歴史(香川県史)(16K)

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底本の書名    讃岐ものしり事典(p52~56)
 底本の編者    香川県図書館協会
 底本の発行所   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日第1版
入力者名     福山 勲
校正者名     柳田 強
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋徹次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年7月11日
      

問 生駒,松平,京極家の石高について(香)
 答 生駒家の石高は,徳川三代将軍家光の寛永年間における,各郡の石高から見て
  みると,大内郡(1郷28村)12.816石8斗1升3合,寒河郡(1郷18村)16.519
    石5斗1升7合,三木郡(3郷4村)10.778石4斗2升1合,山田郡(28村1町
  5郷)24.784石9斗8升6合,香東郡(25村)17.044石1斗8升2合,香西郡(4
  郷3村)14.307石4斗9升7合,南条郡(19村)16.452石8斗8升5合、北条郡
  (12村)7.854石2升4合,鵜足郡(7郷1津4村),那珂郡(3郷1浦15村)25
  .480石5斗5升,多度郡(1津18村)18.395石7斗2升5合,三野郡(1郷22村)
  26.374石9斗2合,豊田郡(2郷1里26村2浜3浦1島)16.912石6斗1升4合,
  讃岐惣高合計232.948石9斗3升7合,即ち,生駒高俊公御領讃州総村高帳による。

  〔参考・讃岐通史 P289〕
   次に高松藩松平家の石高は,初代頼重が,寛永19年2月高松城に移封ぜられた
  ときの,高松城御引渡覚書によると,大内郡34村10.000石,寒川郡25村13.600石
  5升8合,三木郡20村11.619石4斗7升7合,山田郡30村18.178石2斗5升,香
  川郡47村20.552石1斗2升3合,阿野郡35村17.639石2斗5升9合,鵜足郡之内
  26村16.039石7斗8升7合,那珂郡之内17村12.371石4升6合,石高合計12万石
  ,これが表高となっており,この外に40.970石の先代よりの有高を加えると,実高
  は16万余になる。〔参考・高松市史 P64〕
   京極家の石高は,明暦4年2月,丸亀城を賜わり,讃岐の西半分,豊田,三野,
  多度の三郡と那珂郡のうち22村,鵜足郡のうち1村,合計132村石高50.0067石と
  播磨の旧領の10.000石との合計60.067石となる。
   〔参考・新編物語藩史第10卷 P80〕


 問 香川県のええじゃないか騒動について(香)
 答 慶応3年11月中旬頃,近江国槌山宿場に,伊勢皇太神宮の守札が降り,人々が
  不思議だ不思議だといっているうちに,全国各地で同じ現象がおこった。そのた
  め人心が動揺し,これを神の仕業とし「ええじゃないか」と称えつつ踊り歩くよ
  うになった。多くの人が昼夜の別なく狂える如く踊りつつ伊勢参宮を行った。こ
  れが次第に京都,大阪より山陽,阿波へ波及した。
   同年12月20日頃阿波から讃岐へ伝わり,幟を立て笛,太鼓ではやし踊りつつ,

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  金毘羅詣をするもの引きも切らず,翌慶応4年正月になると村々に札の降ること
  がおびただしくなった。民衆は老若男女の別なく変装し踊り狂い,腹がへれば「食
  うてもええじゃないか」と手当り次第に他人のものまで取って食べ踊り狂った。
  そして多くのものが,家を外に次々と踊り歩き,数日家に帰るのを忘れるものも
  少なくなかった。
   然し,この狂人じみた現象も正月17日土佐藩兵などの高松進軍によって次第に
  鎮まった。
   この狂乱の真相はわからないが,世の不安が一変して明治新政という新しい世
  となり,民衆のある種の期待が群集心理に作用されて無意識のうちに表面にあら
  われて,このような現象をおこしたのではなかろうかといわれている。
 〇 新修香川県史 P635 他の県史及び各市町村史 綜合郷土研究 明治百年
   高松今昔記 讃岐風土記


