仏教 (55K)

入力に使用した資料
底本の書名    讃岐ものしり事典(p21~45)
 底本の編集者   香川県図書館協会
 底本の発行者   香川県図書館協会
 底本の発行日   昭和57年4月1日
入力者名     石井 正典
校正者名     平松 伝造
入力に関する注記
    文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
    文字番号を付した。

登録日   2003年1月22日
      

-仏 教-

問 弥谷寺(ルビ いやだにじ)の史跡について(三)
答 昭和43年6月4日付で香川県指定史跡に指定された。指定された箇所は,

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 1.賽の河原 これは仁王門から法雲橋までの間で道の左側には古地蔵さんが沢山並びその前に
  は小石が沢山積まれてある。
 2.獅子窟 大師堂奥手の岩窟で,弘法大師御修業の場といい伝えられている。
  指定されたのは獅子窟全体と10体の磨崖仏とである。磨崖仏は鎌倉時代初期のものでその表現
  は実に力強い。
(#図が入る)
● 阿弥陀如来
○ 大日如来
▲ 六地蔵
 3.比丘尼谷の磨崖仏
  (1) 聞持窟 中に道範阿闍梨の石像がある。
  (2) 五輪塔 この辺一帯の岩壁には無数の五輪塔や二重三重の塔が彫られてある。遺髪遺骨
    が納められていたという。
  (3) 弥陀三尊 阿弥陀如来,観世音菩薩,勢至菩薩,三尊の彫刻で鎌倉末期の作。風化のた
    め磨滅が甚だしい。
  (4) 水 場 大師加持の霊水が岩問(#「問」は底本のママ)より滴り落ちている。
  (5) 南無阿弥陀仏 九行の彫刻あり南北朝時代の作といわれている。
 4.墓地 多数の墓は参り墓で江戸時代のものが多い,山崎志摩守の石塔,天霧城主香川信景の
  石塔等が有名である。
○ 古今讃岐国名勝図絵 巻の十一 P667 大見村史
  香川叢書 第一 解題二二   P533 西讃府史
  金毘羅参詣名所図会 巻三ノ三十


問 五岳山について(多)
答 弘法大師の誕生院善通寺から西へ五つの山が連なっている。東の方から順に書くと香色山
 (こうしきざん)筆の山,我拝師山(がはいしざん)仲山,火上山(ひがみやま)の五つでこれ
 を五岳山と云う。何れも200メートルから300メートルで,右へ左へまた右へというように丁度屏
 風を立てたように並んでいるのでこのあたりを昔は屏風が浦ともいった。樹木もよく繁り朝霧や
 夕霞に包まれた五岳の姿はいつも美しい。この美しい自然の中に生まれた偉大な郷士の人が弘法
 大師で誕生院善通寺の山号を五岳山という。弘法大師はこの五岳を五智如来になぞらえて尊んだ
 がその信仰は今も続けちれている。即ち香色山は大日如来の現われであり筆の山は阿〔 〕(#
 〔 〕は1字分判読不明)如来であり我拝師山は宝生如来であり仲山は阿弥陀如来であり火上山
 は釈迦如来である。我拝師山には弘法大師の捨身が嶽の霊跡がありその麓には出釈迦寺や曼荼羅
 寺などの札所がある。
○ 弘法大師誕生地の研究 P62

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問 国分寺について(香)
答 奈良時代,聖武天皇の詔勅によって,国ごとに国分寺がつくられた。
  国分寺には僧寺と尼寺があり,讃岐の場合,僧寺は現在の綾歌郡国分寺町国分寺に置かれた。
 設置されたのがいつかはっきりしないが,756年(天平勝宝8年)12月までに完成していたと思
 われる。
  現在も国分寺と称し,境内に塔と金堂の礎石が残っていて当時の規模壮大な寺院のようすがか
 なりよくわかる。
○ 香川県の歴史 讃岐の歴史 亀山 四国八十八カ所 四国霊蹟観光大観 国分寺町史


問 国祐寺について(豊)
答 国祐寺は,法華宗(本門流)の寺院にして,山号を雲風山と称す。尼崎市大本山本興寺の末寺
 である。古くから存する寺の縁起によると,822年(弘仁13年)この地に寺が建立され光明光毘
 盧遮那寺(ひるしゃなじ)と号した真言宗であった。その後1578(天正6年)に獅子ケ鼻城の城
 主にて姫之一郷を領する大平伊賀守国祐(くにすけ)により法華宗に改宗され寺号に自からの名
 を付して国祐寺と為し,泉州堺の妙国寺より大成院日現を迎えて初代の住職とした。以来歴代を
 経ること26代の今日に及んでいる。国祐寺建立の願主である大平伊賀守国祐(1538年~1603年)
 に就いてはその伝説詳しくは不明であるが寺録によれば,先祖藤原氏の出で幼名を多聞麻呂とい
 い,父を国雅,母は大西氏の出で1538年(天文7年)の出生のようである。土佐吾川郡の城主で
 あったが1562年(文禄5年)長曽我部元親と戦い,敗れて当国香川信景との縁によって一時多度
 郡中村に居住する。その後豊田郡に移り姫之一郷を領し獅子ケ鼻に城郭を築き毘盧遮那寺を菩提
 寺とする。1577年(天正5年)の春尊母を伴い京都に上洛し帰国の途高松槌之渡の海上において
 暴風俄に吹き起り難船の危きに至る。国祐日頃読誦の法華経を念じて加護を祈り,心中にこの必
 死の難を逃れることを得るならば永く法華の持有とならん,と誓いを立て,時に不思議にも浪治
 まり風静まって忽ちの間に鵜足津(今日の宇多津町)の浦に着岸した。これより陸路帰国の途に
 着き,下高瀬法華寺に参詣し宿して住職に帰国の上法華の寺を建立すると語る。翌1578年(天正
 6年)正月元日の夜国祐の夢枕に,甲冑に身を固めた1人の偉丈夫が現れ,汝前の祈誓を忘れし
 か急ぎ法華の精舎を建立せよ,という夢を見た。覚めて思うに自分の武運を多聞天に祈り幼名を
 多聞麻呂と名附けた,今現れしは多聞天に相違なし,と早速毘盧遮那寺の仏像経巻を大悲谷の山
 中に蔵め,新たに法華の本尊を安置し同年10月泉州堺の妙国寺より大成院日現を招じ初代の住職
 として住せしめ,1531年(天正9年)10月入仏供養の法要を為す。かくて雲風山国祐寺と改称し
 た。国祐はその後1602年(慶長8年)7月4日高松にて歿した,行年66才。なお国祐寺境内の一
 処に聖観世音を祀る堂があり大悲山観音堂と称し古来遠
 近の信仰を集めていたのである。

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 この像の縁起は土佐吾川郡に存したのを国祐寺15世松樹院日豊求めて1762年(宝暦12年)記録し
 たものが現存する。それによれば,829年(天長6年)摂州兵庫之浦和田御崎の海中に夜毎に光
 明を放つものがあり,諸人恐れて之を院へ奏聞す時に勅使を遣して之を見せしむるに聖観音の像
 二躯海底に座す,海人をして之を引上げ,この浦に伽藍を建立して,入仏供養を為し海童(わだ
 つみ)の観世音と号した。(その一躯は今須磨寺安置の像という)学祐僧正なる師和田の御崎に
 参り詠じたものと伝える和歌に“津の国の和田の御崎を彼の岸と思ひ定めて押して着くらむ”と
 ある由,その後1476年(文明8年)土佐の国司一条房家眼病を煩い,両眼明を失して盲者となっ
 た。時に代参を和田の御崎に遣し,若し眼病平癒の暁には尊像を土州に移し堂宇を建立し,永代
 祀り奉る,と7日間の祈願を捧ぐ,その満願の明け方,一条公夢幻に,手に水瓶を持った老僧現
 れ一条候に告げるには“吾れ和田御崎の観世音也,汝眼病平癒の懇誓により来る”とて水を一条
 公の両眼に注ぐ,然して“吾れ今よりここに止まる”と,一条公夢覚めて不思議の思いをなし両
 眼を開くに眼痛止み,その後平癒し,公随喜し,主上に此の旨を奏上し,尊像を土佐に迎えんこ
 とを乞う。帝勅許あって翌1477年(文明9年)土佐に迎え幡多郡中村に伽藍を建立し之を安置し
 て普門寺と号した。1573年(天正元年)長曽我部元親一条家を討ち亡しその時普門寺を焼き払う。
 時の住職目海像を背負い,阿讃両国を経歴して霊地を求めたが得られなかった。1575年(天正3
 年)4月中旬国祐の跡を慕って此の地に来り,尊像安置を国祐に請う。それによって毘盧遮那寺
 境内に一字を建て之を祀る。号して大悲谷と名づけた。その後国祐毘盧遮那寺を改易の折り,真
 言宗勧請を法華寺に開会(かいえ)し現在に至る。
○ 豊浜町誌
  香川叢書


