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底本の書名 讃岐ものしり事典(p57~64)
底本の編者 香川県図書館協会
底本の発行所 香川県図書館協会
底本の発行日 昭和57年4月1日第1版
入力者名 福山 勲
校正者名 柳田 強
入力に関する注記
文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋徹次著 大修館書店刊)の
文字番号を付した。
登録日 2003年7月11日
問 生駒騒動について(高)
答 讃岐国の領主である生駒氏のお家騒動は第4代目の生駒高俊のときに起った。
事件は,前野助左衛門・石崎若狭らの新参の家臣の横暴を生駒帯刀・同左門ら
家代々の重臣が寛永14年(1637)に幕府に訴え出たことで表面化した。その結果,
寛永17年(1640)8月,幕府は生駒家を出羽国由利郡矢島に移し1万石を与えら
れ,子孫は交代寄合として幕府に仕え,明治に至り男爵となった。讃岐の領地と
城は没収され,元凶の家老前野助左衛門らは切腹,生駒帯刀らは身柄おあずけと
なった。
〇 新修高松市史 Ⅰ P391,400 真書讃岐生駒記 香川県通史 P821 讃岐人
名辞書 P10 香川叢書 Ⅱ P208 生駒記 上・中・下 列藩騒動録3 P1
問 生駒親正夫妻の墓について(高)
答 高松市錦町2丁目にある弘憲寺の本堂の裏に生駒親正夫妻の墓が南面して建っ
ている。凝灰岩の五輪塔で東側が親正,西側が夫人の墓である。親正の五輪塔は
高さ3.09メートルで夫人の塔は高さ2.90メートルで,それぞれ基壇の上に建って
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いる。両基ともに風雨にさらされたために表面がかげ落ちて造立当時にどんな刻
字があったのかわからないが,親正の墓にはキャ・カ・ラ・バ・アの5つの梵字
が刻まれていたことが大正時代に写された写真によって認められた。また江戸時
代の宝永6年(1709)に書かれた「生駒家藤堂家古伝噺」によると,親正の墓に
は,「海依弘憲大弾定門出離生死而巳 時慶長十四己酉年9月吉日 孝子讃岐当
国主敬白」とあり,夫人の墓には「奉華渓宗鮮大姉 干時慶長14年讃岐守一正欽
敬白」の銘があったとある。
生駒親正は天正15年(1587)8月,豊臣秀吉から讃岐の国主に封じられて来讃
した。小田原の役,文禄の朝鮮の役に出陣して戦功があったが,慶長5年7月の
関が原の役に石田三成の催促によって豊臣秀頼に味方したため,関が原の役後,
高野山に入り剃髪して罪を謝して隠居した。のち許されて息子一正の領地,高松
に帰り蟄居していたが,慶長8年(1603)2月13日没した。年69。
夫妻の墓は,昭和30年4月2日,県指定史跡に指定されている。
〇 香川県文化財調査報告 第5 P36~P42 新修高松市史 1 P380~P386
香川県の文化財 P236
問 祈り岩と駒立石について(香)
答 祈り岩
県道牟礼―庵治線を八栗から北進して,宮北の旧県道と合する所落合商店の東
側軒下にある。ここに箕輪野鹿の書いた「いの里岩」という石標が,下方の一部
を埋めて建っている。この岩が,源平合戦のとき,那須与市宗高が扇の的を射よ
うとして,この岩に向かい「南無八幡大菩薩,別しては我が国の神明日光権現,
宇都宮那須湯泉大明神,願わくはあの扇の真中射させ給えかし」と,明神の加護
を祈ったといわれる岩である。
駒立石
祈り岩の北西数10歩の河中にある巨石で,潮が引くと頭を出す。石標に「こま
立石」とある。那須の与市がこの石上に駒を止めて,扇の的を射たという。与市
宗高は,下野国の住人で資隆の第11子,射術をよくするので,義経は衆中から選
出して扇の的を射させた。宗高は命を承り,見事扇の的を射て,味方はもとより
敵方―平氏からも大喝采を受けて,その名を後世にまで残した。
〇 牟礼町史 P677,618
新修高松市史
問 香西氏と勝賀城について(高)
答 香西氏は,もと藤氏または新居氏を名のっていたが,資村(藤家5代目)のと
き,源氏に味方して,香川の郡司となって香西郡に移ってから,その地名をとっ