 問 香川県の基礎的通史について(香)
 〇 1.基本的なものとして
    讃岐通史 総合郷土研究 新修 香川県史 香川叢書1,2,3
    新編香川叢書1卷 2巻
   2.近世の歴史の研究には
    全讃史 讃州府志 西讃府志
   3.通史としては
    香川県史 香川県通史 香川県近代史 香川県政史年表 讃岐郷土読本
    讃岐文芸読本


 問 讃岐の旧藩の研究書について(香)
 答 旧藩の研究書は多く見られるが,次に掲げるものは県立図書館に所蔵されるも
  のの内の主なものである。
  1.増補高松藩記 永年会編 昭和7年発行
  2.西讃府史 京極家編 昭和4年発行
  3.丸亀市史 丸亀市史刊行領布会編 昭和28年発行
  4.生駒,山崎,京極史談,吉岡和喜治著 昭和47年発行
  5.多度津町史 多度津町史編集委員会編 昭和38年発行
  6.政要録(高松藩・写本) 石田忠恒 慶応3年
  7.英公日暦(高松藩・マイクロフイルム)
  8.穆公遺事(高松藩・マイクロフイルム)
  9.愨公遺事(高松藩・マイクロフイルム)
  10.高松藩祖松平頼重伝

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  11.新編物語藩史
  12.高松藩士由緒記


 問 讃岐国3か所御朱印地について(高)
 答 幕府は諸大名に領地を分けあたえたが重要な土地は直轄地として直接に管理し
  ていた。この土地を天領とか御料とかいっている。
   また社寺領の中で幕府から朱印状によって寺領や社領を認められたものを朱印
  地といった。讃岐国内の朱印地は那珂郡松尾村の金毘羅領と大内郡帰来村の白鳥
  宮領と香川郡百相村の仏生山法然寺領の3か所である。
   金毘羅領は高松藩主松平頼重が那珂郡の五条・苗田・木徳村の地と金毘羅の所
  有地を合わせて高330石を幕府に願い出て,慶安元年2月24日付で,将軍家光の
  朱印状をもらった。
   白鳥宮領(高200石)も寛文5年7月11日,将軍家光から朱印状が与えられた。
   仏生山法然寺領(高300石)は延宝元年12月,朱印地となった。
   朱印地は土地そのものは寺社の私有地ではなく公領であったが,その土地の租
  税が免除されて収益がすべて寺社のものとなった。
 〇 讃岐の歴史 P198~200 讃岐国3ヶ所御朱印地由緒書


 問 仏生山の法然寺や,金毘羅・白鳥宮の社寺領が幕府から朱印地として定
  められているのはどうしてか。また,法令や条目などはどのように定めら
  れていたか(高)
 答 寛永19年東讃12万石を賜わった松平頼重は,入国ののち領内の古社寺を再建し
  社寺地を与えた。なかでも法然寺・金毘羅・白鳥宮への崇敬厚く,幕府に願って
  朱印地として認められた。
   法然寺 高300石 延宝元年に朱印地となる。
   金毘羅 高330石 慶安元年に朱印地となる。
   白鳥宮 高200石 寛文5年に朱印地となる。
 〇  松平頼重伝  P254~269,276~280,296~303
   仏生山法然寺条目(香川叢書第2巻P6~16)
   白鳥宮法令   ( 〃   〃 P1~5)


 問 香川県下にある城址について(香)
 答 「綜合郷土研究」によると,讃岐にはじめて築城されたのは、天智天皇6年(6
  66)の屋島城(朝鮮式古代山城)であり,鎌倉時代以後は天険主義による山河沼
  湖などの自然の地形を巧に利用して作られたが,足利末期から戦国時代には変