問 志度寺について(香)
答 補陀洛山清浄院,もと真言宗御室派仁和寺の末寺で,格は中本寺である。四国霊場86番札所。
 本尊は十一面観音像で,脇士不動明王,毘沙門天と共に国の重要文化財になっている。この寺の
 創建は,志度寺縁起によると,推古天皇の33年(625年)几薗子尼(おおしのそのこあま)が近
 江国より漂流してきた霊木で十一面観音像を彫らせて,一間四面の道場を建てて安置したのがは
 じまりであるという。天武天皇の頃,藤原不比等が五間四方の堂宇に拡張して死渡道場と名付け,
 その子房前が海女の追善のため伽藍を修造し,行基を開基として志度道場と改めた。この道場は
 御衣木(みそぎ)の縁起によって閻魔王の氏寺とされ,白杖童子,当願暮当,松竹童子縁起によ
 る平安時代の再興,また千歳童子,沙弥阿一の蘇生による鎌倉時代の修造が伝説として伝えられ
 ている。室町時代,領主細川氏に保護され,隆盛を極めたが,文明11年(1479年),天正10年
 (1582年)に火災にあい焼失してしまった。慶長9年(1604年)生駒親正の夫人教芳院が観音堂
 を再興し,

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 寛文10年(1690年)松平頼重が本堂および閻魔堂,奪衣婆堂を建立した。
○ 志度町史 P977 志度寺要誌 志度町の文化財
  香川叢書1.2巻 札所の旅


問 浄願寺について(高)
答 松平家の菩提寺であった浄願寺は,はじめ宇多津に創立され,のち高松城下三番丁に移された。
 正保年間(1644~1647)松平頼重は当寺を菩提寺と定めた。
   承応3年(1654)焼失。明暦元年(1655)に五番丁(中央グランドの地)に大規模な山門・
 本堂・書院・霊屋と四つの塔頭を再興し,寛文6年(1666)寺領300石を与えた。戦災で焼失し
 たが城下町きってのお寺であった。浄土宗知恩院派超世山養通院浄願寺 本尊阿弥陀如来
○ 新修高松市史Ⅱ P284 高松藩祖松平頼重伝 P323 さぬき古寺を訪ねて
(四国新聞)

問 第68番 神恵院,第69番 観音寺
   2つの札所が1寺にある霊場について(観)
答 大同2年,弘法大師が巡錫のおり,琴弾八幡の本地仏,阿弥陀如来像を描いて安置,68番霊場
 を定め琴弾山神恵院と号した。また大同3年(703)に日証上人が法相宗の道場として開創した
 神宮寺宝光院に聖観音像を刻んで安置,観音寺と改めて69番霊場と定めた。その後,明治5年の
 神仏分離の際,阿弥陀如来画像を観音寺金堂に移し琴弾八幡宮と神恵院に分離させた。こうして
 観音寺に神恵院が同居することになり,1寺に2つの札所が生まれた。
○ ガイドブック「かんおんじ」
   歴史の旅「四国88札所」
   「四国88ケ所ガイド」


問 西讃五か院について(瀬)
答 生駒一正公が天正15年(1587)に讃岐へ入国し,仏教を保護するために讃州十五か院をさだめた。
   これら十五か院は,いずれも厚い信仰を受けていた古刹寺院であった。
   この内に,三豊郡には以下の五つの院のつく寺があり,西讃五か院と称せられた。
   大野原町萩原の地蔵院,財田町の伊舎那院,豊中町の持宝院(本山寺),仁尾町の覚城院,
  高瀬町の威徳院がこの五か院にかぞえられた。
○ 高瀬町誌 P490 全讃史 P339~P358

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問 善通寺の由来について(善)
答 総本山善通寺は真言宗の総本山で,弘法大師の誕生地で大師自ら建立した真言宗発祥の根本道
 場であり,紀州高野山,京都東寺とともに三大霊場になっている。弘法大師の生家佐伯家は代々
 讃岐国造りでこの地に住み,大師は佐伯善通卿を父に玉依御前を母として宝亀5年(774年)6
 月15日に誕生した。大師は唐の留学を終えて帰朝後の大同2年に立教開宗の勅許を得られたので
 鎮護国家・摂化利生の根本道場の建立を発願し6年をかけて弘仁4年6月15日竣工し,父の名を
 とり善通寺と命名。
  昔から歴代天皇の御叡信厚く輪旨・院宝などをしばしば賜わり,大師の御作や遺品など宝物も多い。
  南大門の正面に位置する金堂は75番の札所で,本尊は丈六の座像の薬師如来で運長の作。
  寺の背後の香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳を山号とす。
○ 総本山善通寺案内 四国88札所遍路記 善通寺史


問 道隆寺について(多)
答 真言宗醍醐派,大本山桑多山明王院道隆寺と号する。四国88か所霊場第77番札所。
  昔この附近は一大桑園であったという。天平勝宝元年(749)のころ,この桑園で和気道隆は
 誤って乳母を弓で射てしまった。嘆き悲しんだ道隆はその供養のため桑の大樹を切って薬師如来
 の小像を刻み小堂を建てて安置した。
  その後,弘法大師が,留錫し,薬師如来を刻んで小像を胎内に納めて本尊とした。二代住職朝
 祐(道隆の子孫)は弘法大師より授戒を受け,田園財宝のすべてをもって薬師堂をはじめとする
 七堂伽藍を建立し,寺名を道隆寺とした。その後弘法大師の弟にあたる真雅僧正,智証大師,理
 源大師等が止住した。
   星曼荼羅(重要文化財)など多くの宝物を蔵する。
○ 多度津町史 P923~P925 四国八十八ケ所 P421


問 長尾町の極楽寺の縁起について(香)
答 所在地 大川郡長尾町東
  宗 派 真言宗嵯峨大覚寺派
  本 尊 薬師如来(木造立像,藤原時代作,重要文化財)
  由来は天平元年(729)行基が石田に開基した。天長元年(824)東讃四郡(寒川,大内,三木,山田)
 の根本道場,勅願所となり,宝蔵院と号する。延元元年(1336)焼失のち長尾に移り,極楽寺と
 称する。天正15年生駒親正から寺領五石をもらう。寛永19年松平頼重入部以来,本山制度の設置
 などで極楽寺の社会的権

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 力は失墜し,地方の一寺院にすぎなくなった。文政5年(1822)火災にあい,宝蔵を焼失,多く
 の宝物什器を失う。また,明治8年火災にあい,客殿など8棟全焼。現在は再興されている。当
 寺の末寺はもと,東讃4郡にわたり,八栗寺,屋島寺,与田寺,志度寺,大窪寺,長尾寺など真
 言宗寺80余か寺みな末寺といった全盛期だったときもあり,その勢力のいかに強かったかがしの
 ばれる。
○ 長尾町史 P628


問 法然寺について(香)
答 高松市仏生山町にあり浄土宗本派,仏生山来迎院といい,本尊は法然上人作と伝えられる阿弥
 陀如来である。
  寺伝によると,当寺の前身は那珂郡小松庄(仲多度郡満濃町東高篠)にあった中建山生福寺で
 平安時代に僧空海の開基といわれている。
  建永2年2月浄土宗開祖の源空(法然上人)が讃岐に流され,初め塩飽本島におくられたが,
 のち小松庄に移られ生福寺を布教道場にあててから浄土宗になった。その後,足利末期の戦乱で
 焼け再建できなかったが本尊や寺宝は守られてきた。
  江戸時代に入り,寛文8年(1668)高松初代藩主松平頼重が寺の衰微を惜んで香東郡百相村
 (仏生山町)に移し,新たに伽藍をいとなみ,江戸小石川伝通院(浄土宗,徳川家菩提寺)の前
 住真誉相関をよんで,生福寺の中興とし,同時に寺号を法然寺,山号を仏生山と改め,来迎院と
 なった。
  寺の完成とともに,松平氏歴代の菩提所と定め,将軍家にねがい朱印地300石をいただき,住
 持相関は宮中から紫衣をたまわる光栄にあずかり,来迎堂の背後にある「般若台」には2代と9
 代を除く歴代藩主とその一族の墓がある。
  寺宝に,十王像,観世音功徳図,源氏図,後深草天皇宸翰御消息(ともに重要文化財)などがある。
○ 新修高松市史 第2巻 P292~ 第1巻 P414 香川叢書 第2巻(仏生山法然寺修目・仏
生山法然寺添条目) 新修香川県史 P538 国訳全讃史P280 香川県通史 P578 香川県の歴
史 P58~ さぬきのえんま P13 讃岐香川郡史 P458~P256 古今讃岐名勝図絵 P307~
 県別シリーズ 36 郷土資料事典,香川県・観光と旅 P33 人物叢書 P36 法然 P196


