病のため没した。
 1.灌漑事業 満濃池をはじめとして90余の池の普請をした。
 2.治水事業 香東川の流れをつけかえ氾濫を防いだ。
 3.干拓事業 木太・春日の新田を作った。
○ 新修高松市史1 治水利水の先覚者西嶋八兵衛と栗林公園   讃岐人名辞書
  讃岐人物伝  讃岐香川郡誌  讃岐の池と水  四国開発の先覚者とその偉
  業3 讃岐公論 昭41.2 新香川 昭和37.9 香川県通史  香川用水28


問 林良斉について (多)
答 林良斉は多度津藩の家老で嘉永2年 (1849)に43歳で死去した。大阪の陽明学
 者大塩平八郎について学び業を終えて帰国し多度津の堀江に弘浜(ルビ ひろは
 ま)書院を創設して


ー101ー
 子弟に教えた。その教えの中心は無我と慎独 (ルビ しんどく)と実行ということ。
 つまり自分勝手
 な欲望をおさえて世の中の為になることをするとか独りを慎しむこと、つまり人
 が見ていようがいまいがそんなことは別にしていつでも良いことをする。そして
 特に重んじたことは実行ということである。書物を読んだり勉強をしていくら知
 識を高めても実行をしなければ意味がないとした。多度津の白方には今もその邸
 宅が残っていて町の文化財に指定されている。墓は勝林寺にあり井戸枠にかこま
 れためずらしい形の墓として有名である。
○ 讃岐人物伝 P520  多度津町史


問 平賀源内について(香)
答 源内は享保14年(1729)志度浦 (志度町) に生まれ、名を国倫(ルビ く
  にとも)といい鳩渓 (ルビ きゅうけい)と号
 した。また天竺浪人・松籟子・(ルビ しょうらいこ)風来山人・森羅萬象翁・
 根無叟 (ルビ ねなしそう)などと変った号を
 もっていた。源内というのはその通称である。
 19歳のとき藩の薬坊となり松平家の薬草園で働く。
 宝暦2年 (1752) 長崎へ1回目の遊学をする。
 〝 5年 (1755) 量程器・磁針器をつくる。
 〝 6年 (1756) 江戸に行き田村藍水(ルビ らんすい)の門に入る。「有馬
         紀行」成る。
 〝 9年 (1759) 湯島で物産会を開く。
 〝 12年 (1762) 「紀州産物志」成る。
 〝 13年 (1763) 「物類品隲」(ルビ ぶつるいひんしつ) 刊行。平線儀を製
          す。「根無志具佐」(ルビ ねなしぐさ) 「風流志道軒伝」
          刊行。
 明和元年 (1764) 石綿発見・火浣布 (ルビ かかんぶ)を織る。「火浣布説」発
         表。
 〝  (1765) かんすい石発見。
 〝 3年 (1766) 金山 (ルビかなやま)事業に着手。
 〝 5年 (1768) タルモメイトルを模造。
 〝 6年 (1769) 「物産書目」成る。
 〝 7年 (1770) 「神霊矢口渡」「源氏大草紙」初演。
 〝 8年 (1771) 毛織物の試織に成功。
 安永3年 (1774) 「放屁論」刊行。
 〝 4年 (1775) 炭焼をはじめる。
 〝 5年 (1776) 菅原櫛を売り出す。エレキテルの復元に成功。
 〝 8年 (1779) 12月8日獄中にて病死。
○ 平賀源内 (今井誉次郎)   平賀源内 (貴司山治)
  平賀源内 (桜田常久)   平賀源内 平賀源内の研究 (城福勇)
  平賀源内 (進藤義明)   平賀源内 (松浦正一)  平賀源内 (船戸安之)
  平賀源内全集上・下  讃岐偉人平賀源内  先覚者平賀源内
  日本新文化の先覚者平賀源内先生の事ども  先覚者平賀源内の生涯