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  転極まりない栄枯盛衰に備えて,一人で数個の城を作る者もあり,約300の城があ
  ったといわれている。
   生駒氏の入国により高松城と丸亀城が築かれた。
 〇 綜合郷土研究 P637 約300城址の一覧表 日本城郭全集 12 四国の城
   198城の概要 日本の伝説讃岐の巻 P373 東讃54城の概要 香川叢書 Ⅱ
   (讃陽古城記)城址と古屋敷一覧 翁嫗夜話 97城一覧 全讃史 P358
   175城の概要 古蹟伝説めぐり続(四国新聞) 日本城郭大系15
   なお,香川県通史や郡史・市町村史・文化財関係にも紹介されている。日本の
   古城2中国・四国・九州編(P121)は特に高松城の縄張り(設計)について,
   今までの説に対し異説をとなえている。


 問 菅原道真と讃岐について(香)
 答 不遇な政治家・文道の神として,全国至る所に「天神さん」として祭られてお
  り,讃岐においても道真遊行の地には「天神」が祭られている。
   郷土文化第26号「讃岐における菅公」は,そのはしがきで「天神化された道真
  でなく,道真の在讃中の自作の詩『菅家文草』を中心に記した」とし,光孝天皇
  の仁和2年(886)正月16日,42歳のとき式部小輔・文章博士・加賀権守を罷めら
  れて,讃岐守に任ぜられ,4月7日に庁舎(坂出市府中町)に入り,翌3年秋一
  旦帰京,4年再び帰任し,寛平2年(890)年正月,後任者の着任を待たず帰京し
  た。この間,管内を巡視して神社を拝し民情を視察し,孝子節婦を表彰して仁政を
  ほどこし,特に仁和4年夏の大早魃では,農民の悲歎が一方でなかったので,城
  山の神に祭文を捧げ,誠心を尽くして雨を請うたところ,大雨が降り農民はもとよ
  り草木もよみがえった。(5月6日)なお,道真は讃岐の文化向上や学問の振興
  にも功多かったとある。
   また,「綜合郷土研究」では,滝宮の念仏踊は,城山請雨の吉例を記念してお
  こつたものと記している。
 〇 郷土文化第24号 讃岐における菅公 菅公の研究 讃岐路 P34 綜合郷土研
   究 P69 香川県通史 P343 国訳全讃史 P113 讃岐人物伝 P218~ 讃
   岐人名辞書 P959~ 讃岐史要 P17~ 讃岐郷土読本 P441 仲多度郡史
   P52 香川県の歴史 P188 讃岐女子郷土読本 P15,119 香川叢書 第1
   巻 P343~346 県別シリーズ36 郷土資料事典 香川県,観光と旅 P65~
   ジャポニカ 第10卷 P245 世界大百科事典 第16巻 P475 日本歴史大辞
   典 第11巻 P34


 問 崇徳天皇と讃岐の関係について(高)
 答 保元元年(1156)7月11日の保元の乱の戦に敗れた上皇は,讃岐の地に移され

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   た。ここに讃岐との関係が生じる。
    崇徳天皇は,鳥羽天皇の長子として,元永2年(1119)三条烏丸亭でお生まれ
   になった。5歳で即位され,22歳のとき退位。いらい16年間上皇であった。
    保元元年8月3日(10日という説もある)讃岐に着かれた。綾高遠の邸に入ら
   れたのち,府中(現坂出市府中町)の皷ヶ岡木の丸殿でおられた。長寛2年(11
   64)8月26日崩御,御年46歳。9月18日白峯寺の西北に葬られる。
  〇 崇徳天皇御記 崇徳院と木の丸殿 新修香川県史 P174 新修高松市史 Ⅰ
    P498 讃岐郷土読本 P464 府中村史 P370 史蹟名勝天然記念物調査報
    告 7