問 本願寺塩屋別院について(丸)
答 本尊は阿弥陀如来で享保19年(1734)3月塩屋村に西本願寺の別院として建てられた。
  本堂は当時讃岐で最も広大壮麗で美術的にもすぐれた建造物であった。明治29

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 年火災にかかったが本堂や大門などは難を免れた。
  戦前春の塩屋市はたべもの店農具店見世物小屋等近郷近在の人出が多くなかなかにぎわった。
○ 全国寺院名鑑 金倉の二千年


問 曼茶羅(ルビ まんだら)寺について(善)
答 本寺は吉原町南方我拝師山の麓にあって延命院と号する。四国霊場第72番の札所に当たる。推
 古4年(596)に建立,はじめ世坂寺と称し,弘法大師の生家佐伯氏の氏寺であった。弘法大師
 が唐の留学を終えて帰朝後,本尊大日如来をまつり,金剛界,胎蔵界の両界曼荼羅を安置し,大
 同2年(807)に唐の青竜寺に模して金堂を造営し,自ら七仏薬師の尊像を作って安置した。完
 成ののち寺号を我拝師山曼荼羅寺と改称した。寺名の曼荼羅とは,真言密教の根本をなすもので,
 金剛界,胎蔵界の大日如来を中心に仏の世界を体系的に図示したものである。
  当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍であったらしい。その後数百年の星霜を経る
 うちに何時しか衰頽し,殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃したが,文
 祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をした。その後貞享9年に沙門宥盛,本堂
 を再興した。現在の本堂は明治29年の改築である。
  境内は明るくて広く松の大樹が多い。前庭に不老松といわれる名高い老松がある。名木として
 知られ,中心の高さ4メートル,枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており,大きく傘をひろ
 げた姿は見事なものである。弘法大師のお手植えの松といわれている。
  寺宝に,聖観音立像(県指定文化財)などがある。
○ 弘法大師と四国霊場 P356~P360 仲多度郡史 P720~P722 四国八十八カ所 P398~399
  西讃府志 P445 国訳全讃史 P333


問 日内山霊芝寺(ルビ ひうちさんれいしじ)と松平家について(香)
答 霊芝寺は志度町末の南端,日内山の山ろくにある。往古は東林山遍照光院,また光打山大光寺
 とも号した。真言宗高野派,もと高野山金剛峯寺の末寺,本尊は釈迦如来,脇士は文殊菩薩。創
 建については確実な資料が少なく明瞭でない。
  讃岐国名勝図会には『弘仁年中弘法大師草創なり,天正年中兵火にかかり,寛文2年8月山城
 国神護寺別院槇尾平等心王院の僧恵忍比丘,錫をここに止めしかば,国祖君源英公堂宇再興なし
 たまう。恵忍は和歌をよくす,後水尾院叡聞に達して御感あらせ給うとなん。』とあり,弘法大
 師の草創とあるが,前記宝蔵院古暦記よりも更に古い創建説で,これも明らかにする資料がない。
 しかし三代物語には「律宗高野山新別所の末寺,昔此地に伽藍有り日内山泰光寺という,天正中
 廃す,寛永中に僧宥春なる者あり志度の人なり,初め新別所の円通寺の真政和尚に師として事
 (つか)う,また河内の雲雪律師に従って鴨部東山に居る。明暦3年日内山に移り堂を建てて居
 る。その後恵忍比丘・照算(聖山)比丘相続いてこれに居る,遂に伽藍を復して東林山霊芝寺と
 号し,春日大明神を以て鎮守となす。』とある。
  鎌倉時代まで隆盛であった寺運も,天正の兵火にかかってからしだいに衰微し,徳川初期には
 無住状態にまでおちいった。時に志度出身の僧宥春が,明暦3年(1657)に釈迦堂を再興し,つ
 づいて山城国槇尾山西明寺の僧恵忍が来錫して当寺再興を発願し,松平頼重その道風に帰依して
 寺門修造の功を助けた。すなわち,寛文2年(1662)まず宝蔵院極楽寺から離末し,翌3年頼重
 檀主となって僧堂〔3年半に11間〕を建立し,つづいて仏殿・僧舎・山門・廐庫を整備し,延宝
 4年(1676)には2代藩主頼常は寺号を東林山霊芝寺と改称して翌年本堂を建立し,同8年には
 寺領百石を寄進した。くだって享和2年(1802)12月には八代藩主頼儀(よしのり)が檀主とな
 って本堂を再建した。かくて寺運を松平藩にかけて興隆し,堂塔伽藍を整備し,什宝日記も多か
 ったが,文政11年(1828)ならびに天保14年(1843)の火災で全く焼失した。
  明治2年東林山を日内山と改め,本堂・観音堂・鎮守堂(春日社),鐘樓など当寺第15世宣弘
 の十有余年の苦心によって再建された。しかし。それも昭和8年11月17日の放火の災にあい,本
 堂・二天堂・礼拝堂・鎮守堂・観音堂を全焼し,ただ十一面観音像1躯だけが災厄を免れた。現
 在の堂宇は昭和13年の再興である。
  当寺の梵鐘は,享保3年(1718)松平頼常,頼豊が金蕩をもって京都の鋳物師田中伊賀椽藤原
 為秀に鋳造させたとあって,音響の清雅なること近国無比という名鐘。山門は雨滝城の裏門を移
 したものと伝える。
  当寺は藩主松平家の菩提寺で,2代頼常(節公),9代頼恕(懿公)は儒葬によりこの寺に葬
 られる。毎年5月28日に披雲閣で営まれる法要前後に,藩主の参詣や代拝が行われた。
  当寺へ松平家から寄進された寺領については,延宝8年11月高15石を殿様から寄進ざれ,元録
 14已年は6石4斗を頼常から加増して21石4斗となり,宝永元年頼常の墓所となると,78石6斗
 を加増して百石となったことを述べている。
  この百石の寺領はその後3代頼豊から第10代頼胤まで,代々の藩主から安堵され,次のように
 朱印状が下付された。
 1.元録14年5月朔日   (頼常朱印)
 2.享保2年3月11日   中将頼豊(朱印)
 3.寛保2年9月25日   (頼恭朱印)
 4.安永4年3月15日   (頼真朱印)
 5.天明3年8月11日   (頼起朱印)
 6.寛政9年2月15日   (頼儀朱印)
 7.文政6年8月朔日   (頼恕朱印)

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 8.嘉永4年2月15日   (頼胤朱印)
○ 「志度町史」より P125,P968
  讃岐人物風景 P160~P162


問 薬師堂について(豊)
答 薬師堂は豊浜町大字和田浜本町(旧名大道)の東の三叉路の所にある。今から約300年前に建
 立された。桁行3間梁間3間の正四方寄棟造向拝1間本瓦葺で出来ている。
  建物は小規模で簡素な3間仏堂で1室構成の屋内には柱を建てず背面寄りの奥行3尺余りの置
 仏壇が桁行全長に渡って設けられている。梁間の寸法は全く等しく正方形の平面を形造る。向拝
 蟇股の梵字から当初から薬師堂として建立されたことがわかる。
  堂内置仏壇中央に本尊如来をその左右に各6体づつ十二神将が祭られている。薬師如来像は室
 町後期以後に作られたものと思われる。殆んど朽ちている。十二神将はそれよりもずっと新しく
 後に作られたもののようである。始は宗林寺老僧の隠居所として造られたものと伝えられている。
 豊浜町誌には享保19甲寅年7月8日に創建せられたと記せられているがこれは「再建」の間違い
 であろう。
  なお宗林寺の過去帖によれば薬師堂一代「良賢禅定門」享保12丁末4月19日亡とある。それか
 ら推定すると享保19年以前に建立されていたものと思われる。
  またの棟札には下記のように書かれている。
  寛文庚戌御寄進
     梯   七郎左衛門
     勝田  五郎兵衛
     中村  甚兵衛
     小路  興左衛門
  堂免畑三畝とある。
  右4名が畑3畝の敷地と同時に堂宇をも一緒に建立寄進したものであらう。


