西讃を歩く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   徳永知恵子
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
  登録日 2005年10月13日
      


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 西讃を歩く(「西讃を歩く」は太字)

  1 宗鑑と一夜庵(「1 宗鑑と一夜庵」は太字

 一夜庵は俳祖山崎宗鑑が晩年を過ごした草庵である。室町末期、興昌寺の住職梅谷和尚
を頼って、京阪山崎から移り住んだ。遺筆として、当寺に紫金仏勧進帳(本堂再建の寄付
集め趣意書)徳寿軒宛の書簡、「貸し夜着の袖をや霜にはし姫御」の短冊等があり、遺品
として銅雀台の瓦硯、岩床の花瓶・自作の木彫半〔カ〕(#「カ」は文字番号37457)像
等もある。句碑として前掲短冊句が一夜庵前に建立されている。
 宗鑑が俳諧連歌師として『新撰犬筑波集』の編集に携わったことはほぼ定説になってい
るが、その閲歴のほどは定かではない。近江国志那郷(現、草津市支那町)出身で幼名弥
三郎範重と言い、足利義尚の右筆となったが、その没後無常を感じ二五歳頃出家したと言
われる。吉川一郎著『山崎宗鑑伝』によれば、当時宗鑑と名告る人が三人いたと言われ、
その区別のしにくいところもある。謡本『百万』の奥書に「天文己亥二月日 宗鑑」とあ
り、一五三九年(天文八年)頃は生存していたということになる。吉川氏は宗鑑の死没を
天文一〇年までの七月二二日とみなしている。その他諸説あるが、地元観音寺市に

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おいては「俳家奇人談」の天文二二年一〇月二日八九歳没に従い、四〇〇年忌を昭和二六
年一〇月二日に行っている。
 辞世の歌として「宗鑑はいづこへと人の問ふあらばちと用ありてあの世へと言へ」とい
う歌が伝えられている。滑稽俳諧を事として、深刻ぶらずに生きた宗鑑らしい歌ではある。
『滑稽太平記』(延宝末頃刊行)には「宗鑑は長命成しが、〔ヨウ〕(ルビ よう)(#
「ヨウ」は 文字番号22638)といふ物を病て」と説明を付けている。
 また、同書には「上の客立帰り、中の客日帰り、下々の客泊がけ」と庵の額に書いてお
いたと記している。これがいわゆる「上は立ち中は日ぐらし下は夜まで一夜泊まりは下々
の下の客」の歌で親しまれる一夜庵の名の由来である。来客の長居を喜ばなかったという
のが一般の見方であるが、それでもなお話しこむ客を求めていたのではないかという、う
がった見方もある。宗鑑は求めに応じ〔ヨウ〕(#「ヨウ」は文字番号1007)書をよくし
ている。各地に宗鑑流の遺筆が散在している。県下にも少なくとも十数点はある。
 宗鑑没後、一夜庵は荒れるにまかせていたらしいが、江戸時代になり俳人を中心として
再興されるに至った。一六八一年(延宝九年)に無妄庵宗実坊が、岡西惟中を仲介として、
西山宗因の勧進帳を請い受け、一夜庵造立を企画している。「宗鑑法師勧進帳」は宗因の
直筆で、その主旨に賛同・協力し、同門の献句を載せている。三年後の貞享元年には北村
季吟の自筆である「一夜庵再興賛」がある。また興昌寺には「一夜庵筆海」という短冊集
二冊が保存されいる。約六〇〇句が集められている。
  花にあかでたとへばいつまででも一夜庵      西山宗因
  ままよ世は夏も一夜の仮の庵           北村李吟
  松涼し鶴の心にも一夜庵             各務支考
  宗鑑の墓に花なき涼しさよ            高浜虚子
  松の奥には障子の白きに松           荻原井泉水
  浜から戻りても松の影ふむ砂白きに       河東碧梧桐
                    
 現在、観音寺市と滋賀県草津市は姉妹都市の提携をして、文化の交流を図っている。宗
鑑出生の地と終焉の地という因縁によるものである。昭和五九年、琵琶湖の葦が草津市か
ら贈られ、一夜庵の屋根が葺き替えられた。一夜庵保存会が保存に当たっている。