ー102ー
  平賀源内の県居入門について  平賀源内 (風来山人) の文学
  讃岐の史話民話 P152  香川県の歴史 P177
  平賀源内の研究 (亀山創刊号) 平賀源内 (芳賀徹) 平賀源内(村上元三)
  平賀源内の秩父における鉱山事業について (香大教育学部研究報告第1部第9
  号)  平賀源内の県居入門について (香大教育学部研究報告第1部第12号)
  平賀源内における文芸と絵画と (香大教育学部研究報告第1部第25号)
  宝暦末年ごろの平賀源内二題 (香大教育学部研究報告第1部第28号)
  晩年の平賀源内(香大教育学部研究報告第1部第30号)
  平賀源内の年譜に関する2、3の資料(鋤雲10)
  物類品隲  放屁論


問 義人平井兵左衛門について(土)
答 池田郷の大里正、名は氏政、延宝5年(1677)の生まれ、性沈着、剛胆、職務
 に精励し民望があった。宝永4年 (1707) 春、讃岐松平藩の領民の漁師の一群が、
 池田の沖富士の瀬の鰆の漁場へ侵入し、突如として網を張った。当時の池田村庄
 屋平井兵左衛門は、あまり度々の侵入に、遂に幕府に上訴した。そしてこの審理
 が7か月にわたった末、池田村の勝訴となった。ために漁民は大いに心を安め、
 幕府の裁判の公平に信頼の心を寄せた。これを富士の瀬漁場事件という。その後
 高松藩から、報復手段がまつわりついてきた。意外にも小豆島は天領から高松藩
 に転属せしめられたのである。島民安んぜず、宝永7年7月幕府の巡検使が来島
 した際、池田村の百姓、彦兵衛、与次左衛門等が民心を代表して百姓の窮状を救
 い、むかしの天領に復活すべく哀願書を出した。兵左衛門は島民を煽動したとし
 て処刑された。後年池田村の人々は兵左衛門の霊を祭り、義人平井兵左衛門とし
 て永くその功を顕彰した。
○ 小豆郡史 P124 P379 小豆島3才図会  兵左と百助


問 藤川三渓について (香)
答 捕鯨法を改革した藤川三渓は、名は忠献、字は伯孝、通称は求馬のち能登、将
 監といい、三渓は号である。文化13年、山田郡三谷村(現在高松市)に生まれ、
 明治22年74歳をもって大阪で病死した。その間、勤王家として維新事業に貢献し、
 また大阪に水産学校を開いて子弟を教育するなど、学者としての活躍も見のがせ
 まない。著書は科学者・歴史書・詩集などおよそ17部 350巻にも及んでおり、藻
 海鱗爪集、捕鯨図識、水産図解などが知られている。
○ 藤川三渓伝 (桑田透一)   藤川三渓 (加藤増夫) 讃岐先賢小伝   讃岐史
 談 (創刊号昭和11年)   第2巻第1号 (昭和12年) 讃岐公論 昭26.6  讃
 岐人名辞書 史跡名勝天然記念物調査報告9   木田郡誌 P424


ー103ー
問 藤沢南岳について (香)
答 南岳は藤沢東〔ガイ〕(#「ガイ」は文字番号21828)の子で、父のあとを継ぎ
 大阪市淡路町に漢学の私塾「泊園書院」を開き、多くの弟子を教えた。父
 東〔ガイ〕(#「ガイ」は文字番号21828)は塩江町安原下字中村の出身、幼にして中
 山城山に漢学を学び、長崎にも遊学した。文政7年31歳のとき大阪に出て、塾を
 開く。尊王の士である。元治元年 (1864) 71歳で没した。その子南岳は維新のと
 き朝敵高松藩を説服して勤王に帰順させたことは世の人のよく知るところである。
 大正9年 (1920) 79歳で没す。
○ 塩江町史 P97  讃岐人名辞書 P645