―59―
て香西氏を名乗った。
家紋は,藤丸(藤家)に三蓋松根笹を用いた。香西氏は香西資村を始祖として,
忠資(2代),資茂(3代),資治(4代),資宗(5代),アキ茂(#「アキ」
は文字番号43726)(6代),親茂(7代),資忠(8代),資時(9代),
家資(10代),資邦(11代),清資(12代),元資(13代),元綱(14代),
元定(15代),元成(16代),元載(17代),佳清(18代)と世襲してきた。
歴代の中でも,初代・3代・7代・8代・10代・13代・14代・15代・18代は
武将として著名である。
勝賀状は,勝賀山(海抜365メートル)の山頂にあった。今もその石塁などの残
跡をみることができる。承久の乱(1221)ののち,勝賀山麓の佐料の地に居城を
かまえ,背後の勝賀山頂に要城を築いた。以後,天正3年(1575)に藤尾城を築
き,天正5年に移るまでは香西氏の主要城となっていた。
〇 香西史 P39~183 P350~371 P414~432
新修高松市史 第1卷 P311~P313 P367~P379 香川郡志 P644~
P660 勝賀城跡 Ⅰ,Ⅱ 日本城郭大系
問 小豆島人の島原移住について(土)
答 島原の乱後参加農民の悉くが討死したため,島原地方には男子壮年者の過疎現
象が生じたので,幕府は移住政策によって乱後の復興をはかろうとした。
「天草島原キリシタンの兵乱以後百姓これなく滅亡の所が多くでき,御領内よ
り百姓を遣わすべし。領内百姓のうち親子五人三人これあり,そのところに田地
のない郷村から一人にても移民させられたい」と寛永14年7月16日松平対馬守,
阿部豊後守,松平伊豆守三人の連名で細川肥後守宛に書状が出た。
この幕府の政策は,天領小豆島にも及んだ。小豆島から庄屋を通じ,くじ引き
によって移民を送った。その子孫は今も島原に多く住んでいる。
〇 土庄町史 P187~P192 内海町史 P133
長崎県南高来郡北有馬村矢櫃に在住の八木家の系図
坂手庄屋高橋家の系図
問 高松城について(高)
答 高松城(玉藻城ともいう)は,天正15年(1587)8月豊臣秀吉から讃岐国に封
ぜられた生駒親正が翌天正16年から創築にかかった城である。
縄張り(設計)は黒田孝高または細川忠興と伝える。のちに松平頼重が入封時
の正保元年(1644)から本丸・城門・二の丸などを改修した。寛文11年(1671)
には天守閣が完成するなどして城郭は一新した。
北側は海にのぞみ濠に海水をひき入れた全国的にもめずらしい水城である。
―60-
〇 高松藩祖松平頼重伝 P335 香川県通史 P780 四国の城 P9 香川県の
文化財 P9 高松の名勝 P32
重要文化財高松城二の丸月見櫓修理報告書
重要文化財高松旧東之丸艮櫓移築修理工事報告書 P4
史跡高松城跡保存修理工事報告書(鞘橋)
日本城郭全集 12 P165 讃岐生駒記 日本城郭辞典 P189 日本伝説讃岐の
巻 P373 文化財協会報特別号 4 香川県文化財調査報告 3 日本の古城
2 P121
問 高松及び近郊における大火(明治以前)について(香)
答 高松藩の記録の上で大火として残っているものは次のとおりである。
● 寛永11年(1634)正月15日,高松之火難大なる哉(讃岐国大日記)。この寛
永11年の大火がまず最初のものとして記されている。
● 承応2年(1653)正月10日,高松,延焼481戸。
● 享保3年(1718)正月朔日,高松,延焼2300余,船30艘。元日~2日と延々
と焼け続けた。
● 寛保2年(1742)12月9日,高松城内,作業所及材木庫7所倉庫9所,米29
700苞。
● 宝暦6年(1756)3月28日,高松,延焼126戸。
● 宝暦12年(1762)正月18日,高松,延焼395戸,船5艘。
● 安永2年(1767)12月25日,高松,延焼643戸。
● 安永3年(1768)11月25日,志度浦,延焼324戸。
● 安永5年(1770)11月13日,津田浦,延焼113戸,船2艘。
● 安永6年(1771)正月29日,高松,延焼539戸。
● 嘉火2年(1843)11月14日,志度浦,延焼350戸.
