七 琴平周辺を行く


 底本の書名  香川の文学散歩
    底本の著作名 「香川の文学散歩」編集委員会
    底本の発行者 香川県高等学校国語教育研究会
    底本の発行日 平成四年二月一日 
    入力者名   渡辺浩三
    校正者名   平松伝造
    入力に関する注記
       文字コードにない文字は『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店刊)の
       文字番号を付した。
              JISコード第1・第2水準にない旧字は新字におきかえて(#「□」は
              旧字)と表記した。
  登録日 2005年9月27日
      


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  七 琴平周辺を行く(「七 琴平周辺を行く」は太字)

   1 満濃池を巡って(「1 満濃池を巡って」は太字)

  芥川龍之介は、宇治拾遺物語をもとに、猿沢の池からついに竜が上ったという話を書
 いたが、満濃池の水面を眺めていると、なるほど竜が住んでいても不思議ではない気が
 してくる。
  『今昔物語集』巻第二十に「竜王 為天狗 被取語(ルビ りうわうてんぐのために
 とらるること)」という話が載っている。
  今昔、讃岐国、〔  〕(♯〔 〕は約2文字空白)郡ニ、万能(ルビ まの)ノ池
  卜云フ極テ大キナル池有り。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給へ
  ル池也。池ノ廻り遙ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドゝハ不見ズシテ、海トゾ
  見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
  この竜は小さな蛇に姿を変え、堤に出てひなたぼっこをしているところを、これも鵄
 (ルビ とび)に姿を変えた比良山の天狗にさらわれる。が、同じくさらわれてきた僧
 と力を合わせて窮地を脱出する。後日天狗を蹴殺して恨みを晴らす話である。
  また、同じ『今昔物語集』巻第三十一には、「讃岐国満農池頽国司語(ルビ まのの
 いけをくづすこくしのこと)」も載っているのであるが、満濃池は何事もなかったよう
 に、今日も満面に水をたたえている。

   2 二宮忠八 飛行器を飛ばす(「2 二宮忠八 飛行器を飛ばす」は太字)

  くしくも樅の木峠を訪ねた日は雨であった。吉村昭『虹の翼』によると、若き二宮忠
 八がカラスの動きに驚きの目をみはり、樅の木峠を″世界最初の飛行原理着想の地″と
 した日も雨であった。時刻も同じ正午過ぎである。樅の木峠には、二宮公園が作られて
 いるが、ちょうど二宮忠八翁の像と、幡詞にカメラを向けていた時である。折しも一羽
 の鳥が像の上方に現れた。あっと思う間に頭上を過ぎ、桜の木の向こうに消えた。カラ
 スではないが、白っぽい両翼を少し上向きに広げていた。
  さて『虹の翼』にはこう書かれている。
  かれの眼は、烏の姿勢にそそがれた。かれは、滑走する烏に共通している現象がある
  ことに気づいた。それは、烏の両翼が、わずかではあったが空気をうけとめるように
  上むきに曲げられていることであった。
  こうした光景は誰にでも見える。しかし忠八は、それを飛行器にまで結びつけた。こ
 の日より二年後、烏型模

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 型飛行器を完成、丸亀練兵場で約三十メートル飛ばした。それは、ライト兄弟が飛行に
 成功する一九〇四年(明治三六年)に先立つこと、一二年であった。

   3 宮武外骨 気骨の人(「3 宮武外骨 気骨の人」は太字)

  ″台風一九号の接近して風雨激しきなか、阿野(ルビ あや)郡羽床(ルビ はゆか)
 村大字小野(現綾歌郡綾歌町羽床)なる予の生家を訪ふ。予の生まれしは慶応三年なり。″
  外骨なればこうも書き出したであろうか。生家は外骨の生まれた頃、千石取りの地主
 であったという。生家の前には年貢を運ぶために橋が架けられ、今も″宮武橋″とその
 名を残している。
  ところで、外骨は一生に三度名を変えている。一度めは一八歳の時、本名亀四郎をも
 じって、″亀外骨(亀ハ骨ヲ外ニシ)内肉者也″とあるところから″外骨″とした。気
 骨の人、外骨の実質的な誕生である。二度めのは五五歳の時。″廃姓宣言″を行い、以
 後は″癈姓外骨″と称している。義娘の幸福と、自らの活動の自由を保障しようとした。
 そして三度めは喜寿(七七歳)を迎えた時である。今の自分に″ぐわいこつ″という音
 読みにふさわしい真骨頂はないとして、″とぼね″と改名する。名は体を表すというが、
 まさしく名によってその生を自ら方向づける外骨であった。そうした気骨を理解する人
 も少なくなかった。義娘の父でもある弁護士日野国明、異色の学者南方熊楠(ルビ み
 なみかたくまくす)、東京帝大教授吉野作造・・・・・。鴻鵠の志を知るものは、また
 鴻鵠であると言えようか。

   4 古川賢一郎 死を前にする冬のワニ(「4 古川賢一郎 死を前にする冬のワ
     ニ」は太字)

  人は自分というものをどんな生き物に例えるのであろう。特にその死を自覚した時に
 は。
  ここに自らを″冬のワニ″と例えた詩人がいる。古川賢一郎である。″冬のワニ″と
 題した詩の一部。
  年老いたワニの腹の中には/五十年の泥濘が充満している/身動きができないで、の
  ろ<(♯「<」は繰り返し)している/やっと地上を這いずり廻っている(中略)
  死んで行け 冬のワニよ/絶望、不安、憎悪、平和/世界のジャズは/お前から遮断
  されてしまったのだ
  この詩を『月刊香川』の編集者に送りつけて、服毒したという。その三ケ月後、胃ガ
 ンのため五二歳で亡くなっている。終戦後引き揚げてから、苦労続きであった。
  一九〇三年(明治三六年)綾歌郡美合村(現琴南町)で生まれている。生家跡は、明
 神橋の少し手前にある。

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 旧家であった。生後三年ほど、また戦後引き揚げてしばらく住んだ。生家の前の通りの
 下に、真鈴峠から源を発した土器川が流れる。その音は現在も変わらないのではあるま
 いか。失意の詩人の耳に、土器川の水の音が、むしろ懐かしく聞こえていたかもしれな
 い。

     (♯写真が入る)古川賢一郎生家前の通り(琴南町明神)

   5 村山リウ 語りべをはぐくんだ榎井(「5 村山リウ 語りべをはぐくんだ榎
     井」は太字)

  中秋の名月に当たる日、生家について問い合わせた手紙のお返事をいただいた。一九
 〇三年(明冶三六年)榎井村(現琴平町榎井)にある春日神社近く、伯父の家の離れで
 出生。六歳の時、父の勤務の関係で岡山へ転住。
  いろ<(♯「<」は繰り返し)父母からの話で 榎井がなつかしく 女学校へ入って
  からは 春休みは 必ずと云ってよいほど 榎井へまゐるたのしみを持ちました(中
  略)春休は白木蓮が美しいので 二階の窓を明けて 木蓮の白い花と松のみどりの交
  さくの間から 象頭山をながめる  それが素晴らしくて
  とお手紙にあった。天領であった榎井の、自由で文化的な空気は、お母さんの口から
 も伝えられた。
  江戸大阪の名優の金比羅芝居を いま目に見るように語ってくれた そんなこどもの
  日の思い出が 今日の私を源氏の語りべに育ててくれる事になったのかなあなど思い
  出しています。
  とも書いて下さった。終生の仕事となった″ときがたり″の語り口は力強く、よどみ
 がない。父母の愛情を受け、真っすぐ豊かに生きてこられたからであろう。
                                (以上・植岡康子)