問 弘法大師の業績について(香)
答 空海,すなわち弘法大師は,郷土が生んだ名僧であるが,「弘法大師誕生地の研究」「空海」
 「平凡社大人名事典巻2」によるとその誕生地は讃岐国多度郡方田郡,今の善通寺市善通寺町で,
 宝亀5年(775年)6月15日に生まれた。空海は資性明達,一生の業績まことに多岐多様で,本
 邦における真言宗開祖としてその徳化百代に及ぶことはいうまでもないが,哲学・語学・建築・
 彫刻・絵画・書道・詩文・医療薬物また灌漑土木に至るまでほとんど通暁しており,本邦文明の
 中興と称されている。香川県は空海の誕生地として非常に多くの遺跡があるが,その主なものは
 満濃の池,四国八十八か所霊場の善通寺の建立も空海の偉業とされている。満濃の池については,
 蓮生観善書「弘法大師略伝」によると,讃岐の国司より空海上人を奉行して勅遣して頂きたいと
 朝廷へ願い出たことが日本後記に出ており,その願書の一節に次の言葉がある。「前年より工を
 始め,堤防を築けども民力多く費えて工未だ成らず,民少なくして成功期し難し。僧空海は此の
 土の人なり。中略,伏して請う別当に宛てその事を為さしめ給え」。これにより空海は朝命を受
 け弘仁12年(821年)讃岐へ下向し工事を指揮したが,難工事であった満濃の池も,2か月あま
 りで完工したと記されている。
○ 弘法大師 弘法大師行状記 弘法大師正伝 弘法大師全集 弘法大師と善通寺 
 弘法大師と日本文化 弘法大師年譜 弘法大師の研究 弘法大師文化大観 
 多度津町史 P56~60 弘法大師と四国霊場


問 讃岐の五大師について(香)
答 望月仏教大辞典第4巻によれば,大師とは「大師範または大尊師の意であり,朝廷より高僧に
 賜わる諡号(しごう一おくりな)」をいい,各宗派の大師を列挙している。
  「綜合郷土研究」では,次のように記している。
(#表が入る)
僧 名	誕生年	入定年	敕諡号	 出 生 地
空 海	宝亀5	承和2	弘法大師 多度郡屏風浦
賽 慧	延暦4	 〃 14	道興大師    〃    初代東寺の長者
真 雅	 〃 24	元慶3	法光大師  〃 金倉郷	空海の舎弟
圓 珍	弘仁6	寛平12	智証大師 那珂郡木徳村	天台宗の座主
聖 宝	天長10	延喜9	理源大師 塩飽狭岑島	密教研究第1人者
○ 綜合郷土研究 P70,664 香川県通史 P432~446 西讃府志 P315~
  讃岐人物伝 P572~618 香川県の歴史 P35 国訳全讃史 P122~ 讃岐通史 P102~ 
 郷土の歴史 四国編 P28~ 新修丸亀市史 P41~ 讃岐人名辞書 讃岐先賢小伝
  (弘法大師関係) 日本文明史に於ける弘法大師,弘法大師(高僧名著全集2),
 弘法大師(渡辺霞亭),弘法大師一代記,弘法大師影像図考,弘法大師遠諱史,弘法大師御誕生
 所善通寺案内,弘法大師御伝記,弘法大師御伝記註解,弘法大師観,弘法大師急就章,弘法大師
 行状絵詞伝,新訳弘法大師行状絵詞伝,弘法大師正伝(1~3.附録),弘法大師全集(首巻~15),
 弘法大師全集(壷井国三),弘法大師誕生地の研究,弘法大師著作全集(1~2),弘法大師弟
 子譜(1~4),弘法大師伝(内山憲堂),弘法大師伝(小野藤太),新弘法大師伝,文化史よ
  り見たる弘法大師伝,弘法大師伝記集覧と補再版,弘法大師伝の研究,

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弘法大師と善通寺,弘法大師とその教,弘法大師と其の時代,弘法大師の偉徳,弘法大師の研究,
弘法大師の宗教と生涯
仏教史および仏教辞典類,
百科事典および歴史辞典・人名事典類,文化史類


問 真言僧実詮(ルビ じっせん)の金毘羅滞在について(金)
答 その晩年,京都清水寺光乗院に住した実詮は,字を真教といい,江戸霊雲寺浄厳門の学僧として,
 華厳宗の鳳潭と盛んに論戦を交え,数々の著書を遺した人で,元文5年3月,78歳で没した。
 享保20年,73歳の夏,讃岐へ渡り金毘羅にも滞在したことが「金光院日帳」に書きとめられてい
 る。当時の金光院住宥山もまた,浄厳の流れを汲んでいて,実詮とは交わりが親密であった。
 「日帳」で見ると,真教の滞在は,5月23日から6月20日まで一か月近くに及んでいる。
  宿舎は,別当が町でくつろぐために建てられた下屋敷が宛てられた。真教は参詣かたがた挨拶
 のためときどき金光院屋形まで宥山を訪ねたが,宥山も二度,下屋敷へ真教を見舞い,また使者
 を遣したりした。6月2日には高松へ出向き,4日暮過ぎに帰ってきた。7日には空風呂が出来,
 案内を受けて真教は金光院まで上って来た。15日に,20日頃帰京出舟のことが決まり,舟の手配
 を丸亀へ頼んだ。丁度,大阪の金毘羅屋敷の番人をしていた松金屋嘉左衛門親子が来ていて,大
 阪へ戻るので,その二人を真教の供人にすることとした。(わざわざの見送り人は真教が固く辞
 退した。)20日には,御見立の料理として二汁五菜,濃茶その他が出された。丸亀までの一行は,
 草履取り,駕籠舁きなど20人ほどと,馬が3匹であった。その日は天気が悪く,出舟は22日にな
 った。見送りを終えて帰ってきた万福院と河村丹蔵の報告では,予定の舟では狭いので,八反帆
 の舟に借り替えたとのことであった。
○ 「金光院日帳 享保二十年」


問 浄厳(ルビ じょうごん)大和尚と讃岐について(金)
答 浄厳大和尚は寛永16年(1639)河内国に生まれ,10歳の時高野山に登り修業を続け「今空海」
 と呼ばれるほどになった。40歳の春,讃岐藩主松平頼重の要請で讃岐に来て,経を講じ,法を説
 く。頼重公はその戒徳を渇仰して深く帰依し,親しく教戒に預った。また浄厳はこの滞在期間
 (46歳までの6年間)に塩飽半島・広島あるいは善通寺に,坂本にと行って法を説いている。特
 に塩飽とは交渉が深く,牛島の長徳院には浄厳和尚の遺品や遺墨が数多く残されている。46歳の
 冬11月江戸に出る。
○ 文化財協会報 第4号 高松藩祖松平頼重伝

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問 庄松同行について(香)
答 庄松(しょうま)は名もない一庶民である。字も読めず,生涯住む家も妻も持たず,放浪した
 貧農であった。しかし彼は「讃岐の庄松同行」と呼ばれ,仏教を研究する人に代表的な妙好人と
 して広く知られている。妙好人とは浄土真宗の信仰に大悟徹底した人のことであり,純一無二の
 心で信仰を受けとめた者をさす。禅の大家として有名な故鈴木博士は,昭和21年4月23,4日の
 両日,天皇,皇后両陛下に「仏教の大意」と題してご進講したが,この結びとして,庄松の言行
 を紹介した。
  彼は幕末,丹生村字土居(大内町)に生まれた。下男奉公や食客をして東は引田から西体丸亀
 の間を放浪した。丹生村の大庄屋,木村家に奉公していた折,郡奉行が宿泊して入浴した。フロ
 たきをしていた庄松は,奉行の背中を,しばらくながめていたが,「盗みぐいをして,ようくら
 い,肥えとるのう」というなり,奉行の背中をカワラのような平手でピシャリとたたいた。フロ
 から出た奉行は「いまのフロたきをこれへ呼べ」と怒った。てっきりお手討ちになると人々が騒
 いだ。「おらに何か用か」庄松がノコノコ出ていった。「お前は正直者だの,お前にはかなわぬ
 」奉行は苦笑した。こんな男では手討ちにもできぬとカブトをぬいだ。庄松は権威を認めなかっ
 た。郡奉行は百姓をさく取する男としか,うつらなかったのだ。
  庄松は明治4年3月,友人の家で死んだ。死ぬ前に墓を立ててやろうというと目をむいた。大
 内町丹生に墓があり,同町三本松勝覚寺に小さな銅像がある。彼のような純一無二の男はもう出
 てこないだろう。
○ 明治百年 香川県の歩み P272~274
  庄松ありのままの記(宏平創版) 庄松ありのままの記(興教書院)
  庄松さんと感応の人々 丹生村合昔物語