〇 増補 高松藩記 P580~P601 香川県通史(古代中世近世編)P1063~
P1080 香川県史(明治42年版)年表 高松市史年表 改訂 津田町史
P160。
問 高松藩の参勤交替について(香)
答 武家諸法度に参勤交替の制度が定められ,大名は毎年江戸と領地に交替して居
住し,人質として妻子を江戸に住まわせるよう命ぜられた。その交替も自由に行
われたものでなく,幕府へ伺い許可を待って行われた。高松家初代藩主頼重の場
合,寛永19年に就封してから,延宝9年に致仕するまでの32年間に14回江戸
高松間を往復している。(隠居後なお2回往復しており合計16回になる)特別な
ものを除いて旅行日数は,最も短いのは明暦2年帰国の時の14日で,最も長い
のは寛文11年参府の時の27日である。平均して約20日間を要している。道筋は
慶安2年
―61-
に参府の時,中仙道を通っている外は,東海道を通っている。瀬戸内海は高松か
ら小豆島の北を通り,大阪まで藩の船で往復し,淀川を川船で上下するのが普通
であったが,大阪から室津まで陸路をとり,そこから高松まで船を用いたことも
あった。以上,他の藩主のものがみつからなかったので,松平頼重の場合のみ記
述した。
〇 高松藩祖松平頼重伝 P116 文化財協会報特別号3 P22
問 高松藩の職制について(高)
答 高松藩の職制の中で特別なものに大老職があった。初期のころは大老職をつと
める者が3人であったが,のち1人(大久保家)となつた。天明7年11月27日改,
讃岐高松藩分限帳によると,大老1人・家老4人・大番頭2人・書院番頭3人・
小姓頭3人・馬廻番頭3人・側用達1人・奉行5人.近習用達・寺社奉行2人・
留守居番頭2人・寄合番頭3人・?奉行2人・(長袴着用できる人のみ)
職制の中でわかりにくい職名に横目があった。他藩での大目付・目付の役目の
ことである。
〇 讃岐の歴史 P181~P184 天明7年11月27日改 讃岐高松藩分限帳
問 高松藩の朝敵事件について(高)
答 慶応4年1月3日夜起こった鳥羽伏見の戦いで高松藩兵が薩長軍に対して発砲
し,高松藩が朝敵の汚名を受けた事件のことをいう。この事件で藩主は官職を奪
われて領地も一時土佐藩領となる。しかも家老2名が自決し,12万両の大金を献
金するという大きな犠牲をはらった事件であった。
〇 明治百年香川県の歩み P17~53 香川県史 P9~10,18~24 香川県近代
史 P40~52 高松市史年表 P118~121 高松今昔記第2巻 読売新聞連載
讃岐から香川 昭36年7月14日
問 高松藩の役職名・禄高を書いた分限帳について(高)
答 高松藩には家老・側用人・側衆・大目付・目付・寺社奉行・勘定奉行・道中奉
行・普請奉行・留守居番頭・小姓・右筆・郡奉行・代官などの職があり,藩主に
拝謁したり,盃をもらう順として御目見順・御盃返上・独礼と列立拝謁の区分な
どが決められていた。
〇 香川県通史 P842―――高松藩の役名と格式の順
高松藩祖 松平頼重公 P563~ 下館藩主の頃の分限帳
P579~ 高松藩分限帳(寛永19年)
香川県立図書館郷土史料2集―――文政年間高松藩分限録
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讃岐高松藩分限帳―――天明7年,嘉永年間,文久3年,慶応2年
高松藩士由緒記 頼胤公御代分限帳元久元年
京極藩分限帳 丸亀藩分限帳 丸亀藩士禄高 丸亀藩諸勤帳 旧丸亀藩士族戸
籍 讃岐京極丸亀・多度津藩分限帳
問 高松藩と水戸藩の世子交換および歴代藩主名について(香・高)
答 初代高松藩主松平頼重は徳川家康の孫で,水戸藩主頼房の長子として元和8年
7月1日江戸で誕生し,幼名を竹丸また八十郎と呼んだ。母は久子(高瀬の局)
で,頼房は長兄義直(尾張)次兄頼宣(紀伊)ともに子供がなかったので,兄た
ちに気兼ねして側臣に措置を頼んだが側臣は内密に出産させた。同久子が6年後