  2 一茶と専念寺(「2 一茶と専念寺」は太字)

 財田町を隔てて琴弾八幡山の向かいに専念寺がある。この寺の住職五梅和尚を頼って小
林一茶が来ている。一七九二年(寛政四年)と、一七九四年(寛政六年)から

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翌年にかけての二回である。
 「寛政紀行」の寛政七年歳旦詠として「今日立春向寺門/寺門花開〔ユ〕(#「ユ」は
文字番号10904)清〔トン〕(#「トン」は文字番号14160)/入来親友酌樽酒/豈思是異
居古園」(七言絶句)があり、その後「元日やさらに旅宿とおもほへず」以下数句が載せ
られている。この発句が句碑に刻まれている。
 三月三日の記事に「ここの専念精舎に住せる五梅法師は、あが師(竹阿)の門に遊びた
まひしときくからに、

         (#写真が入る)一茶の句碑(専念寺)


予したひ来ゆ、しばらくつづの旅愁を休むことしばし、更に我宿のごとくして、すでに四
とせの〔ゲイ〕(#「ゲイ」は文字番号13833)近とはなりけらし」とある。
 一茶が専念寺を辞したのは寛政七年三月八日のことであった。碑の裏面には「当寺ハ寛
政年間俳人一茶の長期滞在セシ所ナリ 今其ノ自筆ノ一句ヲ模写拡大シテ碑ニ刻シ以テ往
時ヲ追懐ス 現住山上応誉 昭和丁丑(一二年)春日 主唱 一夜庵坐石 松尾明徳」と
ある。
 ここに滞在していた頃の句に「乞食も護摩酢酌むらん今日の春」がある。弱者へのいた
わりの心はこの句にも現れている。それに続く「遠かたや凧の上ゆくほかけ舟」「白魚の
しろきが中に青藻哉」は瀬戸の海を詠んだ写生句である。「天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ」
もそうであるが、この句は少し面白く構えて作ったものである。
 中国・四国・九州と俳諧行脚の旅を続けていた一茶にとって、讃岐の西の涯「観の浦」
は、心の和む安らぎの風景であったのだろう。

  3 西行と三野津(「3 西行と三野津」は太字)

 『山家集』に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、〔ヒ
ビ〕(ルビ ひび)(#「ヒビ」は文字番号)の手も通はぬほどに遠く

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見えわたりけるに、水鳥の〔ヒビ〕(#「ヒビ」は文字番号26267)の手につきて跳び渡り
けるを敷き渡す月の氷を疑ひて〔ヒビ〕(#「ヒビ」は文字番号26267)の手まはる味鴨の
群鳥」と載せられている。「みのつ」は三野津で、三野郡(現三豊郡)の良港で、昔は広
い入江であった。
 西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきたのは、一一六
七年(仁安二年)であった。その時の上陸地がこの三野津であったということも考えられ
る。この詞書だけで断定することはできないが三野津上陸説と白峰松山津上陸説とがある。
 「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗〔エダ〕(#「
エダ」は文字番号14430)のこと。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと
疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海〔エダ〕(#「エダ」は文字番号14430)のあた
りを翔け廻っている水禽らよ」と解釈している。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめ
ている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけ
て通る味鴨の群れよ」と解釈している。
 西行上人歌碑は、芳地俊男氏ら吉津地区の有志の人々が中心となり、地元の協力によっ
て建立されたものである。吉津小学校は移転されたが、この歌碑は残り、現在当町の老人
福祉センターの前庭に建っている。

  4 宗良親王と詫間(「4 宗良親王と詫間」は太字)

 宗良親王流寓の地、詫間町王屋敷。宗良親王は、一三一二年(正和元年)に後醍醐天皇
の皇子として生まれた。天台座主。一三三一年(元弘元年)兄の護長親王と共に北条氏討
伐の謀略に関与し、山門衆徒の指揮に当たり、事敗れてここに詫間に遷り、翌々年京へ帰
り、比叡山座主に復した。南朝のため大いに力を尽くした人で、歌人としても有名である。
『新葉和歌集』の選をなし、歌集に『李花集』がある。
 親王は詫間三郎という者に預けられ、しばらく滞在したと伝えられる。ここは王屋敷の
地名として残り、一七七二年(明和九年)に石碑が建てられた。親王はまもなく国府や守
護所に近い阿野郡松山に移されたらしい。