問 古川庄八について (香) 
答 寛永10年(1633) の鎖国令以来、泰平の夢を見続けてきた日本も、嘉永6年 (
 1853) のペルリ来訪によって、ようやく海防の重要性をさとり大船製造の禁を解
 き、わが国と外交関係を継続していたオランダに依頼して、欧式海軍の創設をは
 じめた。安政2年 (1855) 長崎に海軍伝習所を開設し、オランダより贈呈された
 汽船と派遣された教育隊により、勝麟太郎ら旗本を生徒とし、長崎・肥前・塩飽
 出身者を水夫・火夫とした。萬延元年、日米修好条約批准のため渡米した幕府使
 節の護衛船咸臨丸はこうした日本人の独力で太平洋横断の壮挙をなし遂げたが、
 水夫や火夫の大半は塩飽出身であった。 
  文久2年 (1862) 幕府はアメリカに軍艦2隻の建造を依頼したが、南北戦争が
 勃発したため、オランダに注文替となり、榎本釜次郎ら士分7名・医師2名・職
 方7名を諸技術研究のため留学させることになった。
  塩飽出身の水夫小頭古川庄八 (28歳) はボースンの職務を、水夫山下岩吉 (22
 歳) は艦上の一般の仕事と帆縫を修業した。文政2年6月18日、咸臨丸で品川を
 出帆し、8月13日塩飽本島に立ち寄り、9月11日オランダ船で長崎をたち、10月
 6日ガスバル海峡で座礁沈没したため、11月3日バタビヤで別船に乗りかえ、喜
 望峰をまわって4月18日オランダのロッテルダムに着いた。慶応2年10月25日竣
 工した開陽丸は留学生を乗せブラジルを経て、翌3年3月26日横浜港に無事入港
 した。
  古川庄八は、塩飽瀬居島 (現在の坂出市瀬居町) 西浦に天保6年 (1835) 2月
 4日出生し、明治元年 (1868) 戊辰の役後、回天丸に乗って榎本釜次郎らと脱走
 し、宮古・函館で官軍とたたかい捕虜となったが、後、横須賀造船所の監督とな
 り、大正7年 (1918) 病死した。
○ 文化財協会報特別号 6  香川県通史 P899
  文化財協会報 32   塩飽 P28
  瀬戸内海における塩飽海賊史 P395
  史蹟名勝天然記念物調査報告2 P42


ー104ー
問 讃岐別所家と別所九兵衛功徳碑について (高)
答 別所家は播州三木城主別所長治の子別所源兵衛長行が、落城後に讃岐に逃がれ、
 善通寺に入った。のちに出家を拒んで香川郡百合郷 (現在仏生山町) に移り住ん
 だ。それが讃岐別所家の祖である。長行は慶長5年 (1600) 9月、旧臣らととも
 に関ヶ原の戦に参加して、9月16日戦死した。年21歳。
  別所九兵衛 (包好) は、長行の遠孫で、八郎兵衛敬信の子に生まれた。寛保2
 年 (1742) に家督を継ぎ、庄屋となる。宝暦4年 (1754) には、大庄屋 (香川郡
 東八か村) を兼務した。常に農事を奨励し、各村ごとに倉付米の制度を設けて、
 余米を蓄積し、その利益で田畠を購入して自作農を多くした。また、饑饉に備え
 たから、天明の大ききんにも八か村からは餓死する者はなかった。さらに他郡に
 も自米300石を出して救済するほどであった。
  寛政4年 (1792) 2月10日没した。
  文政7年 (1824) に、高松藩主松平頼恕は子の九兵衛長儔 (高70石小寄合並) 
 に白銀若干を与えて、永く業績を伝えるために、屋敷内に功徳碑を建立させた。
 碑文は高松藩儒員岡内禄の作である。
○ 香川郡志 P317~P319  讃岐人名辞書 P141  高松地名史話 P48
  