問 竹林上人について(香)
答 宝暦8年(1758)三木郡井戸村(現在は大川郡長尾町)に生まれ,名を独雄といい,竹林と号
 す。13歳の時,高松多聞寺の哲雄師に従い出家をした。後,師と共に志度町の自性院に転住した。
 28歳の時,師が病死したため,第7世自性院住職となった。しかし在職3年で職を法弟観道にゆ
 ずり,自性院の近くに庵をむすんで隠居した。

  上人は書画・詩文・和歌・俳諧・木工・漆芸・算術などをよくし,竹を愛し,墨画で竹を描い
 たものは特にすぐれている。
  寛政12年(1800)6月6日,かねてより予言していたように43歳で死去した。志度町八丁地に
 墓が作られ,竹林庵と呼ばれる庵室が建てられている。
○ 竹林上人由来記 竹林上人 志度町史 P292 さぬき美工 昭和40年7月号 讃岐 P10 
讃岐郷土読本 P136 新さぬき風土記 P158 RNC 昭40年

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9月号 P18 香川県放送郷士新誌 P70 史蹟伝説めぐり続(四国新聞)聖僧竹林上人


問 法然上人と讃岐について(香)
答 法然上人が本願他力の浄土宗を開宗したのは43歳のときであり,その後九条関白らの庇護もあ
 り,専修念仏は急速に庶民の間に浸透した。こうした浄土宗に対し,南都興福寺の衆徒らは“立
 新宗失 勅許を得ず新宗を立てた”など,9か条の奏状を後鳥羽上皇にささげ,建永2年(1207
 年)2月18日「専修念仏を停止し,法然を土佐に,親鶯を越後に流す」の処罰が下り,僧尼会に
 より,還俗させられ源元彦の俗名を付けられた法然上人は京をたった。……実際には土佐まで行
 かず讃岐にとどまった。
  法然上人行状絵図絵詞は「3月26日讃岐国塩飽の地頭駿河守高階保遠入道西忍が館につき……」
 と伝えている。4月3日には,善通寺にもうでたというから島にはそう長くはいなかったのだろ
 うが,その間道場としていたのが法然上人を開山第一世とする専称寺である。その後,法然上人
 は那珂郡小(子)松庄の生福寺に住み,多くの里人に説いたが,この生福寺は天正年間兵火にか
 かり,「いまの満濃町高篠の西念寺のあるところか,近くの円浄寺境内観音堂のあるところとも
 いう」=香川県通史=「初めは円浄寺に居て,自ら弥陀の尊像をつくり,生福寺を建立ありしが
 ……」=全讃史=と,その場所ははっきりしない。だが,この地には法然上人にまつわる伝説や
 旧跡は数多くある。
  法然上人の讃岐での生活は,同年12月8日の赦免まで1年足らずに過ぎないが,讃岐の浄土宗
 の基盤をつくり上げた。
  寛文10年(1671年)高松藩主,松平頼重は兵火でやけ残っていた小庵を百相村に移し,江戸小
 石川伝通院(徳川家ぼだい寺)の前住を呼び,生福寺の中興とし,同時に寺名も法然寺と改め,
 高松・松平家のぼだい寺とした。
○ 山陽新聞 昭和49年4月14日(法然上人と讃岐)
  日本絵巻物全集13(法然上人絵伝)P102~P103 P127~128 日本の美術95(法然上人絵伝)
 13図,39図,40図 新定 法然上人絵伝 P58~ 人物叢書36 法然日本人の行動と思想1
 (法然一その行動と思想) P180~P184 仲多度郡史 P70,762,1047 
 香川県の歴史 P58~60,188 新修丸亀市史 P66~P69 香川県通史 P577~581 
 全讃史 P319,330 総合郷土研究 P73,680 讃岐通史 P178 新修香川県史 P290
 讃岐ものしり事典 第3巻P42 法然寺
  日本思想大系10 法然・一遍
  法然上人のこえ 高僧名著全集4 法然上人 法然上人全集 日本浄土教の研究

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問 高野山学僧妙瑞について(金)
答 妙瑞は,讃岐国三野郡の出生で,俗姓を田淵といった。12歳のとき,勝間村の威徳院で出家し,
 のち高野山に登って,多くの師匠から教えを受け,また幾つもの院を転住して,学問僧として名
 を成した。明和元年12月5日に没した。著書には「続宗義決択集」「大日経本地恒説義」「秘蔵
 宝鑰見光鈔」「秘密法訓」など多数のものがある。
  元文2年から宝暦10年まで金毘羅別当金光院の院主であった宥辮は,この妙瑞と深い交わりを
 持っていて,当時の金光院の日記には,妙瑞師の讃岐やその周辺における消息がよく書き留めら
 れている。
  その頃,寺々で妙瑞師を迎えるのがどんなに大変であったかを,寛保元年の日記で見てゆくと,
 2月21日,師が財田から丸亀へ行く途中,挨拶に立ち寄って一宿した。そのとき連れていた供人
 7人を財田へ返し,丸亀までの供人は金毘羅で仕立てることにした。丸亀での講談を終り,師が
 金毘羅へ来たのは7月11日である。案内僧,塔中の院主また役人たち,取次など,みな所定の場
 で出迎え,宥辮も客殿の広縁まで挨拶に出た。料理は二汁五菜であった。21日分ら講談が始まる
 と仁尾の覚城院,丸亀の円光寺などが早速聴聞に来た。8月13日には,妙瑞師をはじめ,高松弘
 憲寺,白峯寺,円光寺などがお相伴して,院主も一緒に夕食した。翌14日には満濃池の見物に出
 かけた。8月29日から講談の席を院内の書院に移した。(それまでは街のほうであった様子)9
 月2日に終るまで,部屋を荘厳してあったので,夜警などことに厳重にした。9月9日から,ま
 た席が街の下屋敷へ移り29日までつづいた。この日の夕食は,妙瑞師をはじめ,満願寺,浄願寺
 ,佐岡寺,伊舎那院,円光寺が相伴し,そのあと話しが10時すぎまではずんだ。10月3日から13
 日まで,高松弘憲寺の招きでそちらへ行っていた。14日に金毘羅へ戻り,21日,22日,23日,25
 日と,つづいて灌頂のことがあった。大阿闍梨を,宥辮,妙瑞,弘憲寺,また宥辯が勤めた。讃
 岐だけでなく,阿波からも受者が来ていた。26日には灌頂道場を拝観させた。その日の朝食と,
 27日の夕食は,弘憲寺,覚城院,東福寺,円光寺などがお相伴した。いよいよ28日,妙瑞師は高
 野山へ帰るため,丸亀へ出発した。舟は上部を借切りにしてあった。供人は駕籠4人,立傘,挟
 箱・合羽籠,茶弁当,手明,歩行侍名1人,馬4匹であった。高野山までお供をして行った恵次
 と渡辺沢右ヱ門が,金毘羅へ帰ってきたのは,11月27日夜のことであった。


問 聖宝(ルビ しょうぼう)理源大師について(坂)
答 真言宗小野流の祖で,天長10年(833)仲多度郡与島村沙彌島(現在の坂出市沙彌島)に生ま
 れた。光任天皇の後裔で,兵部大輔葛声王(くずなおう)の子であるが,出生地については異説
 多く,大和の人ともいわれ,承和7年の宣旨による伝記には,左京の人とあり元享釈書には讃州
 の人とある。郷土史には仲多度郡沙彌島の人とある。
  始め恒蔭と称して,幼少の頃から,本島の正覚院,聖通寺などで修業したと伝えられている。
 承和14年(847)の16歳の時,真雅(弘法大師の弟法光大師)に従い出家得度して後,真然(弘
 法大師の甥)について密教を受けた。奈良の諸寺を遍歴して真言宗の他,華厳宗,三論宗,法相
 宗等凡ての宗教を学び,当時博学の聞えが高かった。密教の研究については当時の第一人者であ
 った。貞寛16年(874)京に醍醐寺を建てて僧正となって仏法を広めた。又,公益事業を興すな
 どして修験道中興の祖といわれた。
  延喜9年(909)7月6日普明寺で逝去,年77歳
  宝永4年(1707)東山天皇の御代に理源大師の号を賜った。
  出生地といわれる沙彌島は,その後寛文年中(1661~1672)に溝淵家によって開墾され,後近
 衛家の許を得て,この島に大師堂を建て,理源大師を祭った。
○ 大人名事典(平凡社)第3巻 P384 日本歴史大事典(河出書房新社)10巻 P217 仏教大
辞 第2巻 P2727 讃岐人名辞書 P895 香川県史 明治43年香川県刊行 第2篇 P42 讃
岐人物伝 P614~P618 新修香川県史 P209 西讃府誌 P319~P320 国訳全讃史 新さぬ
き風土記