  5 西讃文学碑めぐり(観音寺市~三豊郡)
     (「5 西讃文学碑めぐり(観音寺市~三豊郡)」は太字)

 芭蕉句碑(早苗塚)観音寺市琴弾八幡宮石鳥居右横
   早苗とる手もとやむかし志のぶ摺  はせを
 石井朝太郎歌碑  〃 琴弾公園天狗山頂・観一校庭
   動くともみえぬ白帆の連りて
       あさしづかなりせとのうち海 朝太郎

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 堀野林治歌碑  〃  琴弾公園象ヶ鼻・観一校庭
   ひうちなだ波路の末の雲はれて
       いよの高根に雪ふれるミゆ  林 治
 松浦坐石句碑  観音寺市八幡町総持院境内
   暁や水鶏の叩く夢の底        坐 石
 芭蕉句碑    観音寺市室本町新田青年会場前
   旅人とわが名呼れんはつ時雨     芭蕉翁
 小野蒙古風句碑 観音寺市流岡町加麻良神社境内
   人参の花が咲いて故郷の山河碧し   蒙古風
 新田巣州句碑  観音寺市池之尻町心光院境内
   山門不幸尼僧の一生一枚の張紙に残る 巣 州
 芭蕉句碑       大野原町中姫弁天前
   すずしさやすぐに野松の枝の形    はせを
 芭蕉句碑(黄葉塚)  大野原町萩原高尾観音堂境内
   とうとがるなミだや染て散るもみぢ  はせを
 入江為守歌碑     大野原町萩原小学校内
   よろこびの雲と見えけり
       紫の色に匂へる秋の萩原
 平田風石句碑     大野原町慈雲寺前
   しら雲のしたに雲おくしぐれかな   風 石
 南 浩二句碑     大野原町総合福祉会館下
   村静か青田に雨の降るばかり     浩 二
 野口雨情詩碑     仁尾町国民宿舎前庭
   啼いて夜更けて千鳥が渡る沖の蔦島月明り
 河東碧梧桐句碑    仁尾町浜
   一艘は出た亀島めぐる櫓声も遠に
 芭蕉句碑       仁尾町道明寺境内(風〔ラ〕衣傍)(#「ラ」は文字番号32590)
   旅人と我名よばれん初しぐれ     芭 蕉
 香川 進歌碑     詫間町紫雲出山頂
   あめつちのひそけきふるさと緑なす
      山あり島ありなつかしきかな
 山口誓子句碑     詫間町紫雲出山頂
   燕にも美しき天紫雲天        誓 子
 山口波津女句碑     詫間町少年の森八昭園内
   霞みゐて遠き山ほどうすく見ゆ    波津女
 山口誓子句碑     詫間町王屋敷(宗良親王遺跡)
   青峯や都鎮護の山と見る       誓 子
 万葉歌碑       詫間町近隣公園内
     笠女郎の大伴家持に贈れる歌
   託馬野に生ふる紫草衣に染め
      いまだ着ずして色に出にけり
 芭蕉句碑       詫間町積稲荷神社境内

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   涼しさや直に野まつの枝の形     芭蕉翁
 森安華石句碑     詫間町浪打八幡宮境内
   初凧や町に加へし嶋二つ       華 石
 森 婆羅句碑     高瀬町爺神山公園内
   弾正のゆかりの花の爺神山      婆 羅
 安藤老蕗句碑     高瀬町勝間小学校内
   堀に肱話す内外や春の風       老 蕗
 森 婆羅句碑     高瀬町新名祇園神社境内
   御所車砂利をかみ行く祭かな     婆 羅
 水原秋桜子句碑    高瀬町二の宮大水上神社境内
   茶どころときかねど新茶たぐひなし  秋桜子
 前川忠夫句碑     高瀬町朝日山森林公園内
   緑蔭静臥吾れ六尺の虫となり     田打男
                (以上・野口雅澄)
  