問 細川頼之と岡城址について (香)
答 細川頼之は頼春の子、幼名を弥九郎と称し、右馬頭であった。人となり温厚で
 あり、謀略に長じていた。足利氏に仕え、従四位下になる。正平17年細川清氏を
 讃岐の白峰及び西長尾に攻めて滅した。時の将軍足利義詮が臨終の際、その子義
 満がまだ幼なかったので、頼之に義満を輔けるようあとを嘱した。
  頼之よく遺言を守り、文武両道の士を選びその養育にあてた。義満成長するに
 したがい頼之をきらった、近臣の中にも頼之をざん言するものがいた。頼之職を
 罷め、讃岐の岡城 (香川郡香南町) に居をきめ剃髪して常久と号した。詩を作っ
 て曰く、「人生五十愧無功 花木春過夏巳中 満室蒼蠅掃難去 起尋禅榻臥清風」
 のちになって義満は思い直し、元中8年頼之を再び召して親任を厚くした。元中
 9年頼之64歳で没した。義満がはじめに善政が行えたのも、頼之が補佐の力によ
 るところ大であった。
  岡館は延文年間 (1356~60) 阿波の勝瑞城にいた頼之が、この地に居を移し、
 岡隼人の城に入り、新館をこの城の近くに築いて岡館 (屋形) と称した。頼之は
 ここを本拠として四国の政治拠点とした。頼之の六世の孫義春の子澄元が、管領
 政元の養子となり、この地を去るにおよんでこの館も廃された。
○ 讃岐先賢小伝 P11  日本城郭全集 P145
  讃岐人名辞書


ー105ー
問 本荘助三郎について (坂)
答 慶長年間 (1596~1615) に西庄村原 (今の坂出市西庄町原) に生まれた。資性
 剛直で曲非を許さぬ性格で義を重じ窮民の救済に尽力した。
  当時綾川下流の西庄村は、灌漑用水に乏しくて、荒地が多く農民は極度に困窮
 していた。助三郎は私財を投げ出し一身を犠牲にして、綾川より井口を開いて導
 水して新田を開き村民の暮しを豊かにした。
  この井口を「加茂井口」、後に「本庄井口」と云った。原部落ではこの井口水
 路を「二刻堀」と呼んでいた。 (他地区への引水の関係で引水時間を2刻、今の
 4時間と定めた為)  原の助さん井口を開きあれ地開いて米つくる」 と地域の人
 々に謡われて来た。
  又、助三郎は馬術の達人で、大束川を馬でひととびしたとか、田植中の畦道を
 馬の足跡もつけずに通った、など逸話が幾つか残っており、「原の助さん馬乗り
 姿 お江戸御家中にあらすまい」と謡われ、「原の助さんが宇多津の川を、馬を
 はさんで飛んだ」と、今に語り伝えられている。
  現在、西庄の原にある小祠は、西庄開拓の恩人として、神の如くに尊敬されて
 いた助三郎を村人たちが祭ったものである。
○ 讃州府志 P574   香川県通史  坂出市史 P480 讃岐人名辞書 P123
  讃岐生駒時代の加茂本荘物語 P17~P21 大人名辞書 ⑤ P562
  坂出市勢見学のしおり


問 松崎渋右衛門について (高)
答 明治2年 (1869) 9月8日、高松藩の執政、松崎渋右衛門が城内桜の馬場付近
 で、堀多仲 (大隊令)、鈴木勇 (近侍)、三浦譲らによって刺し殺された事件があ
 った。松崎享年43歳。
  渋右衛門は勤王家だったため人獄2年余、慶応4年 (1868) 6月出獄し、再び
 藩の執政・会計・農政の要職につき、しだいに藩政の主導権をにぎった。とくに
 藩が唱えていた英国式の兵制に反対し蘭式を主張し、軍隊関係とはげしく対立し
 ていた。
  松崎は9月7日、鈴木勇より、ご慰労のおぼしめしで藩主おめしのご紋付羽織
 をたまわるから、8日登城するよういわれ、午後2時頃、若党と草履取りを従え
 て、玉藻城東から太鼓門をくぐるや、門が閉ざされ、軍務長山本新平らは松崎を
 とり囲み軍務局内につれこみ、よってたかって、罪状をあげ口々に松崎をなぶっ
 た。渋右衛門は屈するところなく自説をのべて釈明したところ、憤激逆上した三
 浦譲は短刀のさやを払い、松崎を刺殺した。表向きは松崎が発狂、自殺したと藩
 庁に届け出た。かねて松崎と勤皇の同志であった揚雄造・太田次郎らは反松崎派
 に謀られて殺害されたとわかるや、京都弾正台へ訴え出、弾正台の取り調べによ
 り、発狂自殺はまっかなうそで同志共謀の殺害であると明らかにされ、明治4年
 