問 石の塔について(瀬)
答 国道11号線沿線にある高さ8メートル余の十三重の石塔が,たびたびの激震や風雪に耐えて来
 たことは,不思議の一つとして話題になっている。この塔は,弘法大師の一夜建立や若狭の国八
 百比丘尼の建立ともいわれ,椀貸塚の伝説と共に古くから語り継がれて来た。
  塔の四面には梵字が刻まれているが風化して判読出来ないが,塔の東面に「永和22年(1378)
 戍午3月6日建之」の銘があることなどから絶え間のなかった当時の戦で直接間接犠牲になった
 人々の冥福を祈るために祭った供養塔である。
○ 高瀬町資料集 石の塔記 香川県文化財調査報告第九P26
  アルパインガイド13四国(小豆島,淡路島) P39 香川県の歴史付録 P30


問 一字一仏法華経序品(ルビ じょぼん)について(香)
答 法華経は早くわが国に伝わり,平安時代には貴族の間で信奉され,特別の材料や意匠で飾り善
 美を尽した法華経が造られた。これを装飾経とよぶが,この一字一仏法華経序品は,経文一字毎
 に一仏を配した装飾径である。縦29.4センチの楮紙(ルビ ちょし)を42枚継ぎ,全長21.24メ
 ートルのものに,経文を一字ずつ一行に10字詰で墨書し,経文の行間に円相の中に蓮台の上に座
 した彩色の菩薩の図を描いている。台座は緑青色に納衣(ルビ のうえ)は朱色に彩色し,一字
 一字が仏の教えであることを現わしている。素朴でなごやかな面相は経文のありがたさを物語っ
 ているようである。経文は純日本風の和様体で書かれており,平安時代前期のものである。経文
 と仏像を交互に書いた経巻として現存唯一のものとして貴重であろ。昭和28年11月14日,国宝に
 指定された。総本山善通寺の所蔵である。
○ 香川県の文化財 国宝


問 威徳院の毘沙門天像について(瀬)
答 この毘沙門天像は,威徳院勝造寺の本堂に向って右側の毘沙門堂の本尊である。
  本像は,地天に両足を支えられ,二邪鬼をしたがえて直立する兜跋毘沙門天で,中国西域地方
 にその起源をもつ特殊な毘沙門天である。
  頭部から沓先までを桂材の一木で彫成し,面・体貌が奥深く,相好は眉がつりあがり,両眼を
 大きく見開いて一点に集中させ,唇の肉も厚くつくる。左手は胸前にて宝塔をささげ,右手を上
 にあげ戟(げき)を持って立つ,その姿には静厳な中にも激しい闘志が感じられる像である。衣
 文の刻みも的確で,貞観時代の特徴である翻波式衣文が看取される。
  その製作年代は10世紀と考えられ,藤原時代初期の天部像として,また讃岐仏師の手にかかる
 ものとして,さらに県下に作例の極めて少ない像として貴重な文化財となっている。
  また,足下の地天・二邪鬼は文化12年(1815)に京都仏師・田中弘教によって再彫されたもの
 である。
  元来,毘沙門天は北方の守護神であるが,後世七福神としても信仰が厚く,この威徳院でも毎
 年1月3日に大祭がおこなわれ,福をさずかろうとする人々でにぎわっている。
○ 香川県文化財追録


問 開法寺跡について(坂)
答 坂出市府中町本村にある。飛鳥時代後期の頃,国庁に隣接して建てられた古寺で,城山の東南
 麓,讃岐国庁跡と考えられる地点の南西隅に位置している。「菅家文草」の客舎冬夜の詩の一節
 に「客舎秋徂(ルビ ゆ)きて此の冬に到る 空床夜々顔容(ルビ よなよなかおばせ)を損
 (ルビ そん)したり押衙門の下寒くして角(ルビ つのぶえ)を吹く 開法寺の中(ルビ う
 ち)暁にして鐘に驚く」開法寺は府衙(ルビ ふが)の西に在り(自注)とあるので,この寺が
 平安中期(九世紀末)菅原道真が讃岐国司の頃(仁和2年―886~寛平2年―891)には存在して
 いたことが明らかである。中山城山の全讃史には開法寺について「地名に存す,上古府中に在り
 き。中古廃せり」と記されている。
  この地,府中町鼓岡の南部に塔跡と伝えられている土壇には,自然石の礎石と思われるものが
 残っていて,そのすぐ西に開法寺池と呼ばれている池が在り,この池の中や附近から飛鳥時代後
 期の布目瓦の破片が出土しており,昔の開法寺のものであろうといわれる石仏が数個この池から
 出ている。又,国庁を中心として,周辺には開法寺,弘法寺,西福寺,妙楽寺,安楽寺等の名刹
 (ルビ めいさつ)が上古の府中に存在していたが,中古に廃絶して現在は地名だけが残ってい
 る。
  昭和45年に開法寺塔跡が発掘調査された結果,塔の基壇(ルビ きだん)や礎石,その中心に
 直径80センチの柱座をもつ心礎が確認せられ,塔跡の北方に,僧房或いは講堂跡と考えられる礎
 石も残存している所から,今後の調査によっては寺域を明らかにする各遺構の発見される可能性
 がある。
  開法寺塔跡は昭和45年8月8日に県指定史跡になっている。
○ 歴史研究第19号 P24~P35  府中村史 P46 新香川(4・5・9)P24
  香川県通史 P158 新修香川県史 P131  日本古典文学大系72巻 P265


問 歓喜院の観音菩薩について(瀬)
答 法蓮寺歓喜院は,高瀬町麻地区にある真言宗の古刹である。
  この寺に祭られている観音菩薩は,不空羂索観音(ルビ ふくうけんさくかんおん)という観
 音菩薩であるが大悲の羅索をもってすべての衆生を苦しみから救ってくださるという大変ありが
 たい観音さまである。
  本像は,像高90.3センチ,榧(ルビ かや)材の一木造り,一面八腎の結跏趺座(ルビ けっ
 かふざ)像である。首に三道を刻み,伏目のやさしい眼,小さめでひきしまった唇の相好,体貌
 は堂々としていて特に胸から腹部にかけてのモデリングには重厚さと力強さが感じられる。その
 製作年代は貞観から藤原時代に移る過渡期(10世紀)と推察されており,全国的に作例の少ない
 不空羂索観音像の古例の一つとして注目され,現在,重要文化財に指定されでいる。
○ 高瀬町史 香川県の文化財


問 首山の観音さんについて(瀬)
答 高瀬町上勝間にあり,本尊は十一面観音で脇侍に勢至菩薩がまつられている。寺号は平照寺と
 いい,昔は平勝寺といわれていたので,昭和19年寺号復元をはかったがそのままになっている。
 進学,交通安全などに霊験があるといわれ,丸亀,多度津,観音寺など,西讃全域からの参詣者
 でにぎわっている。お開帳は旧暦8月1日で,この日以外は誰人も本尊を拝観することができな
 い。当寺に保持されている棟札に慶長三卯月12日とあり,開基は不詳であるが,かなり古いもの
 と思われる。
  又,首山の地名は近くにある鬼が臼にいた鬼がすてた人の首で谷が埋まり,山になったので首
 山の名ができたという伝説がある。
○ 高瀬町誌 P448 P939 西讃府志 P464

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問 興昌寺山四国八十八カ所霊場について(観)
答 四国遍路は,昔は僧や修行者が主流であったが,それが庶民へとひろがっていった。四国八十
 八か所霊場360余里(約1,450キロ)の旅路は,熱烈な信仰心と忍耐の約60日の日数で強い身体と
 意志が必要であったためにその数は限られていた。しかし,四国遍路は貧しい人々の道であった。
 貧しい熱心な大師信者や信仰の厚い人々が浄財を出し或は労力をささげあって自分の信仰の場と
 して,また,苦しみ悩む人々のために観音寺興昌寺山に村所四国八十八か所霊場をつくった。石
 仏に記された造立年月日は,本尊石仏の最古のものは明和2年6月8日(1765),新しいものは
 明治3年(1870)の第43番,だから約100年間に造られたものと考えられるが,多くは造立年月
 日が記されていない。本尊石仏は花崗岩で一重台の上に舟型後背型の石をつくり本尊仏を浮彫り
 にしてある。形,大きさ,彫り方はよく似ており,造立年代を区別することはむつかしい。明和
 2年以前,既に本尊仏または弘法大師が祭られ,村所四国八十八ケ所が存在していたと考えられ
 る。
○ 村所興昌寺山四国八十八カ所霊場
  観音寺市誌