に出産したのが長丸(後の光圀)であった。頼房は寛永19年2月讃岐東部12万石
の封を受け初代高松藩主となる。
光圀は史記の「伯夷伝」を読んで,兄を超えて水戸の跡継ぎになったのを心苦
しく思い,頼重の子に水戸を継がそうとして頼重の長子を養子とし,光圀の長子
が第二代高松藩主となり,明治2年版籍奉還まで11代,228年間領治した。
〇 増補高松藩記 高松藩祖松平頼重伝 高松市史 P65~128 新修高松市史
P408~436 高松市史年表 P37~122
右京大夫行状記―新香川 昭35.4~39.12
水戸高松世嗣交換秘話―新香川 昭44.6
水戸家系図 (アラビア数字は高松藩)
:‥綱方
高松(1): (三)
:‥頼重‥‥:‥綱條‥吉孚
: : (3) (四)(五)(六) (七)
: :‥頼條‥頼豊‥宗堯‥宗翰‥治保‥治紀‥
: : (4)
: :‥頼芳‥頼〔ヒロ〕(ヒロは大漢和辞典になし)‥頼桓
(一) : (二)(2)
水戸頼房‥:‥光圀‥頼常
: (5) (6) (8)
:‥頼元‥頼貞‥頼恭‥:‥頼真‥頼儀‥:‥頼該
:(常陸守山) : (7) :(10)
:‥頼陸(常陸府中) :‥頼起 :‥頼胤‥頼温
:‥頼利
:‥頼雄(常陸宍戸)
(七) (八)
治紀‥:‥斉修
: (9)(11)(12)
:‥頼恕‥頼聡‥頼壽‥頼明
: (九) (十)(十二)
:‥斉昭‥:‥慶篤‥篤敬‥圀順
:‥慶喜‥:‥厚
: :‥慶久‥慶光
:(十一)
:‥昭武‥:‥昭子
:‥武定
問 高松藩と武者小路千家の関係について(高)
答 三千家の一つ,武者小路千家は,表,裏千家にたいして,京都武者小路にいた
ことから,その名がある。
初代の一翁宗守は利久の孫,宗旦の二男である。はじめ京都の金持ち吉岡家の
養子となって,吉岡甚右衛門と称していたが,のち,茶道をきわめ一翁宗守と名
―63―
のり,茶人となった。この一翁宗守が,いつごろ高松藩に仕えたのか明らかでは
ないが,寛文6年(1666年)10月,高松藩主松平頼重が,お林(今の栗林公園)
において,藩の重臣らを招いてお茶会を開いたとき,一翁宗守がお手前をつとめ
ていることが記録にのこっている。
2代文叔宗守,3代真伯,4代直斎,5代ー啜斎,6代好々斎,7代以心斎と
代々高松藩の茶道頭として扶持米を給されていた。天明7年(1787年)11月27日
改の高松藩分限帳には,茶道頭 噺之者 一米五拾俵四人扶持在京 千宗守と記
されている。常には京都に居て,代替とか,大きな茶会を催すとき,あるいは特
別に藩主から召し出されたときに高松に来たのであろう。
また,高松藩松平家に伝わる利休七種の茶碗の一つ,名高い「木守」は,利休
から宗旦,一翁宗守と伝承して,一翁の孫真伯のとき,高松藩に献上されたもの
といわれる。
武者小路千家では,代替わりの祝いの茶会には,この木守の茶碗を松平家から
借りて使用したという。
〇 高松藩祖松平頼重伝 P423~424 随筆さぬき P19~28 新修高松市史第2
卷 P443~444
問 長崎の鼻の砲台について(香)
答 屋島の北端を長崎の鼻という。むかしここに役人を置いて海上の非常を防ぐ遠
見番小屋があった。小屋の上に灯をともし,夜間航海者のための標識の役もした
という。幕府は文久3年高松藩主松平頼聰に命じて,瀬戸内海防衛のため,ここ
に砲台を築かせた。砲台は藤川三渓の設計によるもので,南丘上から北の海に向
い,上・中・下の3段に分け,上段は守備兵の屯所,中・下段には3個づつの大
砲を備えていた。そして東・北・西方に向いて砲撃ができるようになっていた。
〇 観光学術読本屋島 P34 古今讃岐名勝図絵 P185 木田郡誌 P694
問 星が城について(土)
答 小豆島内海町安田にあり、南北朝時代に佐々木三郎左衛門飽浦信胤が吉野朝に
味方し,小豆島に拠ったという資料が沢山ある。信胤が小豆島に拠ったのは,延