ー106ー
  (1871) 7月5日、鈴木勇・堀多仲は斬罪、三浦譲は絞殺、藩知事であった松平
 頼聡も閉門40日の罪に処せられた。
  松崎渋右衛門は神櫛王陵が千数百年以上埋没していたのを修理、王墓 (八栗王
 墓) として崇敬の基を開いたり、また明治2年8月に満濃池の工事を完成し、今
 も堤防に松崎神社として祭られている。高松市姥ケ池に墓があり、明治31年7月
 4日正4位を贈られた。
○ 新修高松市史Ⅰ P491  讃岐から香川へ (読売新聞)
  明治100年にちんむ高松今昔記2 P11
  高松県史1 (騒擾時変の部)  明治100年香川県の歩み P54
  史蹟名勝天然記念物調査報告9  香川県近代史 P125
  讃岐公論 昭和42年10月号 松崎渋右衛門伝
  あの事件この事件 (四国新聞夕刊)
  松崎渋右衛門伝とその史料


問 間宮藤兵衛について (丸)
答 間宮藤兵衛 (竜野時代150石) の子、三橋政之 (丸亀藩主京極家の家老の家に
 生まれた。)は明治20年弟間宮光貫外三戸の士族、19戸の農家と計22戸89人の団体
 を結成し、 北海道洞爺湖畔に仮倉庫をたて開墾に励み、作業も又年増しに良くな
 り、永住決心する者もあって活気があった。
  明治25年県道貫通、戸数 200余戸、成墾地 700町歩となった。丸亀出身の三橋
 家は今も北海道に在住である。
○ 間宮藤兵衛覚書  洞爺村史


問 丸尾五左衛門について (丸)
答 丸亀市牛島里浦の中央、海岸に面したところに、丸尾五左衛門の屋敷跡がある。
 丸尾家はもと東氏を称し肥後の浪人であったが、寛永のころ、牛島に来て回船業
 に従事し、丸尾と称するようになり、北は北海道、南は九州まで、各地の産物を
 江戸、大阪に回送し、約 100 年にわたる全盛期を全国に名をとどろかせた。又、
 屋敷跡は、昭和31年6月1日、 市文化財保護委員会により史蹟に指定された。
○ 新修丸亀市史 P142   讃岐人名辞書  丸亀の文化財 P79


問 三土幸太郎と三土忠造について (坂)
答 三土幸太郎は、梅堂と号し、孝明天皇の弘化4年 (1847) 9月24日、西庄村
 (現在坂出市西庄町) の里正「三土謙三」の子として生まれた。幼にして富家五鈴
 に就て学び、後秋山伊豆、片山直造等に師事し、藩より選ばれて東京に遊学、帰


ー107ー
 郷後香川県中等助教より坂出公学校長兼参教を初め、愛媛県出仕、飯山中学校長
 を経て県立丸亀中学校創立以来勤続多年に及び、三土奨学資金及び追慕碑を建て
 られた。大正7年11月病のため没した。年76歳。
  三土忠造は、明治4年 (1871) 6月25日、大川郡誉水村水主(ルビ みずし)
 現在の大内町の宮
 脇家に生れ、長じて「三土梅堂」の養子となる。香川師範、東京高等師範を経て
 同校教官となり、英国ケンブリッチ大学に歴史、政治、経済等を学び、ドイツの
 ベルリン大学で教育学、教育行政、社会教化を研究し、帰朝の後韓国学政参与官
 となり、香川県より衆議院議員に当選すること10回、政友会の重鎮として文部、
 逓信、鉄道、農商務、大蔵の各大臣、枢蜜顧問官を歴任、戦後弊原内閣の内務大
 臣となり幾多の功績を残した。尚香川県が生んだ初の大臣であり、香川県の産業
 経済、文化の向上発展を来たすに大いに貢献し、三土の前にも後にも三土なしと
 言われる大政治家であった。昭和23年4月1日没。
  従二位勲一等を叙せられ、旭日大綬章を受章。
○ 近代四国人物夜話  郷土に輝く人々 (第1集)  讃岐公論 昭和44年5月号
  坂出市史  讃岐人名辞書  香川県の歴史
  大人名事典 (平凡社)   世界大百科事典 (平凡社)