問 興昌寺の仏足石について(観)
答 所 在 地 観音寺市八幡町興昌禅寺本堂正面の右寄り塀ぎわ
  所 有 者 興昌寺
  材  質 砂 岩
  構造形式 台石上,爪先に向かって扇形に広がる石を据え,表面に釈迦の左右足跡を線彫りと
 する。右足には大小一つずつの法輪,左足には大1小2,計3つの法輪を刻し,大法輪からは四
 方へ糸筋様の脈理が出ている。側面には深い彫りで「第六本仏足跡」の六字が二字ずつ三行に,
 その横に「干時天明丙午春三月以下欠」と縦二行に刻してある。
  大 き さ 台 石  高さ28センチ  幅62センチ
       仏足石  短辺53センチ  長辺114センチ
            幅60センチ   厚み33センチ
  製作年代 天明丙午(1786)3月
  沿革由緒 全国ですでに80いくつ見出されているが,ここのはまだ紹介されていないようであ
 る。仏足石の足型には大小の法輪,金剛杵,双魚などの文様の彫られているのが多いけれど,こ
 の寺のは法輪文だけで,右二法輪左三法輪となっているのが少し変わっている。仏足石で最も古
 い(天平勝宝4年752)とされている奈良西の京の薬師寺にあるものも,中ほど久しきに亘って
 疎略に扱われ殆んど忘れられていたのを近世掘り出して運んで来たものだといわれている。その
 ころから仏足石尊信の風が復活し,寺の方でもこれを写して頒布したところから,全国に転々複
 写されることになったその一つが興昌寺仏足石であろう。
○ 観音寺市の文化財 第1集
  仏教辞典 P931


問 国分寺の鐘について(香)
答 この梵鐘は,昭和19年9月5日重要文化財に指定され,総高151.5センチ,口径89.7センチ,
 口径で厚さ8.3センチである。竜頭の海獣蒲牢の頭部は勇ましく,顎のあたりの毛を上になびか
 せているが,それが左右対称でなく,奈良時代の特色を示す。撞座は八弁の蓮花文で,奈良時代
 の軒先丸瓦の文様に似ており,その位置は鐘身の下から41センチのところにあり,非常に高い。
 また撞座と竜頭の向きの関係が古式である。製作年代は当寺の創建からあまり隔たらない奈良時
 代末期かと思われる。音色は温和で,G調すなわちト調の黄鐘調で,余韻も長い。
  もと竜宮にあり,後香川町安原の童洞淵から大蛇が被って出てきたものという伝説をもち,ま
 た慶長19年(1614)生駒一正が高松城下の時鐘とするため高松に移したが,城内に怪異があり,
 一正が病にかかったので病気回復を祈念して元に返した。
○ 香川県の文化財


問 金銅五鈷鈴(ルビ ごこれい)について(三)
答 重要文化財(明治34年3月27日)
  三豊郡三野町 弥谷寺蔵
  密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつで,柄が五鈷の形をしている鈴で,鋳銅製で鍍金を
 してある。鈴は高さ7.3センチ,外径6センチ,厚さ0.5センチで,握りは6センチ,五鈷は5.5
 センチを計り総高18.8センチである。
  鈴の下端の横断面は八弁の花形で,そのうち四弁はやや凸出し,その間四弁はやや凹入して木
 瓜(ルビ もっこ)の形をなし,各凸出面には四天王を,凹面には三鈷杵を交互に鋳出し,上部
 肩の部分に花,各像と三鈷杵の間やその下部には雲形を鋳出す。握りはその上端,下端に反花状
 に花弁を表出する。五鈷は,獣口からでて,中程が曲がり,逆剃のある鋒(ルビ きつさき)4
 本を吹き出し,その先端を曲げて中央の1本と先をそろえている。寺伝では,弘法大師が中国か
 ら将来したものというが明らかでない。
  鈴の外面に鋳出した四天王や,三鈷杵の形が細密精巧であり,上部の五鈷が鋭利で曲がり方に
 力があり,逆刺にも力強さがあるなどの点から,中国の唐代の優秀な技術者による作品であろう。
○ 香川県の文化財

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問 金銅錫杖頭(ルビ こんどうしゃくじょうとう)について(香)
答 錫杖は僧が修業のときに山野で獣などを追い払い,人の門に立って門扉を手で打つ代りに鳴ら
 す仏具である。総本山善通寺蔵のこの錫杖頭は,銅で造り渡金をした金色まばゆいもので,表の
 中央に舟形光背をもった上品上生(ルビ じょうぼんじょうしょう)の阿弥陀如来坐像と立像の
 観音勢至両菩薩の脇侍(ルビ わきじ)があり,左右に持国天・増長天の二天が立っている。裏
 には中央に下品下生(ルビ げぼんげしょう)の阿弥陀如来立像と二脇侍の立像,左右に広目天
 (ルビ こうもくてん),多聞天(ルビ たもんてん)の二天が立っていて,二天は表裏で四天
 王となり仏法を擁護することを意味する。輪頂には四方を炎光で囲んだ宝珠や請花(ルビ うけ
 ばな)や反花(ルビ かえりばな)のある円形の塔がある。中央の仏像や塔・環などの製作が細
 密で精巧にできていてろう型による鋳造であることがわかる。中国唐時代に造られたもので,寺
 伝では弘法大師が唐の恵果阿闍梨(ルビ あじゃり)から授けられたものを持ち帰ったものと伝
 えて深い信仰を寄せている。昭和56年6月9日,国宝に指定された。
○ 香川県の文化財 重要文化財


問 讃岐三十三観音霊場について(香)
答 讃岐三十三観音霊場は明治の頃まで盛んに信仰されていた。昭和53年に復興され,年を追って
 参拝が多くなっている。
  第1番東福寺(高松市),第2番洲崎寺(牟礼町),第3番圓通寺(志度町),第4番長福寺
  (志度町),第5番釈王寺(大内町),第6番観音寺(白鳥町),第7番萬生寺(引田町),
  第8番宝蔵院(長尾町),第9番圓光寺(長尾町),第10番霊芝寺(志度町),第11番浄願院
  (満濃町),第12番長法寺(琴平町),第13番萬福寺,第14番伊舎那院(財田町),第15番
  宗運寺(財田町),第16番極楽寺(観音寺市),第17番満願寺(豊浜町),第18番宝積院
  (豊中町),第19番覚城院(仁尾町),第20番宝林寺(詫間町),第21番柞原寺(高瀬町),
  第22番威徳院(高瀬町),第23番地蔵寺(高瀬町),第24番萬福寺(善通寺市),第25番
  観智院(善通寺市),第26番三谷寺(飯山町),第27番宝光寺(丸亀市),第28番真光寺
  (丸亀市),第29番聖徳院(宇多津町),第30番圓通寺(宇多津町),第31番聖通寺
  (宇多津町),第32番龍光院(坂出市),第33番西光寺(高松市),番外霊場善通寺
  (善通寺市)。
○ 讃岐三十三観音霊場 さぬき三十三観音霊場


問 讃岐国志度道場縁起の巻数と成立年代について(香)
答 この縁起は(1)志度寺縁起文7巻,(2)志度寺縁起絵図6幅で構成されている。(1)志度寺縁起文
 は志度寺の創建から鎌倉時代の末ごろまでの縁起伝説であり,(2)志度寺縁起絵図は志度寺縁起
 文において表現された縁起伝説を描いた絵図である。成立年代は志度寺縁起文は明らかでない。
 志度寺縁起絵図は京都国立博物館梅津次郎氏の考証によって康永2年(1343)頃に描かれたもの
 とされている。
○ 志度町史 P1019 香川県の文化財 P42 志度町要誌 P18,22