  6 三中時代の高橋和巳(「6 三中時代の高橋和巳」は太字)

 高橋和巳は、昭和二〇年三月、大阪空襲により家を焼かれ、母の里である大野原へ疎開
した。以来昭和二一年九月まで、旧制三豊中学校(現観音寺一高)へ通いながら青春の一
時期を過ごした。
 後に、観一高新聞部の求めに応じて、この一年半の期間を思い返し、原稿を寄せ、昭和
四三年一一月、「観一高新聞」第九四号に「無垢なる青春の日々」として掲載された。
 「私の母の郷里は、香川県三豊郡大野原村大字四軒屋、汽車の駅でいえば観音寺より一
 つ愛媛県よりの豊浜駅の裏手にあった。県道を迂回すれば駅まで七、八分はかかったが、
 田圃道を駅の裏へ駆ければ、登校のさいには、その駅で列車がすれちがうせいもあって
 遠く汽笛の音をきいてから家を走り出ても間にあった。ゲートルに草鞋ばきで踏んだ土
 の感触はいまも足の裏に残っている。」今の三豊工業高校の建っているあたりを大急ぎ
で駆けてゆく少年の姿が浮かぶ。

      (#写真が入る)13歳頃の高橋和巳(「13歳頃の高橋和巳」は太字)

 戦争のため、街を焼かれ、人間の醜さを目のあたりにした少年の傷ついた心を讃岐平野
の自然が徐々に癒していった。そして、その中で、和巳少年は文学と出会ったのである。
同

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じ新聞の原稿の中で、次のように述べている。
 「私はよき人々に恵まれた。ようやく旺盛な読書欲のわいてくる年齢、ある友人は父の
 蔵書をほとんど制限なしに私に貸してくれた。その友人の家の立派な書架が、私の図書
 館であり、ある意味では、私の今日文学者としてありえているのは、その友人のおかげ
 である。」
 友人とは、同じ大野原の豆塚に住む、高木宏であった。転校したばかりの和巳は、毎日
のように宏の家へ遊びに行っていたようである。
 彼はこの地で終戦を迎え、また、翌年五月には、大谷池の堤防決潰という忘れがたい経
験をしている。
 「最初、小高い台地に立って、あたりを見廻した時の印象は、子供ながらにも、徒労と
 いうことだった。人間の二本の腕、それに小さなスコップと鍬とモッコ。そんなもので、
 この一面の荒蕪地がどうなるものでもない。(略)しかし私は、その殆ど徒労といえる
 労作から、後年になって、その意味が自覚される何事かを学んだのだった。国家の運命、
 戦争に勝つとか負けるとかいったこととは別な、大事なことが、この世の中にはあって、
 そしてそれはよそ目には徒労とみえる作業でしかない。しかも、それは恐らくは永遠に
 続く。」
 全集第一二巻所収「わが体験」からの抜粋であるが、高橋和巳は、自分のこれからの後
の立脚点をここにおいていると言っている。
 今では、萩の丘公園となり運動施設も整備された場所から、和巳が眺めたであろう方角
を見やると、三九歳で天折した若き作家の魂が思われてならない。

  <高橋和巳全集(河出書房新社)第20巻年譜より>
 昭和二十年 一九四五年 十四歳
 大阪第一回大空襲のため家屋および工場焼失、焼け出される。廃墟の街をさまよう。親
戚に一時身を寄せた後、家族とともに母の里である香川県三豊郡大野原村大字大野原五四
七五番地に疎開。はじめ隣家の納屋に、ついで大野原村大字大野原五四五二、大山源七宅
離れに住む。四月香川県立三豊中学校に転校。汽車通学するが、教科書、文房具一切なし。
のちに夏休み宿題帳の裏に全教科書を写しとる。友人の高木宏宅に春陽堂及び改造社版日
本文学全集…その他片っぱしから読む。文学の世界に眼が開かれてくる。八月十五日、敗
戦。疎開先でむかえる。昭和二十一年十月、大阪の焼跡の町にもどる。
                                  (森万紀子)