問 三野元密について (金)
答 三野元密は、もと三野郡の人であったが、のち象頭山の麓、榎井村へ移った。
 象麓の号は、その地にちなんだものであろう。
  松平公益会には、元密の孫、憲夫が編輯した「象麓文集」1冊が遺されていて、
 元密についてのやや詳しい事柄を明らかにすることができる。
  元密は、その学を安芸の斎官静斎から受けたが、静斎が荻生徂来の門人・服部
 南郭に学んでいたので (のち、静斎は何かの事情で南郭から破門されたらしい)、
 元密も徂来を深く尊敬していたが、直接の師である静斎に対しては、それが一層
 徹底していた。元密の著書で代表的なものとしては、「論語象義」七巻があるが、
 序文のなかで元密は「静斎先生の説かれた教えをよくよく考え、先生の述べた旨
 をできるだけ忠実に書きあらわすことにつとめた」と述べている。また元密は、
 静斎に親炙して見聞きしたこを、子の謙谷  (知彰) に筆記させ「斎子略傅」と
 題して一書に纒め、静斎の著書「神道解」「蓊藹秘録」「立本」などには序文を
 付しているが、それは静斎の学徳を称賛する言葉で埋められていて、元密の静斎
 に対する傾倒が並々でないことがうかがえる。
  高松藩儒員としての元密は、藩の施政方針に全く忠実であった様子で、天明5
 年、藩内にはじめて五人組の制が敷かれたとき、藩命を帯びて、その趣旨を講じ
 文化7年には、それを「伍家制令詳解」として出版したが、その序文には藩の抜
 擢をよろこぶとともに、責任の重さを感じた気持が言外にあふれている。これは
 時代を同じくした中山城山が、大久保公に招かれながら藩の俗使と交わることを


ー108ー
 潔しとせず、すぐ身を退いたのと対照的である。
  元密の弟無逸 (藻海) もまた静斎門入であり、元密の序を付した「藻海文集」
 などを遺している。子の知彰 (謙谷) も高松藩に招かれ、記録所に出仕し、一時
 高篠村に退いたが、再び藩の小寄合となった。
  元密、無逸、知彰の没年は、それぞれ天保11年 (殆ど90歳) 、寛政7年 (36歳)
 嘉永5年 (70歳) とのことである。
○ 「讃岐人名辞書」 「象麓文稿」(写本1冊 松平公益会蔵)
  「日本経済叢書19・日本経済大典29所収『伍家制令詳解』」


問 宮武外骨 人と作品について (香)
答 慶応3年~昭和30年、明治文化研究家、東京大学明治新聞雑誌文庫主任。
  慶応3年正月18日、讃岐国阿野郡小野村 (綾歌郡綾南町羽床)に生まれた。小
 野村庄屋宮武吉太郎の4男。幼名亀四郎。明治5年滝宮の小学校へ入学、その後、
 学制の改変により上羽床小学校、小野小学校へ移り、9年卒業。明治10年、高松
 の井上某を家庭にまねいて「大学」の素読を習う。11年から13年まで高松六番丁
 の栄義塾 (三野弥平経営) に寄宿して四書五経を読む。その頃、当時流行の雑誌
 「団々珍聞」や「驥尾団子」などを愛読して、その強い諧謔性、諷刺性に感動す
 る。後年、「予の滑稽雑誌への志は、この頃に源を発する」と述べている。
  明治14年東京へ遊学。本郷元町の進文学舎橘香塾に寄宿し、橘機郎の指導を受
 ける。この塾は高松の三野弥平、片山沖堂と共に高松藩の三儒家といわれた橘機
 郎の経営するところ。外骨は漢学部に籍をおいたが、洋学では若き日の高田早苗
 や坪内茂雄が講師として活躍していた。
  明治16年一たん帰郷したが18年再度上京、雑誌の出版に執念を燃やす。20年4
 月1日、「頓智協会雑誌」を創刊。1000部の印刷が忽ちにして売り切れ、増刷30
 00部を売尽し、号を重ねるごとに好評喝采を博す。しかし、22年3月4日発行の
 同志28号中の戲画戲文によって最初の筆禍事件を起し、3年8か月間入獄。25年
 より「骨董雑誌」を発行して再起をはかったが、32年台湾に渡る。翌年大阪に至
 り、大正4年まで在住。大阪時代には「滑稽新聞」(明34~41)浮世絵研究雑誌
 「此花」 (明43~45) を発行した。   
  大正4年9月上京し、上野桜木町に住んだ。その後、多彩な文筆活動をつづけ
 るが、自ら経営する半狂堂から、「奇態流行史」(大正11年) 、「私刑類纂」(大
 正11年)、「賭博史」 (大正12年)、「明治演説史」(大正15年)、「文明開化」
  (大正14~15年) などを相ついで発表して明治文化研究を深めた。この間、東京
 大学の吉野作造、中田薫を知り、大正13年東大法学部の嘱託に招へいされて江戸
 時代の制度風俗を研究する。やがて、昭和2年、明治新聞雑誌文庫が法学部に置
 かれるや、その初代主任となって資料の収集に全力を投じた。北陸、奧羽地方、
 また関西、四国地方における蒐集旅行によって文庫の整備に意を尽したが、中で