 問 高松藩領地と丸亀藩領地について(高)
 答 いっぱんに,高松12万石,丸亀6万石といわれている。
   高松藩松平氏が東讃の地を賜わったのは,寛永19年(1642年)2月28日である
  が,12万石の判物をもらったのは,寛文4年(1664年)4月5日付の将軍家綱の
  ときであった。この判物によると,高松藩領地は讃岐国大内,三木,寒川,香川,
  阿野六郡,9万1,550石余 鵜足那珂両郡之内 2万8400石余 都合12万石 
  目録在別紙事……後略……とあり,鵜足郡は土居村を除いたすべて,那珂郡では,
  柞原 三条 木徳 金蔵寺 原田 郡家 垂水 与北 吉野 東高篠 西高篠 岸
  上 七箇 塩入 真野 公文 四条村の17か村が高松藩領地であった。
   丸亀藩領地は寛永18年(1641年)山崎氏の入封にはじまる。その高5万3000石

  であった。のち,京極氏が萬治元年(1658年)2月26日,讃岐国 豊田 三野
  多度三郡と那珂郡之内,上金倉 下金倉 買田 宮田 追上 山脇 新目 後山
  帆山 生間 大口 福良見 今津 中府 津森 田村 山北 櫛無 佐文村の19
  カ村 鵜足郡之内土居村の1か村 5万67石と播磨国揖保郡の内興浜村など29カ
  村 1万石の都合6万67石である。
   また,多度津藩領地は丸亀藩領内を分封して,元禄7年(1694年)6月18日幕
  府の許しを得た。その領地は多度郡之内多度津 葛原 南鴨 北鴨 堀江 道福
  寺 新町 青木 三井 庄 山階 碑殿 東白方 奥白方の15カ村と三野郡の
  内 大見 松崎 神田 羽方 上ノ村の5か村都合1万石であった。
  (記入の石高はすべて表高であり,先代からの在高,新田開発の増加は含まれて
  いない。)
 〇 高松藩祖松平頼重伝 P150~P153 多度津町史 P92~P95 丸亀市史 P61


 問 〔タル〕(#「タル」は文字番号15500)流しの伝説と備讃の境界について
   (香)
 答 瀬戸大橋の架橋地の備讃海峡には,大小20数島が散在している。なかでも,塩
   飽(ルビ しわく)諸島の名は,古くからそのすぐれた造船術と廻船業によって
   知られていた。

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   天正18年(1590),豊臣秀吉から朱印状を下附せられた塩飽は,徳川時代にな
  っても,幕府直轄の天領として,650人の人名(ルビ にんみょう)が1,250石
  を領有していた。
   近世中期以降,島の廻船業が次第に衰微するにつれて,塩飽諸島は鯛や鰆(ルビ
   さわら)などの高級魚の豊富な周辺漁場からの収益に依存する率が高くなった。
  この頃から,塩飽領をはさんだ備前・讃岐の三者間において,漁区の境界紛争が
  くりかえされている。

   「香川県通史」では,〔タル〕(#「タル」は文字番号15500)流しによる
  境界ぎめの伝説を,享保16年(1731)頃から数年間にわたって,大曽瀬(ルビ 
  おおそせ)・大槌島漁場をめぐって発生した備前領・讃岐領の争議調停に関連づ
  けて紹介している。また,「月刊香川」昭和31年9月号に掲載された伊藤峰雲に
  よる「〔タル〕(#「タル」は文字番号15500)流し」の伝説では,その時代を
  元文元年(1736)として設定している。結局,18世紀中期に何回も起った漁場
  争議とその調停の歴史を背景として,この伝説が生まれたとしている。
   さらに漁場問題を調べる場合,徳川期に関しては「讃州塩飽の人名制と漁業制
  が,また,その後の問題に関しては「塩飽騒動記」が参考になろう。
 〇 香川県通史 P919~P921 香川県の歴史 P167~P168 月刊香川 
   S30・8月号 P29 月刊香川 S31・7月号 P34,9月号 P22 農業香
   川 昭和33・11月号 P23
   讃州塩飽島の人名制と漁業制=(文科報告第10号 P2~P14)塩飽海賊史
   塩飽騒動記 香西漁業史 岡山県児島郡誌 P538~539,P635~P650 瀬戸
   内海の研究(1) P582~P583