元4年(1339年3月16日)足利尊氏が謀叛を起したとき,備前児島に居を構えて
いた信胤が,これに呼応したのであるが,そののちわけがあり転じて吉野朝に味
方し,小豆島に旗揚したのである.中世の城は土塁のみで石塁を見ないと一般に
いわれているが,星が城山の城は土塁もあり石塁もある。山城に欠ぐことのでき
ない井戸,空壕,烽火台,その他が数えられるが,星が城は人をよせつけないよ
うな嶮岨な山の一画に,この特殊な地形を利用した防禦の城である。
〇 小豆島山城遺跡調査報告「星が城」 小豆島史話信胤物語 紀伊の国小山家文
―64―
書 善通寺文書 小豆島土庄八幡宮御縁起 日本城郭大系
問 星が城と佐々木信胤について(香)
答 星ケ城は小豆島の中央,星ケ城山(817メートル)にあり第38代天智天皇(668
~71)の時代につくられた朝鮮式の城である。
鎌倉時代もおわって,建武の新政も足利尊氏の反乱で失敗した後,1339年児島
の飽浦(岡山県)の佐々木信胤が小豆島をせめて星ヶ城にたてこもった。信胤は
もと足利尊氏にしたがったが,うちわもめのため国へ帰って南朝(吉野山)に味
方した。やがて豊島などの近くの島々をしたがえて,水軍を動かすことになった。
しかし北朝(京都)の細川師氏に攻められて降伏し,のちに信胤は肥土庄の役人
になったという説もあり討死したという説もある。信胤の話ははっきりしないこ
とが多いと記されている。
〇 信胤物語 新さぬき風土記 日本伝説叢書讃岐の巻 小豆郡誌 P93 讃岐郷
土読本 P522 日本城郭全集2 P153 日本城郭事典 P377 わたしたち
の小豆郡 P11 さぬきの面影を語る 香川県の歴史 P84~85
問 屋島の合戦のころの讃岐の国守について(香)
答 元暦元年(1184)2月7日平宗盛は安徳天皇を擁して屋島に逃げた。翌文治元
年(1185)2月19日屋島の戦いの当時の讃岐の国守は藤原能保である。建久9年
(1198)には近藤国平が守護職となる。
〇 讃岐史要15丁 香川県史年表 P64
問 屋島合戦とその史(遺)跡について(高)
答 寿永4年(1185年)2月(19・20・21日)屋島壇の浦一帯において源平の戦い
が起こる。戦いのありさまは「平家物語」巻11などによってうかがうことができ
る。
遺跡は屋島内裏跡・佐藤継信墓・弓流し・駒立石・祈石・相引川・洲崎寺など
数多くその名称を伝えている。しかし,そのほとんどは寛永20年(1643年)以降
高松藩主松平頼重によって再興されたものである。
〇 新修高松市史 1卷 P247~P294 木田郡史 P681~P697 屋島と壇の浦
P135~P196 屋島史 大屋島 源平八島壇浦合戦縁起
問 屋島城について(高)
答 日本書紀に天智天皇6年(667)冬11月,倭(大和)国に高安城を,讃吉
(讃岐)
―65―
国山田郡に屋島城,対島国に金田城を築くとある。
屋島城の構造は朝鮮百済式の大規模な山城であり,城壁をもって数か所の谷を
抱擁し,城内を広く,渓流をとり入れて水を確保し,大軍を受けいれることが
できるようにしていた。
遺構は,南峰に営舎・倉庫などがあったと思われ,屋島寺付近が城の中央で,
ちかくにある池,水田は当時に設けられた軍用水の名残でなかろうか。
北峰の山頂右陵の勾配のあるところに,城壁と思われる幅のある石帯が散乱し
ている。
西面の谷に城壁の一部が残っている。高さ内側5.9メートル,外側12.4メート
ル,基底の広さ16.4メートル,頂の広さ2.7メートル,壁の長さ43.6メートル,
破壊された跡20メートル。櫓跡と認められるところがあり,土地の人はこの櫓
跡付近を櫓の内とよんでいる。ちかくの渓底に水門と思われる水の流れ出てい
るところがある。
城の広さ,長さ東南端より東北端まで約3.3キロ,広さ最幅部約0.6キロ,
周囲約8キロ。
〇 木田郡誌 P86~94 屋島史 P5~P10 古高松郷土誌 P133~P135
屋島城跡 日本城郭大系