ー109ー
 も昭和6年9月20日、多年の念願であった「東洋自由新聞」の完全揃いを入手し
 たことなど注目される。文庫在任中の仕事としては、「東天紅 全」(昭和5年)、
 「東天紅 続」 (昭10年)、「東天紅 三編」 (昭16年)の同文庫所蔵目録3編の
 外、昭和16年の「府藩県制史」や戦後逸早く発表した「アメリカ様」(昭和21年)、
 「幸徳一派大逆事件顛末」 (昭和21年) などがある。
  昭和24年9月3日、明治新聞雑誌文庫を退職、以後悠々自適の生活な入り、自
 伝編纂に着手したが、一部を発表したのみで完成しなかった。
  昭和30年6月頃から昏睡状態に陥り、7月28日午前3時半、東京都文京区追分
 町30の自宅で死去。89歳。墓は東京染井墓地にある。
○ 宮武外骨著作目録  宮武外骨著作マイクロフィルム  明治文化全集第17巻
  新聞篇・第18巻雑誌篇  「大凡荘夜話 乾の巻 P134~141 」
  南方熊楠全集第12巻  定本柳田国男集別巻第3 P482
  牧田茂著「柳田国男」 P88   吉野孝雄著「宮武外骨」
  「みすず」148号~163号所収 明治新聞雑誌文庫の思い出
  小川菊松著「出版興亡50年」  河原淳編著「日本イラストレーション」
  「書物展望」17巻1号


問 村岡箏子(ルビ ことこ)について (丸)
答 村岡筝子は文化12年香川郡円座村小橋安蔵の妹に生まれた。和漢の学に通じ、
 又和歌と書を能くした。天保2年丸亀藩士村岡藤兵衛に嫁し宗四郎を生む。嘉永
 5年夫病死。当時醤油譲造業をなし百般の家政を統べ、子女の教養に努めた。而
 かも勤王の志深く常に兄安蔵、順二等と気脈を通じ、或は志士を保護し、資金の
 提供をした。その子宗四郎は著名な勤王家であった。筝子は明治3年病死。墓は
 正宗寺にある。 
  贈従五位。
○ 先賢違芳  讃岐名人辞書


問 矢延平六 (ルビ やのべへいろく)について (高)
答 矢延平六は水利普請家、高松藩士。慶長15年 (1610) に生まれた。名は叶次、
  (ルビ やすつぐ)
 晩年は可決(ルビ よしつぐ)と改めた。通称平六のち庄兵衛。
  松平頼重に仕え、寛永19年 (1642) 讃岐国高松へ国替になった藩主にしたがっ
 て高松にきた。領内の溜池・導水路などの築造・改修すること百余にのぼったと
 いう。
  寛文9年 (1669) 12月、新池工事に関し必要以上に規模を大きくし、藩費をつ
 かったということで国外追放の罪をうけて阿波藩 (徳島) に亡命した。延宝6年
 (1678) 再び	高松藩に23石2人扶持をもらって仕え、貞享2年(1685) 7月1日