問 島四国について(香)
答 四国八十八か所に残された弘法大師の霊場を遍歴して歩くのが「お遍路さん」である。しかし,
 四国を一周することは日数からも,労力からいっても大変なことである。そこで,四国のかわり
 に,この小豆島にある八十八か所の霊場を一巡すれば同じ功徳を積み得るとされているところが
 ら「島四国」という言葉がでてきている。他所にも「島四国」と称されるミニ四国八十八か所が
 つくられている。
  農業も比較的ひまな3~4月頃に,一番多くお遍路さんを見うける。行程6~7日の旅である。
 またその数も年間数万人を越える状況にある。
○ 讃岐風土記 P175 歴史と風土四国路 P89 小豆島の民俗 P159 巡礼の民俗 P13 
 小豆島霊場めぐり(山陽新聞) 小豆郡誌 P223 綜合郷土研究 P691 四国遍路 P149 
 四国八十八カ所 P542 遍路図会 P53 四国遍路記 P247


問 釈迦涅槃像(ルビ しゃかねはんぞう)(三野町吉祥寺)について(三)
答 文政年間(1821頃)第21世密道法印は釈迦涅槃像の製作を発願し,各家の神仏のまもりふだを
 集め,その灰と士を混ぜ針金を骨として,25年という年月をかけ,弘化年間(1845頃)釈迦浬繋
 像52部類を完成した。
  入滅の釈迦は,仏弟子,天人,鬼,鳥獣虫魚等の泣き悲しむ姿に囲まれて釈迦堂(4間に2間
 半の堂)に安置されている。
  陰暦2月15日の釈迦入滅の日(昔は,お釈迦はんの鼻くそといって豆を炊って食べて参詣)
 4月8日の釈迦の誕生会(甘茶をたいて参詣人に披露する)以外殆ど堂は閉じられている。
  吉祥寺は弘法大師四国霊場開創の折開基せられた寺で,涅槃像製作者の密道法印は学徳兼備,
 芸術的才能に秀れた人で自らの墓堂をも生前に建て,堂中に
     えにしありて ここを浄土としめつれば
        入りねる身をも うれしかりけり
 と,辞世の歌を書き,文久3年(1863)寺内の井戸に入って寂したと伝えられている。
○ 吉津村誌 P140


問 神仏分離と白峯寺について(坂)
答 明治維新において,維新政権は従来の幕藩体制の支配機構の末端を担ってきた仏教を否定し,
 天皇崇拝を中心とした神道主義を新政府の基本方針とした。政府は,「神武創業の古に復り,諸
 事御一新・祭政一致」を標榜し,上から宗教を統一することによって,天皇制イデオロギーに基
 づく天皇制国家の創設を意図した。この神道国教化の具体策のひとつが神仏分離令(1868)であ
 った。神仏分離により,中世以来の神仏習合は否定され,仏教や儒教は外来思想であるとして激
 しく批判・排撃された。さらに神社や神宮は急速に勢力を得て,勢いのおもむくところ排仏毀釈
 へと拡大し,1870~71年に頂点に達した。
  香川県において,この神仏分離による最も大きな打撃を受けたのが白峯寺であった。
  白峯寺は,山岳仏教の思想により平安時代初期に創立された。そして平安末期,崇徳上皇が讃
 岐に配流され,長寛2年(1164)に没したとき,この寺の北西方に葬られ,御陵が営造せられた。
 そのとき院の近侍・遠江の阿闍利章実という僧が,頓証寺を建立して菩提を弔った。この崇徳天
 皇の御廟所頓証寺は,御陵とともにその後,連綿として伝えられてきた。
  ところが,明治維新となるや,御陵は宮内省の管轄に移され,御廟すなわち崇徳上皇の御神霊
 である宸筆僧形上皇影像と笙は京都へ奉遷せられ,頓証寺は神仏分離の際,一時無住の寺となった。
  同寺には宝物は多かったが,明治元年に頓証寺の本尊が京都へ奉遷せられたのをはじめ,明治
 ll年頓証寺を改めて白峰神社として金刀比羅宮の境外摂社となり,敷地・社殿・宝物等を同宮へ
 引き渡した。そして,明治31年に至り,敷地・社殿は白峰寺へ返納復旧されたが,宝物の散逸は
 甚しく,現に存するものはその一部分にすぎない。
○ 白峰寺古文書等緊急調査報告書 白峰寺崇徳天皇の宝物をめぐる郷土史 香川県神社誌
  香川県近代史 P217~P234 崇徳天皇の御遺跡と御遺物 坂出市史


問 大坊市(たかせ市)について(三)
答 三豊郡三野町下高瀬に,日蓮正宗本山本門寺(大坊)がある。
  この寺は甲斐国の秋山左兵衛尉の二男秋山孫次郎が,幕府の命を受けて讃岐に封ぜられた時,
 日蓮の弟子日興上人に請うて教導師派遣を頼み,日華上人と共に讃岐に渡り,正応2年に丸亀田
 村町へ方八町の大伽藍を建立して本門寺と号した。その後兵火で全焼し,日華上人も病で帰られ
 た。代って来られた日仙上人は,寺宝を荷負い焼跡を捨てて孫次郎の領であった下高瀬に移られ,
 幾多の辛酸をなめられた末,正中2年に堂宇を再興された。これが現在の大坊で今から約650年
 前である。
  寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われた。当時の民衆は秋の農作業
 の疲れを,この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみであった。
  市立は寺から高瀬川堤防に至る3町余りの馬場の両側に,ぎっしりと小屋が立ち並び,農具,
 竹細工,雑貨,玩具類,陶器,おでん,うどん,果物,菓子饅頭,その他あらゆる飲食物の店が
 張られ,境内には掛け小屋芝居,サーカス,のぞき,最近では植木市等も出て雑踏を極め,大坊
 駅ができてからは汽車を利用して幾万人の人出で賑わうようになった。世界大戦後は急激に人出
 も減少したが,寺では市立を新暦の11月22日から25日までに改め,その間に23日の勤労感謝の日
 があるので人出もだんだん復興の機運にある。
○ 下高瀬村史 大見村史


問 宝宮寺の十一面観音像について(三)
答 吉津地区正本の観音堂は,七宝山宝宮寺の跡といわれている。長者横関氏の持庵であったころ
は,法燈が輝いていたと伝えられる。
  現在の寺域には,山門,本堂,庫裡などの主な建造物がある。本尊は十一面観音立像で像高は
1メートル余り,左手は肘を曲げて蓮華のつぼみ(末敷蓮華)をさした宝瓶を捧げ,右手は自然に
体側に垂れている。
  頭上化仏の前三面は慈悲の相,左三面は怒りの相,右三面は,狗牙の相(白牙を出している)
後一面は笑いの相,頂上には正法明如来を奉じて蓮華座に立つ。
  十一面観音の真の顔は慈悲の顔であるが,それだけでいうことを聞かない衆生のために,時に
は怒り,時にはこらしめ,時には笑われるというもので,怒り,こらしめ,笑いもすべて慈悲的な
ものであることを誓願するものである。
  鎌倉時代の作と思われる。


問 法然上人逆修(ルビ ぎゃくしゅ)塔について(善)
答 善通寺五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側にあり高さ145センチの五輪の石塔で,鎌
倉時代の石造建築物である。
  逆修供養とは生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で,一説によれば,当山に参詣する
諸人の菩提を上人が祈るための逆修供養とある。善通寺は天笠八塔の士を敷き建立せられた霊場で
あるため,上人は深く崇敬せられていた。法然上人は鎌倉初期の人で弥陀の本願により往生の可能
な事を悟り浄土宗を開立した。しかし旧仏教の弾圧が強く建永2年讃岐に流されたが,その折善通
寺に参詣して建立されたものである。
〇 五岳文化 P19 仲多度郡史

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問 本山寺本堂について(香)
答 豊中町にある本山寺本堂は,正面・奥行とも5間で,14.5メートルの正方形をした一重寄棟造
りの建物で,正面中央に3間,幅9.2メートルの尚拝(ルビ こうばい)がついていて,建勃平面
は245平方メートルである。内陣来迎壁(ルビ らいいごうへき)の前には美しい格狭間(ルビ 
こうざま)の入った和様須弥壇(ルビ しゅみだん)が置かれ,その上に屋根入母屋造り桧皮葺の
厨子が安置されている。昭和28年分らの解体修理の際,礎石の裏に「為二世悉値成就円観房 正安
2年3月7日」などの墨書銘が発見され,正応4年(1291)から勧進をして準備をはじめ,12年後
のこの年に基礎工事が行われたことが明らかとなった。昭和30年に解体修理が完成し,その結果,
数多い鎌倉時代建築のうちすぐれたものとして昭和30年6月22日国宝に指定された。
○ 香川県の文化財 重要文化財本山寺本堂修理工事報告書