ー110ー
 死去。76歳。13年後富熊に飛渡 (ルビ ひわたし)神社として祭られ、昭和5年11
 月碑が建てられた。
○ 新修高松市史Ⅱ P454  讃岐人名辞書 P583
  高松藩祖松平頼重伝 P198  文化財協会報特別号 7
  水の恩人矢延土岐二翁 P4  香川用水 29 昭和34年10月
  史蹟伝説めぐり続 (四国新聞)
  
問 由佐家の由緒について (高)
答 由佐氏はもとは常州益戸城主益戸氏の出で、俵藤太秀郷の後裔という。益戸下
 野守顕助の子、弥次郎秀助のとき足利尊氏より讃岐国香川郡井原の郷に封を受け
 荘司に任ぜられた。
  由佐に城を築き、由佐氏と称した。足利幕府の執事細川頼之が鳥屋岡に城を築
 いてから、秀助がこの城を守った。たびたびの戦に子秀行とともに参戦活躍した
  天正10年 (1582、右京進秀盛の子秀武のとき) 長曽我部の大軍との戦いを最後
 に野に下ったが、生駒・松平時代にも讃岐の名家としてその面目をたもった。
○ 香川郡志 P206   新修香川県史 P377   讃州府志 P473
  讃岐人名辞書 P780   香川叢書 Ⅱ P108   三代物語 2 P75
  香川県文化財調査報告 1  香南町史 P54


問 横山梅荘の碑について (香)
答 横山梅荘は幼名助太郎、諱は在憲、号を梅荘と称した。三豊郡柞田村 (現在の
 観音寺市柞田町)に、横山一郎 (医院を開業し、寺子屋の先生もしていた。) の
 長子として生まれた。長崎に遊学し、慶応3年帰郷して医業を継ぎ、また学問を
 教え、門下生が多く集まった。町村制度実施にともない村民に推され名誉村長と
 して成績を挙げた。明治31年50余歳で世を去った。梅荘の碑は寺子屋のあった現
 在の柞田小学校内にその徳をたたえて建立されている。
○ 讃岐医師名鑑 P252   観音寺市誌 P550


問 若江薫子(ルビ にほこ)について (丸)
答 若江薫子は、京都伏見宮殿上人従四位下若江量長(ルビ かずなが)の娘で天保
  6年(1835)に生
 まれた。岩垣月州について学び、和漢の学に精通し、詩歌・書道・礼法にくわし
 かった。昭憲皇太后の御幼少のとき、学問教授の任にあたった。勤王家として活
 動し、しばしば幕府の怒りにふれて投獄されたが、のち明治9年 (1876) 丸亀に
 きて青年子女の読書・詩歌などを指導した。著書に和解女四書1~5などがある。
  明治14年47歳で病死。墓は丸亀市南条町玄要寺にある。
○ 先賢遺芳 1 P16  讃岐人名辞書 P235   新修丸亀市史 P807


ー111ー
   史蹟名勝天然記念物調査報告 9  讃岐女子郷土読本 P199
   讃岐公論 昭和41年10月号  若江薫子と其遺著


問 吉野朝時代の忠臣脇屋義治の墓について (香)
答 大人名辞典によると「脇屋義助は伊予で死に、その子義治 (1323~) は足利尊
 氏と戦い破れ、終わるところを知らず」と記されているが、丹生村今昔物語には
 大川郡大内町「丹生の西端に一つの小山あり、その森の中に淨淋居士脇屋君の墓
 と銘せる古代色つける塔あり、これぞ脇屋義治の墓である」とあり、「その子義
 長家を継ぎ子孫繁栄す」とある。
  また、古今讃岐名勝図絵と大川郡誌には次の脇屋家伝 (漢文) を記している。
 義治ー義長(掃部)ー義信(民部)ー徳光弥助兵衛ー義則(善助)
○ 丹生村今昔物語 P7~P8 古今讃岐名勝図絵 P42
  大川郡誌 P271   日本伝説 讃岐の巻 P197~P198